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第10章(1815年~1816年):借金によるレバレッジと夏のない年

前章(第9章後編)において、パーシバルが退職届を提出し即日退官するという、

羨ましい…もといあまり現実的ではない内容となっていたので翌月末に退官へと変更しました。


■1815年8月初旬。

ロンドンのホワイトホールに建つ陸軍総司令部ホース・ガーズには、うだるような夏の熱気が立ち込める中、窓を開けた自身の執務室でパーシバル・シャルトン名誉少佐は、書類と格闘していた。

軍を退官する8月末日まで、残すところ1ヶ月を切っており、自分が去った後も「統合輸送調整委員会」による前線への補給システムが機能し続けるよう、後任の文官たちに向けた詳細な引き継ぎ用マニュアルを執筆している最中であった。

そこへ、直属の上官であるジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将の従卒がやってきて、長官室への出頭を告げた。



パーシバルが長官室の扉を叩くと、中から「入れ」という上機嫌な声が響いた。

部屋に入ると、ゴードン少将はいつものように書類の山に埋もれてはいたが、その手には火のついた上質なハバナ葉巻が握られ、机の上には封を切られたばかりの分厚い公文書が置かれていた。


「忙しいところすまないな、シャルトン少佐。……いや、この呼び方も今日で最後にするべきか」

ゴードン少将は葉巻の煙を吐き出しながら、意味ありげな笑みを浮かべた。


「何か、私の引き継ぎ書類に不備でもございましたか、閣下」

パーシバルが尋ねると、少将は机の上の公文書を軽く叩いた。

「パリに駐留しているウェリントン公爵から、本国の政府と陸軍省宛てに公式な報告書が届いたのだよ。先日のワーテルローの戦いにおける、各部隊の功績と論功行賞に関する長い長い手紙だ」


少将は書類の一枚を手に取り、パーシバルの顔を見据えた。

「公爵は、前線で血を流した将軍たちの名前を挙げた後、わざわざ一つの段落を割いてこう記しておられる。

『私がフランス軍との会戦において、自軍の背後や補給線の枯渇を一切心配することなく、全兵力を挙げて全力で戦い抜くことができたのは、ひとえにロンドンで完璧な兵站を構築し、維持し続けたパーシバル・シャルトン少佐の功績によるものである』……とな」


パーシバルは微かに目を見開いた。

「公爵閣下が、そのような過分な評価を……」

「公爵は必要な時に必要な人間を褒める術を知っているお方だ。

そして政府と軍の上層部は、国家の英雄の言葉を無視することはできない。

シャルトン、貴官の名誉中佐への昇進が正式に決定した。おめでとう」


「……感謝いたします、閣下。退官を目前にして、これ以上の名誉はありません」

パーシバルは完璧な姿勢で敬礼をした。

彼自身、前世の知識を総動員して構築した兵站が評価されたことには、静かな誇りを感じていた。


「喜ぶのはまだ早いぞ、シャルトン中佐」

ゴードン少将は葉巻を灰皿に置き、さらに一枚の書類を引き寄せた。


「昇進だけではない。

公爵の強い推薦により、貴官に勲章が授与されることが決定した。

それも、ただの従軍記章ではない。『ロイヤル・グエルフ勲章』のナイト・コマンダー章だ。

……近々、セント・ジェームズ宮殿で行われる叙勲式に参内し、摂政皇太子殿下から直々に授与される予定だ」


「ロイヤル・グエルフ勲章……ですか」

パーシバルはその名を聞いて、内心で首を傾げた。しかし、上官の前で無知を晒すわけにはいかない。

「一介の兵站将校には、あまりにも重すぎる栄誉かと存じます。

しかし、宮殿に上がるとなれば、現在の少佐の軍服では不作法になりますね。大至急、中佐の階級章がついた礼装をあつらえねばなりません」


「その通りだ。式の詳細な日取りは追って通達されるが、のんびりしている暇はないぞ」

少将は鷹揚に頷いた。

「今日の午後は早退を許可する。ウエスト・エンドの仕立屋に駆け込み、金糸のたっぷりついた立派な軍服を作らせてこい。

ウェリントン公爵の推薦を受けた将校が、みすぼらしい格好で摂政皇太子の前に出るわけにはいかんからな」


「ご配慮に感謝いたします、閣下。それでは、失礼して大急ぎで散財をしてまいります」


パーシバルは長官室を辞すると、自室の荷物をまとめ、そそくさとホース・ガーズを後にした。

彼が向かったのは、ロンドンでも最高級の仕立屋テーラーや小間物屋が軒を連ねるセント・ジェームズ・ストリート周辺である。


行きつけの仕立屋の扉を開けるなり、パーシバルは店主を呼びつけた。

「中佐の完全な正装フル・ドレスが必要になった。最高級の赤いウール生地に、規定通りの金モールの肩章と刺繍だ。日取りは未定だが、遅くとも2週間以内には仕上げてくれ」

「2週間ですと! シャルトン様、それはいくらなんでも無茶でございます。熟練の職人が徹夜で針を動かしても……」

「言い値の倍の特急料金を払おう。それから、靴と帽子も新品を揃えたい。すべて最高級品で頼む」

「……国王陛下万歳! お任せくださいませ、シャルトン中佐殿!」

倍の特急料金という最高の魔法の言葉を聞いた店主は、もみ手をして採寸のメジャーを取り出した。


仕立屋を後にしたパーシバルは、休む間もなくピカデリー通りの刀剣商へと向かった。

宮殿での儀式には、実戦用の無骨なサーベルではなく、象牙の柄や金細工の施された儀礼用のコート・ソードを帯刀することが紳士の作法である。これもまた、目玉が飛び出るような出費となった。


(退官まで残り1ヶ月だというのに、たった一度の儀式のためにこれほどの出費を強いられるとはな。……名誉というものは、恐ろしく金がかかる)

パーシバルは帰り用の辻馬車に揺られながら、懐から飛んでいった数十ポンドの現金を思い、ため息を一つこぼした。


ブルームズベリーの邸宅に帰り着いたのは、夕暮れ時であった。

玄関の扉を開けると、家令のウィリアムが少し驚いた顔で出迎えた。


「お帰りなさいませ、旦那様。本日はずいぶんと早いお戻りですね。大蔵省の役人たちが白旗でも揚げましたか?」

ウィリアムの気の利いた問いかけに、パーシバルは苦笑しながら帽子と手袋を渡した。

「降伏したのは私の財布の方だ、ウィリアム。ウェリントン公爵のお陰で、予定外の散財をする羽目になった」


パーシバルは1階の応接間に向かいながら、ゴードン少将から告げられた事実をウィリアムに手短に説明した。

ワーテルローでの兵站の功績が認められ、名誉中佐へ昇進したこと。そして、セント・ジェームズ宮殿で勲章を授与されること。


ウィリアムは目を丸くし、次いで顔を紅潮させて深く頭を下げた。

「名誉中佐への昇進、そして受勲……! 誠におめでとうございます、旦那様! 実家のお父様やご家族がお聞きになれば、どれほどお喜びになることか!

私もシャルトン家に仕える者として、これ以上の誇りはございません」


「ありがとう、ウィリアム。お前の淹れてくれる紅茶があったからこそ、深夜の書類仕事にも耐えられたというものだ」

パーシバルはソファに腰を下ろし、ウィリアムが手早く用意した温かい紅茶のカップを受け取った。


「しかし、旦那様」

ウィリアムは紅茶のポットを置きながら、少し不思議そうな顔をした。

「先ほど『ロイヤル・グエルフ勲章』とおっしゃいましたか?

