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第4章(1807年~1809年):英国の孤立と半島戦争の始まり

※誤字報告、感謝いたします。

■主要な登場人物を前書きに記載しておきます。

パーシバル・シーモア・シャルトン:主人公。王立輸送部隊の少尉。

ガートン大尉:主人公が所属する中隊の中隊長。準男爵家の次男。

ミルトン中尉:中隊の副隊長、先任中尉。

フレッチャー中尉:中隊の次席中尉、小隊長。

サイモン軍曹:小隊の先任下士官。

スローター:主人公の従卒。

ウィリアム・ホッジス:主人公の従僕、従卒の役割もこなす。


■孤立する英国と国債の底値(1807年夏)

1807年、7月。

イングランド南部、ハンプシャー州ウィンチェスター。

王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレインが駐屯する兵営バラックスは、うだるような夏の湿気と、それ以上に重苦しい「絶望」の空気に包まれていた。


士官食堂オフィサーズ・メスでは、普段ならポートワインを片手にポーカーに興じる士官たちが、今日ばかりは押し黙り、ロンドンから届いたばかりの新聞を回し読みしていた。

その一面には、信じがたい挿絵が描かれている。

ニーメン川に浮かぶいかだの上で、フランス皇帝ナポレオンと、ロシア皇帝アレクサンドル1世が抱擁を交わしている図だ。


「……終わった。何もかも終わりだ」


第3中隊の中隊長、ガートン大尉が呻くように言った。

彼は準男爵家の次男で、普段は陽気な道楽者だが、今の顔色は死人のように蒼白だ。


「プロイセンは粉砕され、ロシアは裏切った。『ティルジットの和約』だと? ふざけるな!

これは全欧州による、英国への死刑宣告じゃないか!」


大尉が新聞をテーブルに叩きつける。

記事によれば、ロシアはフランスと講和するだけでなく、ナポレオンが主導する大陸封鎖令に参加することに合意したという。

これで、バルト海から地中海に至るまで、ヨーロッパのすべての港がイギリス船に対して閉ざされたことになる。


「我々は孤立した。たった一国で、あの怪物ナポレオンと全欧州を相手に戦わねばならんのか……」


副隊長のミルトン中尉が、空になったグラスを見つめて呟く。

その場にいる全員が、イギリスの敗北、そして破産を予感していた。国家が滅べば、彼らの給与も、家柄も、すべては無に帰す。


しかし、その重苦しい静寂の中で、一人だけ冷静な眼をして紅茶を啜っている男がいた。

17歳の少尉、パーシバル・シーモア・シャルトンである。


(ティルジットの和約。ナポレオンの絶頂期だ。……史実通りだな)


彼は心の中で呟いた。

周囲の大人たちが感じているのは「未知の恐怖」だが、パーシバルが感じているのは「既知の事実」に対する確認作業に過ぎない。

イギリスは滅びない。

ナポレオンの覇権は、ここが頂点であり、ここから緩やかに、しかし確実に崩壊に向かう。


(皆が悲観している今こそ、市場は間違える。……買い場だ)


パーシバルは静かに席を立ち、制帽を手に取った。

「失礼します、大尉殿。少しばかり私用で手紙を書かねばなりませんので」


「手紙? 遺書か? ……まあいい、好きにしろ」

ガートン大尉は投げやり手で追い払った。



■ロンドンへの指令書

自室である士官宿舎に戻ったパーシバルは、すぐに書き物机に向かった。

従僕バットマンのウィリアム・ホッジスが、主人の意図を察してインク壺の蓋を開ける。


「旦那様、皆まるで葬式みたいな顔をしてますね。ロシアが敵に回ったのがそんなにヤバいんですか?」


「ヤバいよ。少なくとも、シティ(金融街)の連中はパニックになっているはずだ。

ロシアとの貿易が止まれば、木材や麻、穀物が入ってこなくなる。

海軍のロープも作れなくなるからね」


パーシバルは羽根ペンの先を整えながら、冷徹に語った。

「だからこそ、コンソル公債(3%統合公債)は暴落している。先週は62ポンドだったが、このニュースで60ポンドを割り込むだろう」


コンソル公債は、額面100ポンドに対して年3ポンドの利子が支払われる永久国債だ。

その価格は、国家の信用度そのものである。ナポレオン戦争前は70ポンド台で推移していたが、度重なる敗戦と国債の乱発で下落の一途を辿っていた。


「じゃあ、紙屑になる前に売るんですか?」


「逆だ、ウィリアム。買うんだ」


パーシバルは、ロンドンのバークレイズ銀行、ジェームズ・ベリエフ氏宛の手紙を書き始めた。



【指値注文書】


拝啓 ジェームズ・ベリエフ様


ティルジットの凶報により、シティが恐慌状態にあることは想像に難くありません。

しかし、私は英国の底力を信じております。

ついては、私の当座預金口座にある400ポンド全額を用い、以下の条件にてコンソル公債の購入を指示いたします。


1. 買い注文:

公債価格が57ポンドまで下落した時点で、399ポンド分の現物を購入されたし。


2. 売り注文:

購入後、相場が反転し、価格が65ポンドに達した時点で、即座に全額を売却されたし。


追伸:

信用取引レバレッジは行いません。現物のみでお願いします。


敬具

パーシバル・S・シャルトン少尉


書き終えた手紙を封蝋で閉じながら、パーシバルはウィリアムに説明した。


「現在の僕のほぼ全財産、399ポンドを突っ込む」


「399ポンド!? 正気ですか? もしナポレオンが上陸してきたら、その紙切れは焚き付けにもなりませんよ!」


「上陸はしない。そして、イギリス政府は絶対に利払いを止めない。

……いいか、ウィリアム。投資の鉄則は『悲観の中で買い、楽観の中で売る』だ。

今、イギリス中が『もう駄目だ』と思っている。だからこそ、異常な安値がつくんだ」


本来なら、借金をしてでも1000ポンド、2000ポンドと買いたいところだ。

だが、未成年の士官が、しかも戦時中に巨額の信用売り(空売りやレバレッジ取引)を行えば、軍当局や銀行から危険人物としてマークされる。

最悪の場合、スキャンダルとなって任官を取り消されかねない。


(今はまだ、種銭を育てる段階だ。堅実に、現物だけで勝負する)


「この手紙を、今すぐロンドン行きの郵便馬車に乗せてくれ。1分1秒を争う」


「……へいへい。もし無一文になったら、俺の給料は諦めますよ」

ウィリアムは呆れつつも、主人の眼に宿る確信を信じて部屋を飛び出した。



■シティの動揺とバンカーの驚き

2日後、ロンドン。

金融街シティは、まさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。

王立取引所ロイヤル・エクスチェンジの周辺には、顔面蒼白の投資家たちが溢れ、「売れ! 今すぐ売れ!」という怒号が飛び交っている。


「ロシアが同盟を離脱したぞ!」

「プロイセンは消滅だ! もう英国の味方はいない!」

「公債は58ポンドを割った! 底なしだ!」


そんな狂乱の中、ロンバード・ストリートのバークレイズ銀行の執務室で、ジェームズ・ベリエフは眉間に皺を寄せながら手紙を読んでいた。


「……57ポンドで買い、だと?」


ベテランの銀行家である彼でさえ、今の相場で「買い」を入れる勇気はなかった。

誰もが英国の破産を噂している時に、全財産を国債に変えるというのか。

しかも、この手紙の差出人は、まだ17歳の若造士官だ。


「シャルトン少尉……。君は狂っているのか、それとも未来が見えているのか」


ベリエフは窓の外、パニックに陥る通りを見下ろした。

だが、彼の銀行家としての勘が、この若者の不気味なほどの冷静さに賭けてみろと囁いていた。

彼はベルを鳴らし、書記を呼んだ。


「この注文を通せ。価格が57ポンドに触れた瞬間、シャルトン口座の全額で公債を買い付けろ」


「は、はい! しかし、本当によろしいのですか? 紙屑になるかもしれません」


「構わん。顧客の指示だ。……それに、私も個人的に少し買ってみようか」




■コペンハーゲンの火柱

8月に入ると、ウィンチェスターの兵営にも慌ただしい動きが生じた。

「極秘任務」として、輸送部隊の一部が東部の港、ヤーマスへ移動を命じられたのだ。

パーシバルは残留組だったが、その動きから全てを察していた。


(政府が動いた。標的はデンマークだ)


