第3章(1806年~1807年):ロンドンと王立輸送部隊の少尉に任官
■巨星墜つ、霧のロンドンへ(1806年初頭)
1806年、1月下旬。
ハンプシャーのなだらかな緑の丘陵を越え、サリー州の泥深い街道を抜け、郵便馬車に揺られること数時間。
御者の「ロンドンだ! 世界の首都だぞ!」というしわがれた叫び声と共に、パーシバル・シーモア・シャルトンの鼻腔を突いたのは、強烈な刺激臭だった。
それは、ウィンチェスターの牧草や土の匂いとは異質の、人工的で、どこか不吉な臭気だった。
無数の煙突から吐き出される石炭の煤煙。
ぬかるんだ石畳に堆積し、発酵した大量の馬糞。
そして、冬の寒風に乗って漂ってくる、巨大なドブ川と化したテムズ川の腐臭。
それらが混然一体となり、黄色がかった濃霧となって、この巨大都市を覆い尽くしていた。
「……酷い匂いだ。まるで街全体が燻製にされているようだな」
馬車の窓から顔を出した父ヘンリー・エドワード・シャルトンが、ハンカチで鼻を覆いながら顔をしかめた。
43歳になった父は、地元では尊敬を集めるエスクワイア(郷紳)だが、この怪物のような大都市の前では、ただの田舎紳士に見えた。
「これが『富』の匂いです、父上。石炭を燃やし、馬を走らせ、人が密集する。
そのすべてが金を産み出している証拠です」
対面に座るパーシバルは、16歳(数え年)の青年らしく背が伸び、顔つきも精悍になっていた。
彼は窓ガラスの汚れを指で拭いながら、眼下に広がる灰色の海——ロンドンの街並みを静かに見つめていた。
隣には、真新しい従僕用のコートを着たウィリアム・ホッジスが控えている。
彼は公の場であるため、親友としての態度は封印し、忠実な従僕を演じていたが、その目だけは興味深く街の喧騒を観察していた。
馬車は、ロンドンの西の玄関口、ハイド・パーク・コーナーを通過し、ピカデリー通りへと入っていく。
そこは、ウィンチェスターの静寂とは対極の世界だった。
おびただしい数の辻馬車が車輪を軋ませ、巨大な荷馬車が道を塞ぎ、御者たちが汚い言葉で罵り合う。歩道には紳士、商人、浮浪者、物売りが溢れかえり、その頭上を教会の鐘の音が無遠慮に叩きつけてくる。
人口100万人に迫ろうとする、世界最大の都市。
大英帝国の心臓。
「圧倒されますな、旦那様。ウィンチェスターの市場が、まるで子供の遊び場に見えます」
ウィリアムが、興奮と不安が入り混じった声で囁いた。
パーシバルは無言で頷いた。
(ここが、ロンドン。ナポレオンと戦い、世界中の海を支配し、そして僕が成り上がるべき舞台か)
■訃報と喪失
馬車は、宿をとる予定のストランド通りにある「ゴールデン・クロス・イン」へと向かっていた。
チャリング・クロスの広場に近づくにつれ、街の空気が異様な重苦しさに包まれていることに気づいた。
普段なら活気に満ちているはずの広場に、人々が沈痛な面持ちで立ち尽くしている。
新聞売りの少年たちが、何かを叫びながら号外を売り歩いているが、その声にはいつもの張りがない。
そして何より、ウェストミンスター寺院の方角から聞こえる鐘の音が、勝利の祝鐘ではなく、重く、引きずるような弔鐘の響きであることに、ヘンリーが気づいた。
「おい、止めてくれ! 何かあったのか?」
ヘンリーが窓から御者に声をかけ、馬車を停めさせた。
近くを通りかかった黒いコートの紳士に、父が声をかける。
「失礼、サー。田舎から出てきたばかりなのだが、この異様な雰囲気は一体何事かな? まさか、フランス軍が上陸でもしたのか?」
紳士は、疲れ切ったような目でヘンリーを見上げ、帽子を少し持ち上げて答えた。
「ある意味、それよりも悪い知らせです。……ご存じないのですか? 今朝、早朝のことです」
紳士は、信じられない事実を口にするように、震える声で告げた。
「ウィリアム・ピット首相が、お亡くなりになりました」
その瞬間、ヘンリーの顔から血の気が引いた。
「……なんだと? ピット首相が? まだ46歳のはずだろう!?」
「過労です。あるいは、絶望か……。アウステルリッツでの敗北が、彼の命を縮めたと言われています。……ああ、神よ。
ナポレオンという怪物を前にして、我々は唯一の指導者を失ってしまった」
紳士はよろめくように去っていった。
ヘンリーは座席に崩れ落ち、深く長い溜息をついた。
「ピットが死んだ……。この国の魂が消えたも同然だ」
ウィリアム・ピット(小ピット)。
若くして首相となり、フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけて、イギリスの対仏強硬姿勢を主導してきた鉄の宰相。
彼は増税を断行し、対仏大同盟を組み、イギリスの不屈の精神を体現する存在だった。
「父上、しっかりしてください。首相が亡くなっても、イギリスは沈みません」
パーシバルは冷静に声をかけたが、内心ではこの事態がもたらす影響を高速で計算していた。
(アウステルリッツでロシア・オーストリア連合軍が粉砕されたのが先月。
そして今月、ピットが死んだ。……市場はパニックになるな)
新聞売りの叫び声が聞こえてくる。
「号外! 首相の最期の言葉! 『私の地図を巻き上げろ』! 欧州の地図はもう必要ない!」
その言葉は、ロンドン市民の心に冷たい棘のように突き刺さっていた。
ナポレオンが大陸を完全に制圧した今、ヨーロッパの地図など見る意味もない。
イギリスは孤独だ。そして指導者もいない。
誰もが「終わりの始まり」を感じていた。
■「死」と「金」の天秤
宿屋「ゴールデン・クロス」の一室に入ると、ヘンリーは旅の疲れと精神的なショックで、すぐにベッドに横になってしまった。
パーシバルは、窓辺に立ち、ウィリアムと共に通りを見下ろした。
夕暮れが迫り、ガス灯ではなく、まだ主流だった鯨油の街灯が、霧の中にぼんやりとした明かりを灯し始めている。
「……大変な時に来ちまったな、パーシバル様」
二人きりになり、ウィリアムが素の口調に戻って呟く。
「街中がお通夜だ。宿の主人も『これでイギリスはおしまいだ』って泣いてたぜ。
……本当にヤバいのか?」
