第2章(1803年~1805年):準備期間
■宣戦布告と英国の財布(1803年)
1803年、7月。
イングランド南部、ハンプシャー州の州都ウィンチェスター。
夏の太陽が照りつけるハイ・ストリート(大通り)は、普段とは異なる熱気に包まれていた。
乾燥した土埃の匂いに混じって、焦げ臭いような火薬の気配と、そして人々の不安と興奮が入り混じった独特の空気が漂っている。
市の中心にあるバター・クロス(市場の十字架)の石段には、数日前、ロンドンからの郵便馬車がもたらした一枚の公示が貼り出されていた。
『陛下におかれては、フランス共和国との間の平和条約を破棄し、宣戦を布告された』
アミアンの和約による、わずか1年ほどの「束の間の平和」は崩れ去った。
ナポレオン・ボナパルトはアミアン条約を無視してイタリアやスイスへの介入を続け、イギリスもまたマルタ島からの撤退を拒否した。
結果、ヨーロッパは再び戦火に飲み込まれることになったのだ。
「……ついに始まったか。いや、再開したと言うべきだな」
人だかりの後ろで、パーシバル・シーモア・シャルトンは呟いた。
グラマー・スクールの制服を着た12歳の少年は、周囲の大人たちが「また戦争か」「フランス軍が上陸してくるぞ」と口々に騒ぐ中、冷めた目で公示を見つめていた。
「おい、パーシー。呑気な顔してる場合かよ」
隣で声をかけてきたのは、親友のウィリアム・ホッジスだ。
彼は実家が経営する馬宿の手伝いをしてきたのか、革のエプロンをつけ、馬の世話で汚れた手を拭っていた。
「親父は大騒ぎさ。ロンドン行きの馬車が増えるし、連隊の将校たちが宿に押し寄せてくる。
部屋は満室、酒は飛ぶように売れる。……戦争ってのは、金になるんだな」
ウィリアムの声には、恐怖よりも商人の息子としての興奮が混じっていた。
パーシバルは頷く。
「ああ、特需だ。軍隊が動けば、食料、飼料、宿、すべてが必要になる。
ウィンチェスターのような駐屯地は、空前の好景気になるだろうね」
しかし、その「好景気」がすべての人に恩恵をもたらすわけではないことを、パーシバルは知っていた。
彼はウィリアムを誘って市場の方へと歩き出した。
市場には、近隣の農家が野菜や穀物を持ち込んでいたが、その値札は先月とは明らかに変わっていた。
「……見てみろ、あのパンの値段を」
パーシバルが指差したのは、パン屋の店頭だ。
■19世紀英国の悪夢的な通貨制度
パーシバルはポケットから財布を取り出し、中身を確認した。
そこには、父ヘンリーから報酬としてもらった「1ポンド紙幣」と、数枚の銀貨、そして銅貨が入っている。
現代日本人の感覚を持つパーシバルにとって、1803年のイギリスで最も頭を悩ませるのは、ナポレオンの軍略でも伝染病でもなく、この非合理的極まりない通貨制度だった。
「いいかい、ウィリアム。この国の金勘定は、狂ってるとしか思えないよ」
「はあ? 何言ってんだ。当たり前だろ」
ウィリアムは怪訝な顔をするが、パーシバルは心の中で盛大に悪態をついていた。
現代の「10進法」に慣れきった脳にとって、この時代の「12進法」と「20進法」の混合は、計算のたびに軽い目眩を覚えさせる。
まず、基本単位はポンド(Pound / £)だ。
だが、1ポンドの下にはシリング(Shilling / s)がある。
ここまではいい。問題は、1ポンド=20シリングだということだ。
さらに、シリングの下にはペンス(Pence / d)がある。
これもまた、1シリング=10ペンスではない。
1シリング=12ペンスなのだ。
つまり、こういうことになる。
1ポンド = 20シリング = 240ペンス
「……例えば、3ポンド15シリング8ペンスから、1ポンド18シリング10ペンスを引くといくらになる?」
パーシバルが試しに聞くと、ウィリアムは空を見上げて指を折り始めた。
「ええと……ペンスを引いて、シリングから借りて……1ポンド16シリング10ペンスか?」
「正解。君はさすがに商人の息子だね。普通の紳士なら計算するのを諦めて、小銭を放り投げるところだ」
さらに厄介なことに、ここにはギニー(Guinea)という金貨が存在する。
1ギニーは、なぜか21シリング(1ポンド1シリング)という中途半端な価値を持っている。
弁護士への謝礼や、競走馬の売買、高級品の取引には、気取ってこの「ギニー」が使われるのだ。
(1ポンドが10シリングならどれほど楽か……。だが、文句を言っても始まらない。この複雑な換算を、呼吸をするようにこなせなければ、この時代で金持ちにはなれない)
パーシバルは、財布の中にある「銀貨」と「銅貨」の重みを指先で確かめた。
■物価と賃金:1シリングの重み
市場のパン屋の前で、二人は足を止めた。
焼き立ての香ばしい匂いが漂ってくるが、店主の顔は険しい。
「おばさん、4ポンド(約1.8kg)のパン(クォーターン・ローフ)、いくら?」
「ごめんねえ。今日から11ペンスだよ。来週には1シリングになるかもしれない」
ウィリアムが「うげっ」と声を上げた。
「最近まで8ペンスか9ペンスだったろ? ぼったくりじゃねえか」
「小麦粉が上がってるんだよ! 戦争で農場の働き手が兵隊に取られちまって、収穫が減ってるんだ。
文句ならナポレオンに言いな!」
店主の剣幕に押され、二人はすごすごと退散した。
パーシバルは、手帳を取り出してメモをした。
『パン(4ポンド塊):11ペンス(約1シリング)』
この価格が持つ意味は、現代日本の「パンが数十円値上がりした」というレベルの話ではない。
パーシバルは、父の農場で働く労働者たちの賃金を思い出していた。
当時の一般的な農場労働者の日当は、地域や季節によるが、おおよそ1シリング6ペンスから2シリング程度だ。
つまり、1日朝から晩まで泥まみれになって働いても、稼ぎの半分が「家族が食べるパン1つ」で消えてしまうのだ。残りのお金で、家賃、燃料、衣類を賄わなければならない。
(労働者にとって、1シリングは命の値段だ。パンが1シリングを超えれば、餓死者が出るレベルの危機になる)
「……ウィリアム。戦争は金を生むが、同時に金の価値を薄める」
「よく分からんが、親父が『給料を上げろって使用人がうるさい』ってボヤいてたのは、こういうことか」
「そう。労働者はパンを買うために賃上げを要求し、宿屋は賃金を払うために宿泊費を上げる。悪循環さ」
■ジェントリの財布と庶民の財布
その日の夕方、実家に戻ったパーシバルは、父ヘンリーの書斎で帳簿整理を手伝っていた。
重厚なマホガニーの机の上には、地代として集められた現金や、銀行の手形が積まれている。
父ヘンリー・エドワード・シャルトンの年収は、約2000ポンド。
これを労働者の通貨であるシリングやペンスに換算してみると、その格差に目眩がしそうになる。
父の年収:2000ポンド = 40,000シリング = 480,000ペンス
労働者の年収:約35ポンド = 700シリング = 8,400ペンス
父の収入は、一般的な労働者の約60倍だ。
現代日本で言えば、年収300万円の労働者に対し、年収1億8000万円の超富裕層ということになる。
「父上、今月の地代の集計が終わりました。滞納はありません」
「うむ、ご苦労。……しかし、村の様子はどうだ? 小作人たちから、不満の声は出ていないか」
ヘンリーは、銀貨を数える手を止めて尋ねた。
彼は厳しい地主だが、無慈悲ではない。パンの価格高騰が、小作人たちの生活を直撃していることを懸念しているのだ。
「今のところは。ですが、パンの価格が1シリングに迫っています。
今年の収穫が少しでも悪ければ、救貧税(貧民への手当)の負担が一気に増えるでしょう」
「そうか……。冬に備えて、直営農場の小麦の一部は売らずに備蓄しておくべきかもしれんな」
ヘンリーの判断は正しい。
ジェントリ(地主階級)には、ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)がある。
彼らは法外な富を独占しているが、その代わり、飢饉や戦争の際には、自分の領地の貧民を養う義務を負っている。