不勉強で存じ上げないのですが、普通はイングランドのバス勲章などが授与されるものでは?」


「良い質問だ、ウィリアム。私も最初は疑問に思ったが、馬車の中で少し頭を整理して、理由に思い至ったよ」

パーシバルは紅茶を一口飲み、この時代特有の複雑な背景について説明を始めた。


「まず大前提として、現在のイングランド国王であるジョージ3世陛下は、同時にドイツのハノーヴァー王でもある。つまり、イングランド王国とハノーヴァー王国は、一人の君主を戴く『同君連合』という関係にあるのだ」

「はい、それは存じております」

ウィリアムは頷いた。


「このロイヤル・グエルフ勲章は、摂政皇太子殿下(後のジョージ4世)が、今年の春に創設されたばかりの極めて新しい勲章だ。ハノーヴァーが正式に王国に昇格したことと、イングランドとの同君連合を記念して作られたものらしい」

パーシバルはカップをソーサーに置き、両手を組んだ。


「問題は、なぜ私がイングランドのバス勲章ではなく、この新しいハノーヴァーの勲章を受けることになったかだ。

ウィリアム、お前は今年の1月に行われた、バス勲章の制度改定を知っているか?」


ウィリアムは首を横に振った。

「実は、バス勲章は今年の改定により、授与の条件が極めて厳格になったのだ。受勲の対象となるのは、実際に戦場の最前線で敵と交戦し、武勲を立てた将校のみと明記されてしまった。つまり……」

「……ああ。旦那様はロンドンの総司令部で兵站を取り仕切っておられたため、規定上、バス勲章の授与対象から外れてしまうのですね」

ウィリアムが合点がいったように言った。


「その通りだ」

パーシバルはウィリアムに向かって微かに笑いかけた。

「ウェリントン公爵は、ワーテルローの勝利における私の兵站の功績をどうしても報いたかったのだろう。しかし、イングランドの伝統的な勲章は規定が邪魔をして出せない。そこで目をつけたのが、創設されたばかりで規定がまだ緩い、このハノーヴァー王国のロイヤル・グエルフ勲章というわけだ」


パーシバルは少し皮肉っぽく肩をすくめた。

「言うなれば、前線に出ていない裏方の将校に立派な勲章を与えて箔をつけるための、唯一の『抜け道』として使われたのだよ。

全く、上の方々の考えることは、抜け目がないというかなんというか」


「しかし、抜け道であろうと何であろうと、摂政皇太子殿下から直接授与される勲章であることに変わりはございません。それに……」

ウィリアムは少し姿勢を正し、改まった声で言った。

「ロイヤル・グエルフ勲章のナイト・コマンダー章を受けられるということは、旦那様は正式に『ナイト(勲爵士)』の称号を得られるということになりますね」


パーシバルは小さく息を吐いた。

「……そうなるな。官報に掲載されれば、私は法的にサー・パーシバルと呼ばれることになる。地方の地主の次男坊が、ずいぶんと出世をしたものだ」


「退官を前にして、これ以上ない最高の手土産かと存じます。サー・パーシバル。

実に素晴らしい響きです」

ウィリアムは心底嬉しそうに微笑んだ。


「名前の響きが良くなったところで、仕立屋に払う特急料金が安くなるわけではないがな」

パーシバルは返しつつも、その胸の内には確かな達成感があった。


軍を退官し、莫大な資産を持つ民間人(資本家)として生きていくにあたり、「サー(ナイト)」という称号は、ロンドンの社交界や金融街で圧倒的な信用と威光をもたらす。もはや誰も、彼を単なる田舎の次男坊や成金と見下すことはできなくなるのだ。


「ウィリアム、今夜は少し良いワインを開けよう。宮殿の絨毯の上で、新しい剣の鞘に足を引っ掛けて転ばないよう、予祝をしておかねばならないからな」

「かしこまりました、サー・パーシバル。極上のポートワインをご用意いたします」



■1815年8月下旬。

ロンドンは夏の盛りを迎え、石畳の照り返しが容赦なく人々の体力を奪っていたが、パーシバル・シャルトン名誉中佐にとって、その暑さは全く気にならなかった。

彼の全身を覆っていたのは、冷たい汗と、これまで経験したことのない極度の緊張感であった。


パーシバルは、この日のためにレンタルした高級馬車に揺られ、王室の主要な宮殿であるセント・ジェームズ宮殿へと向かっていた。

身に纏っているのは、特急料金を弾んで仕立てさせたばかりの、真紅のウール生地で作られた名誉中佐の完全な礼装フル・ドレスである。

両肩には金モールの編み上げられた肩章が重々しく輝き、腰には象牙の柄に金細工が施された儀礼用のコート・ソードを提げている。

どれも非の打ち所のない一級品であったが、パーシバルにとっては、自分の体を締め付ける拷問器具のように感じられた。


馬車が宮殿の門を潜り、車輪の音が石畳から中庭の砂利へと変わる。近衛兵の鋭い敬礼に迎えられ、パーシバルは馬車を降りた。


案内された控え室には、ワーテルローの戦いで武勲を立て、同じく受勲の栄誉に浴する貴族や将軍たちがすでに集まっていた。

彼らは金糸や勲章で着飾った姿で、シャンパンのグラスを片手に優雅な談笑を交わしている。


「いやはや、ワーテルローの原野では膝まで泥に浸かりましたが、この宮殿の大理石の床は滑りやすくていけませんな」

年配の少将が笑いながら言うと、隣の貴族がすぐさま当意即妙な返事をする。

「違いありません。フランス軍の砲弾は最悪の場合でも命を奪うだけですが、摂政皇太子殿下の御前で転倒でもすれば、一族の末代までの恥になりますからな。

ある意味で、ネイ元帥の騎兵突撃よりも恐ろしい」


その会話を聞いていた別の将軍が、壁際で硬直しているパーシバルに目を留めた。

「おお、もしや君がシャルトン中佐ではないかね。ワーテルローでの君の兵站の手配は見事の一言だった。

前線の我々が弾切れを恐れずに済んだのは君のおかげだ。

……どうだ、我が軍の弾薬を手配したように、今日の儀式の手順も完璧に手配できているかな?」

将軍の悪戯っぽい問いかけに、パーシバルは引き攣った笑みを浮かべて答えた。

「恐れ入ります、閣下。残念ながら宮殿の儀式は宮内長官の管轄でして、私の知見はここでは全く役に立ちません。

私にできるのは、自分の足がもつれないように祈ることだけです」


将官たちが楽しげに笑い声を上げる中、パーシバルは再び口を閉ざし、冷や汗をハンカチで拭った。


スペインの半島戦争で野盗と戦った時、ビトリアの戦いで30万ポンドの軍資金を守り抜いた時、あるいは今年の春、ロンドンの金融市場で全財産を懸けてコンソル公債の空売りを仕掛けた時。

それらの危機的状況において、パーシバルは冷静さを保っていた。

死や破産という結果は恐ろしかったが、自分の行動によって事態をコントロールできる余地があったからだ。


しかし、この宮殿の空気は全く違う。

何百年も続く王室の威圧感、絶対的な階級社会の頂点に立つ者たちの放つ目に見えないプレッシャー。

前世の知識という未来の記憶すら、この数百年の伝統という圧倒的な歴史の重みの前では無力に感じられた。

もし、剣の鞘が足に絡まったら? 片膝をつくタイミングを間違えたら? 摂政皇太子殿下に対する言葉遣いを誤ったら?

些細な作法のミスが、自分の社会的生命を完全に絶ち切る可能性がある。言い訳が一切通用しない権威という魔物が、彼をガチガチに萎縮させていた。


「次の方、ご準備を」

儀典官の張りのある声が控え室に響いた。


「パーシバル・シャルトン名誉中佐」


自分の名前が呼ばれた瞬間、パーシバルの頭の中からすべての思考が真っ白に吹き飛んだ。

彼は無意識のうちに立ち上がり、重い扉の向こう側、謁見の間へと進み出た。

高い天井から吊るされた豪華なシャンデリアの光が、目を刺すように眩しい。

壁には荘厳なタペストリーが掛けられ、赤い絨毯の奥にある玉座には、病床の父王ジョージ3世に代わって国政を執り行う摂政皇太子(プリンス・レジェント、後のジョージ4世)が、豪奢な衣装を纏って座っていた。


周囲の高官たちや廷臣の視線が一斉にパーシバルに注がれる。

(歩幅を一定に。剣を押さえて。指定された位置で止まるのだ)

