第9話 もう1人の母
退屈な病院生活が数日続いた。
新宿区の喧騒から隔離された白い部屋で、啓司は味の薄い病院食を口にしては、独りで毒づいていた。
(そんな性格だから、友達の一人もいないんだな)
不意に訪れた自覚。
ジーンズの代わりに着せられた病衣の下で、腹部の傷は確実に塞がり始めていた。
だが、刺された痕の引きつるような痛みが、あの地獄のような「マクレーン」での出来事が決して夢ではなかったことを思い出させる。
昼番組の無意味な笑い声が響く中、不意に、控えめなノックの音がした。
「啓司、大丈夫なの?」
現れたのは、安倍明。
この世界で唯一、啓司を「人間」として繋ぎ止めている細い糸のような叔母だった。
死んだ母に生き写しの美貌を持ちながら、彼女は新宿区の喧騒から逃れるように、一流企業の清掃員として静かに暮らしている。
真夏でも頑なに脱がない長袖。
その下に隠された無数の「生きた証(傷痕)」について、啓司は一度も触れたことがない。
それが、この街で独り生き抜く者同士の、暗黙のルールだった。
「啓司。また無茶をしたのね」
普段は無口な叔母が、掠れた声で呟く。
母が交通事故で逝き、父親が「ちょっと」と言って消えたあの日。
泣きじゃくることしかできなかった中学生の自分を、体温がなくなるまで抱きしめ続けてくれたのは、明だった。
唯一の家族。唯一の味方。
——啓司、私がずっとそばにいるから大丈夫。
あの日の誓いは、鎮痛剤よりも深く啓司の魂を支えていた。
「明おばさん。来てくれたんだ」
「当たり前じゃない。大事な息子だもの」
真顔で恥ずかしくなるようなことを平気で言う。
自分も「母親同然だ」と伝えたい衝動を、啓司は病衣の裾を握りしめて堪えた。
家族団欒の時間は、あっという間に通り過ぎた。
「じゃあ、啓司。私はそろそろ仕事だから」
「うん。ごめんね、わざわざ」
啓司は引きつる傷を庇いながら、エレベーターまで彼女を見送った。
明は壁をなぞるように、そのスレスレをゆっくりと歩く。
高身長で細いシルエットが、廊下のパースの奥へと溶け込んでいく。
エレベーターに乗り込む直前、彼女は一度だけチラリとこちらを見て、静かに新宿の雑踏へと帰っていった。
叔母の明を飲み込んだエレベーターの扉が閉まると同時に、入れ違いに一人の少女が廊下へと吐き出された。
涙をいっぱいに溜めた瞳が、啓司の病衣姿を捉える。




