第8話 モルヒネ
そこには、最新であろう設備が整っている。
視線を横に落とすと、自分と同じようにお腹にガーゼを巻かれた熊のぬいぐるみが鎮座していた。
その短い腕に抱えられた紙には、稚拙だが温かい字で「早くよクマってね」と書かれている。
「チッ。洒落が効く熊だな」
乾いた唇でそう毒づき、左手に目をやる。
細い管を辿った先には、ファミコンのような機械にセットされた注射器。
そこには、麻薬処方(麻薬取締部)の厳しい管理下にあるはずの「モルヒネ」の文字が躍っており、その不気味な静寂を咀嚼しようとした時、重い病室の扉が音を立てて開いた。
「気がついたか。今日は災難だったな。警視庁公安部の服部だ」
逆光の中に立つその男は、自らを公安(警察庁警備局)の人間だと名乗った。
どおりで、漂う空気がただの刑事とは違うわけだ。
「どうも。さっきは、ありがとうございました」
「職務を全うしただけだ。医者からは、しばらく安静にと言われている」
短く、要点だけを告げるその口調に、この男に亭主関白のような古風で頑固な圧迫感を覚えた。
沈黙が広がる病室を支配するPCAポンプから送り込まれるモルヒネの微かな駆動音だけ鳴る中、啓司は気を紛らわそうと枕元のリモコンに手を伸ばした。
だが、画面が明るくなった瞬間にキャスターの声が非情に響く。
『新宿区の飲食店で発見された瀬下啓司さんは、現在——』
追い打ちをかけるような実名での報道。
絶望に顔を歪めるより早く、男は何も言わずに分厚い背中でテレビの画面を物理的に遮った。
「...今は、見るな」
新宿駅の雑踏に自分の名が晒されている現実を、公安の背中が無骨に拒絶していた。
「あいつらが二度と君を襲うことはない。これからまた、安心して料理をするといい」
服部の声は新宿区の喧騒から隔離された病室で、絶対的な判決のように響いた。
「そうですか」
啓司は短く答え、安心という言葉にはまだ実感が伴わない。
「誰か、連絡したい人はいるか?」
「では、叔母に...」
啓司は叔母の連絡先を告げたが、普通、「両親じゃなくていいのか?」と問い返す場面だろうが、服部は眉一つ動かさず、ただ黙ってその番号をメモに書き留めた。
(仕事上、そういうのには慣れてるんだろうな)
父親に「ちょっと」と言い残して捨てられた子供。
そんな児童虐待の成れの果てを、彼は掃いて捨てるほど見てきたに違いない。
「怪我で大変だろうが、二、三、聞きたいことがあるんだ...。いいか?」
服部はメモ帳を閉じ、ポンプから送られるモルヒネの音に混じって、静かに本題を切り出した。
「はい。大丈夫です」
身体中に流れるモルヒネの痺れに耐えながら、答えた。
「あいつらは、なぜ君をここまで痛めつけた? 金銭問題か、あるいは恨みを買うような覚えはあるか?」
「いえ、初対面でした...。あいつらは、女の子を探していました」
服部の眼光が、鋭く啓司を射抜く。
「女の子? その女の子に、君は会ったのか?」
「いいえ。知りません。その日、客は一人も来なかったので...。仮に知っていても、あいつらになんて教えませんでしたけどね」
咄嗟についた嘘。
服部が纏う公安警察特有の、すべてを透かして見るような「特殊なオーラ」に触れた瞬間、啓司は自分の浅はかさを激しく後悔した。
新宿署の取調室で数多の嘘を暴いてきたであろうこの男に、今の言葉はどう響いたのか。
「なるほど。質問は以上だ。では失礼する。」
服部はそれ以上追及せず、椅子から立ち上がった。
「いえ。お勤め...ご苦労様です」
「そうだ。言い忘れていたが、捕まえたあの二人についてだ。刑務所への搬送中、互いの舌を噛み切り合って死んだそうだ」
服部の無機質な声が、病室の空気を凍りつかせた。
「なぜそんな真似をしたのかは謎だが、後ろには何かがいる。俺はそう踏んでいる。この先も周りには注意するように。邪魔をしたな」
ドアが閉まる音。
夢の中でクローシュを外した先にあった、あの噛みちぎられた二枚の舌。
新宿区の地下レストランで見た悪夢は、現実の死体検案書の記述と、無慈悲に一致してしまった。
「ほんと、生きづらい世の中だよ。全く」
啓司は、自分と同じ傷を負った「洒落の効く熊」を抱き寄せ、震える吐息を漏らした。




