第1章(1803年)父の信頼獲得と進路
1803年4月
ハンプシャー州の春は、気まぐれな雨と共に訪れた。窓の外では、鉛色の空から降り注ぐ雨が、シャルトン家の広大な領地を濡らし、若草の緑をより一層深く染め上げている。
マナー・ハウスの二階にある書斎。
そこは、父ヘンリー・エドワード・シャルトンの聖域であり、同時に彼の憂鬱の源でもあった。
「……また計算が合わん。羊毛の売却益と、種籾の仕入れ値がどうして同じページに走り書きされているんだ」
重厚なマホガニーの机に向かうヘンリーは、こめかみを指で押さえながら、深いため息をついた。
彼の目の前には、羊皮紙の束や、切れ端のようなメモが山と積まれている。
それらはすべて、120エーカーにおよぶ「ホーム・ファーム(直営農場)」の先月分の記録だ。
当時のカントリー・ジェントリ(地方地主)にとって、領地経営は名誉ある義務だったが、その実務は混沌を極めていた。
正規の簿記教育を受けていない農場管理人がよこす報告書は、日付も項目もバラバラ。
収入と支出が混在し、「誰にいくら貸したか」と「今日いくら儲かったか」が同じ行に書かれていることも珍しくない。
その「霧」のような数字の海を、一人の少年が静かに切り裂こうとしていた。
「父上。お約束していた、先月分のホーム・ファームの収支整理が終わりました」
ノックと共に現れたのは、十二歳の次男、パーシバルだった。
彼は脇に一冊の真新しい帳面を抱え、緊張と自信が入り混じった表情で立っていた。
「おお、パーシバルか。……そうか、もう終わったのか? ハミルトンに手伝わせても三日はかかる分量だったはずだが」
「学校で習った『分類』の考え方を試してみました。数字の羅列ではなく、意味のある情報として整理し直したのです」
パーシバルは机の前の椅子を勧められ、父の目の前に帳面を広げた。
そこには、ヘンリーが見慣れた混沌としたメモ書きとは全く異なる、整然とした「秩序」があった。
パーシバルが作成したのは、現代で言うところの「損益計算書」の原型に近いものだった。
だが、あくまで1803年の道具立て――インクと羽ペン、そして定規で引かれた線――で作られている。
「まず、左側のページをご覧ください。ここには『収入』のみを、日付順に記載しました」
パーシバルが指し示す先には、美しい筆記体で項目が並んでいる。
【収入の部】
3月3日: 羊毛売却(ウィンチェスター羊毛組合へ納入) …… 600シリング(30ポンド)
3月10日: 家畜市場での若牛二頭の売却 …… 240シリング(12ポンド)
3月15日: 鶏卵および乳製品の販売(村の市場にて) …… 12シリング
「そして、右側のページが『支出』です。
こちらも、ただ並べるのではなく、『種・肥料』『労働賃金』『修繕・雑費』と、何に使った金なのかを分けてあります」
ヘンリーは眼鏡の位置を直し、身を乗り出した。
これまで、彼の頭の中では「なんとなく儲かっているはずだ」という感覚しかなかった経営状態が、明確な数字としてそこに存在していた。
「……種籾に120シリング。
臨時雇いの労働者に80シリングか。
ふむ、こうして見ると、どの時期に金が出ていくかが一目瞭然だな」
「はい。そして父上、こちらをご覧ください。『修繕・雑費』の項目です」
パーシバルは、帳面の一箇所を指差した。
そこには、蹄鉄の交換費用と、鋤の修理代が記されていたが、その金額が前年の同時期の記憶よりも明らかに高騰していた。
3月8日: 農耕馬四頭の蹄鉄交換および農具修理 …… 45シリング
「45シリングだと? 高いな。以前は30シリングもあれば足りたはずだ。
鍛冶屋のジョンめ、足元を見おって」
ヘンリーが不快そうに眉をひそめる。
ここでパーシバルは、ウィンチェスターの街で仕入れた情報を、さも「子供の観察」であるかのように付け加えた。
「父上、それは鍛冶屋のせいではないかもしれません。
先週、学友と話したのですが、最近ウィンチェスターの街では鉄の価格が上がっているそうです」
「鉄が?」
「はい。街の駐屯地にいる軍隊が、大砲の車輪や馬車を修理するために、鉄と職人を大量に確保しているとか。
そのせいで、民間の鍛冶屋に回る鉄が不足し、職人の手間賃も上がっているのです」
ヘンリーは顔を上げ、息子の顔をまじまじと見つめた。
ただ帳簿をつけただけではない。その数字の裏にある「理由」を、社会情勢と結びつけて理解している。
「……ナポレオンの影か。こんな田舎の農場の蹄鉄代にまで、戦争の気配が及んでいるとはな」
父は嘆息したが、その目には先ほどまでの疲労の色はなく、代わりに鋭い光が宿っていた。