それを放棄すれば、暴動が起き、彼らの特権的地位そのものが揺らぐからだ。
(父上は、この2000ポンドの収入が、ただの贅沢のための金ではなく、地域社会を維持するための「統治コスト」だと理解している。……だからこそ、僕たち家族は優雅に暮らせるんだ)
パーシバルは、自分の財布に入っている1ポンド紙幣をそっと撫でた。
労働者が2週間働いてようやく手にする大金を、自分は父の手伝い一つで手に入れた。
この不条理。この圧倒的な格差。
(僕は幸運だ。エスクワイアの息子として生まれたこと、そしてこの理不尽な経済の仕組みを『外側』からの視点で理解できていること)
彼は、秘密の帳面に今の貯蓄額を書き込んだ。
現在、手元の資金は約3ポンド。
12歳の子供にしては破格の金額だが、彼の野望――この戦時経済の波に乗り、独自の資産を築くこと――には、まだまだ種銭が足りない。
(無駄遣いはできない。1ペンスたりとも。パンが1シリングになる時代だ。現金を持っている者が、最後に勝つ)
多くの人が貧困に喘ぎ、一部の商人が暴利を貪るこの時代。
フランスとの戦争は、これから長く、激しくなる。
■マナー・ハウスの日常とジェントリの食卓(1804年)
1804年、春。
大陸では、フランスの第一執政ナポレオン・ボナパルトがいよいよ皇帝即位への階段を駆け上がろうとしていた時期である。
ドーバー海峡の向こう側には、イギリス侵攻を狙う大軍が集結し、不気味な雷鳴のような足音が響いていた。
しかし、ハンプシャー州の片田舎にあるシャルトン家の領地には、嘘のような穏やかな春が訪れていた。
イースター(復活祭)の休暇を迎え、マナー・ハウスの庭園には水仙とプリムローズが咲き乱れ、若草の匂いが風に乗って漂っている。
午後3時。
屋敷の「ドローイング・ルーム(客間)」では、優雅な午後の一時が流れていた。
「まあ、アリス。そのステッチは少し目が粗いわよ。もう少し丁寧に」
「はい、お母様。……でも、もう指が痛いわ」
母シャーロット・シンクレア・シャルトン(36歳)は、窓辺で長女アリス(8歳)と次女マリア(5歳)に刺繍を教えている。
彼女の着ているハイウエストのモスリンのドレスは、当時の流行である古代ギリシャ風のシンプルなものだが、その生地の白さとレースの繊細さは、彼女が労働とは無縁な階級であることを雄弁に物語っていた。
その傍らで、暖炉の前のソファには、二人の少年が腰掛けていた。
13歳になったパーシバルと、イースター休暇で寄宿学校から帰省している15歳の兄、アーサー・シーモア・シャルトンだ。
「……で、どうなんだい、アーサー兄さん。ウィンチェスター・カレッジ(※1)の生活は」
パーシバルが尋ねると、アーサーはうんざりしたように首を振った。
彼は背が伸び、声変わりも済ませていたが、その表情には少年特有の不満が浮かんでいる。
「地獄だよ、パーシー。朝は5時起きで、冷たい水で顔を洗わされる。食事は固いパンと薄いビール。それに、上級生たちの横暴さは相変わらずさ。僕は『ファグ(※2)』として、先輩のブーツを磨いたり、トーストを焼いたりさせられてばかりだ」
(※1)ウィンチェスター・カレッジ: イギリス最古のパブリック・スクール(名門私立中等学校)。ジェントリや貴族の子弟が通うが、規律は厳しく、生活環境はスパルタ式だった。
(※2)ファグ(Fag): パブリック・スクール特有の制度。下級生が上級生の個人的な従者として雑用をさせられるシステム。
「それは災難だね。でも、兄さんはもうすぐ最上級生だろう? そうなれば楽になるんじゃないか」
「まあね。……それより、僕は君が羨ましいよ。地元のグラマー・スクールへは通いで、家のベッドで寝られるなんて。
それに、父上から聞いたぞ。お前、領地の帳簿を整理しているんだって?」
アーサーは興味深そうに身を乗り出した。
彼は典型的な「良家の長男」でおおらかな性格だが、決して愚鈍ではない。
むしろ、将来自分が継ぐことになる領地の経営には関心を持っていた。
「ああ、少しね。学校で習った算術を応用して、どこにお金が流れているかを見やすくしただけさ」
「すごいな。僕はラテン語の詩を暗唱させられてばかりで、ちっとも実生活の役に立つ気がしないよ。
……なあ、パーシー。今度、その帳簿の見方を教えてくれないか?
いずれ僕も、父上のようにこの土地を守らなきゃならない。
小作人に騙されない程度の知識は持っておきたいんだ」
パーシバルは少し驚いた。兄はもっと呑気なものだと思っていたが、跡取りとしての自覚は芽生えているようだ。
「もちろんだよ、兄さん。兄さんが領地をしっかり守ってくれれば、僕は安心して外の世界へ飛び出せるからね」
「はは、違いない。お前は軍人のしかも輸送部隊を志望だったな。……変わり者だよ、本当に」
兄弟は笑い合った。
そこには、遺産相続を巡る骨肉の争いなど微塵もない。
「家を守る長男」と「外で身を立てる次男」。
その役割分担が、二人の間には自然な了解事項として存在していた。
午後5時。
マナー・ハウスの生活において、最も重要な儀式が始まる。「ディナー」の時間だ。
当時のジェントリ階級の夕食は、庶民よりも遅い午後5時から6時の間に設定されており、それは彼らが「日中に肉体労働をする必要がない」という特権の証でもあった。
食堂には、蜜蝋のキャンドルが灯され、純銀の燭台が柔らかい光を放っている。
長テーブルの上座には父ヘンリー、下座には母シャーロット。その間を子供たちが埋める。
「ヘンリー様、今日はウィリアムズ夫人が訪ねてきましてよ。
なんでも、ロンドンではまた物価が上がって、お砂糖を手に入れるのが大変だとか」
母シャーロットが、スープを口に運びながら世間話を振る。
執事のハミルトンと数人のフットマン(下僕)が、無言で給仕を行っている。
「ああ、戦争の影響だな。……だが、我が家の食卓には関係ない話だ」
父ヘンリーは、グラスの赤ワイン(クラレット)を揺らしながら、重々しく頷いた。
テーブルの上には、まさに「ジェントリの豊かさ」を象徴する料理が並んでいる。
これはフランス式サービス(Service à la française)と呼ばれる形式だ。
現代のような一皿ずつのコース料理(ロシア式)とは異なり、第一のコース(スープや魚、肉料理)が一度にテーブルに並べられ、銘々が好きなものを取り分けるスタイルである。
中央に鎮座しているのは、巨大なローストビーフの塊だ。
それは単なる料理ではなく、オールド・イングランドの象徴であり、フランスの「カエルの脚を食う軟弱者たち」に対する、英国人の誇りそのものだった。
「さあ、お食べ。今日はとびきり良いサーロインが手に入った」
父が自らナイフを入れ、分厚い肉の切り身を家族の皿に配る。
付け合わせは、肉汁を吸ったヨークシャー・プディングと、茹でた野菜。
「いただきます。……うん、やっぱり家の食事は最高だ。
学校の、靴底みたいに硬い羊肉とは大違いだよ」
アーサーが感嘆の声を上げて肉を頬張る。
パーシバルもまた、静かにナイフを動かした。
(この牛肉……今の相場で言えば、これ一塊で労働者の月収が飛ぶくらいの値段だ)
彼は口の中で広がる脂の旨味と共に、この「格差」を噛み締めた。
壁に掛けられた肖像画、銀食器の輝き、そして豊富な食料。
これらはすべて、父祖代々の土地と、小作人たちが納める地代によって支えられている。
「ところで、父上。例の『コルシカの成り上がり(※3)』の動きはどうなのですか?」
アーサーが、口元のソースをナプキンで拭いながら尋ねた。
(※3)コルシカの成り上がり: ナポレオン・ボナパルトへの蔑称。コルシカ島出身の田舎者が、革命の混乱に乗じて権力を握ったことを、英国の上流階級は激しく嫌悪していた。
「良くないな。奴はブローニュに野営地を張り、平底船を集めているそうだ。風向き次第では、一晩でドーバーを渡ってくるかもしれん」
ヘンリーの表情が曇る。
「私も治安判事として、教区の『志願兵部隊』の訓練を視察してきたが……まだ頼りない。
