第9章(1815年):ナポレオンの百日天下とパーシバルの賭け(前半)
■1815年1月。イギリスの首都ロンドン。
パーシバル・シャルトンが、大英博物館に近い新興高級住宅街ブルームズベリーに家具付きのタウンハウスを借りてから、およそ1週間が経過していた。
朝の静けさが残る中、2階の書斎でパーシバルは書き物をしていた。
窓の外には広場を囲むように建ち並ぶ赤煉瓦の家々が見える。
ロンドン特有の霧と石炭の煙は漂っているが、この一帯は道幅も広く、清潔さが保たれている。
ノックの音とともに扉が開き、ウィリアムが銀のトレイに紅茶と手紙を載せて入ってきた。
「旦那様、おはようございます。今朝の郵便と、ミセス・ブラウンが淹れた紅茶でございます」
ウィリアムの言葉遣いは丁寧で、その動きには以前と比べ格段に洗練されており。
黒のフロックコートと白いクラバット(初期のネクタイ)を身につけた姿は、ロンドンの紳士の家に仕える執事として十分に通用するものだった。
実家の執事ハミルトンによる指導は厳格であったが、その甲斐あって、ウィリアムも、そして従者として雇われたスローターも、見違えるように落ち着いた立ち振る舞いを身につけていた。
「ありがとう、ウィリアム。ミセス・ブラウンの料理の腕はどうだ」
「はい。大家の紹介で雇い入れただけあって、手際が良く、ロンドンで食材の目利きも熟練ですね。
今朝の卵料理も申し分ありませんでした。
あと、若いハウスメイドのジェーンの方も、朝早くから1階の掃除と暖炉の火おこしを真面目にこなしております。メイドとしては十分に合格点かと存じます」
「それは良かった。二人ともこの家によく馴染んでいるようだな」
パーシバルは紅茶を一口飲み、手紙の差出人を確認した。
パーシバルが借りたこのタウンハウスは、当時のロンドンで一般的な間取りをしていた。
半地下には厨房と食料庫、料理人メイドのミセス・ブラウンやハウスメイドのジェーンが作業や休憩をするスペース、そしてスローターとウィリアムが寝起きする使用人部屋がある。
1階には来客を通す応接間と、食事をとるダイニング・ルームが配置されている。
階段を上がった2階には、今パーシバルがいる書斎と、彼の寝室がある。
そして屋根裏は、メイドたちの使用人寝室と物置となっている。
一人暮らしの紳士が数人の使用人を置いて暮らすには、広すぎず狭すぎない、適切な規模の家であった。
「それにしても、この家は使い勝手が良いですね」
ウィリアムがトレイを脇に置きながら言った。
「半地下の厨房からダイニングへの動線も悪くありませんし、何よりジェーンが掃除をするにも広さがちょうど良いようです」
「そうだな。このブルームズベリーを選んで正解だった」
パーシバルは頷き、ふと独り言のように付け加えた。
「……本当は有名なベーカー・ストリートの方が良かったのだがな」
それを聞いたウィリアムは、少し不思議そうな顔をして尋ねた。
「なぜベーカー・ストリートになさらなかったのですか?
部屋探しを手伝っていたロンドンの代理人も、あちらのほうが高級住宅街で、紳士としての箔がつくとお勧めしていたではありませんか。
家賃の面でも、あのあたりを探すことは可能だったはずです」
ウィリアムは、パーシバルが資金を出し渋る人間ではないことを知っていた。
パーシバルは手紙を机に置き、ウィリアムに向き直って答えた。
「あちらは確かに名前の響きが良いし、貴族の邸宅も多い。
だが、実生活を送る上での問題がある。まず、家賃が相場よりもさらに高いことだ。
そして、あの一帯は街の設備が古く、下水道の整備が追いついていない」
パーシバルはロンドンの地理と衛生事情について説明を続けた。
「ロンドンの人口は増え続けており、古い住宅街ではテムズ川に流れ込む生活排水の処理が限界に達している。
夏になれば、下水の悪臭が通りに立ち込めるだろう。それに比べて、このブルームズベリーは新しく開発された地域だ。
区画整理がなされており、排水設備も比較的整備されているため、清潔だ」
「なるほど、見栄よりも実際の生活環境を選んだというわけですね」
「それもある。だが、最大の理由は立地だ」
パーシバルは引き出しからロンドンの地図を取り出し、机の上に広げた。
「これから私用で出向くことが多くなるのは、ロンバード・ストリートや王立取引所があるシティ(金融街)だ。
あそこは商業と金融の中心地だからな。このブルームズベリーからであれば、大通りを抜けて馬車で10分ほどでシティに入ることができる。
ベーカー・ストリートからではそれ以上の時間がかかる」
「すべては計算の上でしたか」
ウィリアムが納得したように言うと、パーシバルは地図をしまい、代わりに一冊の帳簿を取り出した。
「計算といえば、ウィリアム。お前を呼んだのは、今後のこの家の予算について確認しておくためだ。
引越しのごたごたでなし崩し的に任せていたが、正式にお前はこの家の執事として、家内における出費の管理を任せたい」
「はい。承知しました」
ウィリアムは姿勢を正した。
「この家具付きのタウンハウスの家賃。そして窓税などの各種税金。移動に使う馬1頭と、馬車の維持費。これらがまず基本となる固定費だ」
パーシバルはペン先で帳簿の項目を指し示した。
当時のイギリスでは、窓の数に応じて税金が課される窓税が存在した。
採光が良く窓の多い家は、それだけで毎年のように税金を納める必要があった。
「次に人件費だ。雇っている料理人メイドのミセス・ブラウンと、ハウスメイドのジェーンの給与。
そして、お前とスローターの給与だ。ボルドーで約束した通り、お前が年50ポンド、スローターが年40ポンドで、合計90ポンドだ」
「間違いございません」ウィリアムは頷いた。
「これらに、日々の食費や石炭・薪代、来客があった際の交際費、日用品の補充費などをすべて合わせると、このロンドンの家を維持するための固定費は、年間に520ポンド掛かる計算になる」
パーシバルが提示した金額を聞き、ウィリアムはわずかに目を瞬かせた。
「年間に520ポンド、ですか」
「多いか」
「……正直に申し上げますと、田舎の小地主様が、一家で一年間暮らしていくための年収に匹敵する額かと存じます。
実家のお父上がお聞きになれば、ずいぶんと散財をしていると心配されるかもしれません」
ウィリアムの指摘は妥当だった。一般的な労働者の年収が20ポンドから30ポンド程度である時代において、単身の紳士が暮らす家の維持費として520ポンドは高額な部類に入る。
パーシバルは落ち着いた声で返答した。
「確かに、田舎の基準で考えれば多額な出費だ。
だが、ロンドンの金融市場で資本家として活動するためには、必要な経費なのだよ」
パーシバルは帳簿を閉じてウィリアムの顔を見た。
「私がこれからシティで行おうとしているのは、手元にある資産を元手に、大きな規模の取引を行うことだ。
シティの銀行家や仲買人たちは、相手がどれだけの信用に足る人物かを見極める際、客の身なりや住んでいる家、乗っている馬車、そして抱えている使用人の質を見る」
ウィリアムは静かに話に耳を傾けた。
「みすぼらしい借家に住み、身なりに構わない男が大きな取引を持ちかけても、誰も相手にしないだろう。
彼らは目に見える資産や生活水準から、その人物の支払い能力と社会的信用を測るのだ。このブルームズベリーの家、馬車、そして身なりの整った家令と従者。
これらはすべて、私が十分な資産を持った紳士であるという信用をシティの人間たちに示すためのものだ」
ウィリアムは得心した様子で頷いた。
「年間520ポンドは、その信用を得るための経費であるということですね」
「その通りだ。だからこそ、お前には家令として、この520ポンドの予算内で、シティの人間たちを納得させるだけのきちんとした生活水準を維持してもらいたい。