パーシバルは、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
16歳の少年の顔だが、その瞳には冷静な光が宿っている。
「感情的には、ヤバいね。ピット首相は象徴だったから。
コンソル公債(国債)は明日、さらに暴落するだろう。
シティの連中は、ナポレオンが和睦を強要してくるんじゃないかと怯えているはずだ」
「じゃあ、俺たちの任官はどうなる? 軍隊は解散か?」
「逆だ」
パーシバルは振り返り、断言した。
「ピット首相は死んだが、彼が作った『システム』は生きている。
彼は戦争を続けるために、世界初の『所得税』を導入し、莫大な戦費を調達する仕組みを作り上げた。
……皮肉なことに、彼の死で一時的に混乱しても、戦争経済という巨大な歯車はもう止まらないんだ」
彼は革製のカバンから、父から預かった為替手形の束を取り出した。
任官費用と、装備を整えるための大金だ。
「ウィリアム、よく聞け。大衆が悲しみに暮れ、投資家が恐怖している時こそ、僕たちのような持たざる者が食い込む隙間が生まれる」
「……相変わらず、いい性格してるよ、あんたは」
ウィリアムは呆れたように笑ったが、その目には頼もしさを感じていた。
「ピットの死は、一つの時代の終わりだ。だが、次の時代が来る。
英雄のカリスマではなく、物量と金と、そして僕たちが得意な兵站が勝敗を決める時代だ」
パーシバルは再び窓の外へ視線を戻した。
霧の向こう、金融街シティの方角には、ぼんやりとした光の帯が見える。
そこでは今頃、銀行家や商人たちが、首相の死がもたらす株価の変動について、血眼になって議論していることだろう。
「明日は忙しくなるぞ。まずはサヴィル・ロウへ行って制服をあつらえる。軍装品店で軍靴と鞍もだ。
……店主たちが悲観して、在庫を投げ売りしてくれると助かるんだがな」
「へいへい。不謹慎な若旦那のお供は慣れてますよ」
■霧の中の決意
夜が更け、ロンドンの騒音も少しだけ和らいだ頃。
パーシバルは一人、書き物机に向かい、日記を開いた。
『1806年1月23日。ロンドン到着。ウィリアム・ピット死去』
彼はインクの染みた羽根ペンを走らせた。
ウィンチェスターでは秀才と呼ばれ、父の信頼を勝ち取った自分も、この巨大な帝都に来れば、無数の塵芥の一つに過ぎない。
街行く人々の誰一人として、田舎のエスクワイアの次男坊になど関心を持っていない。
その事実が、逆にパーシバルの野心に火をつけた。
誰にも期待されていないからこそ、何にでもなれる。
(見ていろ。この煤煙と霧の向こうにある黄金を、必ず掴み取ってみせる)
彼は日記の次のページに、明日購入すべき物資のリストと、予想される支出額を几帳面な数字で書き込み始めた。
感情に流されず、事実と数字だけを信じること。
それが、偉大なる宰相を失ったこの国で、彼が生き残るために選んだ唯一の武器だった。
窓の外では、テムズ川の湿った風が、弔鐘の余韻を消し去るように吹き抜けていた。
1806年、冬。
パーシバル・シーモア・シャルトンのロンドン滞在は、国家の悲劇と共に、静かに幕を開けたのである。
■士官の値段、紳士の装備(1806年1月下旬)
1806年、1月下旬。
ウィリアム・ピット首相の死による喪失感が漂うロンドンだが、ウェストエンドの高級商店街は、変わらぬ賑わいを見せていた。
戦争は悲劇だが、軍需産業にとっては最大の商機である。
特に、新任士官たちの装備を整える仕立屋や武具店にとって、今は書き入れ時だった。
サヴィル・ロウに近いコンデュイット通り。
その一角にある老舗の軍服仕立屋の店先で、ヘンリー・エドワード・シャルトンは満足げに息子を眺めていた。
「うむ。悪くない。いや、実に立派だぞ、パーシバル」
鏡の前に立つパーシバルは、王立輸送部隊の少尉の制服に身を包んでいた。
濃紺の上衣に、鮮やかな赤の折り返し(フェイシング)。
銀のレースで飾られたエポーレット(肩章)。
そして純白のズボン(ブリーチズ)に、膝まである磨き上げられた黒革のヘシアン・ブーツ。
まだ16歳の華奢な身体つきだが、軍服の威厳がそれを補い、一人前の士官としての風格を漂わせている。
「ありがとうございます、父上。ですが、少々値が張りますね」
パーシバルは、仕立屋が提示した請求書を横目で見て、小さく溜息をついた。
そこには、着替えを含めた制服一式だけでなく、雨天用の大外套、亜麻布のシャツ半ダース、手袋、靴下、そして帽子(シャコー帽)に至るまで、紳士が戦場で恥をかかないためのありとあらゆる品目が並んでいる。
「80ポンドか……。ウィンチェスターなら、小さな家が一軒建ちますよ」
「金の話をするな、パーシバル」
ヘンリーは厳かに諌めた。
「お前は陛下の士官になるのだ。部下の兵士たちは、指揮官の靴の輝きや、シャツの白さでその器量を判断する。
みすぼらしい格好は、シャルトン家の恥だと思え」
「承知しております。必要経費として計上します」
パーシバルは内心で舌を出しつつも、父の言葉には同意した。
軍隊は階級社会だ。見た目は武器になる。
彼は仕立屋に採寸の微調整を指示しながら、頭の中で財布の中身を計算し続けていた。
■武具と実用性
次に向かったのは、ピカデリーにある武具店だ。
店内には、火薬の匂いと油の匂いが染み付いている。
壁にはマスケット銃やサーベルが所狭しと並べられ、戦場へ向かう若者たちの熱気で溢れていた。
「へい、若旦那。輸送部隊なら、この1796年式軽騎兵用サーベルが規定でさぁ。切れ味は保証しますぜ」
店の主人が、湾曲した美しい刀身のサーベルを差し出した。
パーシバルが手に取る前に、背後に控えていたウィリアム・ホッジスが一歩前に出た。
「ちょっと見せてみな」
ウィリアムは従僕としての控えめな態度を崩さぬまま、サーベルを受け取ると、鞘から抜き放ち、光にかざして刃こぼれや歪みがないかを慎重に確認した。さらに、柄のガタつきをチェックする。
「……旦那様。悪くありませんが、こちらの新品よりも、あそこの棚にある中古のほうが刃の焼きが良さそうです。柄の革も馴染んでいます」
ウィリアムが指差したのは、少し使い込まれた風合いのサーベルだった。
店の主人が嫌な顔をする。