「それで、結局のところ、先月のホーム・ファームは黒字なのか?」
「はい。差引で595シリング(29ポンド15シリング)の純利益が出ています。鉄の価格上昇を考慮しても、羊毛の相場が良いので十分に吸収できています」
「29ポンド15シリング……」
ヘンリーは椅子に深く背を預けた。
霧が晴れたようだった。
これまでは「金庫に金があるから大丈夫だ」という丼勘定だったが、今は「何が利益を生み、何が利益を食いつぶしているか」が明確に見える。
「パーシバル。正直に言おう。お前がここまでやるとは思っていなかった」
父の声には、隠しようのない称賛が含まれていた。
彼は机の引き出しを開けると、約束通り、銀貨を取り出した。
「これは報酬だ。約束の3シリングに、ボーナスとして1シリング追加しよう。合計4シリングだ」
チャリン、と重みのある音がして、パーシバルの手のひらに銀貨が載せられた。
1ポンド(20シリング)の五分の一。
当時の労働者の数日分の日当に相当する金額だ。
だが、現代日本の記憶を持つパーシバルにとっては、金額以上の意味があった。
これは「資本」だ。そして、父からの「信頼の証」だ。
「ありがとうございます、父上。大切に使わせていただきます」
「うむ。……それでだ、パーシバル。お前に頼みたいことがもう一つある」
ヘンリーは、机の脇に置かれた、さらに分厚い革表紙の台帳に手をかけた。それは、埃をかぶったままの、シャルトン家の最も重要な記録簿だった。
「これは領地全体の地代管理簿だ。
900エーカー分の小作人からの入金記録だが……実を言うと、去年の秋から未整理のまま放置してある。
私一人では、どうしても手が回らなかったのだ」
父の顔には、もはや息子への侮りはなかった。そこにあるのは、有能な事務官に対する期待だった。
「これを、ホーム・ファームと同じように整理できるか? 過去一年分、いや、できれば二年分遡って」
パーシバルは、湧き上がる高揚感を抑えながら、静かに、しかし力強く頷いた。
「お任せください、父上。次の学校の休みまでに、必ずやシャルトン家の『真の姿』を明らかにしてご覧に入れます」
「頼んだぞ。……ああ、それから、その新しい帳面の書き方だが、執事のハミルトンにも教えてやってくれんか。あの男も古いやり方に固執して困っていたのだ」
「はい、喜んで」
一礼して書斎を出たパーシバルは、廊下の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
手の中の4シリング銀貨を強く握りしめる。
(第一段階、クリアだ)
父は、僕を認めた。
単なる子供ではなく、この家の経営に必要な「機能」として。
この分厚い台帳を整理すれば、シャルトン家の資産状況のすべて――借金の有無、現金の正確な残高、公債の運用益――が手に入る。
それは、これから訪れる激動の時代、ナポレオン戦争によるインフレと戦後のデフレを生き抜くための、最強の羅針盤となるはずだ。
「……さて、忙しくなるぞ」
パーシバルは、雨音にかき消されるほどの小さな声で呟くと、自室へと足早に戻っていった。
その背中は、12歳の少年とは思えないほど、頼もしく見えた。
■二ヶ月の蓄積 ―― 信頼という名の資産
1803年、6月。
ハンプシャー州の田園風景は、鮮やかな緑と野花の色彩に包まれていた。
初夏の風が吹き抜け、羊たちの鳴き声が穏やかに響く平和な季節だが、マナー・ハウスの書斎には、静かなる熱気が満ちていた。
「……できた」
パーシバル・シーモア・シャルトンは、最後の一行にペンを走らせ、インクが乾くのを待った。
4月の「ホーム・ファーム(直営農場)」の整理から2ヶ月。彼は週末ごとの帰省をすべてこの作業に費やし、父ヘンリーから託された膨大な過去の書類と格闘し続けてきた。
机の上に積み上げられているのは、埃をかぶった羊皮紙の束ではない。
パーシバルが自ら製本した、真新しい革表紙の「年次財務報告書」だ。
そこには、シャルトン家という組織の血液――すなわち「金」の流れが、1802年1月1日から12月31日までの1年間、そして1803年の現在に至るまで、完全に可視化されていた。
「父上、お時間よろしいでしょうか」
パーシバルは、緊張を隠して父に声をかけた。
窓辺でパイプを燻らせていたヘンリーが振り返る。
その顔には、以前のような帳簿に対する忌避感よりも、息子が何を成し遂げたのかという好奇心が浮かんでいた。
「ああ、待っていたぞ。例の『総決算』か?」
「はい。昨年1802年の確定収支と、今年の上半期の見通しをまとめました」
パーシバルは報告書を開き、父の目の前に提示した。
