第5章(1809年~1811年):死の空席と中尉への階段、焦土の錬金術
■1809年、1月。
イベリア半島は、凍てつくような冬の嵐に包まれていた。
スペイン深部へ進軍していたジョン・ムーア将軍率いるイギリス遠征軍は、ナポレオン本隊の猛烈な反撃を受け、退路を断たれる危機に瀕していた。
彼らは雪と泥にまみれたガリシアの山岳地帯を、港町コルーニャに向けて悲惨な撤退戦を繰り広げていた。
冬季用の装備不足による寒さと飢えで倒れた兵士や馬が、街道沿いに延々と打ち捨てられているという凄惨な報告がリスボンに届いていた。
しかし、その地獄のような光景から遠く離れたポルトガルの首都リスボン。
王立輸送部隊の兵站デポにある士官宿舎の一室で、パーシバル・シーモア・シャルトン少尉は、赤々と燃える暖炉の火に手をかざしていた。
「旦那様、またスペインから傷病兵を乗せた船が着いたそうです。
寒さからくる病気で倒れた者がゴロゴロいるとか……」
従僕のウィリアム・ホッジスが、石炭をくべながら暗い声で言った。
パーシバルは手元の帳簿から目を上げず、ただ短く応じた。
「そうか。野戦病院に毛布と石炭を追加で回すよう、倉庫番に指示を出しておけ。
……それから、酢と石鹸の在庫も確認だ」
パーシバルは、この悲惨な撤退戦を、前年の秋の時点で「歴史の事実」として知っていた。
だからこそ彼は、中隊長のガートン大尉に対し「ムーア将軍の遠征による前線の拡大に備え、リスボン港の物資受入体制を強化する後方要員が不可欠です。私がその任に当たります」と、もっともらしい理由を並べ立てて進言したのだ。
結果として、彼と彼の小隊の一部はリスボンに残留することになり、スペインの高原で病死する運命を免れた。
「それにしても、旦那様は鼻が利きますね。
もしあのまま本隊について行っていたら、我々も今頃、寒空の下で馬の肉を齧っていたかもしれません」
「兵站の基本は先読みだ、ウィリアム。前線に突っ込むだけが軍人の仕事じゃない」
パーシバルは、温かい紅茶を啜りながら静かに言った。
名誉ある戦死など、真っ平ご免だ。生き残り、資産を築くこと。それが彼の唯一の目的だった。
春になり、コルーニャから海路で脱出した部隊の一部がリスボンに帰還し始めた。
ガートン大尉率いる第3中隊の本隊も戻ってきたが、その姿は目を覆うばかりだった。多くの荷馬車はスペインの山道に遺棄され、軍馬は飢えで骨と皮だけになり、兵士たちの軍服はボロ布と化していた。
そして、過酷な撤退戦を生き延びた者たちを、今度は「病」という見えざる敵が襲った。
帰還からわずか2週間後。パーシバルの同僚である小隊長、フレッチャー中尉が野戦病院に運び込まれた。チフスだった。
彼は借金に首が回らず、常に前借りをしては安酒を飲んでいた男だ。体力が落ちきっていたところに不衛生な環境が重なり、あっという間に死の淵に立たされた。
パーシバルは見舞いに訪れたが、悪臭漂う病棟のベッドで高熱にうなされるフレッチャーを見た時、悲しみよりも先に、ある冷徹な計算が頭をよぎった。
(彼が死ねば、中隊に中尉の空席ができる……)
3日後、フレッチャー中尉は息を引き取った。
彼の遺品は、擦り切れた軍服と、ユダヤ人の金貸しからの督促状だけだった。
イギリス陸軍における「死による空席」の発生である。
通常、少尉から中尉へ昇進するには、階級の差額である約200ポンドを支払って「購入」しなければならない。
しかし、上官が戦死あるいは病死した場合、最先任の次級将校が金銭を払わずに無償でその階級を引き継ぐことができる。
これは貧しい士官にとって唯一の出世の糸口であり、パーシバルにとっては、まるまる200ポンドを節約できる千載一遇の好機だった。
葬儀の翌日。
パーシバルは、まだ疲労の色が濃いガートン大尉の執務室のドアを叩いた。
大尉は不機嫌そうにポートワインを煽っていた。
「シャルトンか。何の用だ。フレッチャーの借金の整理なら、連隊の代理人に任せておけ」
「大尉殿、その件も含めてご相談があります」
パーシバルは直立不動で敬礼し、言葉を選びながら切り出した。
「フレッチャー中尉の死は中隊にとって痛手ですが、悲しんでばかりもいられません。
彼が担当していた小隊の管理と、何より中隊全体の経理が、今回の撤退戦で完全に破綻しております。
帳簿には未計上の損失馬匹や、所在不明の物資が山積みです」
大尉は頭を抱えた。彼にとって数字と書類仕事は拷問に等しい。
「分かっている。それを監査官にどう報告しろと言うんだ」
「私にお任せください」
パーシバルは一歩踏み込んだ。
「私がすべて、軍の規定に則り、大尉殿の責任を問われない形で見事に辻褄を合わせてみせます。
さらに……」
パーシバルは声を潜めた。
「今後のリスボン港における良質なワインの荷揚げと、大尉殿の個人天幕への優先的な輸送手配も、私が責任を持って確約いたします」
ガートン大尉はワイングラスを止め、じっとパーシバルを見つめた。
有能な経理係であり、裏の融通も利く男。