無駄遣いをする必要はないが、必要なところにはしっかりと金をかける。それがお前の仕事だ。
なので追加で金が必要になったらいつでも声を上げて欲しい。
私は予算を超過したからと言って文句を言う人間ではないからな」
「承知いたしました。旦那様の信用を損なわないよう、責任を持ってこの家を管理いたします」
ウィリアムは深く一礼した。
「それと、ウィリアム。スローターが若いジェーンに手を出さないようにも見張って欲しい」
「スローターでしたら時たま戦地で稼いだ金を使って夜の繁華街通いをしていますので大丈夫かと」
「うーん、そうか。・・・くれぐれも病気にならないよう、気をつけるよう注意しておくように」
「かしこまりました」
「それから、食事の買い出しについてだ」
パーシバルは続けた。
「近所の市場への買い出しはミセス・ブラウンに任せているのか?」
「はい。彼女は長くロンドンで料理人を務めていた経験があり、どの店で質の良い肉や野菜が手に入るかよく知っております。
また、商店との付き合いも長く、不当な高値で買わされる心配もありません。週ごとの食費の帳簿も、私がしっかりと確認しております」
「分かった。食事の質は生活の質に直結する。特に、私が人を招いて食事をする際には、彼女の腕が頼りになる。
来客が予定される時は予算を気にせず、質の良い食材を仕入れるように伝えてくれ」
「承知いたしました。来客用のワインにつきましても、手配を済ませております。
酒商からポートワインとシェリー酒をいくつか取り寄せて地下の貯蔵庫に納めております」
「手際が良いな」
パーシバルは頷いた。
「スローターの様子はどうだ?従僕兼 馬丁としての仕事に不満はないか」
「スローターも、立派な馬車と馬を任されて真面目に働いております。
毎朝、馬のブラッシングと馬車の車輪の点検を欠かしません。
ただ、時折、戦場で荷馬車を引いていた時の癖が出て、手綱を引く手が強すぎるところはありますが」
「平和なロンドンの通りを走る馬車だ、砲弾が飛んでくるわけではない。優しく扱うよう言っておけ」
「はい、よく言い聞かせておきます」
ウィリアムが一礼して書斎を出て行った後、パーシバルは静寂の戻った部屋で小さく息を吐いた。
このタウンハウスでの生活は、軍での野営生活とは比べ物にならないほど快適で、秩序立っている。
決まった時間に食事が運ばれ、常に清潔な衣服が用意されている。
半地下の厨房から漂ってくるほのかな香草の香りと、暖炉の薪がはぜる音が、日常の平穏を告げていた。
しかし、パーシバルにとっては、この平穏な生活もまた、巨大な取引に向けた準備期間に過ぎない。
520ポンドの固定費という出費を最大限に生かすためには、ロンドンの金融街で相応の相手と人脈を構築する必要がある。
彼は机の上に積まれた数日分の新聞に目を落とした。大陸からのニュース、特にフランス王政復古後のパリの動向を伝える記事は、彼にとって最も重要な情報源であった。
パーシバルは、ウィリアムが持ってきた今日の手紙の束を手に取った。
ブルームズベリーの静かな朝の光の中で、彼は一つ一つの封を丁寧に切り、手紙の内容と新聞の情報を照らし合わせる作業を静かに進めていった。
■翌朝
ロンドンのブルームズベリーに構えたタウンハウスの2階にある書斎で、パーシバル・シャルトンは朝食を終えた後の時間を情報分析に費やしていた。
マホガニーの重厚な机の上には、淹れたての紅茶が湯気を立てており、その横には今朝配達されたばかりの『タイムズ』紙と『モーニング・ポスト』紙、そして数通の手紙が無造作に、しかしパーシバルなりの規則性を持って広げられている。
パーシバルの朝の作業は、これらの複数の新聞の論調を読み比べ、そこに書かれている事実と、行間から読み取れる政治的な思惑を切り分けることから始まる。
新聞の国際面の大部分を占めているのは、ナポレオン退位後に王政復古を果たしたフランス、ブルボン王朝のルイ18世に関する記事であった。
イギリスの新聞は、長年の敵国であったフランスにようやく正統な王が戻ったことを歓迎する論調を基本としている。
しかし、細かな事実の断片を拾い集めると、フランス国内の情勢が決して安定していないことは明白だった。
「やはり、ブルボン家は何も学んでいないようだな」
パーシバルは『タイムズ』紙の隅にある小さな記事に目を落としながら、静かに呟いた。
記事によれば、ルイ18世とその取り巻きの亡命貴族たちは、革命とナポレオンの時代に市民の手に渡った土地や権利を取り戻そうと躍起になっているという。
さらに致命的なのは、軍隊に対する冷遇であった。ナポレオンと共にヨーロッパ全土を席巻し、数々の栄光を手にした歴戦の将兵たちは、今やその大半が軍を解雇され街に放り出されていた。
彼らに代わって軍の要職に就いたのは、実戦経験もないまま血筋だけで選ばれた古い貴族たちである。
パーシバルは新聞を置き、次に机の右側に置かれた手紙の束を手に取った。
これらは、彼が半島戦争中に築き上げた独自のネットワークから届けられたものだ。
スペインやフランス南部で物資の調達や換金を通じて繋がりを持った商人たち、そして密貿易にも手を染めているイングランド南部の船主たちからの私信である。
ボルドーの商人からの手紙には、新体制に対する市民の生々しい不満が綴られていた。
『……王党派の役人たちは、我々商人に新たな税を課すことしか頭にありません。
街の居酒屋では、軍服をすり減らした復員兵たちが夜な夜な集まり、公然とブルボン家を呪う言葉を口にしています。
彼らは春になれば「あの男」が戻ってくると信じており、スミレの花を隠語にして乾杯を繰り返している有様です』
別の、サウサンプトンを拠点とする貿易商からの手紙も同様の懸念を伝えていた。
『フランスの港の税関はひどく混乱しており、役人の賄賂の要求は以前より露骨になっています。
現地の人々の間には、今の王政は長く続かないという噂が絶えません。
商取引には十分な警戒が必要かと存じます』
パーシバルは手紙を机に戻し、背もたれに深く体を預けた。
彼の脳内にある「前世の歴史知識」は、ナポレオンが間もなくエルバ島を脱出し、再びパリへ向けて進軍することを告げている。しかし、パーシバルはもはやその知識だけに盲従しているわけではなかった。
新聞の報道と、現地の生きた情報。これらを客観的に分析すれば、ナポレオンの帰還は単なる歴史の知識ではなく、政治的・経済的な「必然」であることが理解できる。
エルバ島という小さな島に押し込められたナポレオンは、約束されていた年金もルイ18世から支払われず、暗殺の噂に怯えながら不満を募らせているはずだ。
そして、フランス国内には、彼を再び皇帝として迎え入れようとする数十万の不満分子が存在している。
ナポレオンという男の野心と行動力を考えれば、この絶好の機会を見逃すはずがない。彼は必ず海を渡る。
「ここまではいい。歴史の大きな流れは、私の記憶通りに進んでいる」
パーシバルは冷めた紅茶を一口飲んだ。
ナポレオンの帰還。
それが引き起こすロンドン金融市場の大暴落。
そこに手持ちの資金をすべて投入し、底値で公債を買い漁る。
そして、ワーテルローの戦いでイギリス軍が勝利した直後の暴騰で売り抜ける。
これが、パーシバルが当初計画していた莫大な資産形成のシナリオである。
しかし、そのシナリオの先を考えた時、パーシバルの心臓の奥底に、冷たい氷の塊のような不安が明確な形をとって現れた。
「……問題は、ナポレオンが帰還した『後』だ」
パーシバルの視線が、机の片隅に置かれたカレンダーに向けられた。
1814年の春、トゥールーズ攻略戦の直前。