そこには、現代の会計監査も納得するレベルで整理された、シャルトン家の「真実」が記されていた。
【1802年度 シャルトン家 財務総括】
ヘンリーは眼鏡をかけ直し、指で数字を追い始めた。
かつては「だいたい2000ポンドくらいの入りがあって、なんとなく残る」という認識だったものが、残酷なまでに正確な数字として突きつけられる。
1. 収入の部(Total Income):1944ポンド
「まず、収入の内訳です」
パーシバルが解説を加える。
地代収入(Rents):910ポンド
領地内の小作地(約900エーカー)からの定額収入。最も安定的だが、契約により急な値上げは不可能。
ホーム・ファーム(Direct Farming):590ポンド
父ヘンリーが直接経営する120エーカーの農場収益。羊毛と穀物の売却益。
(パーシバルの注釈:前年比で5%増。羊毛相場の高騰が寄与)
不動産賃料(Properties):230ポンド
村のコテージ17軒、宿屋、水車小屋などの家賃。
コンソル公債利息(Consols Interest):120ポンド
保有する額面4000ポンドの3%国債からの利子。年2回、イングランド銀行より支払い。
貸付金利息・その他:94ポンド
近隣の個人への貸付(800ポンド分)の利息と、雑収入。
「ふむ……。ホーム・ファームが全体の約3割を稼ぎ出しているのか。地代に次ぐ柱だな」
ヘンリーが感心したように呟く。
「はい。ですが父上、ホーム・ファームは天候と相場に左右されます。
地代と公債の利息という『固定収入』が盤石であることが、この家の強みです」
2. 支出の部(Total Expenditure):1820ポンド
次に、ヘンリーの指が右側のページ、赤インクで線が引かれた支出の項目へと滑った。
こここそが、多くのジェントリが直視を避けたがる現実だ。
税金(Taxes):295ポンド
土地税、窓税(Window Tax)、救貧税(Poor Rate)、そして教会への十分の一税を含む。
(パーシバルの注釈:特に救貧税の負担が増加傾向にあり)
事業経費(Business Expenses):665ポンド
使用人賃金(220ポンド)、農場労働者賃金・種籾・飼料などの維持費(290ポンド)、
建物修繕費(90ポンド)、厩舎維持費(65ポンド)。
家政・生活費(Household & Living):760ポンド
食料・飲料費(250ポンド)、被服費(120ポンド)、教育費(220ポンド)、社交費(100ポンド)、その他雑費。
特別支出:100ポンド
治安判事としての活動経費など。
「……なんと。税金と使用人の給金、それに農場の維持費だけで、収入の半分が消えている計算か」
ヘンリーの声が低くなる。
「窓税」はこの時代特有の税金で、屋敷の窓の数に応じて課税される。
シャルトン家の立派なジョージアン様式の屋敷は、その美しさの代償として高い税金を払っていた。
3. 最終収支(Net Profit):124ポンド
「そして、これが昨年の最終的な手残りです」
パーシバルが指差した先には、黒インクで**「124ポンド」**と記されていた。
年収約2000ポンドの大地主が、1年働いて手元に残る現金が、わずか124ポンド。
これは決して少ない額ではない。熟練労働者の年収の4倍に相当する。
しかし、1000エーカーの土地を持つ名家の「内部留保」としては、あまりにも心許ない数字だった。
「124ポンド……。そうか、これしか残らないのか」
ヘンリーは椅子に深く沈み込んだ。
「感覚的には、もっと余裕があると思っていた。だが、数字は嘘をつかんな。
娘たちの将来の持参金や、屋敷の大規模修繕を考えれば、これはギリギリの綱渡りだ」
ここからが、パーシバルの真骨頂だった。
彼はただ計算をしただけではない。この2ヶ月間、彼は数字の裏にある「構造的な問題」を分析していたのだ。
「父上。悲観することはありません。この帳簿から見えてくるのは、シャルトン家の『無駄』ではなく『伸び代』です」
「伸び代だと?」
「はい。まず、支出の『食料・飲料費』250ポンドですが、明細を確認したところ、ワインや香辛料など輸入品の購入時期が高値の時期に集中しています。
これを、学友であるウィリアムの家であるホッジスの宿屋経由で、ロンドンからの一括購入に切り替えれば、1割は圧縮可能です」
パーシバルは淡々と、しかし自信を持って続けた。
「次に、『農場維持費』です。現在、農具の修理や馬具のメンテナンスを、その都度、村の職人に依頼していますが、これを年間契約に切り替えることを提案します。職人にとっても安定収入は魅力ですし、我々は単価を抑えられます」