彼を中尉に据えれば、自分の面倒な仕事はすべて消え去る。
「……なるほど。私に、お前を次の中尉として連隊本部へ推挙しろと言うのだな」
「私は第3中隊の最先任少尉です。規定上も何ら問題はありません。
ただ、大尉殿の強力な推薦状があれば、ロンドンの陸軍省での手続き(ガゼットへの掲載)が遥かに早くなります」
大尉は短く鼻で笑った。
「貴様、フレッチャーの墓の土が乾く前から昇進の話か。
相変わらず血も涙もない男だ。……だが、無能な年長者を据えられるよりはマシだ。
よし、推薦状を書いてやる。その代わり、帳簿の不備はすべて消し去れよ」
「承知いたしました。ご期待には必ず応えます」
パーシバルは内心で快哉を叫んだ。
人の死すらも、冷徹に自分の階段の石材として組み込む。
それが、この死と隣り合わせの戦争において、確実に這い上がるための唯一の法則だ。
ロンドンの『ロンドン・ガゼット(官報)』にパーシバル・シャルトンの名が「中尉(Lieutenant)」として掲載されるまで、それほど時間はかからなかった。
コックス&グリーンウッド社の代理人を通じて正式な辞令が届くと、彼は直ちに自分の装備の更新に取り掛かった。
無償昇進とはいえ、出費がゼロというわけではない。
自室で帳簿を開き、パーシバルはウィリアムを前に計算を始めた。
「まず、中尉用の新しいエポーレット(肩章)と、制服の金モールの付け替え。それに礼装の更新で約20ポンド。
さらに、士官食堂の将校会への『昇進祝い』の寄付金と、今夜大尉たちに振る舞う上質なワイン代で約30ポンド……。
合計で約50ポンドの出費だ」
「50ポンドですか。中尉の給料が少し上がるとはいえ、痛い出費ですね」
ウィリアムが肩をすくめた。
「いや、昇進の権利を金で買うよりは200ポンドも浮いたんだ。安い投資さ」
パーシバルはペンを走らせ、総資産の残高を確認した。
昨年の馬の転売益と、ロンドンのバークレイズ銀行にある公債取引の利益。
それらを合わせれば、彼の資産はすでに1000ポンドに迫っている。
50ポンドの出費など、痛くも痒くもない。
「それに、中尉になれば僕が指揮する小隊の規模も大きくなる。
それはつまり、輸送できる『荷物』の量が増えるということだ。
……ウィリアム、スローターに伝えておけ。来月から、さらに取引の規模を拡大するぞ」
「へいへい。中尉殿になられても、やることは馬喰と同じですな」
数週間後。
パーシバルが中尉に昇進したことで空いた「少尉」のポストに、ロンドンから新任の士官が補充されてきた。
グレンジャー少尉。
まだ頬に産毛が残る、裕福なジェントリの三男坊らしき青年だった。
彼の軍服はサヴィル・ロウで仕立てられた最高級品で、金モールが眩しいほどに輝いていた。
「シャルトン中尉殿! グレンジャー少尉、本日着任いたしました! 卑劣なるコルシカの成り上がり、ナポレオンをこの手で討ち取る覚悟で参りました!」
執務室に入ってくるなり、新任少尉は胸を張って威勢よく叫んだ。
パーシバルは書類から目を上げず、「ご苦労。君の意気込みは立派だが、我々輸送部隊の敵はナポレオンではなく、泥と飢えだ。まずはそこにある馬の飼料の納品書を……」と言いかけた時だった。
パンッ! パンパンパン!
窓の外、リスボンの路地裏で、現地の子供たちが祭りの爆竹を鳴らした。
その瞬間である。
「ひぃっ!? 敵襲! ?」
グレンジャー少尉は悲鳴を上げ、両手で頭を抱えて床にしゃがみ込んでしまった。
豪華なシャコー帽が転がり、彼の顔は恐怖で青ざめ、ガタガタと震えている。
執務室にいたウィリアムが、呆気に取られてその姿を見下ろした。
パーシバルはゆっくりとペンを置き、床に這いつくばる新任少尉を冷たい目で見つめた。
「……グレンジャー少尉。それはただの爆竹だ。
ポルトガルは昔から交易をしているチャイナから導入したらしい爆竹という花火を使用し、大きな音を鳴らして悪霊を払うらしい。
さあ立て。キレイな軍服が汚れるぞ」
「ば、爆竹……? あ、ああ……失礼いたしました。少し、船旅の疲れが……」
顔を真っ赤にして立ち上がるグレンジャーを見ながら、パーシバルは心の中で深くため息をついた。
(威勢はいいが、本質は臆病者だ。
死にたくないが、紳士としての箔付けや経歴欲しさに、比較的安全な輸送部隊の少尉の地位を親の金で買ったのだろう)
動機は自分と似ている。だが、決定的に違うのは、彼には戦場を生き抜くための冷酷な計算も、現実を直視する胆力も備わっていないということだ。
「ウィリアム、彼に倉庫の案内をしてやれ。
……グレンジャー少尉、君は当面、後方の帳簿整理を手伝ってもらう。前線に出るのはまだ早いようだ」
「は、はい……ありがとうございます、中尉殿」
逃げるように執務室を出ていくグレンジャーの背中を見送りながら、パーシバルは真新しい中尉の肩章を指で撫でた。
無能な者が死に、あるいは震え上がり、計算高い者が生き残り、その地位を奪う。
