プロローグ:週末の帰宅と「実学」の提案
1803年、4月。
ウィンチェスターの街に春を告げる水仙が咲き乱れる頃、パーシバル・シーモア・シャルトンは土曜日の昼下がりにシャルトン家のマナー・ハウスへと戻った。
週の半分以上を過ごすウィンチェスターの街は、第37歩兵連隊の兵士たちの足音と、物資を運ぶ馬車の喧騒に包まれている。
それに対し、数マイル離れただけのこの領地は、驚くほど静謐だ。
緩やかな丘陵には羊たちが群れ、直営農場からは耕作の準備を進める農夫たちの掛け声が聞こえてくる。
「パーシー坊ちゃま、おかえりなさい。馬は私が預かりましょう」
厩舎で待っていたのは、馴染みの馬丁モーリスだ。
パーシバルは愛馬の首筋を軽く叩き、鞍を降りた。
「ありがとう、モーリス。父上はどちらに?」
「旦那様なら、書斎におられますよ。お昼過ぎからずっと、村の帳簿と睨めっこをしていらっしゃるようです。
……どうも、あまり機嫌はよろしくなさそうですな」
モーリスが困ったように眉を下げて笑う。
パーシバルはその言葉に、内心で「予定通りだ」と頷いた。
■父ヘンリーの悩み
マナー・ハウスの二階、重厚なオークの扉を叩くと、中から低く、疲れ切ったような父ヘンリーの声が響いた。
「入れ」
書斎に入ると、部屋の中には微かに羊皮紙とインクの匂いが漂っていた。
デスクの上には、小作人からの地代の受領証、種籾の購入記録、そして教会に納める「十分の一税」の計算書が、整理されているとは言い難い状態で積み上がっている。
「父上、ただいま戻りました」
「ああ、パーシバルか。……学校はどうだ。ラテン語の暗唱は進んでいるか」
ヘンリーは羽ペンを置き、目頭を指で押さえながら息子を見た。
40歳の父は、領主として、そして治安判事として非常に真面目な男だ。
しかし、この時代の多くのカントリー・ジェントリがそうであるように、彼は「土地の管理」は得意でも、それを「数字」として記録し、管理する書類仕事には辟易していた。
特に今は、フランスとの戦争再開の機運が高まり、政府からの各種税金の徴収が複雑化している。
窓税、救貧税、そして土地税。それらを正確に算出し、支出を管理するのは、一人の人間が片手間にやるにはあまりに煩雑になりつつあった。
「ラテン語も精進しておりますが、父上、最近はスクールで実務的な算術や、商人の使う帳簿の付け方も学んでおります」
パーシバルは一歩前へ出て、あえて「学校の教え」であることを強調した。
未来の知識ではない。あくまで、ウィンチェスターのグラマー・スクールに通う生徒として、実学に興味を持っているという体裁だ。
「ふむ、順調そうでなによりだ」
「はい。先生は、これからの紳士は自分の領地の収支を正確に把握せねばならぬとおっしゃっていました。
もしよろしければ、私がその書類の整理をお手伝いしてもよろしいでしょうか。
学校で習ったことの復習にもなります」
控えめな交渉
ヘンリーは、少し意外そうな顔をして息子を見つめた。
通常、12歳の次男坊が好んで書類仕事に首を突っ込みたがるとは思えない。
「……お前が手伝うというのか。遊びたい盛りだろうに」
「実家の力になりたいのです。それに、数字を整理するのはパズルを解くようで面白いのです」
パーシバルはあくまで無邪気な、しかし真摯な表情を崩さない。
ここで重要なのは、父の権威を傷つけないことだ。
父が「できない」のではなく、忙しい父の「時間を節約する」という姿勢を見せる。
「ふむ。……それほど言うなら、この先月のホーム・ファームの雑費の束を整理してみろ。
どれが蹄鉄代で、どれが種代か、一覧にするだけでも骨が折れる」
「承知いたしました。……ただ、父上。もし、私の整理が父上のお役に立ち、時間の節約になると認めていただけましたら……」
パーシバルは、少し言葉を濁しながら、はにかんだように続けた。
「報酬として、月に3シリングほど、お小遣いをいただけないでしょうか。
学校の友人たちとウィンチェスターでの社交と勉強のために本を買いたいのです」
ヘンリーは一瞬呆気にとられた。
しかし、すぐに豪快に笑い声を上げた。
「はっはっは! 3シリングか! なるほど、タダ働きはしないというわけだな。
いいだろう。お前の仕事が、執事のハミルトンにやり直しを命じなくて済む程度の出来栄えなら、その対価は支払おう」
「ありがとうございます、父上。必ずやご満足いただけるものにいたします」
パーシバルは深々とお辞儀をし、机の端に積み上げられた領地の書類を、宝物を受け取るような手つきで預かった。
最初の一歩
自分の部屋に戻り、パーシバルは預かった書類を机に広げた。
1803年現在の帳簿は、現代の簿記とは比較にならないほど原始的だ。入金と出金が混ざり、日付もバラバラに記録されている。
(未来の知識をひけらかす必要はない。
ただ、日付順に並べ替え、項目ごとに分類し、最後に合計を出す。
それだけで、父上の負担は劇的に減るはずだ)
パーシバルは、グラマー・スクールで使っている一般的な帳面を取り出した。
彼は「19世紀の常識」の範囲内で、最も見やすく、最もミスのない形を目指してペンを走らせる。
(12歳。独立までにはまだ時間がある。焦ることはない。
まずはこの家で『数字に強い息子』という地位を確立しよう)
窓の外では、春の夕暮れが領地を黄金色に染めていた。
次男として、土地を継げない身。しかし、数字を支配する術を持てば、この激動の19世紀を誰よりも自由に生き抜けるはずだ。
パーシバルの持つ羽ペンが、紙の上で軽快な音を立てる。
それは、彼がこの世界で資産家へと登り詰めるための、最初の、そして最も堅実な一歩だった。