いざという時は、我々が猟銃を持って屋敷を守らねばならんかもしれんぞ」
「あら、嫌ですわ。そんな野蛮なこと」
母シャーロットが眉をひそめた。
「そんなことより、来週の舞踏会のドレスはどうしましょう。リボンは新しいものを注文したほうがよろしくて?」
母の反応は、典型的なこの階級の女性のものだ。戦争は男たちの仕事であり、彼女の戦場は社交界にある。
しかし、パーシバルは知っている。
ナポレオンの脅威は本物だが、最終的に彼がこの島に上陸することはないという歴史(事実)を。
(侵攻の危機は1805年のトラファルガーまでだ。それまでは、この「恐怖」が市場を動かす)
彼は、黙々とプディングを口に運びながら、父と兄の会話に耳を傾けていた。
「ナポレオンが来たら、僕も戦いますよ」と意気込む兄。
「勇気は買うが、まずは学業だ」と諭す父。
この平和な食卓が、薄氷の上に成り立っていることを理解しているのは、この場でパーシバル一人だけだった。
食事が進み、「第二のコース」として、領地で獲れた野鳥のローストや、甘い菓子が運ばれてきた。
そして最後に、テーブルの上は一度きれいに片付けられ、「デザート」の時間となる。
ここで登場するのは、果物、ナッツ、そしてポートワインだ。
妹達のアリスとマリアは、甘い砂糖菓子に目を輝かせている。
「お父様、このお菓子、とっても甘いわ!」
「そうかそうか。たくさん食べなさい」
父は相好を崩すが、パーシバルはその「砂糖」にも経済を見ている。
西インド諸島のプランテーションから運ばれてくる砂糖と、東洋から来る紅茶。
これらはすべて、強力なイギリス海軍がシーレーンを確保しているからこそ、こうして食卓に並ぶのだ。
(僕が目指す王立輸送部隊も、この物流の一端を担う。紅茶一杯、砂糖一粒にも、世界経済と戦争が詰まっているんだ)
夕食後、一家は食堂を出て、再びドローイング・ルームへと戻った。
ここからは、お茶の時間であり、家族団らんのひとときだ。
母シャーロットがピアノフォルテ(初期のピアノ)の前に座り、軽やかな曲を奏で始めた。
アリスとマリアがそれに合わせて踊る真似事をしている。
父ヘンリーは、安楽椅子に深く腰掛け、執事のハミルトンが持ってきた新聞を広げている。
パーシバルは、部屋の隅にあるカードテーブルで、兄アーサーと向かい合っていた。
手遊びのカードゲーム、ホイスト(※4)の札を配りながら、二人は声を潜めて話した。
(※4)ホイスト(Whist): ブリッジの前身となった、当時イギリスで大流行していたトランプゲーム。戦略性が高く、紳士のたしなみとされた。
「……で、パーシー。お前は本当に、卒業したらすぐに軍に入るつもりなのか?」
アーサーが、手札を整えながら尋ねた。
「ああ。来年の夏には15歳になる。ボランティアとしての登録も済んでいるし、あとは辞令を待つだけさ」
「15歳か……。早いな。僕はその頃、まだオックスフォードに行くための勉強をしているよ」
アーサーは少し寂しげな顔をして、一枚のカードを切った。
「なあ、パーシー。
父上も言っていたが、士官の地位を買う金や、装備を揃える金は馬鹿にならない。
……僕が大学に行っている間でも必要な金があったら遠慮なく言えよ」
「兄さん……」
「僕には、このシャルトン家の跡取りとしての『財布』はある。
お前が軍で出世するために金が必要なら、僕が父上を説得してやる。だから——」
アーサーは、真っ直ぐな瞳で弟を見た。
「必ず、生きて帰ってこいよ」
パーシバルは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
前世の記憶がある自分は、どこか家族を一歩引いた目、あるいは「観察対象」として見ていた節がある。
だが、この兄は、心から弟の身を案じ、そして信頼してくれている。
「……ありがとう、兄さん。約束するよ」
パーシバルは力強く頷き、自分のカードを出した。
「僕は必ず戻ってくる。そして、兄さんが驚くくらいの資産を持って、この家の屋根を修理させてあげるよ」
「はは、それは頼もしいな! 期待しているよ、未来のジェントルマン殿」
ピアノの音色が、優しい旋律に変わる。
暖炉の火が爆ぜ、父が新聞をめくる音がする。
母と妹たちの笑い声。
パーシバルは、この光景を目に焼き付けた。
彼が守りたいものは、抽象的な「国家」や「正義」ではない。
このマナー・ハウスの、穏やかで豊かな日常。
そして、自分を信じてくれる家族たちの未来だ。
(今はまだ、僕はただの学生で、ボランティアの少年兵だ。でも、知識はある。準備も進めている)
彼は手札を見つめた。
1804年。戦乱の足音は近づいているが、まだ決定的な破局には至っていない。
この「猶予期間」こそが、彼にとって最大の武器となる。
「……僕の勝ちだね、兄さん」
パーシバルは最後のトリックを取り、静かに微笑んだ。
それは、これから始まる長いゲーム――戦争と投資という、命がけのゲームへの、勝利宣言の予行演習のようだった。
■皇帝即位と侵攻の影(1804年後半)
1804年12月。
冬の重たい雲がイングランド南部を覆い、ウィンチェスターの古風な石畳には、凍てつくような冷気が張り付いていた。
街の広場にあるバター・クロスの周囲には、厚手のウールのコートを着込んだ市民たちが群がり、ロンドンから到着したばかりの郵便馬車がもたらした新聞記事に食い入るように見入っている。
その中心にある話題は、単なる戦争の行方ではない。
ヨーロッパの秩序そのものを覆す、衝撃的なニュースだった。
「聞いたか? あのコルシカの成り上がりが、ついにやりやがったぞ!」
「皇帝だと? あの革命の落とし子が、王冠を被ったというのか?」
パリのノートルダム大聖堂で12月2日に行われた戴冠式。
ナポレオン・ボナパルトは、ローマ教皇の手から冠を受けるのではなく、自らの手で奪い取り、頭上に戴いたという。
フランス皇帝ナポレオン1世の誕生である。
このニュースは、王室を尊ぶイギリス人にとって、恐怖というよりは、生理的な嫌悪と激しい憤りを呼び起こしていた。
■グラマー・スクールの教室にて
ウィンチェスター・グラマー・スクールの教室でも、授業前の話題はその一点に集中していた。
ラテン語の教科書を開く生徒はおらず、皆、暖炉の周りに集まってひそひそと噂話を交わしている。
「おい、聞いたか? ボニー(ナポレオンの蔑称)は、毎朝子供を食べてるって話だぜ」
「バカ言え。でも、ロンドンを燃やす気なのは本当らしいぞ。ドーバーの向こうには、20万人の兵隊と、海を埋め尽くすほどの船が並んでるんだってさ」
13歳の少年たちの想像力は豊かだ。恐怖は伝言ゲームのように膨らみ、ナポレオンはもはや軍事指導者ではなく、旧約聖書に出てくる怪物か何かのように語られていた。
「パーシー、お前はどう思う? 本当に奴らは来るのかな」
隣の席で、ウィリアム・ホッジスが青ざめた顔で聞いてきた。
商人の息子である彼は、戦争特需で家が潤っているとはいえ、実際に敵が上陸してくれば、資産を略奪される側の人間だ。
パーシバル・シーモア・シャルトンは、羽ペンを削りながら静かに答えた。
「来る準備はしているだろうね。
ブローニュの野営地からは、天気が良ければドーバーの白い崖が見えるそうだ。
彼らにとって、イングランドは目の前にぶら下がった熟れた果実だよ」
「うげぇ……。父ちゃんが言ってたけど、もし上陸されたら、店の金庫を持って北へ逃げるしかないって。
ウィンチェスターなんて、海岸から近すぎるもんな」
ウィリアムが身震いをする。
教室の窓ガラスが、冷たい風でガタガタと鳴った。その音にさえ、何人かの生徒がビクリと肩を震わせる。
パーシバルは、周囲の動揺を冷徹な目で観察していた。
(ナポレオンの皇帝即位。これは歴史の教科書で読んだ通りの展開だ。
だが、この『空気』までは本を読んでも分からなかった)
前世の知識を持つ彼は、知っている。
ナポレオンのイギリス侵攻計画は、最終的に失敗に終わることを。
翌年、1805年のトラファルガーの海戦で、ネルソン提督がフランス・スペイン連合艦隊を粉砕し、制海権を永遠のものにするからだ。