頭が真っ白になりながらも、数日間にわたって鏡の前で何百回と繰り返した動作を、身体が機械的に実行していった。


皇太子の前、定められた位置で立ち止まる。

パーシバルは優雅に、しかし軍人らしく力強く右膝を床につき、深く頭を垂れた。


静寂の中、皇太子が自身の剣を鞘から抜く、甲高い金属音が響いた。

その音が、パーシバルには処刑人の斧の音のように聞こえた。


「神と王のために」

皇太子の厳かな声とともに、下ろされた剣の平が、パーシバルの右肩を軽く叩き、次いで左肩を叩いた。

臣従の誓いに対する承認と、騎士の身分を与える「アコレード(叙任)」の儀式である。


「立て、サー・パーシバル」


その言葉を合図に、パーシバルは立ち上がった。

宮内官が恭しく近づき、ハノーヴァー王国のロイヤル・グエルフ勲章ナイト・コマンダーの豪奢な星章を、パーシバルの礼装の胸に飾り付けた。

パーシバルは再び深く一礼をし、作法通りに後ずさりをしながら謁見の間を退出した。


控え室に戻り、宮殿の廊下を抜けて馬車に乗り込んだ時、パーシバルはようやく自分が息を止めていたことに気がついた。

肺に深く空気を吸い込み、座席に崩れ落ちる。背中にはびっしりと冷や汗がかいていた。


ブルームズベリーの邸宅に帰り着いた時には、太陽はすでに傾きかけていた。

馬車から降りたパーシバルは、玄関の扉を開けて出迎えた家令のウィリアムに帽子と手袋を渡し、そのまま応接間のソファへと倒れ込んだ。


「お帰りなさいませ、旦那様……いえ、この場合は『サー・パーシバル』とお呼びすべきですかね」

ウィリアムが誇らしげな笑みを浮かべて言った。

「儀式はいかがでしたか? 摂政皇太子殿下は、さぞかし威厳に満ちておられたでしょう。宮殿の豪奢な調度品も、素晴らしいものであったとお察しいたします」


パーシバルは目を閉じたまま、疲労困憊した声で答えた。

「すまない、ウィリアム。皇太子殿下のお顔も、宮殿の調度品も、全く覚えていないのだ。

私の記憶に残っているのは、謁見の間に敷かれていた絨毯の精緻な花柄模様と、自分の心臓が耳の奥で鳴り響く音だけだ。

戦場の最前線で、フランス軍の騎兵に突撃される方が、まだ気分が楽だったかもしれない」


ウィリアムは上品に肩を揺らして笑った。

「それは何よりでございます。絨毯の模様を克明に覚えておいでだということは、旦那様が見事に頭を垂れ、作法通りにずっと視線を落として片膝をつくことができたという、何よりの証拠ですから」

「お前のおかげで、ようやく自分が生きて戻ってきた実感が湧いたよ」

パーシバルは苦笑しながら身を起こし、ウィリアムが差し出した冷たい水のグラスを受け取った。


「とにもかくにも、儀式は終わりました。本当にお疲れ様でございました、サー・パーシバル」

ウィリアムの深い一礼に、パーシバルは静かに頷き返した。


数日後。

イングランド政府の公式官報であるロンドン・ガゼットが発行され、市内中に配られた。

その中の叙勲者一覧のページには、はっきりとこう記されていた。


『パーシバル・S・シャルトン名誉中佐に対し、ロイヤル・グエルフ勲章ナイト・コマンダーを授与し、ナイト(勲爵士)の称号を授ける』


この一行の活字が持つ意味は、パーシバルがこれまで稼いできた数万ポンドの現金よりも、ある意味で遥かに重く、絶大な効力を持っていた。

ロンドン・ガゼットへの掲載をもって、彼は法的に、そして社会的に正式な「サー・パーシバル・シャルトン」となったのである。


これまでの彼は、ロンドンの社交界や金融街から見れば、いかにウェリントン公爵の覚えがめでたいとはいえ、所詮は「金を稼ぐのに長けた、身分の低い若き将校」に過ぎなかった。

しかし、「サー」の称号は、彼を正式に大英帝国の支配階級エスタブリッシュメントの一員として認める絶対的な通行手形であった。


その変化は、翌日から目に見える形で表れた。

バークレイズ銀行のベリエフ氏をはじめ、取引のある商人やブローカーのバーンズ氏から送られてくる手紙の宛名は、すべて「シャルトン少佐殿」から「サー・パーシバル・シャルトン中佐」に改められた。

誰もが、この24歳の若きナイトに対して、軽口を叩くような真似はしなくなったのである。

軍を退官する8月末日を目前に控え、パーシバル・シャルトンは厳格な階級社会において自身の資産と立場を守り抜くための、最も強力な身分の保証を手に入れたのであった。



■1815年9月。

刈り取られた麦畑を縫うように、一台の四輪馬車がハンプシャーの田舎道を走っていた。

窓から見えるウィンチェスター郊外ののどかな風景を、パーシバル・シャルトンは深く息を吸い込みながら眺めていた。

彼は8月末日をもって軍を退官し、兵站総監部付・特別副官の職を辞した。窮屈な軍服はすでにトランクの奥にしまわれ、完全な民間人、一人の自由なジェントルマンとしての帰郷であった。


実家であるシャルトン家の屋敷が見えてくる。

広大な領地を持つ大貴族の館とは比べ物にならない、素朴で歴史を感じさせる石造りのマナーハウスだ。シャルトン家が代々守ってきた家である。


馬車が車回しに到着すると、玄関の扉が開き、家族がこぞって出迎えた。

「おお、我が家の英雄が帰ってきたぞ!」

昔と比べ恰幅が良くなった父が、顔をほころばせて両腕を広げた。

その後ろには、母と二人の妹、アリスとマリアが嬉しそうに並んでいる。


「ただいま戻りました、父上。ですが、私はもう英雄ではありません。ただの退役した民間人です」

パーシバルは馬車を降り、父と抱擁を交わした。


「民間人だと? 冗談を言うな。

先月のロンドン・ガゼットを見た時は、驚きのあまり食後のポートワインを吹きこぼすところだったぞ」

父はパーシバルの肩を力強く叩き、興奮気味に言った。


「名誉中佐への昇進、それに摂政皇太子殿下からのサーの叙任!

シャルトン家からナイトの称号を持つ者が出るとは、夢にも思わなかった。

ご先祖様もさぞかし墓の中で喜んでおられるだろう」


「お帰りなさい、お兄様。本当に素晴らしいわ。サー・パーシバルだなんて、まるで騎士物語の主人公みたい」

妹のアリスが目を輝かせて言った。

「やめてくれ、アリス。その名前で呼ばれると、宮殿の絨毯の上で足が震えたことを思い出してしまう」

パーシバルがウィットを交えて返すと、家族の間に明るい笑い声が弾けた。


応接間に通されたパーシバルは、家令のウィリアムに荷物を運ばせ、温かい紅茶を飲みながら家族と近況を語り合った。

「残念ながら兄上は不在のようですね」

パーシバルが尋ねると、母が紅茶のカップを置きながら答えた。

「ええ、アーサーは念願のグランドツアーへよ。今はローマあたりで古代の遺跡でも見物しているはずよ」

「平和な時代の特権ですね。まあ、シャルトン家の将来のためにも、大陸の空気を吸ってくるのは悪いことではありません」

長男である兄アーサーは、いずれこの領地と家督を継ぐ身である。次男のパーシバルが自力で資産と地位を築かなければならなかったのとは対照的だが、パーシバルに嫉妬やわだかまりは全くなかった。


「それよりも、アリス。お前の婚約が決まったそうだな。心からお祝いを言うよ」

パーシバルが視線を向けると、今年19歳になるアリスは頬を赤く染めて頷いた。

「ありがとう、お兄様。これもすべて、お兄様のおかげよ」


父が満足げに顎を撫でた。

「相手は隣の郡のウィロビー家の嫡男だ。あちらは2000エーカーの豊かな土地を持つ大地主でな。本来なら、我がシャルトン家のような地主から嫁に出せるような相手ではない。