階級の階段を一つ上った彼は、この戦争という巨大な機構の中で、次なる利益の匂いを嗅ぎ取ろうと、静かに考えを巡らせる。
■1809年、夏。
アーサー・ウェルズリー将軍率いるイギリス遠征軍は、スペインのタラベラでフランス軍に辛勝を収めた。
しかし、ナポレオンの巨大な軍事力を前に、イベリア半島の戦況は依然として予断を許さない綱渡りの状態が続いていた。
王立輸送部隊の中尉に昇進したパーシバル・シーモア・シャルトンは、前線への補給任務をこなしながら、ある奇妙な動きに気付いていた。
リスボンから北へ約30マイルの丘陵地帯。そこに、王立工兵隊の将校たちが頻繁に出入りし、極秘裏に地形の測量と土工作業を始めているのだ。
「……トレス・ヴェドラス線か」
馬上でその遠景を眺めながら、パーシバルは誰にも聞こえない声で呟いた。
前世の記憶。歴史の知識が彼の脳内でパズルのピースを繋ぎ合わせる。
正確な完成時期までは覚えていなかったが、ウェルズリー(後のウェリントン公爵)がリスボン半島を丸ごと城塞化する巨大な防衛線、「トレス・ヴェドラス線」の構築に着手したことは間違いない。
そして、その防衛線が意味する最も過酷な戦略も、パーシバルは知っていた。
「焦土作戦」である。
翌1810年に予想されるフランス軍の大規模侵攻に対し、イギリス軍は防衛線の外側にあるすべての村々から食料を根こそぎ奪い、畑を焼き払い、井戸に毒を投げ込み、住民をリスボンへと強制退避させるはずだ。侵攻してくるフランス軍を「飢え」によって自滅させるための、血も涙もない遅滞戦術。
(何十万人という難民がリスボンに押し寄せる。そして、外側は不毛の荒野になる。……食料価格は、天井知らずに跳ね上がるぞ)
パーシバルは手綱を握り直し、目を細めた。
悲惨な戦争の現実。しかし、彼にとっては、これ以上ないほど確実で、巨大な「商取引」の匂いが立ち込めていた。
■リスボンの商人、バンデイラ
秋風が吹き始めた頃、パーシバルはリスボン市内の高級なコーヒー・ハウスに頻繁に顔を出すようになっていた。
そこは、軍の将校と現地の裕福な貿易商たちが入り混じり、情報と金が飛び交う社交場だった。
彼が目を付けたのは、ジョアン・バンデイラという初老のポルトガル人商人だった。
バンデイラは抜け目ない男だが、最近は深い憂鬱を抱えていた。
フランス軍の再侵攻の噂が絶えず、イギリス軍がまたジョン・ムーア将軍の時のように海へ逃げ出すのではないかと恐れていたのだ。
貿易は滞り、彼が港近くに所有する巨大な石造りの倉庫群は、空っぽのまま維持費だけを食い潰していた。
「やあ、バンデイラ氏。今日も葉巻の煙が苦そうですね」
パーシバルは、真新しい中尉の軍服を隙なく着こなし、彼のテーブルに同席した。
「……シャルトン中尉殿。我々商人は、大砲の音が聞こえるたびに寿命が縮むのですよ。あなたの同僚たちは『スペインへ進軍する』と息巻いていますが、私には、あなた方がいつ船に乗って逃げ出すか、そればかりが気掛かりでしてね」
バンデイラは、疑り深い目でイギリス人の若き士官を見つめた。
「ご心配なく。我々は絶対にリスボンを見捨てません。海へ逃げ出すこともない」
パーシバルは自信に満ちた笑みを浮かべ、身を乗り出した。
「バンデイラ氏。あなたが持て余している港の第4から第7倉庫、私が個人的に借り受けたい。期間は2年。賃料は、今の相場で全額先払いだ」
バンデイラは眉をひそめた。
「イギリス軍の兵站部としてではなく、中尉個人の名義で借りると? 一体、何を保管するおつもりで?」
「穀物です。小麦とトウモロコシを、倉庫の天井に届くまで詰め込みます」
パーシバルは、バンデイラの目を真っ直ぐに見返した。
「イギリス軍は引かない。引かないどころか、ここに巨大な壁を築き、籠城します。もし私の言う通りになれば、倉庫の賃貸料など端金に思えるほどの需要が生まれる。
……どうです? 空の倉庫に怯えるより、イギリス将校の『先見の明』に賭けてみては」
バンデイラは沈黙し、パーシバルの瞳の奥にある冷徹な計算を読み取ろうとした。
18歳かそこらの若造だが、その目にはシティの老練な銀行家と同じ光がある。
史実でも豪商として金で貴族位を買いポルトガル王国貴族となる歴戦の商人バンデイラは、おのれの直感を信じる。
「……よろしい。契約しましょう、中尉殿」
「商談成立だ」
■焦土からの買い付け
倉庫を確保したパーシバルは、即座に次の手を打った。
自室にウィリアム・ホッジスと従卒のスローターを呼び出し、リスボン周辺の地図を広げた。
「いいか、二人とも。これから君たちには、輸送任務の帰りにリスボンより北、コインブラからサンタレンにかけての農村地帯を経由してリスボンに帰還してもらう」
パーシバルは、将来「焦土」となる予定の地域をペンで大きく囲んだ。
「軍の輸送任務のついでですか?」
ウィリアムが尋ねる。
「そうだ。輸送部隊の経路はある程度現場に一任されていることを利用してもらう。
