第10話 明るい鶴
「啓ちゃん! 生きててよかった!」
鶴橋 叶弥。
病院の静寂を爆発させるように、彼女は全力で啓司の胸に飛び込んできた。
「いてっ! ちょっと落ち着けよ、叶弥」
「やだ! 落ち着けるわけないよ! 死にかけてたんだよ、啓ちゃん!」
母が亡くなる前から、当たり前のように自分の家にいた存在。
数ヶ月ぶりに触れる彼女の体温に、啓司は生の感覚を思い出し、泣きじゃくる叶弥を宥めながら、自分の家のように彼女を病室へと招き入れた。
「ここ最近、何してたんだ?」
「ここんとこバイトで忙しくて。ごめんね、すぐに顔出せなくて」
叶弥はそう言いながら、コンビニの袋を差し出した。
中には飲み物や食べ物が、袋の形が歪むほどギューギューに詰め込まれている。
「おいおい、そんなことしてたらバイト代がなくなるぞ」
「これくらい平気だよ。それより何があったの?」
今の自分の姿を自嘲するように、かいつまんで話した。
変な奴らに襲われたこと。
そいつらが警視庁の搬送中に自ら命を絶ったこと。
そして——。
「襲われる前、女の子が来たんだ。凄く、腹を空かせてて。簡単な炒飯を作って食べさせた。ずっと食ってなかったんだろうな。食べた後、泣いてたよ」
叶弥は、慈しむような瞳で彼を見つめた。
「そうなんだ。その子、きっと美味しかったっていうより、嬉しかったんだよ。啓ちゃんは昔から、そういう子を放っておけない人だったもんね。おばさんも、喜んでるよ、きっと」
「そうだといいんだけどな」
啓司は窓の外、かつて意識を失う直前に数えた高積雲の残骸が流れる空を見つめた。
母の笑顔。叔母の温もり。そして、叶弥の明るさ。
新宿区の冷たい風に晒され続けた啓司の心が、この病室の陽だまりの中で、ようやく「明日」を信じようとした。
「そうだ! 今度、神社行こうよ!」
「神社?」
「お祓い! 行かないと、啓ちゃん!」
何を言い出すかと思えば、これだ。
「なんだそれ。俺は、そういうの信じないタチなんだよ」
「いや、行くべき! 家にばっかりいると負のオーラが溜まっちゃうよ! しばらくマクレーンも休みでしょ?」
叶弥は、病院の空気を変えるような強引さで捲し立てた。
一度こうと決めたら一向に引かない彼女の性格を、啓司は誰よりも知っている。
結局、断る言葉は見つからなかった。
神も幽霊も、見たこともないし、信じる気もない。
(超能力やスーパーマン、そんなものになれるならなってみたいが、注目を浴びる人生なんてゴメンだ。人並みの幸せさえ、手に入ればそれでいいんだ。
だからこそ、叶弥には、俺のような学のない男よりもっと相応しい奴がいるはずだ。彼女には、幸せになってほしい)
二人の間に流れる、言葉では表せない「何か」を感じながらも、もう一人の自分がそれを冷たく否定する。
いつものように罵り合い、笑い合い、「明日」という不確実な光を分かち合った。
「じゃあ、そろそろ行くね。お祓い、絶対行くからね!」
「わかったよ」
啓司は笑いながら、叶弥の細い背中を軽く押した。
病院の長い廊下で、彼女の小さなシルエットがどんどん遠ざかり、エレベーターを待つ間に彼女は満面の笑みで振り返った。
「今度、私にも炒飯食べさせてねー!」
啓司は、照れ隠しに小さく手を振り返した。
扉が閉まり、彼女の明るい気配が消えると、病室には再び退屈な静寂が戻る。
ベッドに寝そべり、手を頭の後ろで組んで、啓司は微睡みの中で明日を想像した。
(……お祓い、か)
頭の中では、叶弥と並んで神社の鈴を鳴らしている。
どうか、叶弥と、あの子が幸せになりますように。
肩を寄せ合い、二人の願いが空に溶けていく。
そんな当たり前の人並みの幸せが手に入るなら、腹部の引きつる痛みなど、すぐにでも消えてしまうだろう。
次第に、心地よい眠気が襲ってくる。
(夢でもいい。また、あの子に会いたい。無事なら、もう一度だけ、俺の作った飯を腹一杯食わせてやりたい)
啓司はそう強く願って、深い眠りの淵へと沈んでいった。
そして再び目を開けた時。
そこには、正午の光が差し込むレストラン「マクレーン」の光景が広がっていた。