だが、お前がスペインから送ってくれたあの金のお陰もあり、それなりの持参金があったからこそ、あちらの当主も快く首を縦に振ってくれたのだ」


半島戦争の間、パーシバルは手に入れた利益の中からそれなりに実家に送金していた。

イングランドの結婚市場において、持参金の額は娘の価値を決定づける最も重要な要素であった。

持参金が豊富であれば、より上位の階級や豊かな地主の家へ嫁ぐことができるのだ。


「私の送った金が役に立ったのなら何よりです。あちらの嫡男は、アリスを大事にしてくれそうな紳士ですか?」

「ええ。とても誠実で、領地の管理にも熱心な方よ。……それに、お兄様が『サー・パーシバル』になったことで、あちらのご両親の態度もさらに良くなったの」

アリスが少し悪戯っぽく微笑んだ。

「それは嬉しい話だ。では、今週末の婚約パーティーでは、私が兄上の名代として、ウィロビー家の方々にしっかりと挨拶をしなければならないな」

「頼んだぞ、パーシバル。お前のその称号とロンドン仕込みの洗練された態度を見せつけてやれば、ウィロビー家も我が家を侮ることはできまい」

父は上機嫌でブランデーのグラスを干した。


数日後。ウィロビー家の屋敷の広間と庭園を開放して、アリスとウィロビー家の嫡男の婚約パーティーが盛大に開催された。

近隣の郡から、多くの地主や下級貴族の家族が馬車を連ねて祝いに駆けつけた。


広間では、パーシバルは父と共に客人に挨拶をしていた。

「ご紹介しよう。我が家の次男、サー・パーシバル・シャルトン中佐だ」

父が誇らしげに紹介するたび、客人たちの間に微かな、しかしはっきりとした驚きと好奇のどよめきが走った。

「そういえば、ガゼットでお見かけした……」

「まだお若いのに、ナイトの称号をお持ちとは」


パーシバルは完璧な礼儀作法で会釈を返し、愛想の良い笑みを浮かべていた。

しかし、パーティーが進行し、音楽が演奏され始めると、彼は自分が完全に包囲されていることに気がついた。


当時の社交界において、パーシバルのような存在は「究極の優良物件」であった。

若く、端正な顔立ちで、軍における名誉中佐の階級とサーの称号を持ち、さらにそれなりの資産を有していると思われる。

次男であるため実家の領地を継ぐことはないが、ロンドンにタウンハウスを持っているということは、十分な現金収入がある証拠であった。

持参金目当ての借金まみれの下級貴族とは異なり、彼と結婚すれば、娘はロンドンの上流社会に「レディ・シャルトン」として迎えられるのだ。

年頃の娘を持つ母親たちが、この獲物を見逃すはずがなかった。


「サー・パーシバル。私どもはロンドンのメイフェアにも家がございますのよ。冬のシーズンには、ぜひお茶を飲みにいらしてくださらない?」

羽根飾りのついた帽子を被ったふくよかな夫人が、年頃の娘を無理やりパーシバルの前に押し出しながら言った。

「光栄です、マダム。ただ、妹の婚約という我が家にとっての大事な時期でして、しばらくは家族のサポートや諸々の手続きに奔走することになりそうなのです。

落ち着きましたら、ぜひ検討させていただきます」

パーシバルが曖昧な態度で返しで躱そうとすると、すぐに別の令嬢が扇の陰から話しかけてくる。


「サー・パーシバルは、ハンプシャーには領地をお持ちではないと伺いました。

どこか別の郡に、素晴らしい地所をお持ちなのでしょうね?」

その問いの裏には、「あなたの収入源と資産額はどれくらいか」という露骨な品定めの意図が隠されていた。

パーシバルはグラスのシャンパンを軽く揺らし、涼しい顔で答えた。

「私の領地は少し特殊でしてね。泥もつきませんし、雨が降らなくても価値が下がりません。

銀行の堅牢な金庫の中に大切に保管されている、『コンソル公債』という名の美しい紙の束が、私の豊かな領地でございます」


「まあ、冗談がお上手ですこと」

令嬢たちはクスクスと笑ったが、母親たちの目の色はさらに真剣味を帯びた。当時の基準において、公債から安定した利息収入を得ているジェントルマンは、天候に左右される地主よりも遥かに現金の流動性が高く、魅力的であった。


「サー・パーシバル、次のワルツは私と踊っていただけますか?」

「いいえ、サー・パーシバルは私に約束してくださったわ」

「まあ、厚かましい。私が先にお声をかけましたのよ」


色とりどりのシルクのドレスに身を包んだ令嬢たちが、香水の甘い匂いを漂わせながらパーシバルを取り囲む。彼女たちの笑顔の裏には、ハンプシャーの社交界における熾烈な生存競争と、良き結婚相手を射止めるための冷酷な計算が渦巻いていた。


「……恐れ入りますが、レディたち。私は戦場で足を少し痛めておりまして、今夜はダンスをご遠慮させていただいております。妹の婚約を、静かに見守りたいのです」

パーシバルはもっともらしい嘘をつき、柔らかな笑みを残して令嬢たちの包囲網から脱出した。


彼は広間の隅の柱の陰に避難し、深い疲労のため息をついた。

フランス軍やゴロツキとなった味方と対峙したり、ホース・ガーズで役人たちのセクショナリズムと闘い抜いた彼であったが、ハンプシャーの母親たちと令嬢たちの執念深い猛攻の前には、為す術がなかった。


「お疲れのようですね、サー・パーシバル」

背後から、グラスを持ったウィリアムが声をかけた。

「……ああ。ロンドンの大蔵省の役人を締め上げる方が、何倍も楽な仕事だったよ」

パーシバルはウィリアムから新しいシャンパンのグラスを受け取り、ため息混じりに言った。


「ウェリントン公爵はフランス軍には勝ちましたが、淑女達の猛攻からは、どのような方陣を組んでも身を守ることはできませんな。

弾丸の代わりに、甘い言葉と扇が飛んできますから」

「お前の皮肉には、いつも救われるよ」

パーシバルは苦笑してグラスを傾けた。


広間の中央では、アリスとウィロビー家の嫡男が幸せそうにワルツを踊っている。

妹の未来は確固たるものになり、シャルトン家の地位も安泰となった。

自身の送金と昇進が、家族にこれほどの恩恵をもたらしたことには、純粋な喜びを感じていた。


しかし、自分自身の平穏な生活を取り戻すためには、早々にこの狂騒のハンプシャーからロンドンへ逃げ帰らなければならないと、パーシバルは強く心に誓うのであった。

1815年9月。退官し、自由な民間人となったパーシバル・シャルトンを待ち受けていたのは、戦場よりも過酷な、婚活社交界という新たな戦線であった。



■1815年10月。

ロンドンの金融の中心地であり、世界中の富が還流するロンバード・ストリート。

秋の冷たい雨が石畳を濡らす中、パーシバル・シャルトンは傘を畳み、バークレイズ銀行の扉を押し開けた。

ハンプシャーの田舎で繰り広げられた、超優良物件のパーシバルを目当てにした令嬢たちとの熾烈な社交戦線から逃げ帰り、ロンドンに戻って数日が経過していた。


事前に面会の予約を取っていたパーシバルは、銀行の奥にあるジェームズ・ベリエフ氏の個室へとすぐに通された。


「ようこそおいでくださいました、サー・パーシバル。そして、この度は名誉中佐へのご昇進と、ロイヤル・グエルフ勲章の受勲、心よりお祝い申し上げます」

ベリエフ氏は立ち上がり、満面の笑みでパーシバルを迎え入れた。その呼びかけには、以前の「少佐殿」という言葉以上の、明確な畏敬の念が込められていた。


「ありがとう、ベリエフ氏。だが、称号を得たからといって私の本質が変わるわけではない。ただ、実家の田舎では、少々面倒なことになったがね」

パーシバルは勧められた革張りの椅子に腰を下ろし、苦笑した。

「田舎のマダムとご令嬢たちの目には、私がコンソル公債の束に足が生えて歩いているように見えたらしい。

お茶会とダンスの誘いを断り続けるのは、フランス軍の砲列を掻き分けるよりも骨が折れたよ」


ベリエフ氏は上品に肩を揺らして笑った。

「独身で、若く、これほどの資産とサーの称号をお持ちなのです。

イングランド中の母親たちが、あなたを娘の結婚相手として狙うのは当然の理でしょう。

ロンドンの社交界のシーズンが始まれば、さらに忙しくなりますぞ」


「だからこそ、私はこうしてロンバード・ストリートという安全な避難所に逃げ込んできたのだ。

ここには、ロマンチックな夢ではなく、冷静な数字と利息しかないからな」

パーシバルはウィットで世間話を切り上げ、表情を実務家のそれへと引き締めた。

「さて、ベリエフ氏。本題に入ろう。今日は資金の相談があって参った」


「何なりとお申し付けください。サー・パーシバルのご要望とあらば、当行は最大限の便宜を図らせていただきます」


パーシバルは手元の革鞄を開き、預り証書の束を取り出して机の上に置いた。

「私が貴行の金庫にも預けている、コンソル公債の預かり証書だ。

ご存知の通り、額面にして42,600ポンド分の価値がある」


ベリエフ氏はその証書の束を畏敬の目で見つめた。

ワーテルローの戦勝後、コンソル公債の価格は瞬く間に回復していた。

「ええ、市場価格は現在、額面の約60パーセント強まで値を戻しております。

コンソル公債426枚の現在の市場価格は、およそ26,000ポンドに達しているはずです」


「その通りだ」

パーシバルは頷いた。

「この市場価格26,000ポンドのコンソル公債を担保として貴行に差し入れたい。

その上で、年利5%で22,000ポンドの現金を借り入れたいのだ。担保の価値からすれば、融資の保全としては十分すぎるはずだが、いかがかな」


ベリエフ氏は頭の中で素早く計算を走らせた。

26,000ポンドの価値がある流動性の高い国債を担保に、22,000ポンドを貸し出す。

担保の掛け目としては極めて堅実であり、銀行にとっては何のリスクもない優良な取引である。

しかも、法定金利の上限である年利5%をきっちりと支払ってくれるというのだ。


「当行として、否やはありません。喜んで22,000ポンドをご融資いたしましょう」

ベリエフ氏は快諾し、ペンを手に取った。

「しかし、サー・パーシバル。すでに一生遊んで暮らせるだけの利息収入がおありだというのに、わざわざ金利を支払ってまでこれほど巨額の現金を借り入れ、何に投資されるおつもりですか?