君たちは現地の農民たちから、収穫されたばかりの小麦とトウモロコシを、可能な限り買い集め物資を前線に輸送し、空となった荷馬車に詰め込むんだ」
「買い集めるったって、旦那様。あいつらも自分の食い扶持が必要ですぜ。そう簡単に売ってくれますかね?」
スローターが首を傾げる。
パーシバルは冷たく笑った。
「売るさ。スローター、君の得意なポルトガル語で、農民たちにこう吹き込むんだ。
『来年、間違いなくフランス軍の大軍がやってくる。そうなれば、フランス兵はお前たちの食料を略奪しにくるだろう。持ち逃げしやすい銀貨に替えておくほうが安全だ』
とね」
二人の従僕が、息を呑んだ。
「確かにありえそうですね」
ウィリアムが納得をする。
「現実となればリスボンの穀物価格は天井しらずとなるだろう」
パーシバルは小切手帳の横に置かれた、ずっしりと重い革袋をテーブルに投げ出した。
中には、ロンドンの銀行宛の為替手形を割引いて換金した、8レアル銀貨が詰まっている。
※8レアル銀貨約 4シリング9ペンス
「農民たちに選択させろ。
来年、フランス軍に奪われるか。
それとも……今、この場で確実に銀貨と交換するか、だ」
「……悪魔の囁きですね、そりゃあ」
スローターが引きつった笑いを浮かべた。
「だが、農民にしてみりゃあ、灰になるよりは銀貨の方が百倍マシだ。
市場価格より安く買い叩いても、泣いて感謝されるかもしれませんぜ」
「その通りだ。市場価格の7割から8割を狙え。決して足元を見過ぎるな。
彼らにとっても『救済』になる価格で買うんだ」
パーシバルの指示は徹底していた。
これは単なる買い占めではない。
イギリス軍が後に行う焦土作戦の前に、現地から食料を「合法的に」吸い上げてしまう作戦なのだ。
農民には生活と移動の足しになる現金が残り、フランス軍が進軍してきた時には、村には本当に最低限の食料しか残っていない状態になる。
彼個人の利益の追求が、結果的にイギリス軍の防衛戦略(敵の兵糧攻め)を間接的に支援することになるのだ。
1809年の秋から冬にかけて、ウィリアムとスローターを乗せた荷馬車は、何度も北の農村とリスボンを往復した。
農民たちは初め半信半疑だったが、北から流れてくるフランス軍の不穏な噂と、目の前で鈍く光る8レアル銀貨の魅力には抗えなかった。
「奪われる前にイギリスの将校様に買い取ってもらえ」
その噂は広まり、パーシバルが借りたバンデイラの倉庫は、みるみるうちに黄金色の麦とトウモロコシで埋め尽くされていった。
■商人との密約
冬の足音が近づく11月。
リスボン港の第4倉庫の前で、バンデイラは信じられないものを見るような目で、天井まで積み上げられた麻袋の山を見上げていた。
「……シャルトン中尉殿。あなたは狂っている。これほどの穀物を買い占めて、一体どうするおつもりか。豊作の年になれば、腐らせて大損害ですぞ」
「豊作にはなりませんよ、バンデイラ氏。来年の秋、このリスボンの城壁の外側は、ぺんぺん草一本生えない死の土地(焦土)になりますから」
パーシバルは、バンデイラの耳元で、イギリス軍の極秘戦略の「推測」を語った。
トレス・ヴェドラス線の存在。そして、そこに数十万人の難民が雪崩れ込んでくる未来を。
バンデイラの顔から血の気が引いた。
「……それが真実なら、来年、リスボンは地獄のような飢餓に襲われる。パンの価格は今の10倍、いや20倍に跳ね上がる……!」
「ええ。そして、その時に最も力を持つのは、大砲でも銃でもなく、この倉庫の鍵を持っている人間です」
パーシバルは、銀の鍵束を指で鳴らした。
「バンデイラ氏。あなたは私を信用して倉庫を貸してくれた。
だから、この情報を特別にあなたにも提供しましょう。……今すぐ、あなたも財産を使って、可能な限り穀物を買い進めなさい」
バンデイラは、目の前の18歳のイギリス士官に、底知れぬ恐怖と、それ以上の魅力的な野心を感じていた。
「……ただで教えるわけではありますまい?」
「もちろんです」
パーシバルは冷たく微笑んだ。
「あなたがこの情報で得た利益の、2割をいただきます。
その代わり、軍の物資統制が入った時は、私が中尉の権限であなたの倉庫を守る手立てを講じましょう」
「……悪魔のようなお方だ。あなたは軍服を着るべきではなかった。
ロンドンのシティで銀行家になるべきだった」
「最高の褒め言葉として受け取っておきますよ」
バンデイラは震える手で、パーシバルと固い握手を交わした。
商人としての才覚と、軍人としての強権。
その両方を併せ持つパーシバルを、バンデイラは対等以上のパートナーとして完全に認めた瞬間だった。
スペイン国境では依然として小競り合いが続いていたが、リスボンの街は嵐の前の静けさを保っていた。
パーシバルの倉庫には、来たるべき飢餓の年に莫大な富を生み出す「黄金の種」が、静かにその時を待っていた。
■1810年、秋。
ナポレオンの麾下でも最強と謳われる猛将、アンドレ・マッセナ元帥率いる6万5000のフランス軍が、ポルトガルへの第三次侵攻を開始した。