「おいおい、士官様に古物を勧めるのか?」
「新品は飾りにはいいが、実戦で折れたら命取りだ。
それに、この中古品、刻印を見ると名のある刀匠の作だぞ。……いくらだ?」
ウィリアムの鋭い指摘に、主人は渋々ながら適正な価格を提示した。
パーシバルは満足げに頷いた。
ウィリアムは天才的な鑑定眼を持っているわけではないが、馬宿で多くの軍人や荒くれ者を見てきた経験から、「実用に耐える道具」を見抜く目を持っていた。
「父上、ウィリアムの言う通りにします。命を預ける剣です。飾り気よりも実質を取りましょう」
「ふむ……。お前たちがそう言うなら任せよう」
結局、サーベル一振りと、護身用のフリントロック式ピストル2丁、そして真紅のサッシュ(飾り帯)を購入し、40ポンドを支払った。
■タタソールズでの馬選び
翌日。一行はハイド・パーク・コーナーにある有名な馬の競り市、「タタソールズ(Tattersalls)」を訪れた。
ここはロンドン中の馬好き、賭博師、そして軍人が集まる馬取引の中心地だ。
王立輸送部隊の少尉は、騎乗して行軍するため、自分用の軍馬1頭と、荷物を運ぶ荷馬1頭を自費で用意しなければならない。
「いいか、ウィリアム。ここがお前の見せ場だ」
パーシバルは小声で囁いた。
「予算は150ポンド。これでまともな馬2頭と、鞍や手綱一式を揃えたい」
「150ポンドですか……。騎兵連隊の連中なら馬1頭で消える額ですね」
ウィリアムは苦笑したが、その目は真剣だった。
「任せてください。見栄えの良いサラブレッドは諦めて、骨太で持久力のあるハンター種(狩猟馬)か、コブ種を探しましょう。
輸送部隊は泥道を歩くんです。脚が丈夫じゃなきゃ話になりません」
競りの会場は熱気に包まれていた。
美しい毛並みの馬が高値で落札されていく中、ウィリアムは会場の隅に繋がれていた、一見すると地味な栗毛の馬に目をつけた。
「旦那様、あいつです。毛並みは悪いですが、蹄がしっかりしている。
それに目が穏やかで周りが騒がしい中で落ち着きがある。銃声や太鼓の音にも動じないでしょう」
ウィリアムの目利きは確かだった。
彼は馬丁としての知識をフル活用し、業者が隠そうとしていた小さな古傷(実用には問題ない)を指摘して値を叩き、軍馬と荷馬の2頭を驚くほどの安値で競り落とした。
さらに、近所の馬具屋で丈夫な鞍と馬衣を揃え、総額120ポンドに収めることに成功した。
父ヘンリーもこれには感心した。
「ホッジスの息子は、なかなかやるな。これなら戦場でも馬に困ることはなさそうだ」
■ゴールデン・クロス・インでの決算
数日間にわたる買い出しを終え、パーシバルたちはストランド通りの宿、「ゴールデン・クロス・イン」の一室に戻った。
部屋の隅には、携帯用ベッドやテント、銀製の食器セット(野営用品一式50ポンド)が積み上げられている。
「さて、決算だ」
パーシバルは机に向かい、帳簿を開いた。
【1806年1月 任官準備に伴う収支報告書】
収入の部
父上からの支援金(任官費用込):1,000ポンド
自己資金(これまでの貯蓄):150ポンド
合計:1,150ポンド
支出の部
少尉任官権(コックス&グリーンウッド社納入):350ポンド
被服費(制服・下着・外套等):80ポンド
武器・装備費(サーベル・ピストル等):40ポンド
馬匹関連費(馬2頭・馬具):120ポンド
野営・生活用品費:50ポンド
ウィリアム関連費(制服・給与前払い):30ポンド
合計:670ポンド
残高(軍資金)
480ポンド
「……残りは480ポンドか」
パーシバルはペンを置き、数字を見つめた。
当時の少尉の日給は、わずか5シリング3ペンス(食費控除前)。年収にすれば約95ポンド程度だ。
制服の維持や、将校会の会費、馬の飼料代を払えば、給料だけでは生活できない。だからこそ、士官はジェントリの子弟でなければ務まらないのだ。
しかし、手元には480ポンドある。
これは、慎重に使えば数年分の生活費になるが、投資に使えば化ける金額でもある。
「父上、感謝いたします。これだけの装備と資金があれば、どのような任地でも生き抜けます」
「うむ。金は使うためにあるが、無駄にするものではない。
お前のその几帳面さがあれば、破産することはないだろう」
ヘンリーは満足げに頷いた。
パーシバルは、ウィリアムの方を向いた。
「ウィリアム。君の給与は半年分前払いしてある(30ポンドの中に含む)。君の実家の馬宿での稼ぎよりは良いはずだ」
「ええ、破格ですよ。それに、この新しい制服も悪くない」
ウィリアムは、輸送部隊の従僕用の地味な制服を撫でた。
「これでお国のために働くってわけだ。親父も鼻が高いでしょう」
「頼りにしているよ。……さて」
パーシバルは、残高の「480ポンド」という数字を指でなぞった。
ナポレオンの大陸封鎖令が発動されれば、物価はさらに乱高下するだろう。
輸送部隊の特権——「移動」と「物流」の情報を活かせば、この480ポンドを元手に、何倍もの利益を生み出せるはずだ。
パーシバルは立ち上がり、窓の外の霧にむせぶロンドンを見下ろした。
装備は整った。
身分も手に入れた。
相棒もいる。
「次はシティへ行く。銀行家に会って、口座を準備をする」
16歳の少尉候補生は、真新しい軍服の袖を通し、その重みを確かめた。
それは、国家を守るための重みであり、同時に、彼自身の野望を支えるための鎧でもあった。
ロンドンの夜霧の向こうで、見えざる市場の神が手招きしているのを、彼は感じていた。
■銀行家との契約(1806年2月)
1806年、2月。
ロンドンの金融街「シティ」。
ウェストエンドの華やかな商店街とは異なり、この街には独特の重苦しい空気が漂っている。
狭い路地には、黒いコートを着た男たちが黙々と早足で行き交い、建物は煤けた煉瓦と重厚な石造りで統一されている。
ここでは、空気さえもインクと羊皮紙、そして黄金の匂いがするように感じられた。
その中心部、ロンバード・ストリート56番地。
バークレイ・トリットン・ベヴァン商会(Barclay, Tritton, Bevan & Co.)。
クエーカー教徒によって設立され、堅実な経営で知られる名門プライベート・バンクの前で、一台の辻馬車が停まった。