国内の運河会社ですか、それとも東インド会社の新たな船への出資でしょうか」


「いや。私が買いたいのは、海の向こうの資産だ」

パーシバルはベリエフ氏の目を真っ直ぐに見据えた。

「借り入れた22,000ポンドの資金を使って、フランスの国債ラントを、額面で100万フラン分購入したい」


その言葉を聞いた瞬間、ベリエフ氏の手からペンが滑り落ち、机の上にインクの染みを作った。

「フ、フランス国債、ですか!?」

ベリエフ氏は目を丸くし、声のボリュームを上げた。

「サー・パーシバル、ご冗談でしょう! フランスはワーテルローで決定的な敗北を喫したばかりの敗戦国です。ナポレオンが去ったとはいえ、国内は混乱を極めている。

王党派と共和派が血を流して争い、いつまた革命が起きて政府が転覆するか分からないのですよ?

もし新政府が過去の債務を無効だと宣言すれば、フランス国債などただの紙切れになります。

そのような危ういものに、22,000ポンドもの大金を投じるなど……」


「紙切れにはならないよ、ベリエフ氏」

パーシバルは狼狽する銀行家を前にしても、極めて冷静であった。

「確かに、現在フランスの国債は敗戦の混乱で大暴落している。

額面100フランの国債が、半値近い価格で投げ売りされている状況だ。だからこそ買うのだ」


「しかし、国家破産のリスクが……」


「私は破産する可能性は低いと考えている」

パーシバルは断言した。

「新聞の政治面をよく読んでみるべきだ。

現在、パリには誰が駐留している?

ウェリントン公爵率いる我が国の軍と、プロイセン軍をはじめとする巨大な連合国軍だ。

ルイ18世の王政は、フランス国民の支持ではなく、我々連合国軍の圧倒的な軍事力によって物理的に支えられているのだよ」


ベリエフ氏は反論の言葉を見失い、息を呑んだ。


「連合国は、フランスに対して莫大な戦争賠償金を要求する準備を進めている。

フランスが賠償金を支払うためには、国家の信用を維持し、国債を発行して資金を集めなければならない。

もしここでフランス政府が国債の不履行デフォルトを宣言すれば、連合国への賠償金の支払いが不可能になる。

つまり、イングランド政府もプロイセン政府も、自国の利益のために、フランスが国家破産することを絶対に許さないのだ」


パーシバルは説得を続ける。

「現在の大暴落は、目先の混乱に怯えたパリの投資家たちが引き起こしている一時的な錯覚に過ぎない。

我々の軍隊が駐留し、政治的な監視を続けている以上、数年以内にフランスの政治は必ず安定する。

そうなれば、現在暴落しているフランス国債の価格は必ず元の水準まで戻る。

私は、軍による安全保障を背景にして、安値の国債を拾い上げるのだ」


静寂が個室を包んだ。

ベリエフ氏は、目の前の若き紳士を改めて見つめ直した。

単なる利ざやを狙う投機家ではない。ウェリントン公爵の下で兵站を統制し、「サー・パーシバル中佐」へと出世した人物である。

彼の言葉には、単なる相場の予測を超えた凄みがあった。


(サー・パーシバルの言う通りだ。

イングランドの軍事力と政治力が介入している以上、フランス国債は見た目ほど危険ではない。

むしろ、今の安値は異常なほどの好機なのかもしれない)

ベリエフ氏は自身の銀行家としての本能が、パーシバルの理屈に同意していくのを感じた。


「……恐れ入りました、サー・パーシバル。

あなたには、国際政治というものが、まるで広げたチェス盤の上の駒のように見えているのですね」

ベリエフ氏は新しいペンを取り出し、インクをたっぷりと含ませた。

「バークレイズ銀行として、年利5%での22,000ポンドの融資、そしてフランス国債の買い付け仲介を正式にお引き受けいたしましょう」


「感謝する。では、実際の買い付けはどのように進める?」

パーシバルが尋ねると、ベリエフ氏はプロフェッショナルな顔つきに戻って説明を始めた。


「当行からパリにいる提携先の銀行、例えばペルゴ銀行の代理人宛に、為替手形を振り出します。

為替手形はドーバー海峡を渡り、パリの代理人がそれを受け取って資金を引き出し、パリの証券取引所でフランス国債ラントの現物を直接買い付けます。

現在の大暴落の最中であれば、額面100万フラン分の国債も、22,000ポンドの資金内で十分に買い集めることができるでしょう」


ベリエフ氏は融資の契約書に素早く条件を書き込みながら続けた。

「買い付けた国債の証書は、パリの提携銀行の堅牢な金庫で厳重に保管させるか、あるいは特別な書簡箱に入れてロンドンの当行まで輸送させます。

いずれにせよ、すべての手続きは我々が責任を持って代行いたします」


「見事な手際だ。すべて任せよう」

パーシバルは差し出された契約書に目を通し、流れるような筆記体で自らの署名を記した。


「一つだけ、よろしいでしょうか」

契約書を受け取りながら、ベリエフ氏が尋ねた。

「年利5%の借入金利は、毎年1,100ポンドに達します。いかにコンソル公債の利息収入があるとはいえ、決して軽い負担ではありません。フランス国債の価格が戻るまでの間、持ち堪えるお覚悟はおありですか?」


「心配には及ばない。フランス国債自体にも、年5%の利息がついているからな。額面100万フランに対する利息を受け取れば、借金の金利など十分に相殺して余りある。私はただ、時間が富を増やしていくのを待つだけだ」


パーシバルは立ち上がり、帽子を手に取った。

「手続きが完了し、国債の購入価格が確定したら、ブルームズベリーの邸宅まで知らせてくれ」

「承知いたしました、サー・パーシバル。吉報をお待ちください」


1815年10月。

大英帝国の覇権が確定したその裏側で、パーシバル・シャルトンは自らの信用と担保を最大限に活用し、敗戦国フランスの富を底値で吸い上げるという、新たな巨大な賭けを静かに成立させたのである。



■1815年12月。

ロンドンの街は、厚い鉛色の雲と骨まで凍るような冷たい木枯らしにすっぽりと覆われていた。

通りを行き交う人々は皆、外套の襟を立てて足早に歩き去っていく。

しかし、ブルームズベリーに位置するパーシバル・シャルトンの邸宅の書斎は、暖炉で勢いよく燃える石炭の炎によって、心地よい暖かさに満たされていた。


「外の寒さを思えば、ここはまるで天国ですな、サー・パーシバル」

バークレイズ銀行のジェームズ・ベリエフ氏は、家令のウィリアムから受け取った温かい紅茶のカップを両手で包み込みながら、ほっとしたように息をついた。


「よく来てくれた、ベリエフ氏。

ロンバード・ストリートからわざわざ足を運んでもらったからには、ドーバー海峡を越えてきた風は、私にとって有益な知らせを運んできてくれたと期待して良いのだろうな」

パーシバルは書斎の机の前に座り、静かな笑みを浮かべて問いかけた。


「ええ、もちろんご期待に沿うものです」

ベリエフ氏はカップをソーサーに置き、自身の革鞄から分厚い封筒を取り出して机の上に置いた。

「パリの提携銀行の代理人から、買い付け完了の報告と証書の束が届きました。ご指示通り、ワーテルローの敗戦と巨額の賠償金支払いで暴落しているフランス国債ラントの現物を購入いたしました」