パーシバルは自身の兵站管理と、ビトリアで確保した30万ポンドの軍資金によって、ウェリントン将軍の進軍速度を史実よりも早めてしまった。
結果として、ナポレオンの退位は史実より「1週間」早まったのだ。
この1週間のズレが、これからの歴史にどのような影響を与えるのか。
パーシバルには全く予想がつかなかった。
ナポレオンがエルバ島を脱出する日付も、史実通りではないかもしれない。
ワーテルローという場所で決戦が行われるという保証もない。
そして何より恐ろしいのは、「本当にウェリントン公が勝つのか」という結果すら、もはや絶対の事実ではなくなってしまったことだ。
もし、歴史のズレによってプロイセン軍の到着が1日遅れたら。
もし、雨が降る前にフランス軍が進軍し、史実より早く戦端が開かれてしまったら。
もし、ウェリントン公が戦死してしまったら。
パーシバルの背筋に冷や汗が伝った。
これまでの彼の成功は、すべて「絶対に確実な未来」という安全な足場の上で行われてきた。
結果が分かっているからこそ、全財産を投じるような大胆な賭けができたのだ。
しかし、これからの戦いは違う。足元から伸びる道はすでに曖昧な状態となっている。
これから彼が行おうとしているのは、絶対の勝利が約束されたインサイダー取引ではなく、己の全財産と人生を懸けた、極めて危険な「投機」に他ならないのだ。
(破産か、それとも莫大な富か。……歴史の蝶の羽ばたきを起こしてしまった以上、もはや引き返すことはできない)
パーシバルは小さく息を吐き出し、強引に思考を切り替えた。
不安に呑まれて立ち止まるのは、資本家として最も愚かな行為である。
不確実な未来に対する唯一の対抗策は、常に最悪の事態を想定し、自分にできる最善の準備を淡々と進めることしかない。
彼は机の引き出しを開け、丁寧に束ねられた分厚い原稿用紙を取り出した。
それは、パーシバルが退役後の余暇を利用して、毎日のように書き進めていた論文であった。
タイトルは『軍隊の移動と維持に関する論考:戦場における兵站の科学的体系化、および輸送効率の向上による国庫負担の軽減について』。
パーシバルがペンを執り、原稿の最終確認を始めた。
内容は、彼が半島戦争での5年間で培ってきた実務経験の集大成であった。華々しい戦術論や歩兵の陣形についてではなく、いかにしてラバの餌を調達し、弾薬の集積所を効率的に配置し、そして何より「現場の徴発(略奪)に頼るナポレオン方式の限界と、イギリス軍の「購入・輸送」方式の優位性」という、極めて実務的で経済的な軍事論理である。
もちろん、彼自身が裏で行っていた馬の転売や戦利品の横流しといった非合法な手段については一切触れていない。あくまで、ビトリアで30万ポンドの国庫財産を守り抜いた「名誉少佐」としての視点から、イギリス陸軍の補給制度の改善を促し、中央集権的な兵站管理の必要性を論理的に説いたものであった。
なぜ、軍を退役した今になってこのような論文を書いているのか。
それは単なる回顧録ではない。これもまた、パーシバルの今後のための明確な「政治的な布石」であった。
ワーテルローの戦いの後、ヨーロッパには長い平和が訪れる。その平和な時代において、軍隊の在り方は根本から見直されることになる。
その際、この論文が政府の高官や陸軍省の実務家たちの目に留まれば、パーシバル・シャルトンという人間は、単なる「金を稼ぐのが上手い元将校」ではなく、「軍の兵站と財政を深く理解した軍事経済の専門家」として認知される。
莫大な資産を持つだけでなく、知識人としての社会的権威を獲得すること。
それが、ロンドンの支配階級に食い込むための強力な武器となるからだ。
「……これで、本文の推敲は終わりだ」
パーシバルが最後のページにサインを書き入れた時、ノックの音がしてウィリアムが書斎に入ってきた。
「旦那様、暖炉の薪を補充に参りました」
「ああ、頼む。少し冷えてきたところだ」
ウィリアムは手際よく薪をくべながら、机の上に積まれた原稿用紙に目を留めた。
「旦那様、ついにその本を書き終えられたのですか。毎日ずいぶんと熱心に向き合っておいででしたが」
「一応の完成を見たところだ。近いうちに、ロンドンの出版社に持ち込んで印刷の手配をするつもりだ」
「兵隊の飯と馬車についての本でしたね」
ウィリアムは少し不思議そうな顔をした。
「軍の偉い将軍様たちは、大砲や騎兵の突撃の話ばかりを好みますが、こんな地味な荷馬車の話を読む人間がいるのでしょうか」
パーシバルは微かに口角を上げた。
「前線で名誉を欲しがる将軍たちは読まないかもしれない。
だが、ロンドンの安全な執務室で、戦争の予算を計算し、税金の使い道に頭を悩ませている政治家や官僚たちは必ず読む。
彼らにとって、戦争とは英雄の叙事詩ではなく、巨大な金銭の消費活動に過ぎないからだ。
いかにして無駄な経費を削減し、効率的に軍隊を動かすか。
私が書いたのは、そのための具体的な教科書を目指したものだ」
「なるほど。やはり旦那様の目は、常に金庫の鍵を握っている連中に向いているわけですね」
ウィリアムは感心したように頷き、火ばさみを元の場所に戻した。
「出版には少し費用が掛かるだろうが、これは必要な投資だ」
パーシバルは原稿用紙を綺麗に整え、引き出しの奥に慎重にしまった。
「さて、頭の中の整理はついた。次は実際の資金を動かす準備だ。
ウィリアム、午後から外出する。馬車の用意をしてくれ」
「かしこまりました。どちらへ向かわれますか?」
「ロンバード・ストリートのバークレイズ銀行だ。ジェームズ・ベリエフ氏に面会する。
これからの大きな取引のために、専門の人間を紹介してもらわねばならない」
パーシバルは立ち上がり、椅子に掛けてあった上着に袖を通した。
未知の歴史への不安はまだ胸の奥底にくすぶっている。
しかし、彼がこれまでに築き上げた資本と信用は確実に彼の手の中に存在している。
歴史の歯車が狂い始めているのかさえ不明な中で、パーシバル・シャルトンは自らの意思で、ロンドン金融街という巨大な戦場の中心部へと足を踏み入れようとしていた。
■大英帝国の経済の中心地、シティ・オブ・ロンドン
シルクハットを被った銀行家や、帳簿を抱えた書記たちが行き交い、荷馬車や辻馬車の車輪の音が石畳に響き渡っている。
ナポレオンが退位し、ヨーロッパに平和が訪れたことで、世界中の富と貿易船が再びこのシティに集まり始めていた。
パーシバル・シャルトンを乗せた馬車は、通りに面して建つ重厚な石造りの建物の前で止まった。
看板には「バークレイズ銀行」と控えめに刻まれている。
馬車を降りたパーシバルは、外套の襟を正して銀行の扉を押し開けた。
高い天井と木張りのカウンターが並ぶ店内は、小切手の換金や手形の決済に訪れた商人たちで賑わっていた。
パーシバルがカウンターの奥にいる初老の行員に声をかけ、自身の名前を告げると、すぐさま奥の特別応接室へと案内された。
「ようこそ、シャルトン少佐殿。こうして直接お目にかかるのは、本当に久しぶりですな」
執務室の机の奥から立ち上がり、笑顔で手を差し出してきたのは、バークレイズ銀行の共同経営者の一人であるジェームズ・ベリエフだった。
1807年、当時まだ17歳だったパーシバルが、全財産の400ポンドをコンソル公債の底値に投じるという取引を手紙で依頼した際、それを見事に処理してくれた腕利きの銀行家である。
それ以来、パーシバルはスペインやポルトガルで得た莫大な利益を為替手形に変え、定期的にこのベリエフ宛てに送金し、堅実な公債などで運用させてきた。
ベリエフにとって、パーシバルは今や当行の大切な上客の一人であった。
「ご無沙汰しております、ベリエフ氏。あの手紙での取引から、もう7年以上が経つのですね」
