第2話 迷子
謎の要素ありの第2話!
モヤモヤをあなたに!
今日は、いつも通りの退屈な一日では終わらなかった。
鳴り響いたベルの音に弾かれたように飛び起き、オーナーに見つかれば椅子を並べた即席のベッドなど一巻の終わりだ。
寝ぼけ眼をこすりながら、何事もなかったかのような、上ずった声を張り上げる。
「お疲れ様です!」
返ってきたのは威圧的な叱責ではなく重苦しい沈黙だった。
入り口に立っていたのはオーナーではなく、薄暗いフロアの光の中に佇んでいたのは、今にも消えてしまいそうなほど小さな、お腹を空かせた女の子だった。
「なんだ、ガキかよ」
心臓の鼓動がゆっくりと落ち着きを取り戻す。
啓司は安堵の溜息を漏らすと、彼女の方へと歩み寄って履き古したLEVI'Sの膝を折り、冷たい床に片膝を立てる。
無意識のうちに、その幼い視線の高さまで、自分の目線を下げていた。
「いらっしゃい。親御さんはどうした?」
啓司は精一杯の愛想を絞り出したが返ってきたのは重い沈黙。
少女はただ、大きな瞳でじっと啓司を見つめ返している。
「一人で来たのか?」
重ねて問いかけても彼女の唇が動く気配はなく、まるで、言葉という概念をどこかに置き忘れてきたかのようだった。
「ったく、参ったな」
啓司は立ち上がると苛立ちを逃がすように後頭部を乱暴に掻きむしった。
辺りを見回すが大人の影はない。
新宿の喧騒から切り離された店内に、換気扇の回る低い音だけが虚しく響き、放っておけば消えてしまいそうな彼女の存在感が胸の奥をざわつかせた。
「ごめんな、お嬢ちゃん。店はまだ開いてないんだよ。だから...」
事務的に彼女を追い返そうとして、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
至近距離で改めて目に入ったその姿に、心臓を冷たい手で掴まれたような気がしたからだ。
白かったはずのワンピースはどす黒く汚れ、足元のスニーカーは泥と砂による不純物にまみれている。
彼女はただ、縋るような視線を床に落としたまま、微動だにしない。
「チッ」
啓司は舌打ちをした。
それは彼女に向けられたものではなく、こんな姿の子供を一人で新宿の街に放り出した、目に見えない何者かへの激しい嫌悪だった。
中卒で社会の底を這ってきた彼には痛いほどわかり、この汚れは一朝一夕でつくものではない、長い絶望の果てにこびりついた剥がれない泥だ。
啓司がもう一度その場に膝をつくと、少女は抗うこともなく、ただ流れに身を任せるように細い両手を伸ばした。
あまりにも無防備な世界を信じ切っているのか諦めきっているのかも分からない姿に、啓司はかつての自分を重ねてしまう。
親という光を失い、暗闇に置き去りにされたあの日の自分を。
彼女の体を抱き上げ、フロアの椅子へと運び、その際、腕に伝わってきた重みはまるで、小型犬のそれと変わらないほどに儚い重量だった。
生きていくための質量が、この小さな体からは決定的に欠落している。
啓司は込み上げるやりきれなさを抑えきれず、彼女のボサボサになった頭の上に、大きな掌をそっと置いた。
「うまいもん作ってやるから、そこで待ってろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた言葉は、自分自身への誓いでもあった。
彼は踵を返すと、聖域である厨房へと足早に向かい、ステンレスの調理台が放つ冷たい光が、今は、戦場へ向かう武器のように頼もしく見えた。
厨房に飛び込むなり、啓司の身体は爆発的な加速を見せ、愛用の鉄鍋を火にかけて最大火力を引き出す。
冷蔵庫から冷や飯と卵、叉焼を掴み出す動きには、一切の迷いも無駄もなく、まさに「赤い彗星」も驚愕するであろう神速。
凄まじい熱気の中、重い中華鍋が空を舞い、米粒一つひとつが黄金色の輝きを纏っていく。
わずか六十秒。
プロの意地と、剥き出しの焦燥が凝縮された一皿が、カウンターに置かれた。
「お待たせしました。炒飯です。」
湯気が立ち上る皿を抱え、啓司は彼女の待つテーブルへと急いだ。
香ばしい醤油の香りと、ラードの甘い匂いが、静まり返った店内に暴力的なまでの生の気配を撒き散らし、
先ほどまでの退屈は、もうどこにもなかった。
皿を少女の前に置いて、隣に座る。
スプーンを手に取り、ハンドスコップで土を掘るようにすくい、口に運んで数回咀嚼したところで、堰を切ったようにペースが上がる。
少女が食らいつく勢いに呼応するように、啓司の口角も自然と持ち上がっていった。
(こんな誕生日も悪くない。)
「うまいか?」
啓司の問いに少女は小さく、力強く縦に首を振った。
彼女の右の目尻から透明な雫が零れ落ち、痩せた頬をゆっくりと伝っていく。
だが、啓司の視線は逆の左の瞳に釘付けになった。