「……ここが、シティの心臓部か」
馬車を降りたパーシバル・シーモア・シャルトンは、目の前に聳える銀行の重厚なオーク材の扉を見上げた。
隣には、父ヘンリー・エドワード・シャルトンが立っている。
従僕のウィリアムは、馬車の御者と共に外で待機だ。
銀行の聖域に入れるのは、紳士とその紹介者だけである。
「パーシバル、粗相のないようにな。ここは市場ではない。信用の殿堂だ」
父が低い声で注意を促す。
当時のプライベート・バンクは、現代の銀行のように誰でも口座を開ける場所ではない。
既存の顧客からの紹介状がなければ、敷居を跨ぐことすら許されない、閉鎖的な会員制クラブのようなものだった。
幸い、シャルトン家はこの銀行と取引があり、ヘンリーの信用力はここでも通用する。
「承知しております、父上」
パーシバルは軍服の襟を正し、父に続いてその扉をくぐった。
■銀行家ジェームズ・ベリエフとの対面
行内は、修道院のように静まり返っていた。
高い天井、磨き上げられたマホガニーのカウンター。
奥では数十人の書記が高い机に向かい、羽ペンを走らせる音と、硬貨を数える金属音だけが響いている。
案内されたのは、奥にある革張りの椅子が置かれた応接室だった。
現れたのは、パートナー(共同経営者)の一人であるジェームズ・ベリエフ氏。
黄金色の髪を撫で付け、仕立ての良い黒服に身を包んだ、いかにもシティの銀行家といった風貌の男だ。
「ようこそお越しくださいました、シャルトン様。長旅でお疲れではありませんか?」
ベリエフは恭しくヘンリーに挨拶し、次いで隣に立つ若き少尉に視線を移した。
「して、そちらのご令息が……」
「ああ。次男のパーシバルだ。先日手紙で伝えた通り、王立輸送部隊の少尉に任官することになってな」
ヘンリーが重々しく頷く。
「彼のために、個人の口座を開設したいのだ。私が保証人となる」
「なるほど、左様でございましたか。若くして国王陛下に仕えるとは感心なことです」
ベリエフは穏やかな笑みを浮かべたが、その目は値踏みするようにパーシバルを見ていた。
彼にとって、これは「田舎の地主が、ドラ息子に小遣いを与えるための手続き」に過ぎないと思っているのだろう。
「通常、士官様の給与や装備の手配は、アーミー・エージェント(軍事代理人)が行いますが……」
ベリエフが確認するように言った。
当時、連隊ごとに契約している代理人(王立輸送部隊の場合はコックス&グリーンウッド社)がおり、陸軍省からの給与支払いや、被服の購入代行を一手に引き受けていた。
「はい、存じております」
パーシバルが一歩前に出た。16歳とは思えない、落ち着いた声だった。
「コックス&グリーンウッド社には、私の給与口座を作ります。
ですが、ベリエフ様。私が御行を訪ねたのは、公的な給与の管理のためではありません。
私個人の『資産』を運用するための、特別な金庫番が必要だからです」
「……資産、ですか?」
ベリエフの眉がピクリと動いた。
パーシバルは、懐から革袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
中に入っているのは、父からの支援金と自分の貯金を合わせた軍資金の残り、400ポンド分の紙幣と金貨だ。
「ここに400ポンドあります。これを預け入れ(デポジット)、当座預金を開設したい」
400ポンド。
当時の少尉の年収の4倍近い金額だ。
ただの小遣いにしては多すぎる。ベリエフの表情から、侮りの色が消えた。
「承知いたしました。……して、この資金をどのように運用なさるおつもりで?
やはり、安全確実なコンソル公債(3%統合公債)でしょうか?
それとも、東インド会社の株券になさいますか?」
銀行家として、彼は当然の提案をした。
しかし、パーシバルは首を横に振った。
「いえ。当面は、全額を流動性の高い『現金』として保持します。投資はしません」
「現金……ですか? 利息がつきませんが」
「構いません。私がこれから向かうのは戦地です。そこで最も力を持つのは、証券ではなく現金と信用です」
パーシバルは、真っ直ぐに銀行家の目を見据えた。
「ベリエフ様。私が御行に期待するのは、投資アドバイスではありません。
私が戦地から振り出す為替手形の、確実かつ迅速な決済です」
■戦場の決済システム:為替手形
「為替手形……。なるほど、兵站将校らしいご懸念ですな」
ベリエフは興味深そうに身を乗り出した。
この時代、電子送金など存在しない。
戦地にいる士官が、ロンドンにある自分の金を使うにはどうすればいいか?
大量の金貨を持ち歩けば、盗賊や敵兵の格好の餌食になる。
そこで使われるのが「為替手形」だ。
パーシバルは、ベリエフ氏に説明するように、流暢にその仕組みを語った。
「例えば、私が欧州大陸の都市にいるとします。
そこで急遽、部隊のために現地の商人から馬を買い付ける必要が生じた。
しかし、手元にポンド紙幣しかない。現地の商人はポンドなど受け取りません」
「左様ですな。彼らが欲しいのは金貨か、現地通貨です」
「そこで、私は現地の商人にこう言います。
『私のロンドンの口座には十分な預金がある。私が御行宛に手形を振り出すので、それを現地の銀行家で換金してくれ』と」
パーシバルは、架空の手形を切るジェスチャーをした。
「商人はその手形を受け取り、私に馬(や現金)を渡す。
そして商人はその手形をロンドンへ送り、御行がそれを確認して、私の口座から400ポンドの範囲内で支払いを行う……。
このサイクルにおいて、私が最も恐れるのは何だと思いますか?」
「……不渡り(ディスオナー)ですな」
「その通りです」
パーシバルは深く頷いた。
「戦地では信用が全てです。
一度でも『シャルトンの手形はロンドンで拒否された』という噂が立てば、私は二度と現地で取引ができなくなる。
だからこそ、私はアーミー・エージェントではなく、信用ある御行を選んだのです。
代理人は事務屋ですが、銀行家は信用の守り手ですから」
ベリエフは、しばし沈黙した後、感嘆の息を漏らした。
「……ヘンリー様。ご令息は、本当に16歳ですか?