ナポレオンは、中立国であるデンマークの強力な艦隊を接収し、それを使ってイギリスへの上陸作戦を再開しようと画策していた。

イギリス外相カニングは、その情報を掴むや否や、先手を打った。

「ナポレオンに奪われる前に、デンマーク艦隊を我々が奪う」

それは、国際法上は極めてグレーな、中立国への奇襲攻撃だった。

そして第二次世界大戦時に似たような行為を同盟国であったフランスに対して行っていることも皮肉なことである。


9月上旬。

イギリス海軍によるコペンハーゲン砲撃のニュースが届いた。

街は炎上し、デンマークは降伏。イギリス軍はデンマーク海軍の全艦艇を拿捕し、持ち帰ることに成功した。


このニュースは、ロンドン市場に劇薬として作用した。


「英国はまだ死んでいない!」

「海軍健在なり! ナポレオンの海上封鎖は失敗だ!」


昨日まで悲観に暮れていた投資家たちが、手のひらを返したように歓喜し、公債を買い戻し始めたのだ。

道徳的には褒められた作戦ではない。しかし、「英国の安全が確保された」という事実は、投資家心理を劇的に改善させた。




■決済と成果

9月下旬。

ウィンチェスターの士官宿舎で、パーシバルはロンドンからの返信を受け取った。

バークレイズ銀行の封蝋が押された、厚みのある封筒だ。


「……来たか」


パーシバルはペーパーナイフで封を切り、中の報告書ステートメントを取り出した。


【取引報告書】


1. 購入取引(1807年7月28日)

 銘柄:3%統合公債(Consols)

 購入単価:57ポンド

 投資額:399ポンド


 取得額面:700ポンド(額面100ポンド証券×7枚)


2. 売却取引(1807年9月15日)

 売却単価:65ポンド

 売却額面:700ポンド

 受取金額:455ポンド


3. 収支

 粗利益:56ポンド

 手数料:2ポンド

 純利益:54ポンド


口座残高:453ポンド


「……53ポンドの利益か」


パーシバルは、その数字を見て小さく息を吐いた。

53ポンド。

彼の少尉としての日給(5シリング3ペンス)の、約200日分にあたる。

労働者が朝から晩まで働いて、1年半かけて稼ぐ金額を、彼はたった2ヶ月、手紙を1通書いただけで稼ぎ出したのだ。


「すげえ……。本当に上がりやがった」

横から覗き込んだウィリアムが、信じられないという顔で呟く。

「65ポンドまで戻るなんて、誰が予想できたんです? みんな『英国は終わりだ』って泣いてたんですよ?」


「大衆は常に間違えるんだ、ウィリアム」


パーシバルは、報告書を丁寧に折り畳み、引き出しの奥にある鍵付きの小箱にしまった。

元手400ポンドが、453ポンドに増えた。

率にして約13%。

爆発的な大儲けではない。

レバレッジを掛けていれば、500ポンド、1000ポンドの利益になっていたかもしれない。


だが、これでいい。

何より重要なのは、ロンドンの銀行家ベリエフに対して、「パーシバル・シャルトン少尉は、市場のパニックを見透かし、底値で買って高値で売り抜けた」という強烈な実績を作ったことだ。

この信用は、将来、もっと大きな勝負をする時に必ず役に立つ。


「ウィリアム、祝杯だ。士官食堂から上等なポートワインを一本くすねて……いや、買ってきてくれ」


「へいへい。勝利の美酒ですね」


「ああ。ただし、このことは誰にも言うなよ。士官が金儲けに現を抜かしていると知れれば、ガートン大尉に小言を言われるからな」


1807年の秋。

大陸ではナポレオンが絶頂を極めていたが、ここウィンチェスターの一室では、17歳の若き投資家が、孤独な勝利を噛み締めていた。

国家の孤立さえも、彼にとっては富への階段の一段に過ぎなかった。


(次は……イベリア半島だ。そこには、もっと泥臭くて、もっと大きなチャンスが転がっているはずだ)


パーシバルは、窓の外の暗い空を見上げた。




士官食堂オフィサーズ・メスの流儀(1807年冬)

1807年、12月。

ウィンチェスターに駐屯する王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレイン兵営バラックスは、凍てつくような寒風に晒されていた。泥土はカチカチに凍りつき、歩哨に立つ兵士の息は白く濁っている。