ヘンリーは目を丸くした。
それは、従来の「古き良き慣習」に囚われない、合理的かつ現代的な経営判断だった。
「そして何より、父上。現在の手元現金は400ポンド。これに昨年の余剰金124ポンドを加えて、どう運用なさるおつもりですか?」
ヘンリーは少し考え込み、答えた。
「……無難に、コンソル公債を買い増すつもりだったが」
「お待ちください。今は戦時下です。公債価格は下落傾向にありますが、インフレ(物価上昇)の方が激しい。3%の固定利息では、実質的な資産価値は目減りします」
12歳の少年が語る「インフレ」や「実質価値」という言葉。
通常なら子供の戯言と一笑に付されるところだが、目の前にある完璧な財務諸表が、その言葉に説得力を持たせていた。
「私なら、その資金の一部を『水車小屋の設備更新』に投資します。製粉能力を上げれば、近隣の農家からの製粉料収入が増えます。
穀物価格が上がっている今、設備投資こそが、最も高い利回りを生むはずです」
一瞬の沈黙。
書斎には、柱時計の音だけが響いていた。
やがて、ヘンリーはゆっくりと立ち上がり、窓の外の領地を見渡した。
「……水車小屋か。確かに、今の石臼は古くなっていた。だが、そこまで考えているとはな」
彼は振り返り、息子の肩に重みのある手を置いた。
「パーシバル。お前はもう、ただの『手伝い』ではない。
この家の執事であるハミルトンでさえ、ここまで先のことは見えていないだろう」
父の手の温かさを感じながら、パーシバルは内心で安堵の息をついた。
(勝った。……いや、認めさせた)
「父上、過分なお言葉です。私はただ、数字パズルを解くのが好きなだけですから」
「謙遜するな。これは才能だ。……いいだろう。お前の提案通り、水車小屋の改修を検討しよう。そして、来月からの帳簿管理はすべてお前に任せる。ハミルトンには私から言っておく」
「ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」
「それから……」
ヘンリーは少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、机の引き出しを開けた。
「これは今回の『特別報酬』だ。2ヶ月分の苦労に見合う額かは分からんが、お前の働きにはそれだけの価値がある」
差し出されたのは、1枚の紙幣だった。
イングランド銀行発行の、1ポンド紙幣。
銀貨ではなく、紙幣。それは「小遣い」の域を超えた、一人前の仕事に対する報酬だった。
「1ポンド……! よろしいのですか?」
「構わん。それでお前がさらに賢くなり、この家に利益をもたらしてくれるなら安い投資だ」
パーシバルは震える手で紙幣を受け取った。
現在の彼の四半期の小遣いが30シリング(1.5ポンド)。そこにこの1ポンドが加われば、資金力は一気に跳ね上がる。
(これで、次のステップに進める)
1802年の収支を整理し、過去を清算したことで、パーシバルは未来への切符を手に入れた。
父ヘンリーにとって、彼はもはや「守るべき子供」ではなく、「頼れる参謀」となりつつあった。
この信頼こそが、今のパーシバルにとって、コンソル公債や現金よりも価値のある、最大の「資産」だったのだ。
「さて、次は自分の進路の話だな……」
部屋を出たパーシバルは、1ポンド紙幣を懐にしまいながら、次なる難関――「王立輸送部隊」への志願という、エスクワイア階級の常識外れな野望をどう切り出すか、その策を練り始めていた。
信頼という土台はできた。あとは、その上にどう自分の城を築くかだ。
彼は廊下の鏡に映る自分に向かって、小さく頷いた。
その目は、12歳の少年のものではなく、19世紀の荒波を見据える投資家の目だった。
■進路の相談 ―― 「王立輸送部隊」という選択
1803年、6月の終わり。
夏至を過ぎたばかりのイングランドの夜は長く、午後九時を回っても窓の外には薄明かりが残っていた。
マナー・ハウスの食堂で夕食を終えた後、ヘンリーとパーシバルは、男たちだけの時間として書斎へ移動していた。
執事のハミルトンが注いだポートワインの甘く重厚な香りが、部屋に漂っている。
暖炉には小さな火が焚かれており、その爆ぜる音が、父と子の間の沈黙を心地よく埋めていた。
「……それにしても、お前の整理した帳簿は見事だった」
ヘンリーがグラスを傾けながら、満足げに切り出した。
12歳の次男が成し遂げた「財務改革」は、父にとって単なる事務処理以上の衝撃を与えていたようだ。
「お前には、数字を通じて物事の本質を見抜く目がある。