だが、今ここに生きる人々にとって、その「未来」は見えない。
彼らに見えるのは、ドーバー海峡の向こうに集結した無敵のフランス陸軍と、それを率いる「怪物」皇帝の姿だけだ。
(この恐怖は本物だ。そして、恐怖は市場を動かす)
パーシバルは手元のノートに、今朝確認したコンソル公債(利息3%)の価格を書き込んだ。
価格は50ポンド台半ばまで暴落している。
額面100ポンドの国債が、市場では半値近くで叩き売られているのだ。
誰もが「イギリスが負ければ、国債など紙切れになる」と恐れている証拠だった。
(買い場だ。……もし僕に数千ポンドの現金があれば、迷わず全財産を突っ込むところだが)
残念ながら、13歳の少年の手元にあるのは、父の手伝いで稼いだ数ポンドと、なけなしの小遣いだけだ。
今はまだ、動く時ではない。
彼はこの暴落と、その後の回復のプロセスを「記憶」ではなく「体験」として脳に刻み込むことに集中した。
■軍人の視点:叔父ルイスの警告
その日の夕方、パーシバルは下宿先である叔父ルイスの家に戻った。
居間に入ると、いつもは陽気な叔父が、険しい顔で地図を広げていた。
第37歩兵連隊の少佐であるルイス・エドワード・シャルトンは、沿岸防衛の任務に忙殺されていた。
「お帰り、パーシー。……学校でも、ボニーの話で持ちきりか?」
ルイスは、地図から目を離さずに尋ねた。
地図には、イングランド南東部の海岸線に沿って、赤い印がいくつも付けられている。
「はい、叔父上。みんな、明日にもフランス兵が教室に雪崩れ込んでくるんじゃないかと怯えています」
「あながち、間違いでもない」
ルイスは短く吐き捨て、地図の一点を指差した。
そこは、ドーバー海峡に面したケント州の海岸だった。
「見ろ。我々は今、ここら一帯にマテロ塔(Martello Towers)を建設している。厚い壁で囲まれた円形の砦だ。屋上に大砲を据えて、上陸用舟艇を迎え撃つ」
「あの、背の低い塔ですね。以前、図面を見ました」
「ああ。だが、塔を作るだけでは足りない。
兵士が必要だ。正規軍だけでは海岸線全てを守りきれんからな。
今は各州の民兵や、義勇兵を総動員して訓練しているが……」
ルイスはため息をつき、ブランデーのグラスをあおった。
「正直言って、練度は最悪だ。
鍬しか持ったことのない農民に、いきなりマスケット銃を持たせて『列を組め』と言っても、右と左も分からん有様だ。
ナポレオンの古参兵とぶつかれば、ひとたまりもないだろう」
それが、現場指揮官の本音だった。
海軍が突破されたら、陸上での防衛は絶望的だ。だからこそ、国中がパニックに陥っている。
ルイスは椅子を回し、パーシバルを真正面から見据えた。
「パーシバル。お前は今、王立輸送部隊のボランティアとして登録されているな」
「はい。家の用事がない週末には倉庫で、荷馬車の点検や飼料の計算を手伝っています」
「いいか、よく聞け。もしフランス軍が上陸すれば、ボランティアだろうが子供だろうが関係ない。お前も動員されるぞ」
叔父の声は低く、重かった。
「輸送部隊は後方支援だが、撤退戦になれば殿を務めることもある。
負傷兵を運び、重要な物資を敵に渡さないよう焼き払う。……その覚悟はあるか?」
パーシバルは、背筋を伸ばして叔父の視線を受け止めた。
内面では「上陸はない」と知っていても、ここで怯えて見せては、将来の士官としての評価に関わる。
「覚悟しております、叔父上。私はシャルトン家の男子です。
いざとなれば、マスケット銃でも荷馬車の車輪でも、武器になるものを使って陛下と家族を守ります」
「……よし。いい目だ」
ルイスは満足げに頷き、表情を和らげた。
「お前がただの数字好きの頭でっかちでなくて安心したよ。
だが、死ぬなよ。兄貴——ヘンリーが悲しむ」
「もちろんです。私は生きて、勝って、そして……」
パーシバルは一瞬言葉を切り、ニヤリと笑った。
「叔父上のように、立派な口ひげを蓄えるまでは死にませんよ」
「はっはっは! 生意気な小僧だ」
■夜の帳簿と未来への布石
自室に戻ったパーシバルは、ランプの明かりの下で、いつものように日記兼帳簿を開いた。
叔父との会話で得た情報を整理するためだ。
マテロ塔の建設: 煉瓦と石材の需要が急増しているはずだ。
民兵の動員: 彼らの制服、食料、靴。これらを納入する業者は、今ごろ笑いが止まらないだろう。
(戦争は巨大な消費だ。そして、国家の危機こそが、最大のビジネスチャンスになる)
パーシバルは、窓の外の暗闇を見つめた。
ウィンチェスターの街は、灯火管制に近い状態で、普段よりも暗い。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
今の彼には、まだ力がない。
13歳の学生。ボランティアという名ばかりの軍属見習い。
だが、あと3年。
16歳になれば、正規の辞令を受けて、少尉になれる。
彼の計画はこうだ。
まず、最も死亡率の低い、しかし兵站の中枢に関わる「王立輸送部隊」に潜り込む。
そこで、軍の物資調達網を掌握し、商人たちとのコネクションを作る。
給与など微々たるものだが、軍需物資の横流し……ではなく、合法的な「情報の先取り」と「投資」によって、資産を築くのだ。
「ナポレオン皇帝陛下。精々、我々を脅かしてください」
パーシバルは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「あなたの存在が、ロンドンの株価を下げ、物価を上げ、そして僕のような野心家にチャンスをくれるのですから」
恐怖に怯えるウィンチェスターの街で、ただ一人、パーシバルだけが冷静に未来を見据えていた。
彼は、机の引き出しから1枚の紙幣を取り出した。
父の手伝いで得た報酬の一部。今はまだ小さな種銭だが、来るべき「勝利の年(1805年)」に向けて、彼はこれを一切使わず、貯め込んでいた。
トラファルガーでイギリスが勝ち、侵攻の脅威が去った瞬間、暴落した国債は急騰するだろう。
そのタイミングを、彼は逃すつもりはなかった。
たとえ少額でも、この「勝ち馬」に乗る経験こそが、将来、彼がジェントリとして独立するための第一歩となるのだから。
時計の針は深夜12時を回ろうとしていた。
パーシバルはランプを吹き消し、冷たいベッドに潜り込んだ。
夢の中で彼は、荷馬車隊を率いて戦場を駆け巡り、その轍の後に黄金の道ができる光景を見ていた。
■治安判事の憂鬱と対仏大同盟(1805年前半)
1805年、春。
イギリスの田園地帯には、今年も変わらず穏やかな季節が巡ってきていた。
牧草地には羊の群れが白い雲のように広がり、生垣にはサンザシの花が蕾をほころばせている。
しかし、シャルトン家のマナー・ハウスにある「父の書斎」だけは、重苦しい緊張と、インクと古紙の匂いに包まれていた。
「……静粛に。これより、国王陛下の名において、治安判事による審問を行う」
重厚なマホガニーの机の向こう側で、父ヘンリー・エドワード・シャルトンが低い声で告げた。
普段の「父親」としての顔ではない。そこにあるのは、この地域の法と秩序を司るエスクワイアとしての厳格な表情だった。
その傍らには、14歳になったパーシバルが控えている。
彼は今、単なる帳簿係ではなく、治安判事の書記のような役割を果たしていた。
手元には羽根ペンと、判決を記録するための公定の台帳が置かれている。
部屋の中央には、村の教区吏員に腕を掴まれた、一人の男が立たされていた。
服は継ぎはぎだらけで、泥にまみれている。手には古びた帽子を握りしめ、怯えた様子で床を見つめていた。
■エスクワイアの重責:密猟者への裁き
「被告人、トマス・クーパー。
お前は昨夜、シャルトン領内の森にて、許可なく罠を仕掛け、野ウサギ一羽を捕獲した疑いが持たれている。
……申し開きはあるか?」
ヘンリーの声が響く。
男、トマスは震える声で答えた。
「旦那様……お慈悲を。言い訳はいたしません。
ですが、子供が……末の娘が腹を空かせて泣くのです。
