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Do Man  作者: 山野 鹿
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第3話 鳩の知らせ

溢れ出していたのは、赤黒く濁った血の涙であり、透明な涙を追い越すようにどろりと急速に顎の先へと流れ落ちるその鮮血。


激しい動悸を抑え、無理やり笑みを作った。


「いいか。いつでも来ていいからな。俺の飯でよければ、いくらでも作ってやる」

精一杯の強がりを込めて告げた言葉。


少女は頷き、どんどん炒飯を口に運んでいる。


啓司は、笑顔で席を立って紙と鉛筆を準備して言った。


「親御さんの電話番号、わかるか?」

差し出したメモ帳に、少女は震える手で鉛筆を走らせた。


彼女が記した拙い数字の羅列を、何かの神託でも受け取るような面持ちで受け取った。


左頬を伝う血の涙は、白いワンピースをじわりと赤く染め続けて一刻の猶予もない。


啓司は、厨房の奥にある固定電話へと駆け寄った。


(別の意味で親の面が見てぇよ)

胸中には、煮え繰り返るような憤怒が渦巻いていて、捨てた親の影を彼女に重ね、受話器を握りしめる手に力を込める。


プルルル、下唇を噛みちぎりたくなるような呼び出し音が鼓膜の奥で規則正しく刻まれる。


その空白を埋めるように、ふと思いついた問いを投げかけた。


「そういや。お前、名前なんていうんだ?」

電話越しながら問う。


「ご飯ありがとう、けいじ」

啓司は驚きを隠せずに振り返る。


だが、そこにあるはずの小さな体は、陽炎のように掻き消えていた。


(なんで、俺の名前を?)


一度も名乗っていない、店のどこにも名札など出していない。


「おい、待て! お嬢ちゃん!」

声を大にして叫び、外へ駆け出そうと足を踏み出したその瞬間、耳に押し当てたままの受話器からカチリと重苦しい接続音。


「もしもし」

受話器の向こうから漏れ出たのは、鼓膜を直接押し潰すような、低くどすの利いた声だった。


「あぁ。今さ、あんたの娘さんがうちのレストランに来てんだよ」

怯みを隠すように、あえて刺々しい喧嘩腰のトーンで言葉を投げつけた。


「なぜ、俺の番号を知っている。貴様、誰だ?」

「マクレーンで働いてる瀬下だ。ボケ」

相手の困惑を、啓司は身勝手な居直りだと断じた。


「いいか、今すぐここに来い。来て、あの子に手ついて謝れ。人間として最低限の仕事くらいしやがれ!」

魂の叫びで相手を殴りつけた瞬間、予想外の返答がカウンターのように啓司の耳に放たれる。


「啓司? お前なのか?」

受話器から漏れ出たその震える声が、鼓膜から脳髄に達した時、啓司の視界を覆っていた深い霧が、一気に晴れ渡った。


(なんで、気づかなかったんだ)


幼少期、耳にタコができるほど聞かされた、あの低く、威圧的な響き。


自分がなぜ、見ず知らずの他人に対してここまで「怒りのギア」をトップまで叩き込んでいたのかが腑に落ち、無意識のうちに自分を捨てた「過去」と戦っていたのだ。


「親父? 親父なのか?」

震える唇から、三年間封じ込めていた単語が零れ落ち、そこに喜びはない。


「なぜあんたが、その番号の先にいるんだよ!」

「啓司。お前、今どこにいる?」

「それはこっちのセリフだ! 三年も消えておいて、どこのどいつの電話に出てやがるんだ!」

受話器から返ってきたのは、再会を喜ぶ声でも、言い訳でもなかった。


「啓司。落ち着いて俺の話を聞け。あの子とは、どういうことだ? 」

「聞けるかよ! なんであの子があんたの番号を知ってんだ。説明しろよ!」

「啓司!」

父親の怒号が耳元で爆発し、かつて一度も聞いたことのない恐怖に裏打ちされた凄まじい声。


「いいか、今すぐそこから逃げろ! 荷物も、店も、何もかも放り出して今すぐにだ! わかったな!?」

「意味わかんねえよ! 都合のいいこと言ってんじゃねえ、俺の質問に答えろよ!」

啓司の罵声が、無人のフロアに激しく反響した。


受話器の向こうの父親は、もはや理屈など通じない狂気に取り憑かれたかのような声で、ただ一つの言葉を繰り返した。


「啓司! そこはもう、お前の知っている場所じゃない! 逃げろ、今すぐにだ!逃げろーー!」

その絶叫を切り裂くように戦慄が走る。


カラン、コロン————


軽やかな場違いなドアベルの音が、怒り心頭の空気で満ち溢れていたレストランが一気に冷え込む。


その氷点下に全身の毛穴が、一瞬で収縮し、耳に押し当てていた受話器をゆっくりと離した。


「いらっしゃい...ませ?」

その言葉は、喉の奥で震え、歪な疑問となって宙に浮いた。


男は無言のまま、入口のドアの鍵をゆっくりと回して、外の光を遮るようにブラインドを下ろし、レストランは闇に包まれる。


形は人間を縁取っているが、それを人間と定義づけるには、あまりにも証拠が欠落していたのだ。


今日まで一度も動かず、壁の一部と化していた壊れた鳩時計が、内側からの凄まじい衝撃に震えて飛び出してきたのは色あせた偽物の鳥ではない。


「クルッ、ポー!!」と、狂ったような絶叫。


それは、死の宣告にも似た、歪な機械仕掛けの咆哮だった。


啓司は、空中で激しく揺れる鳩の模型を見て、細胞レベルで直感した。


——逃げろ。



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