どうだ、パーシバル。将来はロンドンの法曹院へ進み、法廷弁護士を目指すというのは。
お前の論理的な思考なら、多くの顧客がつくだろう」
父の提案は、ジェントリ階級の次男としては最上のコースの一つだ。
しかし、パーシバルはグラスの水を見つめたまま、静かに首を横に振った。
「弁護士は素晴らしい職業ですが、私は法廷での口論よりも、もっと直接的に『組織』を動かすことに興味があります」
「ほう? ならば、教会か? 聖職者になって、静かな教区で暮らすのも悪くないが」
「いえ、父上。私が希望するのは……軍務です」
ヘンリーは眉を上げた。
「軍務か。叔父のルイスに憧れたか? 確かに、今の情勢なら将校の需要は高い。
金さえ積めば、歩兵連隊や、あるいは少し奮発して騎兵連隊の少尉の地位を買ってやれなくもないが」
当時のイギリス陸軍において、将校の地位は「金で買う」ものだった。
華やかな制服、名誉ある連隊、そして社交界での名声。
父の脳裏には、真紅の軍服を着てサーベルを佩き、戦列の先頭に立つ息子の姿が浮かんでいたことだろう。
だが、パーシバルが口にしたのは、父の予想を遥かに下回る、そして当時の常識からすれば「奇妙」な部隊の名だった。
「いいえ、父上。私が志願したいのは、歩兵でも騎兵でもありません。
王立輸送部隊(Royal Waggon Train)です」
「……なんだと?」
ヘンリーはグラスを置く手を止め、怪訝そうに息子を見つめた。
「王立……輸送部隊? あの、荷車引きの集まりか?」
パーシバルの選択には、もちろん彼なりの、そして現代人の魂を持つ彼ならではの切実な理由があった。
(死にたくないからだ)
それが本音の九割を占めている。
ナポレオン戦争は、近代戦の黎明期だ。
歩兵として戦列に加われば、フランス軍の大砲による水平射撃でミンチにされるか、マスケット銃の一斉射撃で蜂の巣にされる確率が極めて高い。
騎兵とて同じだ。華々しい突撃は、しばしば無謀な死と同義語となる。
前世の記憶を持つ彼にとって、ナポレオン戦争でどれだけの血が流れるかは、歴史の教科書レベルで知っている。
もっとも、死者の多くは戦いによる死傷ではなく病気が原因であったのだが・・・
だからこそ、彼は「後方」を選んだのだ。
だが、そんな「臆病風」を吹かせたと知れれば、エスクワイア階級の父は激怒し、勘当されるだろう。
この時代、名誉は命よりも重い。
だからパーシバルは、その生存本能を、もっともらしい「愛国心」と「実利」のオブラートで包み込む必要があった。
「父上。誤解しないでください。私は、この国のために最も効率的に奉仕できる場所を選びたいのです」
パーシバルは姿勢を正し、熱っぽく、しかし論理的に語り始めた。
「父上もご存知の通り、我が国の軍隊は、これまで物資の輸送を民間の業者に委託していました。
ですが、彼らはどうでしょうか? 戦況が悪くなれば荷車ごと逃げ出し、給料が遅れればストライキを起こし、甚だしい場合は敵に物資を横流しする始末です」
ヘンリーは唸った。それは、地主たちの間でもよく聞く軍の腐敗の話だったからだ。
ここで、当時の「王立輸送部隊」について少し説明が必要だろう。
1803年当時、この部隊は設立されてまだ日が浅い、陸軍の中でも特殊な組織だった。
かつてイギリス軍の兵站は、現地で契約した民間の馬車業者や御者に依存していた。
しかし、彼らは軍律に縛られない民間人であり、危険な前線への輸送を拒否したり、貴重な弾薬や食料を持ち逃げしたりすることが頻発した。
これに業を煮やしたヨーク公(当時の陸軍総司令官)が、「軍律に従う、制服を着た輸送専門の兵士」の必要性を痛感し、創設されたのが王立輸送部隊である。
彼らの任務は、港から前線へ、食料、弾薬、医療品、そして負傷兵を運ぶこと。
華やかな戦闘には参加しない。泥にまみれ、馬の世話をし、帳簿と睨めっこをして、荷車の車軸を修理する。
それが彼らの戦場だった。
「父上、ナポレオンとの戦いは、これまでの戦争とは規模が違います。
数万の兵士が大陸を移動するのです。彼らが食べるパン、馬が食べる飼料、そして何千発もの弾薬。
これらを正確に、遅滞なく前線に届けることができなければ、どんなに勇敢な将軍でも勝てません」
パーシバルは、先ほど父に見せた帳簿を指差した。
「私は、この一ヶ月で学びました。数字の不整合は、組織の弱点を示していると。
シャルトン家の農場であれば、数シリングの損失で済みますが、戦場での輸送の不手際は、何千人もの兵士の『死』を意味します」
「……ふむ」
「今の陸軍には、サーベルを振り回す勇者は溢れています。