パーシバルは差し出された手を握り返し、勧められた革張りの椅子に腰を下ろした。
「ええ。当時のあなたはまだ若い少尉殿でした。しかし今や、24歳の若さで名誉少佐にまで登り詰められた。
しかも、軍におられた数年間の間に、当行の口座にこれほどのまとまった資産を構築されるとは。
……銀行家として多くの顧客を見てきましたが、あなたのその商才には舌を巻くばかりです」
ベリエフは心からの称賛を口にした。
彼の机の上には、パーシバルの現在の口座残高を示す元帳が置かれていた。
大尉の任官権の売却益も加わり、預金額はすでに8000ポンド以上というかなりの金額に達していた。
「戦場での些細な倹約と、あなたのような優秀な銀行家の運用のおかげですよ」
パーシバルは微笑を浮かべた後、すぐに表情を引き締めた。
「さて、ベリエフ氏。今日伺ったのは昔話のためではありません。
私の手元にあるこの8000ポンドの資金を使って、これから大規模な取引を行いたいのです」
「大規模な取引、ですか?」
ベリエフの顔から営業用の笑みが消え、銀行家としての真剣な眼差しに変わった。
「現在お持ちのコンソル公債を売却して、別の債権や東インド会社の株に乗り換えるというお話でしょうか。
それとも、土地の購入資金として現金の引き出しをご希望で?」
「いいえ。私が望んでいるのは、手元の資産を証拠金として用いた、数万ポンド規模の信用取引です。
……ついては、シティで腕の立つ、信頼できるブローカー(仲買人)を私に紹介していただきたいのです」
パーシバルの言葉に、ベリエフは僅かに眉をひそめた。
当時のロンドンの金融システムにおいて、一般の投資家が証券取引所の立会場に入って直接株や公債の売買を行うことは禁止されていた。
取引所は会員制であり、売買を行うには必ず会員であるブローカー(仲買人)を介して、実際の売り手や買い手、あるいはジョバー(自己売買を行う卸売業者)と取引を成立させる必要があった。
そして、ベリエフのような銀行家の役割は、顧客の資産を安全に保管し、決済を行い、手堅い現物の国債の利回りによって着実に資産を増やす手伝いをすることである。
自分の資金の何十倍もの額を動かし、指定された決済日に価格の差額だけを受け渡しするような、投機的で極めて危険な「信用取引」は、銀行家の業務の範疇外であった。
「少佐殿」
ベリエフは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「あなたが数字に明るく、経済の動向に鋭いことは、よく存じております。
しかし、信用取引は現物の売買とは全く異なる魔物です。
予想が外れれば、手元の8000ポンドを失うばかりか、一生かかっても返せない借金を背負うことになる。
なぜ、これだけの資産がありながら、そのような危険な投機に手を出そうとなさるのですか。
今のままでも、公債の利息だけ370ポンド程度ありますので十分な生活が送れるはずです」
ベリエフの忠告は、顧客の資産を守る立場にある銀行家として極めて真っ当なものであった。
しかし、パーシバルはそれに動じることなく、静かな声で答えた。
「フランスの情勢です、ベリエフ氏。
平和が訪れたと皆は喜んでいますが、パリの現状は火薬庫のようなものです。
ルイ18世の復古王政は市民の不満を抑えきれていません。
必ず、近いうちに大きな政治的混乱が起きます」
「……確かに、新聞でも不穏な記事は散見されます。しかし、だからといって数万ポンドの信用取引に打って出るほどの確証がおありなのですか?」
ベリエフはなおも疑念を隠さなかった。若者が戦場での成功に気を良くして、相場を甘く見ているのではないかと危惧したのだ。
パーシバルは懐から一枚の紙取り出し、手元で撫で始めた。
「ベリエフ氏。私が22歳という年齢で、なぜ『名誉少佐』という階級を得られたか、ご存知ですか」
突然の問いに、ベリエフは言葉に詰まった。
「それは……戦場でのご活躍と、軍規維持の功績が認められたと官報には記載されていましたが」
「表向きはそうです」
パーシバルは身を乗り出し、声を一段低くした。
「1813年のビトリアの戦いで、フランス軍は膨大な財宝と軍資金を置き去りにしました。
その大部分は軍の規律の乱れにより消失しましたが、私は自らの中隊を完全に統制し、推定30万ポンドもの財産を無傷で国庫に納めました。
その資金が、その後のウェリントン公爵の進軍をどれほど助けたか」
ベリエフの目が驚愕に見開かれた。30万ポンドの現金を、一人の大尉が確保したという事実は、シティの銀行家から見ても途方もない実務能力と胆力を意味していた。
「ウェリントン公爵は、名誉や見栄よりも、冷徹な数字と実務を重んじる方です。
私はあの戦いで、公爵に対して大きな『貸し』を作った。
名誉少佐という肩書きは、その対価として公爵から直接与えられたものです。
それにこの紙は、ウェリントン公から軍での働きを称えた感謝状です」
パーシバルはベリエフの目を真っ直ぐに見据えた。
「私は今も公爵や軍の上層部と情報のやり取りを続けています。
私がフランスの情勢について語る時、それは単なる新聞の受け売りでも、若者の直感でもない。
独自の確固たる情報網に裏打ちされた事実に基づくものです。
私は、自分が見ている未来に8000ポンドを懸ける価値があると判断しました。
……それでも、私に信用取引の資格がないとお考えですか」
執務室に重い沈黙が落ちた。
ベリエフは目の前に座る若者を、改めて見直していた。
この男は、単に運良く資産を築いた若造ではない。
軍の最高司令官たるウェリントン公爵と直接の関わりを持ち、政治と軍事の中枢の生きた情報を握っている人物なのだ。
銀行家にとって、そのような特権的な情報を持つ顧客の依頼を無下にすることは、大きな機会損失を意味する。
「……恐れ入りました、少佐殿」
ベリエフは深くため息をつき、降参するように両手を挙げた。
「あなたがそこまで言うのであれば、私からこれ以上の忠告は無用でしょう。
あなたのその情報と確信が本物であるならば、確かに今のロンドン市場は最大の利益を生み出す狩り場になります」
ベリエフは机の引き出しを開け、小さな革張りの手帳を取り出した。
「当行で信用取引の代行はできませんが、取引所の会員で、確かな腕を持つブローカーを紹介することは可能です」
「感謝します。どのような人物ですか」
「名前はダニエル・バーンズと言います」
ベリエフは手帳のページを捲りながら説明を始めた。
「彼はもともと、スウィーティング・アレイの裏通りで証券の自己売買を行うジョバー(自己売買を行う卸売業者)の出身でしてね。
貴族や大商人が出入りするような上品な男ではありません。
言葉遣いも少しばかり下町風で、品に欠けるところがあります。
……しかし、相場に対する嗅覚はシティでも群を抜いています。
そして何より、巨大な注文を市場に悟られることなく小分けにして処理する技術に長けており、口が極めて堅い」
ベリエフは、話からパーシバルが求めている人物を予測し、最適と思われる人を紹介する。
「素晴らしい。まさに私が求めていた人材です」
パーシバルは満足げに頷いた。品の良いだけの無能なブローカーに用はない。
相場の中で生き抜き、実益をもたらす静かな猟犬こそが、今の彼には必要だった。
「バーンズ氏には、私から紹介状を書き、あなたの邸宅を訪ねるように手配しておきましょう」
ベリエフがペンを執りながら言った。
「助かります。私はブルームズベリーに家を借りています。今月中には彼と直接会い、具体的な取引の指示を出したい」
・・・・・・・
「シャルトン少佐殿」
ベリエフが紹介状にサインを書き入れながら、最後に一つだけ尋ねた。