パンの値が上がりすぎて、もう三日もまともな物を食わせてやれなくて……」
典型的な密猟の動機だった。
1805年の春、パンの価格は依然として高止まりしており、貧しい小作人や日雇い労働者にとって、森の獲物は「目の前にある肉」という誘惑そのものだった。
しかし、当時のイギリスにおいて、密猟は重罪である。
特に地主階級にとって、狩猟権は神聖な特権であり、それを侵す者は厳罰に処されるのが常だった。
場合によっては、オーストラリアへの流刑や、さらに重い刑が科されることもある。
パーシバルは、ペンの先をインク壺に浸しながら、父の横顔を盗み見た。
法律(法典)に従えば、トマスには高額の罰金刑、支払えなければ監獄行きが妥当だ。
だが、彼を牢屋にぶち込めば、残された家族はどうなる? 救貧税(生活保護)の対象となり、結局は村の財政負担になるだけだ。
ヘンリーは、机の上に置かれた分厚い法律書『バーンの治安判事便覧(Burn's Justice of the Peace)』には目もくれず、じっとトマスを見据えた。
「トマス。お前の窮状は知っている。だが、法は法だ。
これを許せば、森のウサギは一週間でいなくなるだろう」
「は、はい……」
「よって、本官は以下の判決を下す」
部屋の空気が張り詰める。パーシバルもペンを握り直した。
「罰金5シリング。……ただし」
ヘンリーは言葉を切った。トマスが顔を上げる。
5シリングは、彼の日当の数倍だ。払えるはずがない。
「お前にはその金がないだろう。よって、罰金の代わりに労役を命じる。
北の街道にかかる石橋が、先日の大雨で崩れかけている。
あそこの修繕工事に、明日から2週間従事せよ。
その間の賃金は支払われないが、代わりに昼食としてパンとスープを支給する。
……以上だ」
トマスは、信じられないものを見るような目でヘンリーを見つめ、やがて涙ぐんで何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、旦那様! ありがとうございます! 橋でも何でも直します!」
「行け。二度目はないぞ」
教区吏員に連れられてトマスが退室すると、ヘンリーはふう、と深く息を吐き、椅子に背を預けた。
その顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「……記録したか、パーシバル」
「はい、父上。『トマス・クーパー、密猟の罪により、橋修繕の労役2週間を科す』と」
パーシバルは台帳に美しい筆記体で記入しながら、父に問いかけた。
「よろしかったのですか? 5シリングの罰金は、法律の規定よりもかなり軽いですが」
「構わんさ。あいつから金を巻き上げても、どうせ教区が救貧手当を出すことになる。
ならば、壊れかけた橋を直させた方が、村にとっても、あいつの家族にとっても益になる」
ヘンリーは苦笑いを浮かべた。
「パーシバル、覚えておけ。治安判事(我々)の仕事は、法典を暗唱することではない。
この地域の『秩序』と『生活』を維持することだ。
厳罰だけで腹は膨れんし、慈悲だけでは盗人は減らん。
そのバランスを取るのが、エスクワイアの義務というものだ」
パーシバルは深く頷いた。
これこそが、イギリスの地方自治の要だ。
地主たちは特権階級だが、同時に無給で地域の行政・司法・警察機能を担っている。
彼らが機能しなければ、国は回らない。
(父上は、ただの金持ちじゃない。この地域の『管理者』なんだ)
パーシバルは、父の背中を見て学んでいた。
人を動かすには、恐怖だけでも、金だけでも足りない。
相手の生活を理解し、逃げ道を用意しつつ、全体の利益になる方向へ誘導する。
これは、将来彼が王立輸送部隊で部下や業者を扱う際にも、必ず役に立つ教訓だった。
■書類の山と救貧行政
「さて、感傷に浸っている暇はないぞ。次は救貧税(Poor Rate)の徴収リストだ」
ヘンリーは、机の上に積み上げられた別の書類の山を崩した。
救貧税とは、各教区(村)が貧民を救済するために、土地や建物の価値に応じて住民から徴収する税金のことだ。
「今年に入って、手当の申請者が急増している。
パンの高騰に加え、兵士として働き手を取られた家庭が苦しんでいるからだ」
パーシバルは、父が渡してくるリストを受け取り、手際よく分類を始めた。
「未亡人のエヴァンス夫人は支給額の増額を申請。
日雇いのジョン・スミスは怪我のため一時的な扶助を希望……。
父上、これでは予算が足りません。地主(我々)や自作農からの徴収額を上げざるを得ないのでは?」
「その通りだ。だが、これ以上税を上げれば、今度は中流の農民たちが破産する。
……頭の痛い問題だ」
ヘンリーはこめかみを押さえた。
戦争は、遠い戦場の出来事ではない。
この書斎にある、インクで汚れた帳簿の中にこそ、戦争の痛みが刻まれている。
さらに、彼らを悩ませるのが民兵の募集割り当てだ。
政府は、フランス軍の侵攻に備え、各州に対して民兵の供出を求めていた。
治安判事であるヘンリーは、村の男たちの中から「くじ引き」で兵士を選び、送り出さなければならない。
「昨日のくじ引きでは、鍛冶屋の息子が当たってしまった。
父親が泣いて頼みに来たよ。『息子を取られたら仕事が回らない』とな」
「……どうされたのですか?」
「代わりの人間を金で雇うことを許可した。残酷だが、鍛冶屋がいなくなれば、村全体の農具や馬具の修理が止まる。戦争には鉄が必要だが、畑を耕すにも鉄が必要なのだ」
父の判断は常に現実的だ。
パーシバルは、その苦渋の決断を一つ一つ記録していく。
(戦争とは、英雄の物語ではない。調整と、妥協と、そして我慢の連続だ)
■第3次対仏大同盟と東への行軍
午後のお茶の時間になり、執事のハミルトンが紅茶と、ロンドンから届いたばかりの『タイムズ』紙を持ってきた。
ヘンリーは休憩がてら、新聞を広げた。
「……ほう。パーシバル、良い知らせだ」
父の声色が明るくなった。
「ウィリアム・ピット首相が、ついにやってくれたぞ。『第3次対仏大同盟』が結成された」
「ロシアとオーストリアが動いたのですね?」
「ああ。ロシア皇帝とオーストリア皇帝が、ナポレオンの暴挙を許さんと立ち上がった。
これで、ナポレオンはブローニュの野営地から目を逸らさざるを得なくなる」
記事によれば、ロシアの大軍が西へ向かい、オーストリア軍もバイエルンへ進軍を開始したという。
フランス軍がドーバー海峡を渡るには、背後の安全が不可欠だ。
東から二大国が迫っている今、ナポレオンが全軍をイギリスに向けることは不可能になった。
「これで、上陸の危機は遠のいたと言っていいだろう。
マテロ塔の建設も、少しはペースを落とせるかもしれん」
ヘンリーは安堵の息を吐き、紅茶を啜った。
しかし、パーシバルの見方は違っていた。
前世の知識と、この2年間の勉強が、彼に別の視点を与えていた。
「父上。確かに上陸の危機は去るでしょう。ですが、これは戦争の終わりではなく、拡大を意味します」
「拡大だと?」
「はい。戦場はドーバーではなく、オーストリアやドイツ、あるいはもっと東へ移ります。
戦線が伸びれば伸びるほど、重要になるのは何だと思われますか?」
パーシバルは、壁に掛けられたヨーロッパ地図を指差した。
「補給です。ブローニュからウィーンまで、あるいはその先まで。
何十万という兵士にパンと弾薬を送り続けなければなりません。
ロシアやオーストリアが戦ってくれるとしても、資金と物資を援助するのは、我がイギリスの役割になるはずです」
イギリスは「銀行」として同盟国を支え、海軍で海を制する。
そして陸軍もまた、同盟国と連携するために大陸へ派遣される可能性がある。
「なるほど……。お前が目指している王立輸送部隊の出番は、減るどころか増えるというわけか」
ヘンリーは、息子の慧眼に感心したように頷いた。
当初は「地味な裏方」と難色を示していた父も、今ではパーシバルの選択を完全に支持していた。
治安判事として地方行政の「詰まり」を経験しているからこそ、物流と管理の重要性が痛いほど分かるのだ。