しかし、地図と時計と帳簿を駆使して、必要な物を必要な場所に届ける『管理能力』を持った士官は圧倒的に不足しています。
私は、剣ではなく、私の得意な『管理』で国王陛下に仕えたいのです」
ヘンリーは、グラスの中のワインを回しながら、息子の顔をじっと見つめた。
そこには、戦場への恐怖など微塵も感じさせない(と見せかけた)、冷徹な実務家の瞳があった。
「お前は……本気で言っているのか? 輸送部隊の士官など、社交界では『御者』と陰口を叩かれるかもしれんぞ。
舞踏会で令嬢にモテることもないだろう」
父の懸念はもっともだった。
当時の価値観では、軍人は「戦う者」であり、「運ぶ者」は一段低く見られていた。
エスクワイアの息子がわざわざ選ぶ道ではない。
しかし、パーシバルは心の中で舌を出していた。
(モテなくても、生きて帰れればそれでいい。それに、輸送部隊は物資の購入や契約に関わる。
そこには、戦後のビジネスに繋がる人脈と情報の宝庫があるはずだ)
彼は、あくまで真面目な顔を崩さずに答えた。
「名誉とは、他人の評判ではなく、実質的な貢献にあると私は信じています。
兵士たちが飢えず、弾切れもせず、万全の状態で戦えるようにすること。
それが『裏方』だと言うなら、私は喜んでその汚名を被りましょう。……それに」
パーシバルは、少し声を落として、父の「地主としての現実感覚」に訴えかけた。
「王立輸送部隊は、馬を扱います。私はシャルトン家で馬の管理を見てきましたし、飼料の相場も理解しています。
私の知識は、歩兵隊で泥の中を行軍するよりも、輸送隊で馬と荷車を管理する方が、遥かに役に立つはずです」
ヘンリーは長い沈黙の後、残っていたワインを一気に飲み干した。
そして、呆れたように、しかしどこか感心したように息を吐いた。
「……変わった奴だ。12歳にして、そこまで自分の適性を冷静に見極めているとはな」
父は立ち上がり、暖炉の前のラグの上をゆっくりと歩き回った。
「確かに、お前の言う通りだ。勇ましさだけが戦ではない。
フランスとの戦いがどうなるかは神のみぞ知るだが、腹が減っては戦ができんのは古今の真理だ」
ヘンリーは立ち止まり、パーシバルの肩に手を置いた。
「いいだろう。お前がそこまで考えて選んだ道なら、私は反対せん。
王立輸送部隊か……。地味だが、確かに『お前らしい』かもしれん」
「ありがとうございます、父上!」
パーシバルは、内心で快哉を叫びながら、深く頭を下げた。
これで、死亡率の高い最前線の歩兵連隊や騎兵連隊への配属を回避できる。
しかも、父公認で。
「ただし、だ」
ヘンリーが釘を刺すように言った。
「輸送部隊とはいえ、士官だ。
部下を統率し、規律を守らせる指揮官としての資質は問われる。
それに、任官を買うにしても、コネが必要だ。
……ウィンチェスターに戻ったら、ルイスに相談してみろ。
あいつなら、輸送部隊の内情や、空きポストについて何か知っているだろう」
「はい。叔父上には、私からしっかりと説明いたします」
「うむ。……それにしても、輸送部隊か。
お前が軍服を着て、荷車の列を指揮する姿……想像すると、案外似合っているかもしれんな」
父は苦笑いしつつも、その表情は晴れやかだった。
息子が「道」を見つけたことへの安堵と、その道が(たとえ地味であっても)堅実なものであることへの満足感がそこにはあった。
パーシバルは、再びグラスの水を見つめた。
その水面には、未来の自分が映っている気がした。
派手な金モールや勲章はないかもしれない。
しかし、戦場の後方で、物資の流れを支配し、インフレと需要を読み解きながら、着実に資産を増やしていく「軍人投資家」としての自分の姿が。
(第一関門突破。次は、叔父上の説得と、具体的な『任官』の手続きだ)
夜は更け、マナー・ハウスは深い静寂に包まれていった。
しかし、パーシバルの胸の中では、来たるべき時代へのカウントダウンが、静かに、しかし確実に進んでいた。
王立輸送部隊。
それは、彼にとって単なる避難場所ではない。
19世紀という巨大な市場への、最も安全で、最も有利な「特等席」への比較的安全な入り口だったのだ。
■叔父ルイスへの相談とボランティア
1803年、7月の第一月曜日。
ウィンチェスターの街は、夏の日差しと共に活気づいていた。
パーシバルは、父ヘンリーからの「承認」という最大の武器を携え、下宿先である叔父ルイス・エドワード・シャルトン少佐の家へと戻っていた。
夕食後、パーシバルは叔父の書斎——軍事地図と連隊の書類が雑然と置かれた部屋——を訪ねた。
ルイスは、軍服のボタンを外し、リラックスした様子で葉巻をくゆらせていた。
「どうした、パーシー。兄貴——ヘンリーの機嫌はどうだった?