対するアーサー・ウェルズリー(ウェリントン公)率いるイギリス・ポルトガル連合軍は、ブサコの尾根でフランス軍に痛撃を与えて進軍を遅滞させた後、計画通りに南下を開始した。
彼らが目指したのは、リスボン半島をすっぽりと覆い隠すように築き上げられた前代未聞の巨大要塞群「トレス・ヴェドラス線」である。
山々を繋ぐように100以上の堡塁が築かれ、大砲が立ち並び、谷は堰き止められて泥沼と化していた。
イギリス海軍の艦砲射撃の援護も受けられるこの防衛線は、当時のいかなる軍隊をもってしても突破不可能な「完璧な壁」だった。
しかし、ウェリントン公の真の恐ろしさは要塞そのものではない。
その外側に展開された「焦土作戦」にこそあった。
防衛線へ撤退する過程で、イギリス軍は容赦なくポルトガルの農村を焼き払った。
麦畑には火が放たれ、水車は破壊され、家畜は屠殺されるか連れ去られた。
フランス軍に一粒の麦も、一滴の葡萄酒も残さないための徹底した兵糧攻めである。
結果として、住処を焼かれた数十万のポルトガル農民たちが、家財道具を荷車に積み、泣き叫びながらイギリス軍と共にトレス・ヴェドラス線の内側リスボンへと雪崩れ込んできた。
10月。リスボンの街は、文字通り足の踏み場もないほどのカオスと化していた。
広場という広場、教会、路地裏に至るまで、難民たちの粗末な天幕がひしめき合っている。
衛生状態は最悪を極め、飢えと病が蔓延し始めていた。
当然のごとく、食料価格は天井知らずの暴騰を見せた。
通常の数倍、いや10倍を出してもパン一つ手に入らない。
イギリス軍の正規の補給路でさえ、急増した人口を支えきれず、兵站部の倉庫は底をつきかけていた。
トレス・ヴェドラス線の堅牢な壁の向こう側では、マッセナのフランス軍が広大な「焦土」の中で飢えに苦しみ、壁の内側では、数十万の難民と兵士たちが圧倒的な「物不足」に喘いでいた。
まさに地獄の様相である。
だが、王立輸送部隊の中尉、パーシバル・シーモア・シャルトンにとっては、この地獄こそが待ちに待った「収穫の秋」であった。
「……旦那様。外の様子を見てきました。
港の市場は暴動寸前ですぜ。トウモロコシの粉一袋に、昨年の20倍の値段がついていやがる」
士官宿舎の自室。窓の隙間から難民たちのうめき声が聞こえる中、従卒のスローターが興奮冷めやらぬ様子で報告した。
「兵站部の将校どもも血眼になって食い物を探してます。
金貨を山積みにして『誰か麦を売ってくれ』って泣き叫びたい気分でしょうよ」
「そうか。予想通りだな」
パーシバルは、真新しい中尉の制服の袖口を整えながら、冷ややかに頷いた。
「ウィリアム。例のポルトガル人商人、バンデイラ氏に使いを出せ。
……『倉庫の鍵を開ける時が来た』とな」
パーシバルの戦略は完璧に機能していた。
前年のうちに、将来「焦土」となる地域から銀貨で買い叩き、港の倉庫に天井まで積み上げておいた小麦とトウモロコシ。
それは今や、銀以上の価値を持つ金に化けていた。
しかし、パーシバル自身は絶対に表に出ない。
イギリス陸軍の将校、それもエスクワイア(郷紳)の家柄に生まれたジェントルマンが、飢えた市民や自国の軍隊を相手に穀物を売りさばき、暴利を貪っていると知れれば、名誉は完全に失墜し、軍法会議にかけられる恐れすらある。
だからこそ、彼はすべてをバンデイラに任せた。
表向き、この危機において奇跡的に大量の穀物を市場に放出するのは、
「先見の明があった愛国的なポルトガル人商人、ジョアン・バンデイラとその同業者たち」
という筋書きだ。
数日後から、リスボン市内にバンデイラの手配した荷車が回り始めた。
ターゲットは二つ。
一つは、高くても買うしかない富裕層の市民たち。
そしてもう一つが、イギリス軍の兵站部である。
兵站部の購買官たちは、突如としてバンデイラが提示した大量の穀物に飛びついた。価格は平時の何倍もしたが、背に腹は代えられない。
兵士の給与支払いを後回しにしてでも、食料を確保しなければ軍隊は崩壊するのだ。
「シャルトン中尉。君の中隊には悪いが、今日の荷馬車の配車を少し回してもらえないか。
例のポルトガル商人から、大量の小麦を買い付けたんだ。
すぐに前線の部隊へ運ばねばならん」
兵站部の大尉が、パーシバルの執務室に血相を変えて飛び込んでくることもあった。
「承知いたしました、大尉殿。軍の危機を救ってくれたその商人には、我々も感謝せねばなりませんね。ただちに荷馬車を手配しましょう」
パーシバルは、心からの敬意を装って完璧な敬礼を返した。
自分が売りつけた麦を、自分の部隊の馬車で前線へと運ぶ。これほど滑稽で、これほど完璧な循環があるだろうか。
彼はただ、真面目で実務能力に長けた「王立輸送部隊の中尉」としての顔を保ち続けた。
毎日規則正しく執務室に現れ、配車表を組み、部下の健康管理に気を配る。
泥にまみれて働く若い将校。誰も彼が、このリスボンで動いている巨額の穀物取引の「真の支配者」であるなどとは疑いもしなかった。