しかし、兵営の中央に位置する「士官食堂オフィサーズ・メス」の窓からは、暖かなオレンジ色の光と、笑い声、そしてグラスが触れ合う軽やかな音が漏れていた。


午後8時。

マホガニーの長テーブルには、銀の燭台キャンデラブラが並び、磨き上げられたクリスタルグラスが輝いている。

席につくのは、真紅の折り返しがついた濃紺の礼装メス・ドレスに身を包んだ、第3中隊の士官たちだ。


「諸君、グラスを満たしたまえ」


上座(プレジデント席)に座る中隊長、ガートン大尉が重々しく、しかしどこか楽しげに声を上げた。

彼は32歳。準男爵家の次男であり、裕福な実家からの仕送りで優雅な軍隊生活を送る、典型的な「ジェントルマン・オフィサー」だ。

丸みを帯びた顔には、育ちの良さと、幾分かのアルコールの赤みが差している。


全員が起立し、ポートワインのグラスを掲げた。


「ミスター・バイス(副席)、国王陛下へ!」


下座(バイス・プレジデント席)に座る最年少の少尉、パーシバル・シーモア・シャルトンがそれに応えて声を張り上げる。これは最下級士官の役目だ。


「ザ・キング! 神よ、陛下を守りたまえ!」


「「「ザ・キング!」」」


全員が唱和し、一斉にグラスを干す。

これが、英国陸軍士官食堂における神聖なる儀式、「国王への乾杯ロイヤル・トースト」である。この儀式が終わるまでは、席を立つことも、喫煙することも許されない。


「ふぅ……。今夜のポートは悪くないな。

1796年のヴィンテージか? 少しおりがあるが、まあ許容範囲だ」


ガートン大尉が満足げに椅子に座り直すと、空気が一気に緩んだ。

給仕の従僕たちが、素早く空いたグラスに次なるワインを注いで回る。


「同盟国」の喪失と出征の噂

「さて、聞いたかね諸君。リスボンの件だ」


ガートン大尉が、胡桃くるみを割りながら話題を振った。

フランス軍のジュノー将軍がポルトガルへ侵攻し、首都リスボンが陥落したというニュースは、ウィンチェスターの士官たちの間でも最大の関心事だった。


「ええ、聞きました。王室(ブラガンサ家)は海軍の手引きでブラジルへ逃亡したとか。……我が国にとって最古の同盟国が、ナポレオンの手に落ちるとは」


答えたのは、副隊長のミルトン中尉だ。ジェントリとしての名誉を重んじている実務担当で、厳格な表情を崩さない。


「ナポレオンめ、欧州の港をすべて塞ぐ気だ。リスボンが落ちれば、我が国の商船は補給港を失う。……これは、いよいよ我々の出番ではないですか?」


「その通りだ、ミルトン!」

ガートン大尉がテーブルを叩いた。

「政府も黙って指をくわえているわけにはいかん。

必ず遠征軍エクスペディションが送られる。

アンダルシアか、それともリスボン奪還か。……やっと、この退屈なウィンチェスターとおさらばできるぞ!」


大尉は戦場の危険など微塵も考えていない様子で、少年のように目を輝かせている。

彼にとって戦争とは、名誉と昇進の機会であり、キツネ狩りの延長線上にあるスポーツのようなものだった。


「ですが、大尉殿……」


不安そうな声を上げたのは、小隊長のフレッチャー中尉だ。

彼は貧乏ジェントリの出身で、王立輸送部隊の拡充によるお零れで運よく中尉に昇進できた人物だ。

その軍服の袖口は擦り切れており、常に金欠に悩まされていることで有名だった。


「遠征となれば、装備を新調せねばなりません。新しいテント、荷馬、それに予備の軍服……。

政府からの準備金バット・マネーは微々たるものです……」


「なんだフレッチャー、また金の話か? 貴様のところの親父さんは、まだ送金してこないのか?」


ガートン大尉が呆れたように笑う。

「いざとなれば、私の予備のテントを貸してやるさ。その代わり、戦地で美味いワインを見つけたら、一番に私の天幕へ届けろよ?」


「は、はい! ありがとうございます、大尉殿!」


フレッチャー中尉が安堵の表情を浮かべる。

この士官食堂メスは、階級社会の縮図だ。金のある者が無い者を(尊大な態度で)助け、名誉ある一体感を維持する。

それが「連隊の家族レジメンタル・ファミリー」という幻想を支えていた。


パーシバルは、黙ってそのやり取りを聞きながら、ローストビーフを口に運んだ。

(フレッチャー中尉の借金は、連隊代理人の給与前借りで首が回らなくなっていると聞く。……遠征は金がかかる。士官たるもの、乞食のような格好で行軍するわけにはいかないからな)


士官食堂には、暗黙のルールがある。

政治批判、宗教論争、そして「婦人の名」を出すことは厳禁(建前上)。

そして何より、「金がない」という愚痴を公然と言うのは、紳士として恥ずべきこととされていた。フレッチャー中尉の発言はギリギリだ。


「シャルトン少尉、貴様はどう思う? ポルトガルへ行く準備はできているか?」


突然、ガートン大尉に話を振られ、パーシバルはナプキンで口を拭った。


「はい、大尉殿。第3中隊の車両と馬匹の稼働率は90%を超えています。命令さえ下れば、明日にもポーツマスへ向かえます」


「優等生だな、相変わらず! だが、私が聞いているのは『心構え』だ。ポルトガルのワインは甘いが、道は険しいぞ?」


「悪路こそ、我ら輸送部隊ワゴン・トレインの本領発揮です。

それに、大尉殿のために最高級のヴィンテージ・ポートを運ぶ荷馬車も、1台確保しておきます」


ドッと笑いが起きた。

「はっはっは! こいつはいい! さすが『帳簿の魔術師』だ、抜け目がない!」


ガートン大尉は上機嫌でグラスを干した。

パーシバルは微笑みを崩さなかったが、内心では冷徹に計算していた。

(ポルトガル遠征。……間違いない、来春だ。それまでに「商売」の種銭を確保し、かつ士官としての体面を保つための資金繰りを確定させなければならない)




■赤字垂れ流しの「紳士生活」

夜10時。

「国王陛下に(ザ・キング)!」という二度目の乾杯で、ディナーはお開きとなった。

ほろ酔いの士官たちがカード遊びやビリヤードに興じる中、パーシバルは早々に自室へと引き上げた。


兵営の一角にある士官宿舎。

暖炉にはわずかな石炭しかくべられておらず、部屋は冷え切っている。

従僕バットマンのウィリアム・ホッジスが、主人の帰りを待ち構えていた。


「お帰りなさい、パーシバル様。今夜のご馳走はいかがでしたか?」


「……高くついたよ」


パーシバルは制服の上着を脱ぎ、ウィリアムに渡した。

「ガートン大尉のお気に入りのワイン、1本1ギニーはする代物だ。それを何本空けたか数えたくもない」


彼は書き物机の前に座り、鍵付きの引き出しから家計簿を取り出した。

士官食堂メスの費用は、基本的に「割り勘」だ。

日々の食費に加え、ワイン代(飲まなくても頭割りされることが多い)、軍楽隊への寄付金、新聞代、そして食堂の使用人へのチップ。

これらが毎月、「メス・ビル(食堂請求書)」として給与から天引きされる。


パーシバルはインク壺にペンを浸し、現状の収支を確認した。


【1807年12月度 個人収支概算】


【収入】

 少尉としての給与(日給5シリング3ペンス):月額 約8ポンド

 (ここから所得税10%が引かれる)