まるでシティで10年は飯を食べている商人のような口ぶりだ」
ヘンリーは苦笑いしながら、誇らしげに肩をすくめた。
「言っただろう。数字には強いとな」
「分かりました。パーシバル様、弊行は貴殿の信用を鉄壁のごとく守りましょう。
貴殿のサインがある手形が届き次第、迅速に決済を行うことを約束します」
ベリエフは机の引き出しから、一冊の革装丁の小冊子を取り出した。
小切手帳だ。
当時はまだ現代のように規格化されてはいなかったが、銀行が顧客に渡す「支払指図書」の綴りである。
「これが、貴殿の武器です。大切になさいませ」
パーシバルはそれを受け取った。
ずしりとした重み。
これがあれば、ロンドンから何千マイル離れていても、400ポンドという力を自由に行使できる。
■未来の投資への布石
「手続きは以上でよろしいですか?」
ベリエフが立ち上がろうとした時、パーシバルは「もう一つ」と手を挙げた。
「今は現金のままと申し上げましたが、いずれ、公債や株式の購入をお願いする時が来るでしょう」
「ほう? 心変わりですか?」
「いいえ。今は時期ではない、というだけです。ピット首相が亡くなり、市場は不安定です。
しかし、戦争の行方によっては、暴落した国債が魅力的な商品になる瞬間が必ず来ます」
パーシバルは、ニヤリと笑った。
トラファルガーで勝ったとはいえ、ナポレオンの大陸支配は盤石だ。国債価格は低迷を続けるだろう。
だが、将来の逆転勝利を知っている彼にとって、これは「底値」で買い集める絶好の機会がいずれ訪れることを意味していた。
「私が『買え』と手紙を送った時は、御行の指定する株式仲買人を通じて、迅速に注文を執行していただきたい。
そのための包括的な代理人契約も、今日結んでおきたいのです」
ベリエフは、この若き少尉の目の中に、単なる軍人ではない、冷徹な投資家の光を見た。
「……承知いたしました。我々は、貴殿の資産を増やすための忠実な代理人となりましょう。
戦況と市場の相関についての貴殿の嗅覚、楽しみにさせていただきます」
契約書にサインをするパーシバルの手は、一度も震えなかった。
インクが乾いたその瞬間、彼はロンドンの金融システムという、最強の後ろ盾を手に入れたのだ。
銀行を出ると、外は相変わらずの石炭の霧に包まれていた。
だが、パーシバルの足取りは軽かった。
「終わりましたか、パーシバル様」
待っていたウィリアムが駆け寄ってくる。
「ああ、完璧だ。これで僕たちは、大陸のどこにいてもロンドンの金庫と繋がった」
パーシバルは懐の小切手帳を軽く叩いた。
400ポンドの現金と、バークレイズ銀行という信用。
そして、アーミー・エージェントを通じた正規の給与ルート。
二つのパイプラインが完成した。
公的なルートで生活費を賄い、私的なルート(銀行)でビジネスを回す。
この「分別」こそが、軍法会議にかけられずに資産を築くための生命線だ。
「さあ、行こうウィリアム。次はクロイドンだ。補給部が僕たちを待っている」
シティの喧騒を背に、二人は辻馬車に乗り込んだ。
巨大な金融の歯車の一つとして組み込まれたパーシバルは、もはや田舎の少年ではなかった。
■泥濘のクロイドン・デポ(1806年4月~夏)
1806年、4月。
ロンドンから南へ10マイルほど下ったサリー州、クロイドン。
春の雨が降りしきる中、この地に設けられた王立輸送部隊のデポ(兵站集積所兼訓練所)は、足首まで埋まるほどの深い泥濘に覆われていた。
華やかな軍楽隊の演奏もなければ、深紅の軍服を着た近衛兵のパレードもない。
あるのは、何百頭もの馬が発する強烈な獣臭と、車軸油の匂い、そして荷馬車の列が泥を跳ね上げる音だけだ。
「……ようこそ、泥と馬糞の楽園へ。新任少尉殿」
訓練所の応接室で古参の大尉が、皮肉な笑みを浮かべてパーシバル・シーモア・シャルトンを迎えた。
彼の名はジョン・ミラー大尉。ナポレオン戦争の前から軍に身を置く叩き上げだ。
「本日着任いたしました、パーシバル・シャルトン少尉であります。
国王陛下と連隊のために、微力を尽くす所存です」
パーシバルは、直立不動で敬礼した。
サヴィル・ロウで仕立てたばかりの真新しい制服は、彼は眉一つ動かさなかった。
「フン、エスクワイアの息子か。サヴィル・ロウの仕立てだな?
その綺麗なブーツがいつまで持つか見物だ」
ミラー大尉は鼻を鳴らした。
「いいか、若造。ここは戦場へ行く前の最後の学校だ。
だが、教えるのは剣術でもダンスでもない。『運び屋』としての生き方だ。……ついてこい」
■獣医学と泥の行軍
翌日から始まった訓練は、パーシバルが予想していた以上に「実務的」であり、そして過酷だった。
午前5時、起床ラッパと共に一日が始まる。
「馬を見ろ! まず馬だ! 自分の顔を洗う前に、馬の顔を見ろ!」
教官である曹長の怒号が飛ぶ。
王立輸送部隊の士官にとって、馬は単なる乗り物ではない。
「動力源」であり、最も高価な「資産」だ。
パーシバルは従僕のウィリアムと共に、厩舎の干し草の中に潜り込み、馬の健康チェックを行う。
蹄鉄に緩みはないか。
蹄叉腐乱の兆候はないか。
そして最も恐ろしい伝染病、鼻疽の症状が出ていないか。
「シャルトン少尉! この馬、飼い葉の食いつきが悪いです。歯がおかしいのかもしれません」
「どれだ? ……ああ、本当だ。ウィリアム、獣医軍曹を呼んでくれ。
狼歯が伸びてハミに当たっている可能性がある」
パーシバルは泥だらけの手袋のまま、馬の口をこじ開けて点検した。
周囲の新任士官たちが「汚らわしい」と顔をしかめる中、彼は平然としていた。
ウィンチェスターでの3年間、ボランティアとして嫌というほど見てきた光景だ。
馬の健康管理ができなければ、輸送は止まる。輸送が止まれば、兵士が飢える。それを彼は骨の髄まで理解していた。
午後は、コンボイ(車列)指揮の実地訓練だ。
数十台の荷馬車でクロイドンの悪路を行軍させる。
「間隔を詰めろ! だが近づけすぎるな! 坂道で前の車が滑ったら共倒れだぞ!」
雨を含んだ泥道で、重積載のワゴンを動かすのは至難の業だ。
車輪が泥に取られ、馬が嘶く。
御者たちが鞭を振るい、汚い言葉で罵り合う。
「第3小隊、停止! 後続車、右へ展開して泥沼を回避せよ!