取引の決済には、ポルトガルの現地通貨であるレアル(複数形はレイス)が用いられた。数千ミルレイスという膨大な紙幣と銀貨が、バンデイラの商館に雪崩れ込んだ。
バンデイラはそれを、彼自身の信用ネットワークを通じて、手形ブローカーの元へ持ち込み、ロンドン宛の「為替手形」に変換した。
宛先はロンバード・ストリートのバークレイズ銀行。受取人は、もちろんパーシバル・シャルトンである。
現地通貨の物理的な重さを消し去り、紙切れ一枚で海を越えて富を安全な金庫へと移動させる。まさに近代的金融の魔術だった。
12月。
冬の冷たい雨がトレス・ヴェドラス線の泥を洗い流す頃、壁の外側に陣取っていたマッセナのフランス軍は、ついに限界を迎えつつあった。
食料は完全に底を尽き、軍馬は食肉として解体され、兵士たちは病と飢えでバタバタと倒れていった。焦土作戦と要塞線の組み合わせは、ナポレオンの不敗の軍団の心身を確実に削り取っていた。
彼らが撤退を開始するのは、もはや時間の問題だった。
そして、リスボン市内でも、イギリス本国からの輸送船団が到着し始めたことで、異常な食料価格の暴騰は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
「見事な売り抜けでした、旦那様。もう倉庫には、ネズミの食う麦一粒残っちゃいません」
クリスマスの数日前。パーシバルの私室で、ウィリアムが興奮を隠しきれない声で報告した。
暖炉の火が、テーブルの上に広げられた何枚もの為替手形と帳簿を赤々と照らしている。
パーシバルは、銀縁のペンを指で回しながら、最終的な決算額を冷徹な目で確認していた。
【1810年度 穀物取引決算報告】
買い付け原価(1809年秋~冬):約450ポンド相当
諸経費(倉庫代、輸送費、為替手数料等):約150ポンド
売却総額(1810年秋~冬):約2100ポンド相当
純利益:約1500ポンド
これだけでも、中尉の正規給料の約15年分に相当する莫大な額である。
だが、真の「黄金の収穫」はこれだけではなかった。
「……バンデイラ氏からの『情報料』も届いています」
パーシバルは、一番上に置かれた額面の大きな為替手形を指差した。
バンデイラは、パーシバルが提供した「焦土作戦と難民流入」の極秘情報を信じ、自身の財産と信用を注ぎ込んで穀物を買い占めていた。その結果、バンデイラが手にした純利益は、優に1万5000ポンドを超えていたのだ。
約束通り、バンデイラはその利益の2割——3000ポンドを、パーシバルへの「情報提供料および庇護の代価」として支払ってきたのである。
合計、4500ポンド以上の純利益。
パーシバルは深く息を吐き出し、革張りの椅子に背中を預けた。
「4500ポンド……。ロンドンのシティでも、これだけの現金を一年で動かせる男はそう多くない」
彼は天井の染みを見つめながら呟いた。
軍人としての階級はただの中尉に過ぎないが、その経済力はすでに下位の貴族に匹敵するレベルに達していた。
「ウィリアム、スローター。よくやってくれた」
パーシバルは引き出しを開け、あらかじめ用意してあった革袋を二人に渡した。
チャリン、と重い金属音が響く。
「中身はそれぞれ、50ギニーだ」
「ご、50ギニー!?」
スローターが悲鳴のような声を上げた。平の兵士が一生かかっても貯められない金額だ。ウィリアムでさえ、目を丸くして革袋の重さを確かめている。
「君たちの働きに対する正当な対価だ。受け取れ。
ただし、酒場で見せびらかすなよ。盗まれても補填はしない」
パーシバルは微笑みながら釘を刺した。
「それから、ウィリアム。お前の実家にも送金してやれ。ホッジス・コーチング・インの改築費用くらいにはなるだろう」
「……旦那様。一生ついていきますぜ。あんたは本物のバケモンだ」
ウィリアムが深々と頭を下げた。
「化け物は壁の外で飢えているマッセナ元帥の方さ。僕はただ、彼らの飢えを金貨に換えただけの、しがない兵站将校に過ぎない」
パーシバルは帳簿を閉じ、立ち上がって窓の外を見下ろした。
リスボンの港には、冬の冷たい雨が降り注いでいる。街角にはまだ難民の姿が溢れているが、最悪の危機は脱した空気が漂っていた。
(焦土作戦という非情な決断を下したウェリントン将軍には感謝せねばなるまい。彼の冷徹さが、僕に富をもたらしてくれたのだから)
パーシバルはワイングラスに少量のポートワインを注ぎ、一人静かにグラスを掲げた。
名誉は将軍たちにくれてやる。血を流すのは歩兵の役目だ。
自分は裏方として、この泥沼の半島戦争という巨大な市場から、合法的に、かつ安全に富を吸い上げ続けるだけだ。
「来年は、いよいよ反攻の年になる」
パーシバルはグラスを干した。
フランス軍が撤退を開始すれば、イギリス軍は再び長大な補給線を伸ばして追撃に出る。
そろそろ出口戦略について考えなければならない。
資金は十分にできた。次なる事業の構想は、すでに彼の頭脳の中で組み上がりつつあった。
■1811年、春。