「その8000ポンドの証拠金を使って、あなたは市場で何を『買う』おつもりですか?」
「買いませんよ、ベリエフ氏。
私は手持ちの8000ポンドに限界までレバレッジを掛け、市場にある公債を可能な限り『売る』つもりです。
春までに、このロンドンの市場は一度完全に焼け野原になりますから」
その言葉を残して、パーシバルは執務室を後にした。
後に残されたベリエフは、その常軌を逸した「空売り」の宣言に背筋を凍らせながら、ただ無言で紹介状のインクを乾かしていた。
■1815年1月下旬。
ロンドン、ブルームズベリーに位置するパーシバル・シャルトンのタウンハウス。
1階にある応接間の暖炉には赤々と薪が燃え、部屋を十分に暖めていた。
重厚なマホガニーの扉がノックされ、家令のウィリアムが静かに足を踏み入れた。
「旦那様。バークレイズ銀行のベリエフ氏からの紹介状を持った、ダニエル・バーンズ氏が到着いたしました」
「通してくれ」
パーシバルが応じると、ウィリアムは扉を大きく開け、一人の男を部屋に招き入れた。
「お初にお目にかかります、シャルトン少佐殿。
私がダニエル・バーンズです。ベリエフ氏からお話を伺い、馳せ参じました」
現れたダニエル・バーンズという男は、四十代半ばの、どこか落ち着きのない風貌をしていた。
仕立ての良い高級なウールのコートを着て、シルクハットを小脇に抱えているが、首元のクラバットの結び目は少し緩んでおり、見事な衣服に着せられているような違和感があった。
足取りや言葉の端々には、貴族のサロンではなく、スウィーティング・アレイの騒がしい裏通りで怒号を飛ばしていたジョバー特有の、泥臭い下町育ちの空気が抜けきっていない。
しかし、その口元に浮かぶ愛想の良い作り笑いとは裏腹に、パーシバルを観察する鋭い眼光は、決して獲物を逃さない猟犬のそれであった。
「よく来てくれた、バーンズ氏。掛けたまえ」
パーシバルはソファを勧め、ウィリアムに紅茶の用意を指示した。
「立派なお屋敷ですな。それに、玄関で出迎えてくれた家令の身のこなしも実に見事なものだ。
シティの銀行家が少佐殿を信用するのも頷けます」
バーンズは室内を値踏みするように見回しながら、ソファに深く腰を下ろした。
「ありがとう。ベリエフ氏からは、あなたがシティで最も鼻が利き、仕事が確かな男だと聞いている」
パーシバルは単刀直入に切り出した。
「単刀直入に言おう。現在、私の口座には自由に動かせる現金や公債が約8000ポンドある。
これを全額、証拠金としてあなたに預けたい」
「8000ポンドの証拠金、ですか」
バーンズの目が僅かに見開かれた。
「現物の公債を買う資金としてではなく、あくまで証拠金として、ですね」
「そうだ。私はこの資金を使って、タイム・バーゲン(信用取引)を行いたい。
具体的に言えば、市場にあるコンソル公債を可能な限り『売る』契約を結びたいのだ」
紅茶を注ぎ終えて部屋を出ようとしていたウィリアムが、一瞬だけ足を止めたが、すぐに気配を消して扉の向こうへ消えた。
応接間には、パーシバルとバーンズの二人だけが残された。
バーンズは手元のティーカップには手を付けず、姿勢を前に乗り出してパーシバルの顔を覗き込んだ。
「……少佐殿。ベリエフ氏から、あなたが尋常ではない額の取引を望んでいるとは聞いておりました。しかし、8000ポンドの証拠金で空売りを仕掛けるというのは、ただの度胸試しでは済まない話です。念のため、私が仲介をお引き受けする前に、我々ロンドン証券取引所のタイム・バーゲンの規則について、確認させていただいてもよろしいですかな」
「構わない。専門家の口から直接聞いておきたい」
「ありがとうございます」
バーンズは一つ咳払いをして、説明を始めた。
「タイム・バーゲンとは、その名の通り『期日を定めた取引』です。
お客様は現物の公債を持っていなくても、将来の指定された決済日に、一定の価格で公債を引き渡すという約束で『売る』ことができます。
この取引の最大の魅力は、証拠金を積むことで、手持ちの資金の10倍、あるいは20倍といった額の取引が可能になることです。
8000ポンドの証拠金があれば、およそ16万ポンド分の公債を売る契約を結ぶことができます」
バーンズはそこで言葉を区切り、パーシバルの反応を窺ったが、パーシバルは無表情のまま頷いた。
「決済日が来た時、市場の価格があなたの売った価格よりも下がっていれば、あなたは安く買い戻して差額を受け取ることができます。しかし……」
バーンズの声のトーンが一段低くなった。
「もし市場の価格が上がっていれば、あなたは高い価格で買い戻して、約束の価格で引き渡さなければなりません。
つまり、差額を支払うことになります。16万ポンド分の取引において、もし公債価格が10ポンド上昇すれば、あなたは1万6000ポンドの損失を被る。
証拠金の8000ポンドは一瞬で吹き飛び、さらに8000ポンドの莫大な借金が残ります。
……破産です。債務者監獄行きは免れません」
バーンズは両手を広げて見せた。
「これが、タイム・バーゲンの現実です。レバレッジで巨万の富を生むこともあれば、命を絶つ羽目になることもある。
私はブローカーとして、手数料を頂ければどのような注文でも市場に通します。
ですが、これほど巨大な『売り』の注文を受けるとなれば、お客様が本当に破産のリスクを理解しているのか、確認する義務があるのです」
「説明は理解した。私がそのリスクを承知の上で注文を出していることは保証しよう」
パーシバルは平然と答えた。
バーンズは深い溜息をつき、頭を掻いた。
「少佐殿。問題はリスクの大きさだけではありません。なぜ、今『売り』なのか、ということです」
バーンズは怪訝な顔で続けた。
「現在、ナポレオンという怪物はエルバ島に幽閉され、ヨーロッパには平和が訪れています。
我が国の貿易も再開され、経済は上向いている。
コンソル公債の価格も、一時期の底値から持ち直し、安定して上昇する傾向にあります。
市場の誰もが、これからは平和な時代が続くと見ているのです。
こんな時に16万ポンドもの空売りを仕掛ければ、市場の流れに逆行して自ら火の中に飛び込むようなものです」
バーンズの疑問は、ロンドンの金融市場で働く人間として極めて自然なものであった。
誰もが戦争が終わり訪れた平和を信じている時に、なぜわざわざ国家の危機(公債の下落)に全財産を賭けるのか。
「市場が楽観視しているからこそ、売るのだよ、バーンズ氏」
パーシバルは静かに答え、紅茶を一口飲む。
「あなたはロンドンの市場は見ているが、海の向こうのフランスの現実は見ていない」
「フランスの現実、ですか」
「そうだ。王政復古を果たしたルイ18世と、彼を取り巻く亡命貴族たちは、革命前の特権を取り戻そうと狂奔している。
彼らはフランス市民から土地を奪い返し、農民に新たな重税を課そうとしている。
市民の間に、すでに王政への失望と怒りが充満していることを、シティの連中は理解していない」
パーシバルは冷徹な事実を積み上げるように語った。
「さらに致命的なのは、軍隊の扱いだ。ナポレオンと共にヨーロッパを支配した数十万の歴戦の将兵たちが、軍を解雇されパリや地方の街に溢れかえっている。
彼らは今日のパンにも困りながら、かつての栄光を奪ったブルボン王朝を公然と呪っているのだ」
バーンズは黙って話に引き込まれていた。
「一方、エルバ島にいるナポレオンはどうだ。
彼は小さな島で屈辱を味わっている。
しかし、彼にはまだ野心があり、何より彼を崇拝する数十万の軍隊が本土で彼を待っている」
パーシバルは再び紅茶を一口飲み、バーンズの目を真っ直ぐに見据えた。
「ナポレオンという男が、このまま大人しく島で朽ち果てると思うか?