 手取り:約7ポンド4シリング


【支出(固定費)】

 メス・ビル(食費・ワイン代・雑費):月額 約5ポンド

 従僕給与(ウィリアムへの上乗せ分):月額 2ポンド

 馬匹維持費(規定外の飼料・蹄鉄代):月額 1ポンド10シリング

 被服メンテナンス(洗濯・補修):月額 10シリング

 雑費(石炭・ろうそく等):月額 10シリング


 合計支出:約9ポンド10シリング


【月次収支】

 収支:マイナス2ポンド6シリング


「……毎月、確実に赤字だ」


パーシバルは天井を仰いだ。

少尉の給料だけでは、息をしているだけで借金が増えていく。これが英国陸軍将校の現実だ。

ガートン大尉のような金持ちは気にも留めないし、フレッチャー中尉のように借金まみれになる者もいる。

多くの士官は、実家からの「仕送り(アローワンス)」でこの赤字を埋めているのだ。


「旦那様、ロンドンの銀行には、例の『公債取引』で儲けた金があるでしょう? あれを使えばいいのでは?」


ウィリアムが、ブーツを磨きながら口を挟んだ。

夏のコペンハーゲン特需で得た、453ポンド(元本400ポンド、利益53ポンド)。

それはバークレイズ銀行の口座に眠っている。


「馬鹿を言うな」

パーシバルは即座に否定した。

「あれは『種籾たねもみ』だ。

来たるべきポルトガル遠征で、大きく商売を仕掛けるための軍資金だ。

日々の飯代やワイン代で食い潰してどうする」


「じゃあ、どうするんです? フレッチゃー中尉みたいに、ユダヤ人の金貸しに頭を下げますか?」


「まさか。……父上に頼むさ。これは『正当な軍事費』だ」




■父への手紙と「準備金」

パーシバルは新しい羊皮紙を取り出し、ウィンチェスターの実家にいる父ヘンリーへの手紙を書き始めた。

泣き言を書くわけにはいかない。

エスクワイアの息子として、そして将来の資産家として、論理的に「増資」を求める必要がある。



拝啓 父上


ウィンチェスターの冬は厳しく、兵営の石炭も不足気味ですが、私は壮健に務めを果たしております。


さて、本日は折り入ってご相談があります。

リスボン陥落の報はご存知のことと思いますが、これにより、我が部隊のポルトガル派遣は時間の問題となりました。

遠征にあたり、士官としての責務を全うするためには、万全の準備が必要です。


具体的には、現地での野営装備の更新、追加の荷馬の確保、そして部下たち(ウィリアムを含む)の衛生環境を維持するための資金です。

現在の少尉給与は、平時の駐屯費を賄うのがやっとであり、戦時遠征の初期投資には到底足りません。


つきましては、大変心苦しいお願いではありますが、年間50ポンドの追加支援アローワンスと、遠征準備金として100ポンドの一時金を送金いただけないでしょうか。


これは浪費のためではありません。

シャルトン家の名誉を泥で汚さぬため、そして何より、無事に生きて帰還するための「投資」とお考えください。


追伸:

先日手配したホーム・ファームからの燕麦ですが、軍の検査官から「最高品質である」との評価を受けました。次回の発注も確実ですので、ご安心ください。


敬具

王立輸送部隊少尉 パーシバル・S・シャルトン



書き終えた手紙を読み返し、パーシバルは頷いた。

追伸で「実家の農場への利益供与」をさりげなくアピールすることで、父も断りづらくなるはずだ。

(父上なら、50ポンドの追加支援は即決してくれるだろう。100ポンドの一時金も、可愛い息子の命には代えられないはずだ)


「ウィリアム、明日これを実家に届けてくれ。

……それと、お前の親父さんにも伝えておけ。

『来春には大きな動きがあるから、馬の仕入れを増やしておけ』とな」


「へいへい。……結局、戦争も金次第ですね」


「ああ。金がなければ、名誉も守れないし、命も守れない。それがジェントルマンの流儀さ」


パーシバルはランプの芯を小さくした。

壁に掛けられた軍服の金ボタンが、薄暗い部屋で鈍く光っている。

外からは、見回りの歩哨の足音が聞こえてくる。


ロンドンの銀行にある453ポンド。

父に頼んだ150ポンド。

そして、ウィリアムの実家との連携。


(合計約600ポンド。……これだけあれば、リスボンの市場で勝負できる)


パーシバルは冷たいベッドに潜り込み、遠い南国の空を思い描いた。

士官食堂での優雅なワインも悪くないが、彼が本当に味わいたいのは、戦場の混乱の中で掴み取る、むせ返るような利益の味だった。




■ポーツマスへの行軍と語学研修(1808年初頭)

1808年、春。

ハンプシャー州のなだらかな丘陵地帯を貫く街道は、冬の雪解け水を含んだ泥と、無数の車輪が刻んだわだちによって、茶色い沼のように変貌していた。


その悪路を、長さ数百メートルにも及ぶ巨大な「蛇」が、軋みと轟音を立てながら南下していた。

王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレイン第3中隊である。


車間距離インターバルを詰めすぎるな! 下り坂だぞ! 前の荷馬車ワゴンが泥に取られたら、後ろが突っ込むことになる!」


馬上で声を張り上げたのは、第2小隊長を務めるパーシバル・シーモア・シャルトン少尉だ。

18歳になった彼は、泥跳ねを防ぐための革製のゲートルを巻き、使い込まれた愛馬の手綱を巧みに操りながら、隊列の側面を行き来していた。


今回の任務は、ウィンチェスターの駐屯地から、軍港ポーツマスへの物資輸送である。

表向きは通常の補給任務だが、その規模は尋常ではなかった。

弾薬、塩漬け肉の樽、テント、そして大量の軍靴。

これらが意味するものは一つしかない。

遠征エクスペディションだ。

イギリス陸軍は、大陸への大規模な派兵に向けて、その兵站ロジスティクスをポーツマスに集中させているのだ。


「少尉殿! 後尾の第4ワゴン、車軸が過熱ヒート気味です! 御者がグリスを塗り忘れたようです!」


報告に走ってきたのは、小隊付き下士官のサイモン軍曹だ。

40代半ばの彼は、アメリカ独立戦争時代からの古参兵で、顔に刻まれた深い皺と、海賊のような髭が特徴的な叩き上げだ。


「馬鹿者め。昨夜の点検で何を見ていたんだ。……よし、隊列は止めない。第4ワゴンを路肩に寄せさせろ。予備の車輪とグリスで応急処置だ。サイモン軍曹、貴官が指揮して5分で直せ。遅れた分は次の休憩までに取り戻させる」


「ハッ! 直ちに!」


サイモン軍曹が敬礼して駆けていく。

パーシバルは隊列全体を見渡した。

1個中隊の編成は、荷馬車約40台、馬100頭以上、そして将校・下士官・御者を含めて総勢120名に及ぶ。

これだけの人数と車両が一本の細い街道を動くのだ。少しの判断ミスが、数時間の渋滞と、物資の破損に直結する。


(輸送とは、生き物だ。常にどこかが詰まり、どこかが壊れる。それをなだめすかして、目的地まで運ぶのが僕の仕事だ)


パーシバルは、御者たちに檄を飛ばしながら、同時に計算していた。

この行軍速度なら、ポーツマス到着は明後日の昼。

船積みまでの待機時間に、現地の相場を確認できる時間は十分にありそうだ。




■昼の野営と「特別講義」

正午。

街道沿いの開けた草地で、中隊は小休止ホールトに入った。

馬から降りた御者たちは、すぐに馬具を緩め、飼い葉袋を馬の首にかけてやる。人間がパンをかじるのは、馬の世話が終わってからだ。


パーシバルは、自分の小隊の休憩地点に天幕を張らせた。

そこには、従僕バットマン兼パートナーのウィリアム・ホッジスと、新入りの従卒スローターが待機していた。


「お疲れ様です、少尉殿。ブーツが泥だらけですね」


スローターが、濡れた布を持って駆け寄ってくる。

彼はロンドンの貧民街イーストエンド出身の元浮浪児で、軍属として採用されたばかりの若者だ。

痩せっぽちだが目つきが鋭く、金のためなら何でもやる貪欲さを持っていた。

パーシバルは彼に、通常の軍給与とは別に、毎月1ポンド(20シリング)という「心付け」を渡していた。

そのため、スローターはパーシバルの従卒であることに大満足していた。


「ありがとう、スローター。……ウィリアム、例の物は?」


「用意してありますよ。また『あれ』をやるんですか?」


ウィリアムが嫌そうな顔で、荷物から一冊の分厚い本を取り出した。

ロンドンの古本屋から取り寄せた、『英・ポルトガル辞典』だ。


「当然だ。ポーツマスに着くまでに、基礎単語50個は暗記してもらう」


パーシバルは、草の上に腰を下ろし、黒パンとチーズをかじりながら本を開いた。

これこそが、彼が計画している「最強の武器」の準備だった。


「いいか、二人ともよく聞け。次の戦場はイベリア半島だ。ポルトガルだ」


パーシバルは、真剣な眼差しで二人を見据えた。

「戦場において、一番強い兵士とは誰だと思う? マスケット銃の射撃が上手い奴か? サーベルで敵を叩き斬れる奴か? 違う」


彼は辞書をパンと叩いた。


「現地の言葉で、『買います(コンプロ)』、『売ります(ヴェンド)』、そして『まけてくれ(デ・オ・デスコント)』が言える奴だ」


ウィリアムは呆れたように肩をすくめたが、スローターはキョトンとしている。

「へえ……。言葉が金になるんですか? 旦那様」


「なるさ、スローター。想像してみろ。我々がリスボンに上陸したとする。

軍の補給係は言葉が通じないから、現地の商人から法外な値段で水や食料を買わされる。

あるいは、何が売っているかすら分からない」


パーシバルは続けた。

「だが、もし我々がポルトガル語を話せたら?