ベリエフ氏は手元の計算書を開き、正確な数字を読み上げ始めた。

「額面100フランの国債を、平均55.2フランという見事な底値で1万枚、買い集めることに成功しました。

すなわち、額面にして100万フラン分の国債です。

為替レートは相場である1ポンドあたり25.2フランで計算されております。

その結果、購入の実価格は21,905ポンドとなりました」


パーシバルは頷きながら、封筒から取り出したフランス国債の預り証書をパラパラと捲った。

「見事な手際だ。実価格が21,905ポンドということは……」


「はい。これに我々バークレイズ銀行の仲介手数料と、パリでの代理人の手続き費用を加算し、総額はきっちり22,000ポンドとなります」

ベリエフ氏は誇らしげに言った。

「これにより、サー・パーシバルが10月に当行から年利5パーセントで借り入れられた22,000ポンドの融資金と、完全に相殺される形となります」


「ご苦労だった。銀行家としての正確な仕事ぶりには、いつも感心させられるよ」

パーシバルは証書の束を机の引き出しにしまい、自身の革表紙の分厚い帳簿を開いた。

「これで、私の資産の陣容が整ったことになるな。

良い機会だ、私のプライベートバンカーであるベリエフ氏と共に現在の私の財政状態を軽く確認しておこう」


パーシバルは羽ペンを取り、帳簿の真新しいページに数字を書き込み始めた。

「まず、負債の部だ。貴行からの借入金が22,000ポンド。これは動かしようのない借金だ。

対して資産の部だが、私が以前から保有しているコンソル公債が額面42,600ポンド分ある。

平和が訪れた今の市場価格で評価すれば、約26,412ポンドに相当する」


ベリエフ氏は深く頷いた。

「ええ。そのコンソル公債を担保としてお預かりしているからこそ、我々も22,000ポンドという巨額の融資を即決できたのです」


「そして、今回手に入れたフランス国債が額面100万フラン。先ほどの計算通り、市場価格で21,905ポンドだ。

これらに加えて、今年の7月に受け取ったコンソル公債の半期分の利息を加えた現金が、およそ1,000ポンド手元に残っている」

パーシバルは資産の部の合計額を弾き出した。

「負債が22,000ポンドあるとはいえ、担保となる資産はそれを遥かに上回っている。盤石と言っていいだろう」


「全くです。しかし、サー・パーシバルの真の恐ろしさは、資産の額そのものではなく、そこから生み出される現金の流れ(キャッシュフロー)にあります」

ベリエフ氏は感嘆の声を漏らした。


「計算してみよう」

パーシバルはさらにペンを走らせた。

「年間の収支計算だ。まず支出として、22,000ポンドの借入金に対する年利5パーセントの支払いがある。

これがマイナス1,100ポンドだ。

対して収入だが、コンソル公債からの確実な利息収入がプラス1,278ポンド。

そして、新たに加わったフランス国債からの利息だ」


「額面100万フランに対する5パーセントの利息ですから、年間5万フランの収入となります」

とベリエフ氏が即座に答える。


「そうだ。それを先ほどの為替レート、1ポンドあたり25.2フランで換算すると、約1,984ポンドの収入となる。

これらをすべて足し合わせよう。

コンソル公債の1,278ポンドとフランス国債の1,984ポンドを合わせれば、収支の合計はプラス3,262ポンドとなる。

そこから、戦時の遺物である忌まわしい所得税が10パーセント引かれる。約326ポンドの控除だ。

そして、支出の1,100ポンドを差し引いて」


パーシバルは最後に、小さくため息をつきながら数字を書き込んだ。

「これらをすべて計算した結果、私の税引き後の純利益は、年間で『約1,836ポンド』となる」


書斎に静寂が訪れた。外の通りを走る馬車と蹄鉄の音だけが響く。


「……借金をして他国の国債を買うという、一見すると無謀な行為にも思えますが」

ベリエフ氏は畏敬の念を込めて言った。

「結果としてサー・パーシバルは、自分の現金を1ペニーも減らすことなく、借金を利用して、年間およそ1,836ポンドという途方もない純利益を永遠に生み出す仕組みを完成させたわけです。

我々銀行家でさえ、ここまで最良の資産を組むことは容易ではありません」


パーシバルは帳簿を閉じ、満足げに微笑んだ。

これで、彼の個人的な資産ポートフォリオは一応の完成を見た。

何もしなくても莫大な現金が手元に転がり込んでくる、完全なる自由を手に入れたのである。


「さて、私の懐が十分に温かく、そして貴行にとっても私が極めて優良な顧客であることは証明できたと思う。そこで、だ」

パーシバルは少し身を乗り出し、声を潜めた。

「ベリエフ氏を信用して、もう一つ頼みたいことがある」


「何なりと。サー・パーシバルのご要望とあらば可能な限りお応えいたしましょう」

「ロンドンのマーク・レーンにある穀物取引所コーン・エクスチェンジに出入りしている仲買人の中で、誰か口の堅い、信頼の置ける男を紹介してほしいのだ」


ベリエフ氏は意外な言葉に目を丸くした。

「穀物取引所の仲買人、ですか?

サー・パーシバルが、小麦の現物取引に興味を持たれるとは……。

戦争が終わり穀物価格は下落し、やがて安定していくと市場は見ていますが。

なぜ急にそのような泥臭い市場へ?」


「推測の段階なので、具体的な理由については、その仲買人と直接会った時に話すつもりだ」

パーシバルは意味ありげに微笑み、窓の外の灰色の空に視線を向けた。

「ただ、私が求めているのは、ロンドンで小金を稼ぐ小手先の相場師ではない。

ヨーロッパ中の気象や小麦の貿易と大陸の港に精通した敏腕な穀物仲買人が必要なのだ」


ベリエフ氏は考え込み、いくつかの候補を脳内で思い浮かべ、やがてゆっくりと頷いた。

「承知いたしました。当行の顧客の中に、マーク・レーンで長年手堅く商売をしている優秀な仲買人がおります。

名前をハリス氏と言いまして、口の堅さには定評のある男です。彼に手紙を書き、ご紹介いたしましょう」


「助かるよ、ベリエフ氏。私の次の計画には、優秀な穀物仲買人が不可欠なのだ」

パーシバルはカップに残っていた冷めた紅茶を飲み干した。


莫大な不労所得を生み出す資産ポートフォリオを完成させたパーシバルは、窓ガラスを叩く異常に冷たい冬の雨を見つめながら、次なる歴史的な異変――すなわち「夏のない年」の襲来に向けた、新たな布石を打ち始めていた。



■1816年1月。

ロンドンの街は、テムズ川の表面に薄氷が張るほどの異常な寒波に包み込まれていた。

本来であれば冬晴れの空が広がる日であっても、どんよりとした灰色の雲が垂れ込め、太陽はまるで薄いベールを被ったかのように力なく霞んでいる。

しかし、ブルームズベリーにあるパーシバル・シャルトンの邸宅の応接間は、赤々と燃える暖炉の火によって快適な温度に保たれていた。


「このような凍える日にわざわざご足労いただき、感謝するよ、ベリエフ氏。そして、あなたがハリス氏ですね。お会いできて光栄だ」

パーシバルはソファから立ち上がり、二人の来客を歓迎した。


バークレイズ銀行のジェームズ・ベリエフ氏の隣に立つ男は、仕立ての良い地味なフロックコートを着た、がっしりとした体格の紳士であった。

彼が、ベリエフ氏の紹介でやってきたマーク・レーンの穀物取引所コーン・エクスチェンジに拠点を置く仲買人、ハリス氏である。


「お招きいただき光栄の至りでございます、サー・パーシバル。若くして中佐となりサーの称号をお持ちで誠に有能な方だとお伺いしております」

ハリス氏は恭しく頭を下げた。年季の入った太く節だった手が印象的であった。


家令のウィリアムが温かい紅茶と焼き菓子を振る舞い、三人が席につくと、パーシバルは窓の外の寒々しい風景に視線を向けた。

「ひどい冷え込みだ。単なる冬の寒さではない。

私は趣味で毎日の気温と天候を記録しているのだが、今年に入ってからの日照時間の少なさと気温の異常な低下は、過去のどの記録とも一致しない。

まるで、空が分厚い灰で覆われているかのようだ」


前年の春、遠く離れたインドネシアのタンボラ火山が歴史的な大噴火を起こし、巻き上げられた膨大な火山灰が地球の成層圏を覆い尽くしていた。それが原因でヨーロッパ全土に異常気象がもたらされていることを、当時の人々は知る由もない。


しかし、ハリス氏は手元のティーカップを置き、深い同意の溜息をついた。

「サー・パーシバルのご明察の通りです。

私は仕事柄、大陸の港町や農村の商人たちと手紙のやり取りをしておりますが、どこもかしこも天候がおかしいと不気味な報告ばかりが届きます。

フランスでも雪が降り止まず、プロイセンの農地は凍りついたままだと。このまま春を迎えても、まともな日差しが戻るとは到底思えません」


パーシバルは真っ直ぐにハリス氏の目を見た。

「私も同じ予測を立てている。もしこの異常な気象が春から夏にかけて続けば、今年はイングランドのみならず、ヨーロッパ全土で致命的な大凶作になるだろうとな。

だからこそ、あなたをお呼びしたのだ、ハリス氏」


ハリス氏は姿勢を正し、仲買人としての鋭い顔つきになった。

「大凶作を見越して、小麦の現物を押さえるおつもりですね。

しかし、サー・パーシバル。それは極めて危険な賭けになります。

なぜなら、我が国には昨年制定されたばかりの忌まわしい『穀物法』が存在するからです」


「穀物法か。国内の地主階級の利益を守るための法律だったな」

パーシバルが水を向けると、ハリス氏は忌々しそうに頷いた。


「はい。この法律により、国内の小麦価格が1クォーター(約291リットル)あたり80シリングを超えるまで、外国産小麦の輸入は全面的に禁止されております。

現在、国内の小麦価格は50シリングから60シリングの間をうろついています。

もし外国から安い小麦を買い付けて船で運んできたとしても、国内価格が80シリングを突破するほどの大凶作にならなければ、港に荷揚げすることすらできず、船の上で腐らせるしかありません。