イベリア半島を焦がすような太陽が戻り、雪解け水と春の雨がポルトガルの大地を底なしの泥濘に変えていた。
前年の秋からトレス・ヴェドラス線の外側で飢餓に苦しんでいたフランス軍のマッセナ元帥は、ついに耐えきれず撤退を開始した。
軍馬を食い尽くし、病と飢えで数万の兵を失った無敵の軍団は、来た時とは打って変わった無惨な姿でスペイン国境を目指して北上していく。
アーサー・ウェルズリー(ウェリントン公)率いる連合軍は、これを逃さず即座に反転攻勢に出た。追撃戦の始まりである。
軍隊が動けば、兵站も動く。
王立輸送部隊の任務は、防御陣地にこもっていた冬の間とは比較にならないほど激増していた。
前線で戦う歩兵と騎兵に、弾薬、塩漬け肉、ビスケット、そして大量の飼料を絶え間なく届けなければ、追撃の足は止まってしまう。
「第4車列、間隔を詰めろ! 止まらず進み続けろ!止まったら泥に車輪を取られるぞ!」
ポンバル近郊の荒れ果てた街道で、泥にまみれた濃紺の軍服を着たパーシバル・シーモア・シャルトン中尉が馬上で怒号を飛ばしていた。
彼は第3中隊の小隊長に過ぎないが、中隊長であるガートン大尉が実務のすべてを彼に丸投げしているため、実質的な運用責任者として絶対的な権力を握っていた。
パーシバルが率いる第3中隊の車列は、他の部隊のそれとは明らかに異なっていた。
軍の正規の重い四輪荷馬車だけでなく、現地の農民が使うような頑丈な二輪の軽便馬車や、背中に荷鞍を括り付けられた数十頭のラバが、長大な隊列を成しているのだ。
これらはすべて、パーシバルが自らの「私財」――昨年の穀物取引で得た莫大な利益の一部――を投じて、軍の規定外に買い集めた輸送力だった。
帳簿上は「現地徴用」という名目にしているが、実態はパーシバル個人の資産である。彼はこの圧倒的な輸送力を使って、軍の物資を誰よりも早く、大量に前線へと運んでいた。
そして当然ながら、その荷台の奥深くには、軍の支給品ではない木箱がいくつも隠されている。
中身は上質なタバコ、茶葉、そして高級なポートワイン。
前線の士官たちが、金に糸目をつけずに買い求める嗜好品だ。追撃戦の混乱の中、彼は公務を完璧にこなしながら、したたかに「私商い」の網を広げていた。
「旦那様、前の宿場町で少し休憩を入れましょう。ラバたちが息を上げています」
従僕のウィリアム・ホッジスが、泥だらけの顔で駆け寄ってきた。
「分かった。全車、宿場の手前で停止。車軸の熱を冷まし、馬に水を与えろ」
パーシバルは手綱を引き、車列を街道の端に寄せるよう指示を出した。
部隊が崩れかけた石造りの宿場の前で小休止に入り、兵士たちが泥を払い落としていた時のことだ。
後方から、けたたましい蹄の音と、傲慢な怒鳴り声が近づいてきた。
「どけ! 貴様ら、道を空けんか!」
現れたのは、鮮やかな青色の上着に、銀のレースをあしらった軍服を着た一団だった。第16軽竜騎兵の小隊である。
先頭を進むのは、本国から着任したばかりのチャドウィック中尉だ。彼は貴族の三男坊で、十分な実戦経験もないまま、親の金で騎兵中尉の階級を買い取った典型的な「お飾り士官」だった。
彼の乗るハンター種の栗毛の馬は、まだ前線の過酷さを知らず、無駄に艶やかな毛並みをしている。
チャドウィック中尉は、街道の半分を塞いでいる輸送部隊の荷車を見るなり、羽飾りのついたシャコー帽の奥で顔を真っ赤にした。
「なんだこの薄汚い車列は! 高貴な騎兵隊のお通りだぞ! 荷車屋は泥の中で這っていろ!」
その言葉に、荷車の整備をしていた従卒のスローターがカッと頭に血を上らせ、咄嗟に鞭を握りしめて立ち上がった。
「なんだと、この野郎。俺たちが運んだ飯を食ってるくせに……!」
「スローター、やめろ」
パーシバルが静かに、しかし絶対的な威圧感のある声で制止した。
彼は馬を静かに進め、チャドウィック中尉の前に出た。パーシバルの紺色の制服は泥と埃に塗れていたが、その身のこなしにはエスクワイア(郷紳)としての洗練された品格があった。
「王立輸送部隊、シャルトン中尉であります。
我々の車列が道幅を塞いでしまい、失礼いたしました。すぐに道を空けさせます」
パーシバルは軍帽に手を触れ、極めて慇懃に頭を下げた。
チャドウィックは鼻で笑った。
「ふん。階級は同じ中尉でも、所詮は馬に乗った荷車引き、戦場の御用聞きに過ぎんな。
貴様らのような泥臭い連中と同じ空気を吸うと、私の馬の鼻が悪くなる。さっさと馬車をどかせ!」
「おっしゃる通りです、中尉殿。歩兵の流す血と、我々輸送部隊の流す汗で道を整えておきますので、どうかその美しい軍服を泥で汚さぬよう、安全な後方からごゆっくりお進みください」
パーシバルの言葉には、一片の怒りも含まれていないように聞こえた。しかし、その洗練された皮肉に気づいたチャドウィックは、一瞬言葉に詰まり、顔を痙攣させた。
「……減らず口を叩く小僧め。貴様の名前、覚えておくぞ」
チャドウィックは馬の腹に拍車を当て、泥を跳ね上げながら通り過ぎていった。