路地裏の農民から、軍が必要としているラバや馬を、戦場相場の半値で買い叩けるかもしれない。

逆に、我々が持っている余剰物資を、高く売りつけることもできる」


情報の非対称性。

それが利益の源泉だ。言葉の壁は、最大の参入障壁であり、それを越えた者だけが「独占市場」を手にできる。


「……なるほど。さすがは旦那様だ。目の付け所が違う」

スローターがニヤリと笑った。彼は無学だが、損得勘定には敏感だ。


「ウィリアム、君は商人の息子だ。重要性は分かるな?」


「ええ、分かりますよ。分かりますけど……この『鼻母音びぼいん』ってのが、どうにも苦手でね」


ウィリアムが辞書を覗き込み、顔をしかめた。

「『パン(Pão)』が『パォン』? 動物の鳴き声みたいだ」


「文句を言うな。さあ、復唱しろ。まずは数字だ」


「「ウン(1)、ドイス(2)、トレス(3)……」」


春の日差しが降り注ぐ街道の片隅で、奇妙な授業が始まった。

泥だらけの少尉と、二人の従僕が、異国の言葉を連呼している。

通りかかったサイモン軍曹が、怪訝な顔で彼らを見た。


「少尉殿、何を呪文のようなことを?」


「軍曹。これは『現地住民との円滑な協力関係を築くための文化的訓練』だ」

パーシバルは澄ました顔で答えた。


「はあ……。まあ、少尉殿のことですから、また何か企んでおられるんでしょうが」

軍曹は苦笑して敬礼し、馬の見回りに戻っていった。

彼はパーシバルの指揮能力を高く評価しており、少々の奇行には目を瞑るようになっていた。




■「戦争」という名の巨大市場へ

夕方、中隊は再び行軍を開始した。

街道の先には、ポーツマスの空が見えてくる。そこには、無数のカモメが舞い、潮の香りが漂っていた。


「……見ろ。あれが英国の力だ」


丘の上に立ったパーシバルが指差した先。

夕日に染まるポーツマス港の沖合には、森のように林立するマストが見えた。

戦列艦、フリゲート艦、そして無数の輸送船。

ナポレオンの大陸封鎖を打ち破るために集結した、世界最強の海軍と、それに守られた大船団だ。


「すげえ……。あんな数の船、見たことねえ」

スローターが口を開けて見入っている。


「あの船の腹には、何万トンという物資が詰め込まれている。そして、その一部を我々が管理し、動かすんだ」


パーシバルは、腰のサーベルに手を置いた。

彼の胸ポケットには、ロンドンの銀行の小切手帳と、先ほどのポルトガル語辞書が入っている。


「ウィリアム、スローター。準備はいいか? ポルトガルに着いたら、忙しくなるぞ。

馬を仕入れ、転売し、現地の商人と交渉する。

……戦闘なんて野蛮なことは歩兵に任せておけばいい。

我々は、この戦争という巨大な市場で、誰よりも賢く立ち回るんだ」


「へいへい。旦那様の『心付け』が増えるなら、地獄の底までついていきますよ」

スローターが愛想よく笑う。


「俺は、またあの腐った船旅をするのかと思うと気が重いがね」

ウィリアムは肩をすくめたが、その目はポーツマスの街——酒場と商売の匂いがする街——を見据えて輝いていた。


「全車、前進! ポーツマスへ!」


パーシバルの号令と共に、40台の荷馬車が再び動き出した。

車輪の軋みは、彼らにとっては金貨が落ちる音のようにも聞こえた。


1808年、春。

王立輸送部隊第3中隊、第2小隊長パーシバル・シャルトン少尉。

彼の「半島戦争ペンインシュラ・ウォー」は、まだ一発の銃弾も撃っていないこの街道の上で、着々と勝利への布石を打ち始めていた。

敵はナポレオン軍ではない。

無知と、非効率と、そして逸失利益だ。

彼はそのすべてをねじ伏せ、富と名誉を勝ち取るために、泥の道を堂々と進んでいった。




■見えざる敵との戦い(1808年夏)

1808年、8月初旬。

ポルトガル中部、モンデゴ湾沖。


大西洋のうねりに揺られる一隻の輸送船、その船倉ホールドは、この世の地獄を煮詰めたような悪臭に満ちていた。

300名の兵士と、40頭の馬が、換気の悪い狭い空間に押し込められているのだ。

馬糞、人間の排泄物、腐った海水ビルジ、そして汗と吐瀉物の臭い。そ

れらが夏の熱気で発酵し、鼻を覆いたくなるような瘴気ミアズマとなって漂っている。


「……酷いな。これでは、フランス軍と戦う前に全滅だ」


第3中隊第2小隊長、パーシバル・シーモア・シャルトン少尉は、甲板へのタラップを上がりながら、ハンカチで鼻と口を強く押さえた。

英国からポルトガルまでの数週間の航海。

それは、ナポレオン戦争における兵士の死因の第一位が「戦闘」ではなく「病気」であることを、嫌というほど思い知らせる時間だった。


甲板に出ると、強烈なポルトガルの太陽が容赦なく照りつけていた。

眼前には、白い砂浜と荒々しい波打ち際、そして乾燥した茶色の丘陵が広がっている。

ついに、アーサー・ウェルズリー将軍(後のウェリントン公爵)率いる英国遠征軍、約1万5000名の上陸が開始されたのだ。


「全軍、上陸用意! 荷馬車ワゴンを吊り上げろ! 馬は泳がせるんだ!」


甲板士官の怒号が飛び交う中、パーシバルは自分の部下たち、そして何より重要な「物資」の確認に奔走していた。



「おい、シャルトン少尉! 貴様、また妙なものを積み込んでいたな?」


声をかけてきたのは、中隊長のガートン大尉だ。

彼は暑苦しい正装の上着を脱ぎ捨て、シャツの胸元を大きく開けて汗を拭っていた。その顔は航海の疲れと船酔いで少し青白い。


「妙なものとは心外です、大尉殿。すべて軍務に不可欠な補給物資です」


パーシバルは、甲板の片隅に積み上げられた樽を指差した。

そこには、通常の弾薬や糧食とは異なるラベルが貼られている。


『酢(Vinegar)』、『石鹸(Soap)』、そして『木炭(Charcoal)』。


ガートン大尉は呆れたように樽を蹴飛ばした。

「酢に石鹸だと? 我々はこれからフランス軍と殺し合いをしに行くんだぞ。貴様、ここで洗濯屋ランドリーでも開業するつもりか? それとも、フランス兵にサラダでも振る舞う気か?」