お前の『帳簿整理』の話は手紙で聞いていたが」
「はい、叔父上。父上は私の仕事に満足し、将来の進路についても許可をくださいました」
パーシバルは、努めて冷静に、しかし核心を突くように切り出した。
「私は、陸軍の士官を目指します。
ですが、叔父上と同じ歩兵連隊ではありません。
王立輸送部隊(Royal Waggon Train)への任官を希望しています」
その瞬間、ルイスの手が止まった。
葉巻の紫煙が、一瞬だけ揺らぐ。彼はゆっくりと椅子を回し、甥の顔をまじまじと見つめた。
「……輸送部隊だと? お前、本気で言っているのか?」
軍人であるルイスにとって、その反応は予想通りだった。
当時の花形は騎兵であり、次いで歩兵。
輸送部隊は、軍隊の階層構造において、限りなく底辺に近い「裏方」だ。
「はい。私は自分の適性を分析しました。
剣術や射撃よりも、物資の管理、輸送計画の立案、そして馬の扱いに長けていると自負しています」
パーシバルは、父にしたのと同じ説明を繰り返した。
兵站の重要性。戦争における補給線の長さ。
そして、数字に強い士官の不足。
ルイスは黙って聞いていたが、次第にその表情から嘲笑の色が消え、真剣な軍人の顔へと変わっていった。
「……なるほど。お前は子供のくせに、ホース・ガーズ(陸軍総司令官府)のようなことを言う。
確かに、我が軍の補給は酷いものだ。民間の御者はすぐに逃げ出すし、契約業者は腐った肉を納入する」
ルイスは葉巻を灰皿に置き、身を乗り出した。
「だが、パーシー。輸送部隊は地味だぞ。
泥にまみれ、馬糞にまみれ、味方の兵士からも『荷車引き』と馬鹿にされることもある。
それでもいいのか?」
「名誉よりも実利を取ります。それに、誰かがやらねばならない仕事です」
「フン、兄貴譲りの頑固さだな。……いいだろう。お前のその『数字への執着』は、確かに輸送部隊でこそ活きるかもしれん」
ルイスは引き出しから一冊の名簿を取り出し、羽ペンを手に取った。
「で、どうするつもりだ? 任官を買うにしても、お前はまだ12歳だ。早すぎる」
当時のイギリス陸軍において、士官の地位は「売買」されるものだった。
少尉(または騎兵のコルネット)の地位を得るには、定められた公定価格——歩兵なら約400ポンド、騎兵ならそれ以上——を支払い、国王の承認を得る必要がある。
だが、年齢制限や空席の問題もあり、ただ金を積めばすぐになれるわけではない。
「そこで、叔父上にご相談があります。
私が15歳でグラマー・スクールを卒業するまでの間、『ボランティア(Gentleman Volunteer)』として、部隊に籍を置くことはできないでしょうか」
「ボランティア……。ほう、そこまで知恵が回るか」
ルイスはニヤリと笑った。
「ジェントリ・ボランティア(Gentleman Volunteer)」とは、正規の士官としての辞令を受ける前に、一種の「見習い」や「候補生」として連隊に帯同する若者のことだ。
給料は出ないし、身分は不安定だが、将校団に出入りを許され、軍の空気を肌で感じることができる。
「私の計画はこうです」
パーシバルは指を3本立てて説明した。
「第一に連隊のボランティアとして名簿に登録していただきます。
もちろん、学校がありますから、活動は長期休暇に限られますが」
「ふむ。いわば『予約』だな」
「第二に、これにより私は軍の運用を多少なりとも学ぶことが出来ます。
突然現れた金持ちの息子がいきなり少尉になるのと、数年前から顔を出して手伝いをした経験がある若者では、下士官や兵士たちの見る目が違います」
これは非常に重要な点だった。
金で地位を買う制度とはいえ、軍隊は人間関係の組織だ。
古参の軍曹や伍長たちは、ぽっと出の若造士官を嫌う。
だが、「子供の頃から部隊に出入りし、荷車の車軸の油まみれになっていたボランティア」ならば、彼らは「身内」として受け入れてくれるだろう。
「そして第三に、これが最も重要ですが……もし空席(vacancy)が出た場合、ボランティアとして登録されていれば、優先的にその枠を回してもらえる可能性があります」