答えは否だ。彼は必ず動く。春までに、必ずフランスで内乱か政変が起きる。
ナポレオンが本土に足を踏み入れたという一報が届けば、平和ボケしたロンドン市場はどうなる?」
バーンズは息を呑んだ。
「……ナポレオン帰還の知らせが届けば、大英帝国は再び戦争となり、シティは国家破産の恐怖に包まれ、大恐慌に陥る。
コンソル公債の価格は、暴落するでしょう」
「その通りだ。私はその暴落のどん底で、16万ポンド分の公債を安値で買い戻し、空売りの精算を行う」
パーシバルは机の上で両手を組んだ。
「私が賭けているのは単なる勘ではない。政治と軍事の力学から導き出された必然だ。
私は軍籍にある間、最前線の兵站を管理し、何十万という軍隊がどのように動き、どのように崩壊するかをこの目で見てきた。
そして、ウェリントン公爵とも直接関わりを持ってきた。私の情報の確度は、そこらの新聞記事とは次元が違う」
応接間に沈黙が下りた。暖炉の薪がはぜる音だけが小さく響く。
バーンズは、目の前に座る24歳の若者をまじまじと見つめた。仕立ての良い衣服、隙のない家令、そして「名誉少佐」という軍の内部情報を握る特権的な地位。
パーシバルの語るフランス情勢は、あまりにも理路整然としており、一切の感情や願望が排除されていた。
それは博徒の勘などではなく、冷酷な資本家と軍事専門家の視点が融合した、恐るべき未来予測であった。
もし、この若者の言う通りにナポレオンが動き、公債が暴落すれば。
16万ポンド分の空売りは、とてつもない巨額の利益を生み出す。そして、その注文を仲介したブローカーであるバーンズ自身にも、莫大な手数料が転がり込んでくるのだ。
バーンズの口元に、下町育ちのジョバー特有の、獰猛で歪んだ笑みが浮かんだ。彼はティーカップを手に取り、一気に冷めた紅茶を飲み干した。
「……少佐殿」
バーンズは膝を叩いて立ち上がった。
「あなたの論理には、若干の希望が含まれていると感じます。・・・だが私は納得しました。
シティの能天気な連中が平和の夢を見ている間に、我々はその背後から首を掻き切ってやりましょう」
バーンズは立ち上がり右手をパーシバルに差し出した。
「8000ポンドの証拠金による空売り。
このダニエル・バーンズが、責任を持って市場に悟られぬよう、小分けにして注文を通してみせます。
旦那のその狂った勝負、私がすべて請け負いましょう」
「頼むぞ、バーンズ氏」
パーシバルも立ち上がり、右手を差し出した。
二人は固く握手を交わした。
1815年1月下旬。ロンドンの静かな応接間で、一人の名誉少佐と一人の胡散臭いブローカーによって、史上最大クラスの投機契約が静かに結ばれたのであった。
■1815年2月。
ロンバード・ストリートのバークレイズ銀行。
応接室の机の上に、重々しい革袋と分厚い証書の束が置かれていた。
銀行家のジェームズ・ベリエフは、苦渋に満ちた表情でパーシバルを見つめていた。
「シャルトン少佐殿。ご指示の通り、あなたが当行にお預けになっていた現物のコンソル公債をすべて市場で売却いたしました。手数料を差し引き、あなたの当座預金口座には、現在8,700ポンドの現金が確保されています。
……しかし、本当にこれでよろしいのですね?」
ベリエフは念を押すように尋ねた。
現物の公債を持っていれば、年に数パーセントの確実な利子が入ってくる。それをすべて手放し、ただのイングランド銀行券(紙幣)と金貨の山に変えてしまうことは、保守的な銀行家からすれば狂気の沙汰であった。
「構いません。すぐに使う資金ですから」
パーシバルは受け取りの書類にさらりとサインをした。
「そのうち8,000ポンドを小切手として切ってください。宛先は、ダニエル・バーンズ氏です」
ベリエフは深々と溜息をつき、言われた通りに小切手を作成した。
「少佐殿がどれほど確固たる情報をお持ちであろうと、私にはやはり狂気の沙汰としか思えません。
どうか、破産者監獄に送られるような事態にだけはならないよう、お気をつけください」
「ご忠告に感謝します、ベリエフ氏。春が来た頃に、また良いご報告ができると思いますよ」
パーシバルは小切手を懐にしまい、銀行を後にした。
その日の夜。ブルームズベリーのパーシバルの自宅に、ブローカーのダニエル・バーンズが訪れた。
書斎の机を挟んで向かい合った二人の間には、昼間に銀行から受け取ったばかりの8,000ポンドの小切手が置かれていた。
「間違いなく、8,000ポンドの額面です。ベリエフ氏の署名もあります」
パーシバルが小切手を指で押しやると、バーンズの目が鋭く光った。彼は小切手を手に取り、透かしを確認してから丁寧に折りたたみ、内ポケットにしまった。
「確かに受け取りました、シャルトン少佐。この8,000ポンドを保証金として、約束通り、タイム・バーゲン(信用取引)の売り注文を市場に通します」
バーンズは姿勢を正し、懐から彼自身の仕事用の手帳を取り出した。
「保証金の額に対して、どれほどの取引をお望みですか」
「最大までだ」
パーシバルは躊躇なく答えた。
「20倍のテコを掛けろ。つまり、市場に出回っているコンソル公債を、総額で16万ポンド分売る契約を結びたい」
16万ポンド。当時のイギリスにおいて、中堅の貴族が一生かかっても使い切れないほどの途方もない金額である。
バーンズは唇を舐め、手帳に数字を書き込んだ。
「16万ポンド分の売り、承知いたしました。
ですが少佐殿、一つだけ私から条件を出させていただきます。
注文の出し方は、すべてこの私に一任していただきたい」
「市場というものは、臆病な生き物です」
バーンズは手帳を閉じ、身振りを交えて説明を始めた。
「現在、コンソル公債の価格は66ポンド前後の間を推移しており、平和の恩恵を受けて緩やかに上昇しています。
ここで突然、私がカペル・コート(証券取引所の所在地)の立会場に乗り込んで『16万ポンド分の公債を売る』と宣言したらどうなるか。
市場の連中はすぐに異常を察知します。
『何か裏で悪い情報が流れているに違いない』とパニックを起こし、買い手が一斉に引っ込んでしまう。
そうなれば、価格は一瞬で暴落し、我々は目的の価格で売る契約を結ぶことができなくなります。
あるいは、私が巨大な資本の代理人として何か企んでいると警戒され、取引そのものを拒否される可能性すらあります」
パーシバルは頷いた。市場における巨大な資本の動きは、それ自体が相場を操作するノイズになり得る。
自分が動くことで、自分が望む価格での取引ができなくなるという矛盾だ。
「だからこそ、小分けにする技術が必要なのです」
バーンズは自信ありげに笑みを浮かべた。
「私は明日から毎日、スウィーティング・アレイ周辺のコーヒー・ハウスや立会場を回り、懇意にしているジョバー(自己売買業者)たちに少しずつ声をかけます。
今日は1,000ポンド、明日は2,000ポンドといった具合に、複数の業者を相手に、目立たないよう細かく売り注文を出していくのです。