ウィリアム、予備馬を連れてこい! スタックした4号車を牽引する!」
パーシバルは馬上で指示を飛ばし、自ら泥の中に降りて車輪を押した。
彼の紺色の制服は泥まみれになり、顔にも泥が跳ねている。
だが、その的確な指示出しに、最初は彼を侮っていた御者たちも、「この若造、口だけじゃねえな」という視線を向けるようになっていた。
■士官食堂の憂鬱と「帳簿」
夜。
泥を落とし、着替えた士官たちは「士官食堂」に集まる。
そこは、唯一、紳士としての時間が許される場所だ。
銀食器で食事をとり、ポートワインを傾ける。
だが、ミラー大尉の機嫌は最悪だった。
彼のテーブルには、料理の代わりに膨大な書類の山が積まれている。
「くそっ、また計算が合わん! 兵站部の連中は、我々を会計士か何かと勘違いしているんじゃないか?」
大尉が書類を投げ出した。
それは糧食・飼料月次報告書だ。
何百頭もの馬が消費した干し草、燕麦、藁の量。
兵士たちに支給されたパンと肉の量。
それらをポンド単位で集計し、在庫と照合しなければならない。
1ポンドでも合わなければ、横領の疑いをかけられるか、自腹で補填させられる。
多くの武骨な軍人にとって、この「リターン」こそが、ナポレオン軍よりも恐ろしい敵だった。
パーシバルは、グラスを置いて静かに立ち上がった。
「ミラー大尉。もしよろしければ、私が拝見しましょうか?」
「……お前がか? シャルトン少尉、悪いがこれは算数の宿題とは違うぞ。
軍の形式は複雑怪奇だ」
「存じております。ウィンチェスターでボランティアをしていた際、補給将校の手伝いで何度か処理した経験があります」
「ほう、ボランティアだと? ただの名義貸しじゃなかったのか」
大尉は訝しげな顔をしたが、藁にもすがる思いだったのだろう。「やってみろ」と書類を押し付けた。
パーシバルは書類を受け取り、ランプの明かりの下で素早く目を通した。
(……酷いな。日付がバラバラだし、納入業者の伝票と支給記録が混ざっている)
彼は懐から自前のペンを取り出し、裏紙にササッと表を書き始めた。
現代的な「複式簿記」の概念を頭に置きつつ、軍の形式に合わせて数字を再構築していく。
「大尉。ここのオーツ麦の数字、300ポンド合いませんが、先週の第2分隊の演習で臨時支給された分が計上されていません。
それと、納入業者の請求書、ポンド(重量単位)とブッシェル(容量単位)の換算が間違っています。
我々が損をしていますよ」
わずか30分後。
パーシバルは、完璧に整理された報告書と、修正すべき箇所の一覧を提示した。
「…………」
ミラー大尉は、キツネにつままれたような顔で書類とパーシバルを交互に見た。
「お前……魔法でも使ったのか?」
「いいえ。ただの整理です。数字は嘘をつきませんから」
「……300ポンドのズレを見つけたのか。危うく私の給料から引かれるところだった」
大尉は深いため息をつき、そして初めて、心からの笑みを見せた。
「シャルトン少尉。訂正する。お前はただの『エスクワイアの息子』じゃないな。……使える男だ」
「光栄です、サー」
その夜を境に、パーシバルの評価は一変した。
「あの若造は、泥にまみれるのを嫌がらないし、何より『リターン(報告書)』を片付けてくれる」
その噂は瞬く間に広まり、他の中尉や少尉たちも、困った顔をしてパーシバルの元へ相談に来るようになった。
パーシバルはそれを拒まなかった。
なぜなら、部隊全体の物資の流れを把握することは、彼にとって「軍隊」という巨大な物流会社の構造を知るための、最高の教材だったからだ。
■ウィリアムの「裏」工作
一方、パーシバルの従僕であるウィリアム・ホッジスもまた、別の場所で戦っていた。
下士官や従僕たちが集まる酒保だ。
そこは、士官たちが知らない「現場のルール」が支配する世界である。
「よう、新入り。お前の旦那、なかなかやるじゃねえか」
髭面の曹長が、エールを飲みながらウィリアムに話しかけた。
「『帳簿の魔術師』なんて呼ばれてるぜ。おかげで俺たちも、棚卸しのたびに怒鳴られずに済む」
ウィリアムは愛想笑いを浮かべながら、タバコを差し出した。
「へへっ、うちの旦那は数字のことになると目の色が変わるんで。
……ところで曹長、最近、馬の飼料の質が悪くないですか?