「その通りです。戦争が長引けば長引くほど、輸送部隊は必要とされます。
そして父上、これはビジネスの機会でもあります」
パーシバルは声を潜めた。
「大陸へ遠征軍が出れば、国内の馬や荷馬車が徴発されます。
今のうちに、軍馬に適した馬の購入や育成、馬具の備蓄を進めておくべきです。
必ず高値で売れます」
「……お前という奴は。国の危機を語りながら、同時に商売の話をするとはな」
ヘンリーは呆れたように笑ったが、その目には非難の色はない。
「だが、正しい。ジェントリたるもの、自分の資産を守り、増やしてこそ、こうして民に施しができるのだからな」
父は新聞を置き、再びペンの山に向き直った。
「よし、パーシバル。今日の仕事はあと半分だ。橋の修繕計画書と、民兵の追加募集の書類を仕上げてしまおう。
それが終わったら、お前の言う『馬の購入や育成計画』とやらを詳しく聞かせてもらおうか」
「はい、父上。喜んで」
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り響いている。
ナポレオンの脅威は、形を変えて続いていく。
しかし、この書斎で父と共に過ごした時間は、パーシバルにとって、どんな士官学校の授業よりも有意義なものだった。
法と秩序。
慈悲と現実。
そして、国家の動向と個人の資産防衛。
14歳のパーシバルは、エスクワイアである父の背中から、真の「支配者層」としての心得を、静かに、しかし確実に吸収していた。
来たるべき任官の日まで、彼の準備は着々と整いつつあった。
■従僕のスカウト(1805年夏)
1805年、夏。
ハンプシャー州の州都ウィンチェスターは、うだるような暑さと、戦時特有の喧騒に包まれていた。
街の中心部、ハイ・ストリートに面した一軒の「コーヒー・ハウス」は、紫煙とコーヒーの焙煎された香り、そして男たちの議論の声で満たされていた。
当時のコーヒー・ハウスは、単なる喫茶店ではない。
最新の新聞を読み、政治を論じ、商談をまとめる「情報取引所」としての機能を持っていた。
その片隅の席で、14歳になったパーシバル・シーモア・シャルトンは、苦いコーヒーを啜りながら、向かいに座る親友の顔を覗き込んだ。
「……それで、ウィリアム。君は最近、溜息ばかりついているな。
馬宿の仕事が忙しすぎるのか?」
親友のウィリアム・ホッジスは、カップを置くと、テーブルに突っ伏すようにして頭を抱えた。
彼はパーシバルと同じグラマー・スクールの同級生であり、実家はウィンチェスターでも有数の宿屋兼馬車発着所を経営している。
商人の息子らしく計算に明るく、馬の扱いにも慣れた快活な少年だったが、今日の彼はまるで世界の終わりのような顔をしていた。
「忙しいなんてもんじゃないよ、パーシー。
軍隊が移動するたびに馬を徴発されるし、宿は満室だ。……でも、僕の悩みはそんなことじゃない」
ウィリアムは顔を上げ、周囲を憚るように声を潜めた。
「昨日、親父と兄貴から卒業後の話をされたんだ。
来年から、兄貴が宿の経営権を正式に引き継ぐらしい。
僕は……『帳簿係として雇ってやるから感謝しろ』だってさ」
パーシバルは静かに頷いた。
長子相続の壁。
それは、ジェントリ階級だけでなく、資産を持つ市民階級にも重くのしかかる現実だ。
家業と財産は長男が継ぐ。次男以下は、家を出て自力で身を立てるか、あるいは実家に寄生して飼い殺されるかしかない。
「僕には何も残されない。このまま一生、兄貴の下で使用人みたいにこき使われて、小遣い程度の給金で終わるなんてごめんだ」
ウィリアムは拳を握りしめた。
「いっそ、軍隊に入ろうかと思ってる。
街には募兵官がうろついてるだろ?
『国王陛下のために戦えば、冒険と金貨が待ってる』って。
酔っ払った勢いでサインしちまおうかと、本気で考えたよ」
「やめておけ」
パーシバルは即座に、冷徹に切り捨てた。
「君のような読み書きができる人間が、一兵卒として入隊してどうする?
赤い軍服を着て、大陸のどこかで名もなき銃弾に倒れるのが落ちだ。
歩兵の死亡率を知っているか?」
「じゃあどうしろって言うんだ!
僕は士官の地位を買う金なんて持ってないし、コネもない平民だぞ!」
ウィリアムの声が大きくなり、近くの紳士たちが怪訝な顔でこちらを見た。
パーシバルは片手で彼を制し、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「……だから、僕がいるんじゃないか」
「え?」
「ウィリアム。僕は来年、15歳になったら本格的にボランティア活動を増やし、16歳で王立輸送部隊の少尉に任官する計画だ。これは決定事項だ」
「ああ、知ってるよ。お前は変わってるからな」
「士官として従軍するには、身の回りの世話をする従僕が必要だ。
軍用語でバットマン(Batman)と言うんだがね」
パーシバルは身を乗り出し、ウィリアムの目を真っ直ぐに見据えた。
「ウィリアム・ホッジス。僕のバットマンにならないか?」
ビジネスパートナーとしての「従僕」
ウィリアムは呆気に取られた表情で口を開けたまま固まった。
やがて、その顔が徐々に赤く染まっていく。それは屈辱の色だった。
「……バットマンだって?
つまり、お前の靴を磨いて、服を洗濯して、飯を作る召使いになれってことか?
俺たちは友達だろ、パーシー!」
当時の感覚でも、友人が友人の「召使い」になるというのは、プライドが許さない行為だ。
特にウィリアムは商家の息子としての自負がある。
「最後まで聞け。僕は君に、ただの召使いになれと言っているんじゃない」
パーシバルは冷静に続けた。
「いいか、ウィリアム。僕が目指しているのは、ただの軍人じゃない。
この戦争を利用して資産を築くことだ。
そのためには、信頼できる『右腕』が必要なんだ」
彼は指を折って説明を始めた。
「王立輸送部隊は、膨大な物資を扱う。
飼料の購入、馬車の修理、現地の商人との交渉。
士官である僕は書類上の責任者だが、実務を回すには、市場の相場を知り、馬の目利きができ、計算が速い人間が絶対に不可欠だ」
パーシバルは、あえて厳しい現実も突きつけた。
「軍で支給されるバットマンは、大抵が兵卒の中から選ばれる。
文字も読めず、酒癖が悪く、隙あらば主人の財布を盗むような連中だ。
そんな人間に背中は預けられない。……だが、君ならどうだ?」
「……俺は、計算もできるし、馬のことは誰よりも知ってる」
ウィリアムがボソリと言った。
「その通りだ。君はグラマー・スクールで僕と同じ教育を受けている。
僕が提案するのはこういう契約だ」
パーシバルは手帳を開き、あらかじめ書いておいた条件を見せた。
身分: 公的にはパーシバル・シャルトン少尉の私的従僕として軍に帯同する。
これにより、ウィリアムは徴兵の恐怖なく、安全な後方部隊に所属できる。
給与: 軍から支給される従僕手当に加え、パーシバル個人から同額の給与を支払う。
つまり、一般兵卒の倍以上の収入が保証される。
商機: これが最も重要だ。
「僕たちは現地で様々な物資を調達する。
その際、君の商才で見つけた『掘り出し物』や、前線での嗜好品や馬の販売による利益が出た場合、その利益の2割を君に配当する」
「……利益の、2割?」
ウィリアムの目の色が、商人のそれに変わった。
「そうだ。戦場は情報の宝庫だ。
どこの街で何が不足しているか、次に軍がどこへ動くか。
僕たちはそれを一番近くで知ることができる。
靴下、ブランデー、タバコ……軍隊の需要は無限だ。
それを法に触れない範囲で、上手く立ち回れば……」
「……兄貴の店で一生働くより、遥かに稼げる」
ウィリアムがゴクリと喉を鳴らした。
「リスクはある。だが、歩兵として最前線で撃ち合うよりはずっと低い。
王立輸送部隊は後方支援だ。
……どうだ、ウィリアム。
僕の『召使い』ではなく、『ビジネスパートナー』として、一緒に来ないか?」
ウィリアムは長い沈黙の後、残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
そして、ニヤリと笑った。