博打としてはあまりにも分が悪すぎます」


ベリエフ氏も心配そうに口を挟んだ。

「ハリス氏の言う通りです。いかに異常気象の予兆があるとはいえ、もし夏に天候が回復して並の収穫があれば、価格は80シリングには届きません。

買い付けた小麦は、完全に売れない不良在庫となってしまいますぞ」


しかし、パーシバルは二人の警告を聞いても全く動じることなく、静かに微笑んだ。

「お二人の懸念はもっともだ。

だが、法律というものには常に文字通りの解釈と、実務上の抜け道が存在する。穀物法が禁止しているのは、あくまで国内消費向けの輸入だろう?」


ハリス氏が怪訝な顔をした。

「ええ、そうですが。国内で売れない小麦を輸入してどうするのですか?」


「国内に流通させなければよいのだ」

パーシバルは一枚の書類を机の上に置いた。

「関税法によれば、外国から持ち込んだ物資を、再輸出の目的、あるいは将来の関税支払いを保留する目的で、『保税倉庫ボーンデッド・ウェアハウス』に搬入して保管すること自体は完全に合法なはずだ。

違うかな、ハリス氏?」


ハリス氏の目が大きく見開かれた。

「……保税倉庫! 確かに、テムズ川沿いの指定された保税倉庫に保管するだけならば、国内市場に流通させたことにはなりませんから、穀物法の制限は受けません。

しかし……」


ハリス氏はすぐにその計画の真意に気がつき、息を呑んだ。

「なるほど。

安い今のうちに大陸で買い付け、合法的にロンドンの保税倉庫に山積みにしておく。

そして、いざ大凶作が現実のものとなり、国内価格が80シリングの壁を突破したその瞬間に、合法的に関税を払って倉庫の扉を開け、飢えたロンドン市場に莫大な小麦を一気に放つという算段ですか!」


「その通りだ」

パーシバルは満足げに頷いた。

「私の計画はこうだ。現在、フランスの小麦価格はまだ異常気象の影響を完全には織り込んでおらず、極めて安値で放置されている。

これを3月に現地で大量に買い付け、4月のうちにロンドンの保税倉庫へ搬入して保管する。

我々はただ、倉庫の鍵を握りしめて、大凶作になるかを待つだけだ」


「なんと恐ろしい、いや、確かに大凶作となるのでしたら……」

ハリス氏は額に滲んだ汗をハンカチで拭った。

「国内の商人が価格の暴騰に慌てて大陸へ買い付けに走った頃には、すでに大陸では小麦の輸出は規制されているでしょうな」


「ただし、この取引において、一つだけ絶対の条件がある」

パーシバルは声を落とし、真剣な眼差しでハリス氏を見た。

「私の名前を、この小麦取引の表に一切出さないでいただきたい。

私は摂政皇太子殿下よりナイトの称号を賜ったジェントルマンだ。

その私が、飢饉に乗じて民衆の食べるパンの価格を釣り上げ、利益を貪ったと思われれば、私の名誉は致命的な傷を負うことになる。

実際には、フランスから小麦を輸入し、国内の飢えを防ぐために行動しているにもかかわらずだ」


「なるほど、お立場は理解いたしました」

ハリス氏は深く頷いた。貴族やジェントルマンが商売に直接手を下すことを避けるのは、この時代の常識である。

「では、名義上はすべて私、ハリスが買い付けと保管を行ったことにいたしましょう。

私はマーク・レーンの仲買人ですから、小麦をフランスで購入しても怪しまれません。

サー・パーシバルのお名前は完全に秘密として守ることをお約束いたします」


「お願いする。そして、小麦を現物で売り捌くような泥臭い真似も不要だ」

パーシバルはさらに指示を重ねた。

「国内価格が80シリングを突破し、買いが殺到して価格が100シリング程度まで急騰した時点で、保税倉庫の小麦を引き出す権利書である『保管証』を、そのまま市場の業者に売却してくれ。

我々は書類を右から左へ動かすだけで、莫大な利益を確定させるのだ」


ハリス氏は完全にパーシバルの話に魅了されていた。

「承知いたしました。

私にとっても、これほど挑戦的で国のためにもなる取引を任されるのは仲買人冥利に尽きます。

最高の小麦と船と倉庫を手配してご覧に入れましょう」


「さて、実務の算段はついた」

パーシバルはソファに深く背中を預け、ここまで黙って二人の会話を聞いていたベリエフ氏に向き直った。

「ベリエフ氏。この買い付けを実行するためには、先立つものが必要だ。

フランスでの買い付け資金、輸送費、保険料、そして保税倉庫の保管料。

これらをすべて賄うため、貴行から新たに『17,000ポンド』の追加融資をお願いしたい」


その額を聞いた瞬間、ベリエフ氏は持っていたティーカップを危うく落としそうになった。

「17,000ポンドですか!?

サー・パーシバル、お待ちください。

あなたは昨年の10月に、すでに22,000ポンドもの巨額の借入を当行から行っているのですよ!

さらに17,000ポンドを追加すれば、負債総額は39,000ポンドという巨額に膨れ上がってしまいます!」


ベリエフ氏は慌てて手帳を取り出し、計算を始めた。

「確かに、担保としてお預かりしているコンソル公債の市場価格は現在26,000ポンド強。

しかし、それだけでは39,000ポンドの借入の担保としては完全に不足しております。

いかにサー・パーシバルの信用があるとはいえ、銀行の規律として、担保不足のままこれ以上の貸し出しを行うことは……」


「担保が不足している?」

パーシバルは微かに笑みを浮かべ、ベリエフ氏の言葉を遮った。


「ベリエフ氏。あなたが私のためにパリで買い付けてくれた、額面100万フランのフランス国債を忘れたわけではあるまいな。

あれも、貴行の金庫に厳重に保管されているはずだ」


「フランス国債……しかし、あれは敗戦国の債券です。

担保としての評価額は極めて低く見積もらざるを得ません」

「本当にそうかな? 最近のパリの相場表を確認しているか?」


パーシバルは机の上にあった最新の金融新聞をベリエフ氏の方へ滑らせた。

「私が購入した時の価格は平均55.2フランだった。だが、連合国軍の駐留によりブルボン王政が思いのほか安定している事実を受けて、現在のフランス国債の価格はすでに60フランを突破し、上昇を続けている。

額面100万フランであれば、その市場価格はすでに24,000ポンドを超えているはずだ」


ベリエフ氏は新聞の数字を食い入るように見つめた。

パーシバルの言う通りであった。

彼が底値で拾ったフランス国債は、わずか数ヶ月で凄まじい含み益を生み出していたのだ。

コンソル公債の26,000ポンドと、フランス国債の24,000ポンド。合わせて50,000ポンドという資産が、バークレイズ銀行の金庫に眠っている。

これならば、39,000ポンドの借入に対しても、担保としては十二分に保全されていることになる。


「……恐れ入りました」

ベリエフ氏は深く息を吐き出し、完全に降伏したように肩をすくめた。

「サー・パーシバルの計算は、常に私の懸念の二歩も三歩も先を行っておられる。

担保価値は確かにございます。

……分かりました。銀行の審査部には私が責任を持って掛け合いましょう。

あなたという絶対的な実績を持つジェントルマンの計画に、乗らない手はありません。

17,000ポンドの追加融資、特別に請け負わせていただきます」


「感謝するよ、ベリエフ氏。これで舞台は整った」



1816年1月。

ヨーロッパ全土を襲うことになる飢餓と絶望の「夏のない年」が牙を剥く前に、パーシバル・シャルトンは莫大な借金と引き換えに、歴史の必然を利用した巨大な富の罠を、仕掛け終えたのであった。