周囲の士官たちがドッと笑う。

当時の軍隊において、衛生観念は極めて低かった。風呂になど数ヶ月入らないのが当たり前であり、シラミは友人のようなものだ。


しかし、パーシバルは真顔で答えた。


「大尉殿。笑い事ではありません。この狭い船内と、これからの猛暑の行軍。最も恐ろしい敵は、フランス騎兵のサーベルではありません」


彼は、船倉の方を指差した。そこからは、苦しげな咳き込みと、うめき声が聞こえてくる。


赤痢ブラッディ・フラックスとチフスです」


その単語が出た瞬間、士官たちの笑いが凍りついた。

それは、兵士たちが最も恐れる死神の名前だ。激しい下痢と脱水症状、あるいは高熱と発疹。一度蔓延すれば、連隊一つが戦わずして消滅する。


「不潔な水、腐った食料、そして汚れた身体。これらが病を招きます。

私が持ち込んだ大量の酢は、船倉の消毒と、飲み水に混ぜて腐敗を防ぐためです。

石鹸は、兵士に手と食器を洗わせるためです」


パーシバルは、大尉の目を真っ直ぐに見据えて言った。


「大尉殿。名誉ある戦死ならいざ知らず、自らの排泄物にまみれて、下痢で脱水死するのは御免です。

私は、私の小隊から一人の病死者も出したくありません」


ガートン大尉は、しばらくパーシバルを睨んでいたが、やがて大きなため息をついた。


「……まったく、貴様という奴は。口を開けば帳簿か衛生の話ばかりだ。

だが、一理ある。あの船倉の臭いは確かに毒だ」


大尉は、ハンカチで額の汗を拭った。

「許可する。好きにしろ。ただし、その酢とやらで私のワインの味まで酸っぱくするなよ」


「感謝いたします」




■モンデゴ湾の灼熱と混乱

上陸作戦は、困難を極めた。

モンデゴ湾の波は荒く、ボートが転覆して溺れる兵士も出た。

特に大変なのが、王立輸送部隊の命である「馬」の上陸だ。


「馬を海へ落とせ! 泳がせて岸へ向かわせろ!」


クレーンで吊り上げられた馬が、恐怖にいななきながら海面へ落とされる。

海水に驚いた馬たちがパニックになり、沖へ向かって泳ぎ出そうとするのを、小舟に乗った兵士たちが必死に岸へ誘導する。


「ウィリアム! スローター! 俺の馬と荷馬を見失うなよ!」


パーシバルもまた、腰まで海水に浸かりながら、浜辺で指揮を執った。

英国の冷涼な気候とは違う、じりじりと肌を焦がすような南国の太陽。

砂浜は灼熱地獄となり、分厚いウールの軍服を着た兵士たちの体力を容赦なく奪っていく。


「ひぃ……こりゃたまらねえ。ロンドンの路地裏の方がまだマシだ」


従卒のスローターが、海水を被った馬の手綱を引きながら悪態をつく。

ウィリアムもまた、荷揚げされた木箱を運びながら肩で息をしていた。


「旦那様、水筒の水がもう空です。あそこの川の水を飲んでもいいですか?」


ウィリアムが指差したのは、浜辺の近くに流れ込む小さな川だった。

他の連隊の兵士たちは、渇きに耐えきれず、我先にとその川へ殺到し、泥水のような水を兜ですくって飲んでいる。


「待て! 絶対に飲むな!」


パーシバルの鋭い声が響いた。

「あの川の上流を見てみろ。村がある。生活排水も、家畜の糞尿も、すべてあそこへ流れているんだ。

あんなものを生で飲めば、明日の朝には腹を下して動けなくなるぞ」


「で、でもよぉ……喉が焼けるように渇いてるんです」

スローターが恨めしそうに言う。


「我慢しろ。小隊全員に通達! 許可があるまで、生水は一滴たりとも飲むな! 違反者は給料ペイ没収の上、鞭打ちだ!」




■魔法の樽:簡易濾過装置

その日の夕方。

海岸から少し離れた高台に、第3中隊の野営地が設営された。

兵士たちは疲労困憊して座り込んでいたが、パーシバルの第2小隊だけは、奇妙な作業に従事させられていた。


「いいか、底に穴を開けた樽を用意しろ。一番下に砂利、その上に砂、そして一番上にこれを敷き詰める」


パーシバルが袋から取り出したのは、ロンドンから運んできた黒い塊——木炭だった。

彼は現代知識(前世の記憶)を総動員して、即席の「濾過ろか装置」を作らせていたのだ。


「木炭? 焚き火でもするんですかい?」

古参のサイモン軍曹が怪訝な顔をする。


「違う、軍曹。木炭には、水の中の毒素や臭いを吸着する力がある。……見ていろ」


パーシバルは、従卒たちが汲んできた濁った川水を、樽の上から静かに注ぎ込んだ。

水は、木炭の層、砂の層、砂利の層をゆっくりと通過し、底の穴からポタポタと滴り落ちる。

下に置いたバケツに溜まった水は、泥の濁りが消え、驚くほど澄んでいた。


「すげえ……! 魔法か?」

兵士たちがどよめく。


「まだだ。これを大鍋で一度煮沸ボイルする。沸騰したら、少しだけ酢を垂らせ。それで完成だ」


手間のかかる作業だった。

薪を集め、火を焚き、水を冷ます。

他の小隊の兵士たちが、生水をガブ飲みして既に眠りについている中、第2小隊の兵士たちは不満げな顔で作業を続けていた。


だが、その効果は翌日からすぐに現れた。



■「疫病」という名の敗北者たち

上陸から3日後。

遠征軍の野営地全体に、異様な臭気が漂い始めていた。

あちこちのテントから、苦悶のうめき声と、トイレに駆け込む兵士たちの姿が見られるようになったのだ。


赤痢ディセンタリー

兵士たちが「血の腹下し」と呼ぶその病は、猛烈な勢いで広がっていた。

不潔な生水を飲み、炎天下で腐りかけた肉を食べ、手も洗わずに食事をした報いだ。


「うぅ……腹が、腹が痛ぇ……」


隣の第1小隊のテントでは、屈強な御者が青い顔をしてのた打ち回っている。

軍医が走り回っているが、彼らにできることといえば、アヘンチンキを飲ませるか、瀉血しゃけつをするくらいだ。根本的な治療法はない。


一方、パーシバルの第2小隊は、驚くべきことに一人も脱落者を出していなかった。


「……おい、見たか? 第1小隊の連中、半分が使い物にならなくなってるぞ」


焚き火を囲んで、スローターが小声で話している。

手には、煮沸して酢を垂らした水が入ったマグカップが握られている。最初は「酸っぺえ水なんて飲めるか」と文句を言っていたが、今ではそれが命の水だと理解していた。


「少尉殿の言った通りだ。あの川の水は毒だったんだ」


サイモン軍曹も、感心したように頷いた。

「俺は20年軍隊にいるが、こんなにうるさく手洗いをさせる士官は初めてだ。だが、おかげで俺たちはまだピンピンしてる。……少尉殿は、ただの若造じゃねえ。生き残るすべを知ってる」