「悪くない話だ。
……いや、最高の話かもしれない。
靴磨きくらい、喜んでやってやるよ。
その代わり、俺を金持ちにしてくれよ、大将」
「約束するよ。相棒」
■馬宿の親父と「出世」の定義
数日後。パーシバルは正装をして、ウィリアムの実家である「ホッジス・コーチング・イン」を訪れた。
中庭には馬車が出入りし、厩舎からは馬のいななきと藁の匂いが漂ってくる。
事務所の奥で、ウィリアムの父、ジョン・ホッジスが太い腕組みをして座っていた。
頑固で知られるこの男を説得しなければ、ウィリアムを連れて行くことはできない。
「……ほう。シャルトン家の次男坊が、うちのウィリアムを『軍隊』に連れて行きたいだと?」
ジョンは疑り深い目でパーシバルを睨んだ。
「お遊びじゃないんだぞ、若いの。
戦争だ。一人前の働き手である息子を、わざわざ死地に送る親がどこにいる」
「お言葉ですが、ホッジス様」
パーシバルは、14歳とは思えない落ち着き払った態度で、エスクワイア階級特有の丁寧だが威厳のある口調を使った。
「ウィリアム君は優秀です。このままウィンチェスターの街で、帳簿付けだけで一生を終えさせるには惜しい才能を持っています」
「買い被りだ。あいつは次男坊だ。分をわきまえさせるのが親の務めだ」
「その『分』について提案がございます」
パーシバルは一歩も引かなかった。
「私は来年、王立輸送部隊の士官として任官します。
ウィリアム君には、私の個人的な補佐官として同行してもらいたいのです。
最前線で銃を持たせるのではありません。
後方で、軍の兵站を管理する仕事です」
パーシバルは、ジョンが商人であることを意識して言葉を選んだ。
「軍とのコネクションは、ホッジス家の家業にとっても有益なはずです。
彼が軍内部の輸送事情に通じれば、将来、この馬宿が軍の指定業者になるための口利きもできるでしょう」
ジョンの眉がピクリと動いた。
「軍の……指定業者か」
「はい。私はシャルトン家の名をかけて、彼を危険な目に遭わせないよう最大限配慮します。
そして、彼には十分な給与と、将来独立できるだけの資金を稼がせるつもりです」
パーシバルは、父ヘンリーから借りてきた「シャルトン家の紋章入り印章」をちらりと見せた。
それは、この地域の有力者であるエスクワイアの保証を意味する。
ジョンはしばらくパーシバルを睨みつけていたが、やがて大きなため息をつき、肩の力を抜いた。
「……ジェントリの坊ちゃんにしちゃ、商売の勘所が分かってるようだな。
それに、あいつの腐った目を見るのも飽きていたところだ」
ジョンは立ち上がり、パーシバルに太い手を差し出した。
「連れて行け。ただし、戦死させたらたっぷり見舞金を貰うからな」
「承知いたしました。感謝します」
パーシバルはその手を力強く握り返した。
その掌は分厚く、ざらついていた。これが、労働と商売で生きてきた男の手だ。
■ボランティアとしての第一歩
契約は成立した。
その週末から、ウィリアムの生活は一変した。
彼はパーシバルと共に、ウィンチェスター郊外にある王立輸送部隊の倉庫へ通い始めたのだ。
「いいか、ウィリアム。ここからは『友人』じゃない。
僕は『シャルトン様』、君は『ホッジス』だ。
他人の目があるところでは、絶対に崩すな」
倉庫の前で、パーシバルは厳しく言い渡した。
軍隊は階級社会だ。士官と兵卒(従僕)が馴れ合っている姿を見られれば、規律の乱れとしてパーシバルの評価が下がる。
「へいへい……いや、承知しました、シャルトン様」
ウィリアムは慣れない手つきで敬礼を真似た。
倉庫の中では、古参の軍曹が待っていた。
「おやおや、パーシバル殿。今日は新しい下っ端を連れてきたんですかい?」
「はい、軍曹。彼もボランティアとして登録をお願いします。
私の将来のバットマン候補です。馬の扱いなら、私より上手いですよ」
「ほう! それは頼もしい。おい新入り! さっそくあの荷馬車の車軸にグリスを塗れ! その後は馬房の掃除だ! 手が遅かったら昼飯抜きだぞ!」
「ハイ!」
ウィリアムは、着ていた上着を脱ぎ捨て、泥と油にまみれた作業場へと飛び込んでいった。
その背中には、以前のような鬱屈した空気はない。
自分の役割と、目標を見つけた男の活気があった。
パーシバルは、その様子を満足げに眺めながら、自分も上着を脱いで腕まくりをした。
彼自身もまた、ボランティアとして学ぶべきことは山ほどある。
(これで、最低限の駒は手に入った)
優秀な実務担当者を手に入れた。
父からは資金と信用を得た。
軍隊へのコネクションも築きつつある。
1805年の夏。
ナポレオンの脅威が迫る中、二人の少年は、未来への確かなレールを敷き始めていた。
彼らが目指すのは、単なる軍功ではない。
この巨大な戦争という嵐を乗りこなし、富という果実をもぎ取ること。
来るべき1806年の任官、そして大陸への遠征に向けて、彼らの「準備期間」は、いよいよ佳境に入ろうとしていた。
■トラファルガーの勝利と旅立ち準備(1805年10月~冬)
1805年、11月6日の深夜。
ハンプシャー州ウィンチェスターの静寂は、ロンドン街道を疾走してきた急使の蹄の音と、それに続く大聖堂の鐘の音によって打ち破られた。
「起きろ! 起きてくれ! ニュースだ!」
夜警の声が響く。人々は寝間着のまま窓を開け、あるいは松明を手に通りへと出てきた。
何事か。フランス軍の上陸か? それとも国王陛下の崩御か?
不安と緊張が頂点に達したその時、広場に馬を乗り入れた伝令が、枯れた声で、しかし誇らしげに叫んだ。
「大勝利だ! 我が艦隊が、トラファルガー沖にてフランス・スペイン連合艦隊を撃滅した!」
歓声が上がった。帽子が空に舞い、見知らぬ者同士が抱き合う。
ナポレオンが築いたブローニュの野営地、そこに集結していた10万の侵攻軍。
その恐怖が、この一瞬にして消滅したのだ。
ドーバー海峡の制海権は、永遠にイギリスのものとなった。
しかし、伝令は帽子を取り、涙ながらに付け加えた。
「……だが、悲報がある。我らが英雄、ネルソン提督が……敵の銃弾を受け、名誉の戦死を遂げられた!」
広場の歓喜は、一瞬にして深い沈黙へと変わった。
勝利の代償は、あまりにも大きかった。
■英雄の死と投資家の安堵
翌朝、ウィンチェスターの街は黒い喪章と、勝利を祝うユニオンジャックが入り混じった奇妙な光景に包まれていた。
グラマー・スクールの教室でも、教師が涙を流しながらネルソン提督の最期について語っていた。
「『英国は各員がその義務を果たすことを期待する』。提督はそう信号旗を掲げ、自ら陣頭に立たれたのだ……」
生徒たちも鼻をすすっている。
だが、最後列の席で、パーシバル・シーモア・シャルトンだけは、乾いた眼で窓の外を見つめていた。
(ネルソン提督、感謝します。あなたの死は悲劇だが、その勝利は我が国の経済に計り知れない安定をもたらした)
彼は手元のノートに、今朝の市場で確認したコンソル公債(3%統合公債)の価格を書き込んだ。
暴落していた公債価格は、勝利の報を受けて反発している。
だが、ネルソンの死と、大陸での不透明な情勢により、爆発的な高騰には至っていない。
(上陸の恐怖は消えた。だが、戦争が終わったわけではない。市場はまだ迷っている)
パーシバルは、英雄の死を悼みつつも、自身の「卒業」の時が来たことを悟っていた。
フランス軍が海を渡って来ない以上、イギリス軍は大陸へ打って出るしかない。
つまり、遠征だ。
兵站を担う王立輸送部隊の出番は、これからが本番となる。
■さらば、ラテン語の日々
12月。
パーシバルは、5年間通ったグラマー・スクールを卒業した。
最後の授業が終わり、使い古したラテン語の辞書や、ウェルギリウスの詩集を鞄に詰め込む。
「シャルトン。お前は優秀だったが、最後までこの美しい詩の韻を踏むことに情熱を持てなかったな」
老教師が、少し残念そうに声をかけてきた。
パーシバルは礼儀正しく一礼した。
「先生。ご指導、感謝いたします」
校門を出ると、冷たい冬の風が頬を打った。
そこには、すでに「従僕」としての自覚を持ち始めた親友、ウィリアム・ホッジスが待っていた。