「旦那様、あんな奴の言いなりになるんですか!」
ウィリアムが悔しそうに地団駄を踏む。
パーシバルは泥を被ったマントを軽く払い、冷たい笑みを浮かべた。
「ウィリアム。前線において、真の権力がどこにあるか、あの新米はまだ知らないらしい。
……特別授業をしてやる必要があるな」
数日後。
追撃軍の前衛が野営を張る、コア川のほとり。
騎兵部隊はフランス軍の殿部隊との小競り合いを終え、野営地に戻ってきていた。しかし、第16軽竜騎兵の陣地では、尋常ではない怒声が響き渡っていた。
「どういうことだ! なぜ我が小隊の馬の飼料が届いていない!」
チャドウィック中尉が、兵站部の天幕の前で顔を真っ赤にして喚き散らしていた。
騎兵にとって、馬は命だ。
1日数ポンドの燕麦と干し草を与えなければ、激しい騎乗に耐えられず、たちまち馬は痩せ細って使い物にならなくなる。
他の小隊には十分な飼料が配給されているのに、チャドウィックの小隊にだけ、なぜか一握りの麦も届いていなかった。
「申し訳ありません、チャドウィック中尉殿。
しかし、書類上は貴官の小隊への配給伝票が……輸送部隊の『事務的な手違い』で後方に回されてしまったようでして」
兵站部の士官が、困り果てた顔で書類の束をめくりながら答える。
「手違いだと!? ふざけるな! 私の馬が飢えているんだぞ! 今すぐ輸送部隊の責任者を呼べ!」
「お呼びでしょうか、中尉殿」
冷たく、しかし澄み切った声が響いた。
天幕の裏から姿を現したのは、手帳を手にしたパーシバルだった。彼の後ろには、ガートン大尉と、他の連隊の古参士官たちが数名、面白そうに付き従っている。
「貴様は……あの時の荷車屋か!」チャドウィックが目を血走らせる。
「王立輸送部隊、第3中隊のシャルトンです」
パーシバルは手帳を開き、涼しい顔で読み上げた。
「誠に申し訳ありません。連日の泥濘により、我が部隊の荷馬車にも遅れが生じております。そのため、軍規に基づき、『最も重要度の低い部隊』への配給を一時的に停止し、前線で真に戦っている歩兵連隊への弾薬輸送を優先させました」
「なんだと! 私の騎兵小隊が重要度が低いだと!?」
チャドウィックは腰のサーベルの柄に手をかけた。
パーシバルは微塵も動じず、冷ややかな視線を浴びせ返した。
「おや、高貴な騎兵隊の馬は、霞を食って走るのではないのですか?」
その痛烈な一言に、周囲の士官たちからプッと吹き出す音が漏れた。
チャドウィックの顔は屈辱と怒りで紫に染まり、ついにサーベルを引き抜こうとした。
しかし、その手を太い腕がガッチリと掴んだ。
「そこまでにしておけ、新入り」
声をかけたのは、歴戦の傷跡を持つ騎兵の古参少佐だった。
「シャルトン中尉の差配に文句があるなら、私が相手になるぞ。
彼の部隊が昼夜を問わず泥まみれで物資を運んでくれるおかげで、我々の連隊は戦えているんだ」
「し、しかし少佐殿! この男は意図的に私の配給を……!」
「いいか、チャドウィック」
今度はガートン大尉が、鼻で笑いながら前に出た。
「前線において、弾と飯を握っている人間を敵に回すのは、フランス軍の砲列の前に素裸で立つより愚かなことだ。
貴様はロンドンの舞踏会から来たばかりで知らないだろうが、ここでは階級章の金モールの重さより、一袋の燕麦の方が遥かに価値があるのだ」
チャドウィックは周囲の冷ややかな視線に晒され、自分の立場が完全に孤立していることを悟った。
彼は震える手でサーベルから手を離し、ギリッと歯を食いしばった。
パーシバルはパタンと手帳を閉じた。
「ご安心ください、チャドウィック中尉殿。
貴官の小隊への飼料は、『最優先』で手配いたしましょう。おそらく明日の朝には届いているでしょう。
……我々、戦場の御用聞きにお任せを」
チャドウィックは何も言い返せず、逃げるように自分の陣地へと戻っていった。
周囲の輸送部隊の士官たちから、パーシバルへ向けて称賛の口笛が送られる。
「旦那様、やりましたね。あの青二才、泣きそうな顔をしてましたぜ」
ウィリアムが小声で笑いかける。
「当然の報いだ。輸送部隊を侮辱することは、僕の『名誉』を傷つけることと同じだからな」
パーシバルは冷たく言い捨て、振り返った。
「さて、ウィリアム。あんな小物の相手をしている暇はない。スローターを呼べ」
パーシバルの瞳には、すでに別の野心が燃えていた。
「フランス軍が撤退する際、重くて運べなくなった大砲の部品や、略奪した銀器、上質な馬車などを道沿いに大量に遺棄しているという報告が入った。
我々の空になった軽便馬車を向かわせる。戦利品の回収ビジネスの始まりだ」
「へえ! 捨てられたもんなら、原価はタダですぜ。こいつはボロ儲けの匂いがします」
「ああ。兵站とは、運ぶだけではない。拾い、集め、そして最も高く売れる場所へ再配分することだ」
1811年、春。
泥と血に塗れたイベリア半島の荒野は、パーシバル・シャルトンにとって、誰にも邪魔されない彼だけの黄金の採掘場へと変わりつつあった。
(第5章 完)