テントの中で、パーシバルは帳簿をつけていた。

帳簿には、金銭の収支だけでなく、部下たちの健康状態も記録されている。


【1808年8月5日 第2小隊状況報告】

総員:42名

稼働可能:42名

病者:0名

備考:濾過水の供給は順調。石鹸の在庫、あと2週間分。


(勝った)


パーシバルはペンを置いた。

隣のテントからは、うめき声が聞こえる。第1小隊はすでに輸送能力の3割を失っている。

だが、僕の小隊は無傷だ。

これが、知識の差だ。

19世紀の医学では「瘴気(悪い空気)」が病気の原因だと信じられているが、パーシバルは「細菌」の存在を知っている。

煮沸と濾過、そして手洗い。

たったこれだけのことで、死亡率を劇的に下げられるのだ。


「……失礼、シャルトン少尉」


テントの幕が上がり、顔色の悪いガートン大尉が入ってきた。

彼も少し腹の調子が悪いのか、脂汗を浮かべている。


「大尉殿、いかがなされました?」


「……あー、その。貴様のところの水だ。その、あの『魔法の樽』で作った水。……少し分けてもらえんか? 私の従卒が汲んできた水は、どうも泥臭くてかなわん」


大尉はバツが悪そうに言った。

初日に「洗濯屋」と馬鹿にした部下に、水を乞いに来たのだ。


パーシバルは微笑み、予備の水筒を差し出した。

中には、煮沸され、少しの酢と、そしてレモンの皮(これも彼が調達した)で風味付けされた清潔な水が入っている。


「どうぞ、大尉殿。まだ在庫は十分にあります。……私の『洗濯屋』としての仕事も、役に立ったようですね」


ガートン大尉は水筒を受け取り、一気に煽った。

「……美味い。悔しいが、貴様の勝ちだ、シャルトン」


大尉は水筒を返しながら、真剣な顔で言った。

「明日から、中隊全体の水の管理を貴様に任せる。全小隊にあの樽を作らせろ。……これ以上、便所で兵士を失いたくない」


「お任せください」



■1808年、夏。

半島戦争の最初の戦いは、フランス軍との激突ではなく、モンデゴ湾の灼熱の砂浜で行われた。

そして、パーシバル・シャルトン少尉は、その「見えざる敵」との戦いに完勝した。


彼の部隊は、最も健康で、最も士気が高く、そして最も稼働率の高い輸送部隊として、ウェルズリー将軍の進軍を支えることになる。

健康な兵士と馬。

それは、これからの「商売」においても、最大の資本となるはずだった。


「さあ、ウィリアム。皆が腹痛で寝込んでいる間に、僕たちは次の準備だ」


パーシバルは、テントの外の闇を見つめた。

遠くで、ジャッカルの鳴き声が聞こえる。

ここからリスボンへ向けての進軍が始まる。

街道には、飢えた兵士と、物資を求める商人が溢れかえるだろう。


「生き残った者だけが、利益を手にできる」


彼は清潔な水を一口飲み、静かに地図を広げた。

そこには、フランス軍の配置図と共に、現地の市場や馬の産地が、彼独自の手法で書き込まれていた。




■戦場の馬喰ばくろう(1808年秋)

1808年、9月下旬。

ヴィメイロの戦いでの勝利と、それに続くシントラ協定により、フランス軍はポルトガルから撤退した。

リスボンの港にはユニオンジャックが翻り、テージョ川の河口はイギリス海軍の艦船と、物資を満載した輸送船で埋め尽くされている。


しかし、解放されたリスボンの熱狂とは裏腹に、前線の状況は逼迫していた。

敗走するフランス軍を追撃するため、あるいはスペイン国境へ進出するため、イギリス軍は内陸へと進軍を続けている。

だが、その補給線は伸びきり、悪路と悪天候が輸送を阻んでいた。


そんな中、リスボン近郊のベレン地区に設けられた王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレインの集積所。

第3中隊第2小隊長のパーシバル・シーモア・シャルトン少尉は、従僕のウィリアム・ホッジスと、従卒のスローターを伴い、現地の家畜市場を視察していた。


「……酷い有様ですね、旦那様。どいつもこいつも、足元を見てやがる」


ウィリアムが吐き捨てるように言った。

市場には、イギリス軍の購買官たちが溢れ、現地の商人たちがふっかけた法外な値段で、痩せこけたラバやロバを買い漁っている。言葉が通じないため、言い値で買うしかないのだ。


「焦るな、ウィリアム。我々には『言葉』という武器がある」


パーシバルは、市場の裏手、農民たちがたむろする一角へと足を向けた。

そこには、正規の市場に出す前の、泥だらけの馬やラバが繋がれていた。


「おい、スローター。出番だ」


「へいへい。任せてくだせえ」


従卒のスローターが、農民たちの輪に入っていく。

彼はロンドンの下町育ちだが、この数ヶ月の特訓で、驚くほど流暢な(ただし下品な)ポルトガル語を習得していた。


「オーラ! (よう!) 頑丈そうなラバじゃねえか。

……でも、右の後ろ足が少し腫れてるな? これじゃあ軍の基準は通らねえぞ」


スローターが農民の肩を叩き、親しげに、しかし鋭く交渉を始める。

農民は最初は警戒していたが、自国の言葉で、しかもあけすけに話すこの奇妙なイギリス兵に気を許し始めた。


「……で、いくらだ? 英国軍イングレーゼ金貨ギニーで払うぜ?」


「30……いや、25ギニーだ」


「高いな。20ギニーなら、俺の旦那が今すぐキャッシュで払う」


交渉成立。

市場の表通りでは40ギニー以上するラバが、裏では半値で手に入った。

これが、情報の非対称性を利用した裁定取引アービトラージの第一歩だった。




■需要と供給の「死の谷」

パーシバルが目をつけたビジネスモデルは単純かつ強固だった。


【供給地:リスボン港周辺】

ここには、イギリス本国から輸送船で到着したばかりの軍馬や、現地で買い付けたラバが溢れている。しかし、到着直後の馬は船酔いや環境の変化で体調を崩しており、一時的に評価額が下がっていることが多い。