ルイスは声を上げて笑った。
「はっはっは! お前、本当に12歳か? まるで老獪な政治家だ。……だが、その通りだ。戦時下では士官が戦死したり、病死したりして急な空きが出ることがある。その時、名簿に名前があり、現場を知っているボランティアは、正規の価格よりも安く、あるいは無料で任官できることもある」
パーシバルは微笑んだ。
(無料での任官は期待していないが、実績作りは必須だ。上位の将校の覚えも目出度くなるかもしれないしな)
「分かりました、叔父上。では、手配をお願いできますか?」
「ああ、任せておけ。幸い、ウィンチェスターには兵站部の出先機関がある。
そこの顔役に話を通して、お前を『将来有望な若きボランティア』として登録させてやろう。
……ただし!」
ルイスは人差し指を突きつけた。
「学校の勉強は疎かにするなよ。ラテン語も、数学もだ。
士官になってから『無学な荷車引き』と笑われたくなければな」
「肝に銘じます」
翌週の土曜日。
パーシバルは、ルイスに連れられてウィンチェスター郊外にある兵站部の倉庫兼事務所を訪れた。
そこは、磨き抜かれた銃剣が並ぶ歩兵の兵舎とは違い、秣と革、そして馬の汗の匂いが充満する場所だった。
「ここが、お前の戦場になる場所だ」
ルイスが指差した先には、巨大な荷馬車が並び、数人の下士官が物資の搬入を怒鳴り声で指揮していた。
「よう、ルイス少佐! 今日は珍しい客人を連れているな」
声をかけてきたのは、王立輸送部隊の大尉の制服を着た、初老の男だった。日に焼けた顔に、無数の皺が刻まれている。
「紹介しよう、大尉。これが私の甥、パーシバル・シャルトンだ。まだ学校に通っているが、将来はあんたの部隊で国に尽くしたいと言って聞かない変人だ」
「ほう、この坊主が? 輸送部隊にか? 物好きもいたもんだ」
大尉は面白そうにパーシバルを見下ろした。
パーシバルは帽子を取り、完璧な礼儀作法でお辞儀をした。
「初めまして、大尉殿。パーシバル・シャルトンです。華やかな突撃よりも、確実な補給こそが勝利の鍵だと信じております」
大尉の目が丸くなり、次いで破顔した。
「……ハッ! 『確実な補給こそ勝利の鍵』か! 聞いたか、軍曹! この坊主、そこらの士官より分かってるじゃないか!」
周囲の兵士たちからも笑い声が上がったが、それは嘲笑ではなく、好意的なものだった。
「気に入った。ルイス少佐、この子の名前を『ボランティア名簿』に書き込んでおこう。
学校が休みの時はいつでも顔を出せ。馬のブラッシングから帳簿の付け方まで、たっぷり仕込んでやる」
「ありがとうございます!」
パーシバルは、事務所の奥にある分厚い台帳に案内された。
インク壺に羽ペンを浸し、少し震える手で、自分の名前を記す。
Percival Seymour Charlton - Volunteer
その文字が紙に吸い込まれた瞬間、パーシバルは自分の運命がカチリと音を立てて噛み合ったのを感じた。
これで、レールは敷かれた。
あと3年。
15歳になるまでは、グラマー・スクールで学びながら、実家の仕事が無い週末はこの倉庫に通うことになる。
そこで彼は、軍隊という巨大組織の物流システムを内側から学び、安全に軍務での実績を作るのだ。
(3年後、16歳の僕はただの新任少尉としてではなく、経験豊富な若き少尉として任官する)
倉庫の外に出ると、夏の風が心地よく吹き抜けた。
ルイス叔父が、パーシバルの肩をバンと叩く。
「やったな、パーシー。これでお前も、半分は軍人の仲間入りだ。……だが、覚悟しておけよ。
ここでの修行は、学校のラテン語よりも厳しいぞ」
「望むところです、叔父上」
パーシバルは、遠くに並ぶ荷馬車の列を見つめた。
その荷台の先には、ナポレオン戦争という激動の時代と、そして彼が築き上げるべき莫大な富が待っているはずだった。
1803年、夏。
12歳のパーシバル・シーモア・シャルトンは、こうして静かに、しかし着実に、歴史の表舞台の「裏側」へと歩み出したのである。
(第1章・完)