■1816年、春。

ハリス氏の行動は迅速かつ的確であった。

パーシバル・シャルトンの指示と、バークレイズ銀行から引き出した資金を手に、彼はドーバー海峡を越えてフランスの港町へと渡った。

現地の仲買人たちを巧みに操り、3月の時点でフランス産の小麦を大量に買い付けることに成功したのだ。

当時のフランスでは、前年の敗戦の混乱が尾を引いており、小麦価格は驚くほど安値で放置されていた。


ハリス氏が買い付けたのは、1クォーター(約291リットル)あたり45フラン、イングランド通貨にして約1.8ポンドという破格の安値であった。

買い付けた総量は実に8,250クォーター、重量にして約1,800トンにも及ぶ。

小麦の購入代金は14,850ポンド。

それに加えて、イングランドまでの輸送に要する船のチャーター代と海上保険料が1,150ポンド。

総額16,000ポンドの資金が投じられ、4月には全量がテムズ川沿いにあるロンドンの保税倉庫へと無事に搬入された。

国内の市場に出回ることはない。

ただ静かに、法的に保護された倉庫の暗がりの中で、時が来るのを待つだけの状態であった。



そして、パーシバルの見立てが正しかったことは、間もなく証明されることになった。

1816年の夏は、後に歴史家たちが「夏のない年」と名付けるほどの、異常かつ絶望的な季節となったのである。


通常であれば、イングランドの田園地帯は暖かな陽光に包まれ、黄金色の麦穂が風に揺れるはずであった。

しかし、その年は違った。

5月を過ぎても気温は一向に上がらず、6月にはロンドンに季節外れの雪が舞った。

厚く垂れ込めた鉛色の雲は、いつまで経っても太陽の光を地上に届けようとしなかった。

7月に入っても暖炉の火が欠かせないほど冷え込み、冷たい長雨が連日のように降り続いた。

日照不足と過剰な湿気により、畑の作物は成長する前に根から腐り始め、牧草も育たずに家畜が次々と倒れていった。

当時のイングランドは農業国である。

農作物の不作は、文字通り国民の生死に直結する。地方からの報告は惨憺たるものであり、秋を待たずして大凶作は確定的なものとなった。



「サー・パーシバルの予見は、凄まじいですな」

8月のある日、ブルームズベリーの邸宅を訪れたベリエフ氏が、震える声でそう語った。

「国内の小麦価格がついに暴騰を始めました。地方の市場では、すでに1クォーターあたり80シリングの壁を突破しております。

これで、穀物法による外国産小麦の輸入制限は事実上解除されたことになります」


パーシバルは窓の外の冷たい雨を見つめながら、静かに紅茶のカップを置いた。

「パニックが始まったばかりだ。

飢えに対する人間の恐怖は、価格をさらに引き上げる。倉庫の扉を開けるのは、もう少し先でいい」




そして、時計の針は進み、1816年12月。

ロンドンの冷え込みはさらに厳しさを増していたが、ロンバード・ストリートにあるバークレイズ銀行の個室は、巨額の金が動く熱気に満ちていた。

部屋には、パーシバル・シャルトン、銀行家のジェームズ・ベリエフ氏、そして穀物取引所の仲買人であるハリス氏の三人が顔を突き合わせていた。


「現在のマーク・レーンにおける小麦価格をご報告いたします」

ハリス氏は手元の帳簿を開き、興奮を隠しきれない様子で数字を読み上げた。

「なんと、1クォーターあたり103.5シリング、ポンドに換算して5.175ポンドにまで達しております。春先の安値からは考えられない、まさに天井知らずの暴騰です」


パーシバルは深く頷いた。

「潮時だな。ハリス氏、かねての打ち合わせ通り、保税倉庫の小麦をすべて売却する。

倉庫には8,250クォーターの小麦が眠っている。

計算上では、総額で42,693ポンド余りになるはずだ」


「その通りでございます」

ハリス氏はプロの仲買人としての冷静さを取り戻し、提案した。

「では、お約束通り私に保税倉庫の保管証書をお売り頂けますでしょうか。

私はその証書を、マーク・レーンに出入りする複数の大口仲買人に分散して売却いたします。

彼らも血眼になって小麦を探しておりますから、証書を見せれば即座に現金で買い取るでしょう。

サー・パーシバルのお手元には、私の手数料と、これまでの保税倉庫の保管料を差し引いた切りの良い数字、40,000ポンドを即金でお支払いいたします」


総額16,000ポンドで仕入れた小麦が、わずか数ヶ月の保管で40,000ポンドの現金に化ける。差額の24,000ポンドが、この取引から生み出される純粋な利益であった。


「それで手を打とう」

パーシバルは一切の迷いなく同意し、懐から保税倉庫の証書の束を取り出してハリス氏に差し出した。


ハリス氏はその場でバークレイズ銀行の当座預金小切手を切り、ベリエフ氏の確認のもと、パーシバルに40,000ポンドの支払いを完了させた。


「さて、ベリエフ氏。これで私の手元には十分な現金が用意できた」

パーシバルは受け取った小切手を机の上に置き、銀行家に向き直った。

「1月に貴行からお借りした追加融資、17,000ポンド。今この場で、利息とともに全額を返済して精算したい」


「喜んでお受けいたします、サー・パーシバル」

ベリエフ氏はすかさず借用書と計算書を用意した。年利5パーセントの約1年分の利息を加え、厳密な計算が行われる。

パーシバルは40,000ポンドの小切手から借入金とその利息を支払い、完全に精算を済ませた。


借金を全額返済しても、パーシバルの手元には22,000ポンドを超える現金が残った。

その上、彼の資産の根幹であるフランス国債100万フランと、コンソル公債42,600ポンド分は、何一つ手付かずのままバークレイズ銀行の金庫に眠っているのだ。

借金というレバレッジを利用して現金を捻出し、実物資産の暴騰を利用して借金を消し去る。

資本主義における錬金術とも呼べる、見事な立ち回りであった。


「それにしても、素晴らしいお仕事でしたな、ハリス氏」

精算の書類を片付けながら、ベリエフ氏が穏やかな声で言った。

「今回のサー・パーシバルの小麦売却によって、ロンドン市場には約8000クォーターもの小麦が供給されることになります。

これで1万数千人のイングランド市民が飢えずに、この厳しい冬を越すことができるでしょう」


ハリス氏も深く頷き、パーシバルに向かって敬意に満ちた視線を向けた。

「その通りです。世間では穀物を買い占める商人を悪魔のように罵りますが、もし春の段階でサー・パーシバルがフランスから小麦を輸入し、保税倉庫に保管しておかなければ、来年春のロンドンは本当に餓死者で溢れかえっていたはずです。

結果として、あなたは利益を得ただけでなく、イングランド国民の命を救ったのです。

まさに、ナイトの称号に相応しい、素晴らしい善行でございます」


「善行などと、買い被らないでいただきたい」

パーシバルは苦笑しながら、机に置かれていたティーカップを手に取り紅茶を飲み干す。

「私はただ、異常気象という自然の気まぐれを予想し、イングランド国民が飢えずに済むよう手助けをしたいと考えただけです。

結果として民衆の胃袋が満たされたのであれば、それは神の配剤というものだろう」



「だが、ハリス氏。あなたもただ私の手足として動いていただけの、お人好しの仲買人というわけではあるまい?」


その言葉に、ハリス氏は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに鋭い眼差しで笑みを浮かべた。

「おや、見抜かれておりましたか。さすがはサー・パーシバルです」

ハリス氏は少し声を潜め、悪戯っぽく言った。


「実は、春先にフランスへ買い付けに赴いた際、あなたの恐ろしいほどの確信に満ちた予見に、私もすっかり感化されましてな。

私個人の資金を使い、別途、フランス産小麦を大量に買い付けておりました」


ベリエフ氏が驚きの声を上げた。

「なんと! では、今回の暴騰であなたも……?」


「ええ。お恥ずかしながら、私もこの冬でそれなりの利益を出させていただきました。

サー・パーシバルの先見の明に便乗させていただいたこと、深く感謝いたします」

ハリス氏はホクホク顔で、パーシバルに感謝を述べる。


「出来る仲買人というのは、そうでなくてはならない。機を見るに敏な男は嫌いではないよ」

パーシバルは声を立てて笑った。


銀行の個室に、三人の紳士の満足げな笑い声が響き渡る。

それぞれが自らの知恵と度胸で歴史の荒波を乗りこなし、途方もない富を手にした勝者たちであった。



(第10章 完)







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― 新着の感想 ―
 当然ながらフランスは飢餓地獄だろうなー。
>>みみんさん youtube動画で不動産投資をしている人が言っていました。 「借金は資産を形成するためのツール」だと。 キャッシュフローがプラスならば、作品中で書かれている借入金はむしろ健全ですよ。
今回も面白かったのですが、なぜ借金を完済しなかったのかがよく分かりませんでした。 借金があれば控除があるとかですか?? 完済したら利息をそれ以上払う必要がないからいいかと思ったのですが……。 次回にそ…
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