また、スローターのような現地語を話せる仲介者がいなければ、安く仕入れることは不可能だ。


【需要地:内陸の前線】

一方、ここから数十マイル内陸に入った前線の野営地では、状況は一変する。

行軍の過酷さで馬を潰したり、戦闘で愛馬を失ったりした士官たちが、喉から手が出るほど代わりの馬を求めているのだ。

彼らにとって、馬は単なる移動手段ではない。

士官としての「足」であり、ステータスであり、何より命綱である。

歩兵と一緒に泥道を歩くなど、ジェントルマンのプライドが許さない。


「仕入れ値は平均で30ギニー。輸送コストは、我々の任務(公務)のついでに運ぶから実質ゼロ。

……そして、前線での売値は?」


パーシバルは、手帳の計算式を見ながらニヤリと笑った。




■士官の商法、従卒の顔

数日後。

第3中隊は、弾薬と糧食を積んだ40台の荷馬車を率いて、内陸の守備隊駐屯地へ到着した。

物資の荷下ろしが始まると同時に、パーシバルは「副業」の準備に取り掛かった。


「スローター。あの木陰に、仕入れたアンダルシア馬とラバを繋いでおけ。……毛並みは整えたな?」


「へい。ピカピカに磨いておきましたよ。水もしっかり飲ませてあります」


パーシバル自身は、決して「馬売り」のような真似はしない。

士官が商売をするなど、外聞が悪すぎるからだ。

彼はあくまで「輸送任務を終えた優雅な少尉」として、木陰で紅茶を飲んでいるだけだ。


そこへ、一人の騎兵大尉が通りかかった。

彼の軍服は立派だが、乗っている馬は明らかに疲弊し、脚を引きずっている。


「……くそっ、また蹄鉄が割れたか。この国の岩道はどうなっているんだ」


大尉が悪態をついていると、スローターがすり寄っていった。


「おやおや、旦那様。お困りのようですねえ」


「なんだ貴様は? 輸送部隊の従卒か?」


「へい。実はですね、うちの主人が『予備の馬』を数頭連れてきているんですが……

どうも数が多すぎて持て余しておりましてね。

もしよろしければ、お譲りしてもいいと言ってるんですが」


スローターが顎でしゃくった先には、毛並みの良い、頑健そうな馬が繋がれている。

騎兵大尉の目が釘付けになった。


「……ほう。悪くない馬だ。スペイン産か? 足腰もしっかりしている」


ここでパーシバルが、あくまで偶然を装って声をかけた。


「おや、どうかされましたか? 私の馬に何か?」


「ああ、失礼。第14軽騎兵連隊の者だ。

……貴官の従卒から聞いたのだが、この馬を手放してもいいというのは本当かね?」


「ええ。輸送の予備として連れてきたのですが、この通り荷馬車隊は順調でしてね。

連れて帰るのも手間ですし、もし必要とされる方がいれば、お譲りしても構いませんよ」


パーシバルは、商売気など微塵も見せない涼しい顔で言った。

「ただし、私もそれなりの値で仕入れた馬ですので……」


「いくらだ? 50ギニーか?」


パーシバルは困ったように微笑み、首を横に振った。


「大尉殿。この馬はアンダルシアの血が入っています。

リスボンでもこれだけのタマはそうそう出ませんよ。……80ギニーなら、お譲りしましょう」


「80だと!? 暴利だ!」


「そうですか。では、残念ですが連れて帰ります……」


パーシバルが手綱を引こうとすると、騎兵大尉は慌てて止めた。


「ま、待て! ……分かった。80ギニーだ。

手持ちの現金がないから、ロンドンのコックス&グリーンウッド(軍事代理人)宛の手形でいいか?」


「もちろんです。士官同士の助け合いですから」




■共犯者たちの宴

取引成立。

スローターが馬を引き渡し、パーシバルは80ギニーの手形を受け取った。

仕入れ値は30ギニー。

粗利益は50ギニー。

日本円にして数十万円の利益が、たった数分の立ち話で確定した瞬間だ。


「……うめえ商売だ。笑いが止まりませんね」


物陰で、スローターが金貨を受け取りながら顔を歪めた。

パーシバルは約束通り、売却益の中から5ギニーを彼に渡した。

当時の兵士の給料が1日1シリング(1ギニーの21分の1)であることを考えれば、これは破格の報酬だ。


「口を滑らすなよ、スローター。これはあくまで『不要品の譲渡』だ」


「分かってますよ。俺の口は、リスボンの港より堅いですよ」


その夜、野営地の天幕で、中隊長のガートン大尉がパーシバルを訪ねてきた。


「シャルトン。貴様、また何か上手いことをやったそうだな?」


大尉はニヤニヤしながら、パーシバルのテーブルに置かれたワインボトル(これも転売用だ)を勝手に開けた。


「人聞きの悪い。困っている友軍を助けただけですよ」


「フン。……まあいい。実はな、私の荷馬バットホースが昨日の行軍で1頭潰れてな。

私の私物——ワインを運ぶ馬がいなくて困っているんだ」


大尉の要求は明白だった。

「分け前をよこせ」とは言わない。「俺にも便宜を図れ」ということだ。

パーシバルは即座に理解し、ウィリアムに目配せした。


「それは大変だ。

……実は大尉殿、リスボンで非常に丈夫なラバを仕入れてありましてね。

もしよろしければ、大尉殿の荷物運搬用に2頭のラバを無償でお貸ししますよ。

……遠征が終わるまで、ずっと」


「ほう! それは助かる。貴様は本当に気が利くな!」


ガートン大尉は上機嫌でワインを煽った。

中隊長の黙認さえあれば、このビジネスは「部隊公認」となる。

ラバ2頭のコストなど、大尉の庇護カバーに比べれば安いものだ。



■1808年の決算

1809年、1月。

冬の雨が降りしきるリスボンの士官宿舎。

イギリス軍は、ムーア将軍の「コルーニャへの撤退」という悲劇的な作戦の最中にあったが、リスボンに残った輸送部隊は比較的安全な冬営に入っていた。


パーシバルは、暖炉の前で帳簿を開き、激動の1808年の決算を行っていた。


【1808年度 戦時特別収支報告書】


【馬匹取引部門】

 販売頭数:12頭

 平均仕入単価:32ギニー

 平均販売単価:85ギニー

 売上総額:1020ギニー

 仕入原価:384ギニー

 経費(スローターへの手数料、飼料代等):90ギニー


 純利益:546ギニー(約573ポンド)


【その他・物資転売部門】

 茶、タバコ、石鹸等の転売利益:約80ポンド


【合計利益】

 653ポンド


「……悪くない」


パーシバルはペンを置き、天井を見上げた。

653ポンド。

これは、彼が少尉として軍から受け取る正規の給与(年約95ポンド)の、およそ7年分に相当する。

父からの仕送りなど、もはや端金はしたがねに見える額だ。


「旦那様、コーヒーが入りましたよ」


ウィリアムが、湯気の立つカップを持ってきた。

「どうです? 今年の稼ぎは」


「上出来だ。ロンドンの公債取引と合わせれば、僕の資産は1000ポンドを超えた」


1000ポンド。

これは「資産家」への入り口だ。

3%の利子で運用すれば、年30ポンドの不労所得が生まれる。

だが、パーシバルの野心はそんなところでは止まらない。


「ウィリアム。来年はもっと忙しくなるぞ」


「へえ。ナポレオンが逃げ帰った後もですか?」


「逆だ。ウェルズリー将軍ウェリントンが戻ってくる。

彼は守るだけでなく、攻める将軍だ。軍が動けば動くほど、馬は死に、物資は消え、そして価格差スプレッドが生まれる」


パーシバルは、窓の外の雨に濡れたリスボンの街を見下ろした。

港には、今日もイギリスからの輸送船が入港している。

そこには、次の「商品」が満載されているはずだ。


「我々はまだ、この戦争という巨大な金脈の、表面を削ったに過ぎない」


1809年。

半島戦争は泥沼化し、数年間にわたる消耗戦へと突入する。

それは兵士にとっては地獄だが、軍需物資を支配するパーシバルにとっては、終わりのない収穫の季節ハーベスト・タイムの始まりだった。


「スローターを呼べ。明日の朝一で、港の入荷リストをチェックしに行くぞ」


「へいへい。……旦那様、本当に『戦場の馬喰ばくろう』がお似合いですよ」


ウィリアムは呆れたように笑ったが、その目には主人への確かな信頼と、共犯者としての熱が宿っていた。



(第4章完)


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― 新着の感想 ―
非常に面白くて先の展開が気になります。 もっと続きが読みたくなりました。
AI文書をそのまま流し込んだようなテンプレ展開で残念です。
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