市場の相場をできる限り刺激せず、静かに16万ポンド分の売りを市場に吸収させる。
数週間の時間はかかりますが、これが最も確実な方法です」
「当然の手段だ。お前の腕を信じよう」
パーシバルはバーンズの提案を了承した。
「ただし、価格には妥協しない。現在の相場である66ポンド前後を維持して売り抜けろ。
安値で売ってしまっては、その後の暴落で得られる差益が減ってしまうからな」
「ご安心を。このバーンズに任せてください」
バーンズは不敵な笑みを残し、夜の霧の中へと帰っていった。
それからの数週間、パーシバルにとってはひたすら待つだけの孤独な時間が続いた。
バーンズは約束通り、ロンドンの金融街で目立たないよう暗躍していた。
当時の証券取引は、カペル・コートに建てられた取引所の建物の中だけでなく、周辺のコーヒー・ハウスや路地裏でも頻繁に行われていた。
バーンズはそうした場所を渡り歩き、「顧客の資金繰りの都合でね」と適当な理由をつけながら、複数のジョバーを相手に少しずつ、しかし着実にコンソル公債の売り契約を結んでいった。
市場は平和を信じ切っており、公債の価格は安定していたため、ジョバーたちは喜んでバーンズの売り注文(彼らから見れば買い注文)を引き受けた。
彼らは、価格が上がれば自分たちが儲かると信じていたからだ。
2月の下旬。
冷たい雨が降る夜、バーンズが再びブルームズベリーのタウンハウスを訪れた。
彼の顔には疲労の色が見えたが、その目には大きな仕事をやり遂げた高揚感が宿っていた。
応接間に通されたバーンズは、分厚い取引記録の束をパーシバルの机の上にどさりと置いた。
「終わりましたよ、シャルトン少佐。16万ポンド分、すべての売り契約を完了させました」
バーンズはハンカチで額の汗を拭いながら報告した。
パーシバルは取引記録の束を手に取り、一枚一枚、正確な数字を確認していった。複数のジョバーとの間に交わされた契約書。日付も数量もバラバラだが、すべて足し合わせると、間違いなく16万ポンド分のコンソル公債の「売り」のポジションが構築されていた。
「見事だ。誰にも怪しまれずにこれほどの額を捌き切るとはな」
パーシバルは帳簿から目を上げ、バーンズを称賛した。
「平均の売り単価はいくらになった?」
「計算通りです。安い時で65ポンド10シリング、高い時で66ポンド5シリング。全体を平均すれば、66ポンドで売る契約を結ぶことに成功しました」
バーンズは誇らしげに答えた。
「平均単価66ポンド……完璧だ」
パーシバルは契約書の束を机の引き出しにしまい、鍵をかけた。
これで、準備はすべて整った。
パーシバルは手元の8,000ポンドという現金をすべてバーンズに保証金として預け、16万ポンド分の公債を「66ポンドで売る」権利を手に入れたのだ。
決済日が来た時、市場の価格が66ポンドより下がっていれば、彼は安く買い戻して相手に渡し、その差額を丸ごと利益として受け取ることができる。
しかし、その逆もまた然りである。
バーンズが帰った後、書斎に一人残されたパーシバルは、暖炉の火を見つめながら静かに息を吐いた。
スペインやポルトガルで築き上げた数千ポンドの資産は、今はただの「保証金」として市場に拘束されている。
まさに、退路を断った背水の陣であった。
もし、パーシバルの予測が外れ、ナポレオンがエルバ島で大人しく余生を過ごす道を選んだら。
あるいは、フランス国内の不満が爆発せず、ブルボン王朝が安定した統治を確立してしまったら。
平和が続き、ロンドンの市場がさらに楽観に包まれてコンソル公債の価格が上昇し続ければ、パーシバルは決済日に莫大な差額を支払わなければならない。
手元の8,000ポンドは没収され、さらに数千ポンドという莫大な借金が残る。
彼を待っているのは、ロンドンの悪名高いフリート債務者監獄での惨めな一生だ。
(私の武器は、頭の中にある未来の知識だけだ。だが、その未来を私自身の手で歪めてしまった)
トゥールーズ攻略戦の前に起きた、史実より1週間早いナポレオンの退位。
あの時、自分が引き起こしたバタフライ・エフェクトが、ナポレオンの精神状態や今後の決断にどう影響を与えているのかは分からない。
歴史の歯車は、本当に自分の知る通りに動くのか。
パーシバルは立ち上がり、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
雨に煙るロンドンの街並みは、何事もないかのように静まり返っている。
市民は平和の訪れを喜び、明日の仕事や夕食の献立について考えていることだろう。
だが、パーシバルにとって、この静寂は嵐の前の不気味な凪でしかなかった。
彼はすでに、サイコロを振り終えた。
保証金を預け、契約は完了した。もはや後戻りはできない。あとは、海の向こうで「あの怪物」が目を覚まし、行動を起こすのを待つだけである。
「動け、ナポレオン。お前の野心が本物なら、必ず海を渡るはずだ」
1815年2月末。
パーシバル・シャルトンは、全財産を失い破産する恐怖と、巨万の富を得る野望を胸の内に隠し、静かに、そして孤独に歴史が動く瞬間を待ち続けていた。
市場の誰もが平和を信じる中、パーシバルは、迫り来る破滅の足音に耳を澄ませていたのである。
■1815年3月上旬。
ロンドンの街には、長く厳しい冬の終わりを告げるように、微かな春の気配が漂い始めていた。
街路樹の枝先はわずかに膨らみ、石畳を叩く雨も氷のような冷たさを失いつつある。
しかし、ブルームズベリーのタウンハウスの2階にある書斎で、パーシバル・シャルトンを取り巻く空気は、真冬の野営地よりも冷たく重いものだった。
書斎の机の上には、日付の違う何日分もの新聞が散乱している。
パーシバルは毎朝、配達されるすべての新聞に目を通し、フランスの情勢を報じる記事の隅から隅まで活字を追っていた。
史実でナポレオンがエルバ島を脱出したのは2月26日の夜。
フランス本土に上陸したのは3月1日。
電信も無い時代なので、情報がロンドンに届くまで約10日は掛かる。
しかし、彼が待ち望んでいる「一報」は、待てど暮らせど届かなかった。
(……動かない。ナポレオンはまだエルバ島にいるのか)
パーシバルは椅子に深く腰掛け、両手でこめかみを押さえた。
ダニエル・バーンズを通じて、16万ポンド分のコンソル公債を空売りする契約を完了させてから、すでに2週間が経過している。
ロンドン証券取引所のタイム・バーゲン(信用取引)には、あらかじめ定められた決済日が存在する。その日が来れば、パーシバルは約束した66ポンドという価格で公債を引き渡さなければならない。
現在、平和を謳歌する市場において、公債の価格は下落する気配を見せず、安定して推移していた。もし、ナポレオンが動かないままこの春が過ぎ、決済日が到来すればどうなるか。