「卒業おめでとう、パーシバル様。……いや、もう『少尉候補生』と呼ぶべきかな?」
ウィリアムは、半分冗談めかして、しかし半分は本気で敬礼してみせた。
「よしてくれ。まだ辞令は手に入っていないんだ。……さあ、急ごう。父上の書斎で、重要な会議がある」
■士官への道:金とコネの「購入制度」
マナー・ハウスの書斎では、父ヘンリー・エドワード・シャルトンと、叔父ルイス・エドワード・シャルトン少佐が、暖炉の前でグラスを傾けていた。
テーブルの上には、ロンドンの軍事代理人から届いた書類が広げられている。
「パーシバル、卒業おめでとう。……さて、約束通り、お前の進路について具体的な手続きに入ろう」
父ヘンリーは、重厚な革表紙の書類を手に取った。
19世紀初頭のイギリス陸軍において、将校(士官)になるためのルートは、現代のそれとは大きく異なる。
それは購入制度(Purchase System)と呼ばれる、金銭取引によって階級を買うシステムだった。
「まず、王立輸送部隊の少尉の価格だが……」
ヘンリーは書類を確認した。
「歩兵連隊の少尉であれば400ポンドから450ポンドが相場だが、輸送部隊は少し特殊だ。
騎兵に準ずる扱いだが、人気がないため、実勢価格は350ポンド前後で取引されているようだ」
350ポンド。
父の年収の約6分の1。
一般的な労働者の年収の10倍にあたる大金だ。
「父上、その金額については……」
「心配するな。これは私からの『投資』だ。お前の教育費と、将来の遺産の前渡しだと思って受け取れ」
ヘンリーは太っ腹に言った。
しかし、ここからがこの制度の複雑なところだ。
ただ金があればなれるわけではない。
叔父ルイスが、ブランデーグラスを回しながら解説を加えた。
「いいか、パーシバル。金は必要条件だが、十分条件ではない。士官になるには、二つの壁がある」
ルイスは指を二本立てた。
「一つ目は空席(Vacancy)だ。
誰かが昇進するか、退役するか、あるいは死んでポストが空かない限り、お前は入り込めない。
軍隊の定員は決まっているからな」
「はい。現在、空きはあるのでしょうか?」
「幸運なことにな。
トラファルガーの勝利で軍拡の機運が高まり、輸送部隊も増強されることになった。
加えて、私の友人が連隊長と懇意にしている。
お前がボランティアとして真面目に働いていた実績も考慮され、空席を一つ回してもらえる手はずが整った」
これがコネ(Patronage)の力だ。
ボランティアとして3年間、時折であるが連隊で真面目に手伝いを働いた実績が、ここで生きてくる。
全くの新参者なら、空席待ちのリストの最後尾に並ばされるところだった。
「二つ目は連隊長の承認だ。
連隊長は、自分の部隊に相応しくない人間を拒否する権利を持っている。
金を持っていても、家柄が悪かったり、素行に問題があれば弾かれる」
「その点については、我がシャルトン家はエスクワイア(郷紳)であり、問題ありません」
パーシバルは胸を張った。
「うむ。私の推薦状と、ヘンリー兄貴の信用があれば通るだろう。
……だが、覚えておけ。これはスタートラインに過ぎない」
ルイスは表情を引き締めた。
「少尉になった後、さらに上の中尉(Lieutenant)、大尉(Captain)へと昇進するには、また金が必要になる。
中尉の相場は550ポンド、大尉になれば1500ポンド以上だ」
これが「購入制度」の恐ろしさであり、同時にパーシバルが狙う「抜け道」でもあった。
「昇進のルートは二つだ」
ルイスが続ける。
「一つは、上の階級の者が退役する際に、その権利を買い取って昇進する購入昇進。
金さえあれば、若くてもどんどん出世できる」
「そしてもう一つが……」
パーシバルが言葉を引き継いだ。
「無償昇進(Death Vacancy)ですね」
「その通りだ。上の人間が戦死、あるいは病死した場合、その空席は下の階級の最先任者が、金を使わずに繰り上がりで昇進できる。
……戦争中は、これが一番の出世コースだ」
残酷な話だが、戦争で上官が死ねば死ぬほど、生き残った士官は無料で出世できる。
逆に言えば、平和な時期にはポストが空かず、万年少尉で終わる者も多い。
「私は、輸送部隊を選びました。ここは歩兵に比べて戦死率は低いですが、過酷な環境での病死や事故は多い。
そして何より、人気がないため、金さえ積めば競争相手は少ないはずです」
パーシバルは冷静に分析した。
華やかな近衛連隊や騎兵連隊は、貴族の三男坊たちがこぞって金を積むため、価格が高騰し、空きが出ない。
しかし、輸送部隊なら、実力と資金があれば、若くして中尉、大尉へと駆け上がれる可能性がある。
「……計算高い奴だ」
ルイスは苦笑し、ヘンリーに向き直った。
「兄貴、こいつなら大丈夫だ。
ロンドンの代理人、コックス&グリーンウッド社(Cox & Greenwood)に手付金を振り込んでくれ。
来年の春には、晴れて『パーシバル・シャルトン少尉』の誕生だ」
「分かった。
……パーシバル、お前には1000ポンドまでは用意してやるつもりだったが、350ポンドで済むなら安いものだ。
残りの金は、お前の装備と、ウィリアム君の雇用費、そして……軍での交際費や中尉へ任官するための元手にでも使え。
さらなる追加での支援が必要なら連絡をするように」
「ありがとうございます、父上!」
パーシバルは深々と頭を下げた。
任官費用を除いても、650ポンド近い資金が手元に残る。
これに、これまでの小遣い貯金と合わせて700ポンド近い「軍資金」ができる。
さらに必要であれば実家から追加の支援もすると父は約束をしてくれた。
(700ポンド。悪くない。これを元手に、大陸で一山当ててやる)
■アウステルリッツの影と長期戦の予感
1805年も暮れようとしていた12月下旬。
イギリスを再び暗いニュースが襲った。
オーストリアのアウステルリッツにて、ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を壊滅させたのだ。
「三帝会戦」と呼ばれるこの戦いで、ナポレオンは欧州大陸における覇権を決定的なものにした。
ウィリアム・ピット首相は、ヨーロッパの地図を指してこう言ったと伝えられている。
「この地図を仕舞え。今後10年は必要ないだろう」
マナー・ハウスの窓から、雪の積もった庭を眺めながら、パーシバルは呟いた。
「海はイギリス、陸はフランス。……勝負はつかないな」
隣に立つウィリアム・ホッジスが、温かいコーヒーを差し出しながら答える。
「ということは、戦争は長引くってことですか? 旦那様」
「ああ、長引くよ。あと5年、いや10年は続くだろう。大陸封鎖、経済戦争、そして消耗戦だ」
パーシバルはコーヒーの湯気の向こうに、未来の戦場を幻視していた。
スペインの荒野、ポルトガルの山岳地帯、そして極寒のロシア。
そこには、何十万頭もの馬と、それを維持するための膨大な飼料、食料、被服が必要になる。
「ウィリアム、準備はいいか? 僕たちが扱うのは、英雄的な突撃じゃない。
地味で、退屈で、泥臭い『物流』だ。だが、そこには金が埋まっている」
「ええ、覚悟はできてますよ。新しい軍服の採寸も済ませました。
……それにしても、輸送部隊の制服ってのは、どうしてこう地味なんですかね」
ウィリアムが自嘲気味に笑う。
王立輸送部隊の制服は、華麗な深紅ではなく、実用的な濃紺や灰色を基調とした地味なものだった。
「目立たなくていいさ。戦場では、派手な奴から死んでいくんだ」
パーシバルは、父から贈られた真新しい士官用のサーベルを手に取った。
その柄には、シャルトン家の紋章が刻まれている。
1806年。
15歳(数えで16歳)になる年。
パーシバル・シーモア・シャルトン少尉は、いよいよ歴史の表舞台の「裏側」へと出立する。
少年時代は終わった。これからは、国家の命運と、自身の野望を賭けた、大人のゲームが始まるのだ。
冬の空に、新しい年を告げる鐘が鳴り響こうとしていた。
(第2章・完)