昨日の干し草、カビ臭かったような」
曹長はニヤリと笑った。
「お前、鼻が利くな。……納入業者が変わったんだよ。
上の方の『お付き合い』ってやつだ。少しくらいのカビは目をつぶれ。
その代わり、俺たちの食い扶持にも少し色が付く」
(なるほど。業者の選定に不正があるわけか)
ウィリアムは、酒を注いで回りながら、軍内部の「役得」の構造を学んでいった。
どの業者が誰と繋がっているか。
どの物資なら多少誤魔化してもバレないか。
そして、本当にヤバい「横流し」は誰が仕切っているか。
夜遅く、士官宿舎に戻ったウィリアムは、パーシバルに報告した。
「……というわけで、第2倉庫の管理官はクロイドンの穀物商とズブズブです。
干し草の1割は水増し請求されていますね」
「1割か。可愛いもんだな」
パーシバルは、磨き上げられたブーツを脱ぎながら答えた。
「告発しますか?」
「まさか。そんなことをすれば、僕は部隊全員を敵に回す。
今は泳がせておけ。重要なのは『誰が、どこで、いくら抜いているか』を知っておくことだ。
いずれ、その情報は強力な交渉カードになる」
パーシバルは、ランプの明かりでウィリアムの顔を見た。
「君も上手くやっているようだな。曹長たちに可愛がられていると聞いたよ」
「ええ。実家の馬宿で、酔っ払いの相手には慣れてますから。
……でも、旦那様。軍隊ってのは、本当に巨大な商売なんですね」
「ああ。国一番の巨大企業だ。ただし、経営効率は最悪だがね」
■夏の終わりの信頼
1806年、9月。
半年間の訓練期間が終了しようとしていた。
クロイドンの泥濘は、夏の日差しで乾いた土埃に変わっていた。
最終演習の後、ミラー大尉は士官たちを集めた。
「諸君。これより諸君は各連隊に配属され、実戦の任務に就く。
忘れるな。我々の任務は、栄光の突撃ではない。兵士にパンを、馬に草を、銃に弾を届けることだ。
それが止まれば、軍は死ぬ」
大尉の視線が、パーシバルに止まった。
「シャルトン少尉」
「はっ」
「お前はウィンチェスター駐留部隊への配属が決まった。
……あそこは物資の集積拠点だ。お前のその『整理整頓』の才能は、あそこでこそ活きるだろう」
それは、パーシバルが希望していた通りの配属先だった。
しかも、大尉の推薦付きだ。
「感謝いたします、大尉殿」
「礼には及ばん。……戦場に行けば、帳簿の数字一つが人の命になる。
お前なら、その重さが分かるはずだ。だが、無理はするなよ」
「了解しました!」
パーシバルは敬礼した。
その敬礼は、半年前に着任した時の形式的なものではなく、軍人としての自覚と、実務家としての自信に満ちたものだった。
「さて、ウィリアム。帰ろうか」
宿舎に戻る道すがら、パーシバルは空を見上げた。
この半年で、彼は「エスクワイアの息子」から「王立輸送部隊の将校」へと完全に脱皮した。
泥と馬糞、そして帳簿の山。
それらは彼にとって、もはや苦痛ではなく、世界を動かすための「道具」になっていた。
「次はウィンチェスターだ。……僕たちの本当の『商売』は、あそこから始まる」
1806年の夏が終わる。
パーシバル・シーモア・シャルトン少尉、16歳。
彼は泥濘のクロイドンを卒業し、いよいよ本格的な兵站そして、彼自身の資産形成という名の戦争へと歩み出したのである。
■ウィンチェスターへの帰還と「業務」開始(1807年初頭)
1807年、1月。
ハンプシャー州の古都ウィンチェスターは、凍てつくような北風と、大陸から吹き寄せる不穏な噂話に包まれていた。
前年の11月、ナポレオン皇帝が発した「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」。
「イギリスとの一切の交易を禁ずる」というこの宣言は、年が明けてからボディブローのようにイギリス経済を蝕み始めていた。
港には輸出できない羊毛製品が山積みになり、逆に大陸からの穀物や木材の輸入は滞り、物価は乱高下を繰り返している。
王立輸送部隊の少尉の制服に身を包んだパーシバル・シーモア・シャルトンは、窓から見える曇天の空と、眼下に広がる物資集積所を見下ろした。
17歳(数え年)。
故郷への凱旋である。
しかし、彼は実家のマナー・ハウスには戻らず、あえて寒々しい士官宿舎でくらしている。
「実家に戻れば温かいベッドと食事が待っていますが、よろしいのですか? パーシバル様」
従僕のウィリアム・ホッジスが、尋ねる。
パーシバルは、真新しい執務机の埃を指で拭いながら答えた。
「構わない。僕はここに『仕事』をしに来たんだ。実家の息子に戻ってしまっては、軍務と私情のけじめがつかなくなる」
「けじめ、ですか。……これからやろうとしていることは、十分に私情混じりのような気もしますが」
ウィリアムがニヤリと笑う。
パーシバルもまた、薄く笑みを返した。
「人聞きの悪いことを言うな。僕は『効率化』と言っているんだ」
崩壊するサプライチェーンと「合法的」な解決策
着任早々、パーシバルを待ち受けていたのは、兵站の悪夢だった。
ウィンチェスターは、ポーツマス港から内陸へ物資を運ぶ中継拠点であり、常時数千人の兵士と、それを支える数千頭の馬が駐屯している。
彼らが消費する食料と飼料の量は凄まじい。
「少尉! また納入業者がポカをやらかしました! 指定された干し草が届きません!」
補給軍曹が、顔を真っ赤にして執務室に飛び込んできた。
「大陸封鎖のせいで相場が読めないとか何とか言って、契約を破棄してきやがったんです。
このままじゃ、第3厩舎の馬が飢えちまいます!」
パーシバルは眉一つ動かさず、書類に目を走らせた。
従来の納入業者は、平和な時代の感覚で入札した商人たちだ。
戦時インフレと封鎖パニックに耐えきれず、次々と契約不履行を起こしている。
「軍曹。規程によれば、緊急時には担当士官の裁量で『現地調達』が認められているはずだ」
「はっ、そうですが……。しかし、今から新しい業者を探して契約を結ぶには、数週間かかります。お役所仕事を通さなきゃなりませんから」
「数週間も待てば馬は死ぬ。……幸い、私はこの土地の出身だ。信頼できる生産者を知っている」
パーシバルは、あらかじめ用意していた書類を軍曹に差し出した。
そこには、すでに詳細な発注内容と、調達先の名前が記されていた。
調達先:ヘンリー・E・シャルトン(シャルトン・ホーム・ファーム)
軍曹が目を丸くした。
「少尉、これは……あなたのお父上では?」
「そうだ。何か問題があるか?」
パーシバルは立ち上がり、窓の外を指差した。
「あそこに見える丘の向こうが、父の農場だ。ここから馬車で1時間もかからない。
品質は私が保証する。カビが生えた干し草や、石ころ混じりの燕麦を送ってくるような三流商人とは違う」
「しかし、身内への発注となると、上層部が……」
「軍曹。私は『縁故』で選んだのではない。『品質』と『納期』で選んだのだ。それに価格を見てくれ」
軍曹は書類の金額欄を確認した。
「……市場価格そのままだ。安くもないが、高くもない」
「そうだ。父の農場だからといって安く買い叩くつもりはないが、暴利を貪らせるつもりもない。今の混乱した相場で、適正価格かつ確実に納品できる業者が他にいるか?」
軍曹は唸った。
確かにいない。他の商人は「戦争価格」を吹っかけてくるか、物を隠して値上がりを待っているかのどちらかだ。
「……いませんね。それに、シャルトン家の農場の麦は質が良いと評判です」
「だろう? ならば、これは軍にとっても最良の取引だ。書類には私がサインをする。責任は全て私が持つ」
「了解しました! すぐに手配します!」
軍曹が敬礼して去っていくと、パーシバルは椅子に深く腰掛けた。
(これで一つ。軍は良質な飼料を手に入れ、父上は安定した販売先を手に入れる。誰も損をしない、完璧な取引だ)
■実家での密約
その週末。パーシバルは久しぶりにマナー・ハウスの敷居を跨いだ。
父ヘンリーは、書斎で頭を抱えていた。
「パーシバル、お帰り。……見てくれ、この羊毛の在庫を。
大陸への輸出が止まって、倉庫に入り切らん」
大陸封鎖令の直撃である。羊毛価格は暴落していた。
「父上、羊毛は今は耐えるしかありません。ですが、穀物と飼料については、私が解決策を持ってきました」
パーシバルは、軍の正式な発注書をデスクに置いた。
「第3中隊が必要とする燕麦と干し草、向こう3ヶ月分の契約書です。
価格は先週のウィンチェスター市場の終値を基準にします」
ヘンリーは書類を手に取り、震える手で眼鏡をかけた。
「……これは、軍との直接契約か? しかも、この量は……ホーム・ファームの生産量の半分を捌けるぞ」
「はい。仲買人を通さないので、父上の実入りも良くなるはずです。
その代わり、品質には絶対に妥協しないでください。一度でも粗悪品が混ざれば、私の面子が潰れます」
「もちろんだ! シャルトンの名にかけて、最高の品を納めよう」
父の顔に生気が戻った。
不況下において、「確実な買い手」がいることほど強いことはない。
しかも相手は、支払いが(遅いとはいえ)確実に保証されている「英国陸軍」だ。
「それと、近隣の信頼できる自作農たちにも声をかけてください。
彼らの余剰分も、父上がまとめて買い上げて軍に納入する形にすれば、地域の救済にもなります」
「おお……。お前は、治安判事としての私の顔まで立ててくれるのか」
ヘンリーは感極まったように息子の肩を掴んだ。
「お前を軍に出して正解だった。まさか、こんな形で家を助けてくれるとはな」
「私は軍人として、当然の『兵站確保』を行ったまでです」
パーシバルは淡々と答えたが、その目には計算高い光が宿っていた。
これで、地元での足場は盤石だ。
■ウィリアムの「出世」と馬宿の契約
次なる手は、ウィリアムの実家だ。
ウィンチェスター市内の「ホッジス・コーチング・イン」。
不景気風が吹く店内では、ウィリアムの父ジョン・ホッジスが、閑古鳥の鳴く客席を眺めて溜息をついていた。
そこへ、軍服姿のパーシバルと、従僕の制服を着たウィリアムが現れた。
「親父、久しぶりだな」
「ウィリアムか! ……それに、シャルトン少尉殿」
ジョンは慌てて立ち上がった。半年前に送り出した息子は、見違えるように精悍になり、その顔には自信が満ちていた。
「ジョンさん。単刀直入に言います。この宿の厩舎を、王立輸送部隊の指定臨時中継所として借りたい」
パーシバルは、またもや一枚の契約書を取り出した。
ポーツマスからロンドンへ向かう軍の伝令や、小規模な輸送部隊が、馬を休ませ、交換するための公式な拠点としての契約だ。
「指定……中継所?」
「はい。軍の馬房が満杯なのです。これからは、定期的に軍馬がここに泊まります。
その馬房使用料と、御者たちの宿泊費、飲食費はすべて軍が支払います」
ジョンは口を開けたまま固まった。
客が来ないと嘆いていた宿に、国が「客を送り込んでくる」というのだ。
「もちろん、管理は厳しくなりますよ。馬の世話に手抜きがあれば契約は即打ち切りです。
ですが、ウィリアムの教育を受けたあなたの従業員なら問題ないでしょう」
横でウィリアムがニヤリと笑った。
「そういうことだ、親父。俺からの恩返しだと思って受け取ってくれ」
ジョンは震える手で契約書を受け取り、そして深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。息子を、立派な男にしてくださったことも含めて」
「礼には及びません。これはビジネスです。あなた以上の適任者がいなかっただけのこと」
■胎動する野心
その夜、士官宿舎に戻ったパーシバルは、ウィリアムが淹れたコーヒーを飲みながら、窓の外の闇を見つめていた。
「……これで、兵站の川上(生産者)と川中(中継地)を押さえましたね」
ウィリアムが、感心したように呟く。
「ああ。ささやかな『汚職』だがな」
「人聞きが悪いですな。誰も損をしていない。軍は物資を得て、地元は潤った。
少尉殿の懐には1ペニーも入っていないじゃありませんか」
「直接的にはな」
パーシバルは小切手帳を取り出した。
彼の個人口座には、まだ手つかずの資金が眠っている。
今回の「便宜供与」で、彼は地元における絶大な信用と、軍内部での「調達の魔術師」という名声を手に入れた。
父の農場やホッジスの宿屋から、個人的なリベート(賄賂)を受け取るような真似はしない。
それは三流の小悪党がやることだ。
彼が狙っているのは、もっと大きな「果実」だ。
「ウィリアム。大陸では、ナポレオンがプロイセンを破り、今はロシア軍と睨み合っている。アイラウ、フリートラント……激戦が続くだろう」
「へえ。また何千人も死ぬんですか」
「そうだ。そして戦争が長引けば長引くほど、物資は不足し、価格は吊り上がる。
……僕たちは今、ウィンチェスターで『信用』という種を蒔いた。
次は、それを大陸で収穫する番だ」
■1807年、春。
イギリス政府は、大陸での同盟国支援と、半島戦争への介入を模索し始めていた。
遠征軍が編成されれば、王立輸送部隊にも動員がかかる。
その時、パーシバルは単なる一少尉としてではなく、独自の調達ルートを着任直後に構築した「兵站のプロフェッショナル」として中隊長から信頼を得て海を渡るのだ。
「準備は整った。……さあ、ナポレオン皇帝陛下。
そろそろ僕にも、その戦争特需のおこぼれを頂戴させてくれないか」
パーシバルは、壁に掛けられた地図——まだ平和だった頃のヨーロッパ地図——を指でなぞった。
彼の指先は、ドーバー海峡を越え、戦火の待つイベリア半島へと滑っていった。
士官宿舎の冷たい空気の中で、17歳の少年の野心は、静かに、しかし熱く燃え上がっていた。
第3章、完。