パーシバルは現在の価格である約65ポンドで公債を買い戻さなければならず、若干の利益が出そうに見えるが、手数料の支払いがあるので実質的には利益はほとんど無い。
「そろそろ情報が届いても良いはずだが・・・私が歴史を動かしてしまった影響が、これほど大きいというのか」
パーシバルは誰にともなく低く呟いた。
前年の4月。彼が有能に兵站を管理した結果、イギリス軍の進軍速度が上がり、ナポレオンの退位は史実よりも1週間早まった。
その1週間のズレが、ナポレオンの精神やエルバ島での計画に何らかの狂いを生じさせたのではないか。例えば、脱出を支援する協力者との連絡がうまくいかなくなった、あるいは監視の目が史実よりも厳しくなっているなど、様々な可能性がパーシバルの脳裏をよぎる。
もし、ナポレオンが脱出を諦め、島で静かに死を待つ決意を固めていたとしたら、パーシバルの全財産を賭けた勝負は、根底から崩れ去ることになる。
書斎の扉が静かにノックされ、家令のウィリアムが入ってきた。彼の手には、銀のトレイに乗せられた午後の紅茶と、簡単な焼き菓子が用意されている。
「旦那様、少し休憩をなさってはいかがですか。今朝から新聞と手紙ばかりをご覧になって、お食事もほとんど喉を通っていないようですが」
ウィリアムの言葉には、主人に対する純粋な気遣いが含まれていた。
普段は冷徹なまでの落ち着きを払っているパーシバルが、この数週間、明らかに焦燥感に駆られ、夜遅くまで書斎の明かりを灯したまま歩き回っていることを、家令である彼は敏感に察知していた。
「すまない、ウィリアム。今は食欲がない。紅茶だけ置いておいてくれ」
パーシバルは新聞から顔を上げずに短く答えた。
「かしこまりました」
ウィリアムはトレイを机の端に置き、一礼して部屋を出て行った。
一人残されたパーシバルは、冷めゆく紅茶には手もつけず、再び新聞の小さな活字の羅列に視線を戻した。
不安が胃の腑を握りつぶすように痛む。
スペインの戦場で戦利品を守るため友軍と対峙した時でさえ、これほどの恐怖は感じなかった。
戦場での死は一瞬だが、破産による社会的な死は、債務者監獄で惨めに生き長らえることを意味するからだ。
債務者監獄の鉄格子が、幻影のように彼の目の前にちらついていた。
その時だった。
「旦那様! 旦那様!」
1階の玄関ホールから、階段を駆け上がる激しい足音が響き渡った。
それは、この洗練されたタウンハウスに相応しくない乱暴な足音だった。
「どうした、騒々しい」
パーシバルが顔を上げた瞬間、書斎の扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、馬の世話や使い走りのために外出していた従者のスローターだった。
彼は息を荒く切らし、その手には、まだインクの匂いが強く残る、一枚刷りの新聞の特別号が固く握りしめられていた。
「大変です! 街中が、とんでもない騒ぎになってます!」
スローターは興奮で顔を紅潮させ、持っていた紙切れをパーシバルの机の上に叩きつけるように置いた。
「あのナポレオンが、エルバ島から逃げ出して、フランスの南海岸に上陸したそうです!」
その言葉が書斎に響いた瞬間、パーシバルの周囲の空気が静止したように感じられた。
彼は無言で机の上の特別号を手に取った。
粗悪な紙に、大きく太い活字で刷られた見出しが、彼の目に飛び込んできた。
『ナポレオン、エルバ島を脱出! カンヌ近郊に上陸!』
記事の本文は短いものであった。ナポレオンが数百の兵を率いてエルバ島を脱出し、イギリスの軍艦の監視を掻い潜ってフランス本土に足を踏み入れたという事実。
そして、彼を討伐するために派遣されたはずのフランスの王政軍の兵士たちが、次々と彼の下に寝返っているという、パリからの断片的な急報だった。
パーシバルは、その文字を二度、三度と繰り返し読んだ。
間違いない。ナポレオンは動いた。
歴史の1週間のズレは、パーシバルにとっては恐ろしい不確定要素であったが、大局的な歴史のうねり、そしてナポレオンという一個人の巨大な野心を押し留めるには至らなかったのだ。
彼は、自分が作り上げた帝国を諦めてはいなかった。
パーシバルは手にした新聞を机の上に置き、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
全身の筋肉から、これまで彼を縛り付けていた極度の緊張が、潮が引くように抜け落ちていくのを感じた。
「……勝った」
パーシバルの口から、深く、震えるような吐息とともに、その言葉が漏れた。
彼が数週間前にバーンズに託した16万ポンド分のコンソル公債の空売り。
それは、平和なロンドン市場に対する狂気の沙汰であった。
しかし、ナポレオンが本土に上陸し、再び戦争の恐怖が現実のものとなった今、その狂気は絶対的な正解へと反転した。
大英帝国は1814年末時点で8億6,500万ポンドの債務を抱えており、政府の税収の半分以上が公債の利子を支払うためだけに消えていた。
シティの投資家たちは、ただでさえ莫大な債務を抱える大英帝国が再度の戦争により国家破産、債務不履行になるのではという恐怖に駆られ、手持ちの公債を投げ売りし始めるだろう。
価格は確実に下落する。
そしてパーシバルは、その底値で公債を買い戻し、途方もない差益を手にすることになるのだ。
騒ぎを聞きつけたウィリアムが、血相を変えて書斎に入ってきた。
「スローター、旦那様の前で何という騒ぎだ。……一体何があったのですか」
「ウィリアム、これを見てみろ。ロンドンの連中が真っ青になるニュースだ」
パーシバルは机の上の特別号を指差した。
ウィリアムは怪訝な顔をしながら記事に目を落とし、すぐにその内容を理解した。彼の顔からも血の気が引いていく。
「ナポレオンが、フランスに……。これでは、また戦争が始まります。ヨーロッパ中が、再び血の海になるというのですか」
「そうだ。そして、ロンドンの金融街は、それ以上のパニックに陥る。
投資家たちは恐怖で我を忘れ、持っている公債をすべて安全な金貨に換えようとするだろう。
コンソル公債の価格は、明日の朝には暴落を始める」
パーシバルは極めて冷静な声で言った。先ほどまでの焦燥に満ちた表情は完全に消え去り、戦場で冷酷な計算を弾き出す指揮官の顔に戻っていた。
ウィリアムは、その言葉を聞いてハッとし、信じられないものを見るようにパーシバルを見つめた。
彼はこのタウンハウスの家令として、パーシバルの出費や資金の動きを管理している。1月下旬、パーシバルが銀行から引き出した8000ポンドという全財産を、ブローカーのバーンズに預けた事実を知っていた。そして、それが公債の価格が下落することに賭ける「売り」の取引であることも。
「旦那様……」
ウィリアムの声は、無意識のうちに震えていた。
「あなたは1月の末に、全財産をバーンズ氏に預けました。あの時、ロンドンでナポレオンが戻ってくると考えていた人間など、ほとんどいなかったはずです」
ウィリアムは、主人の恐るべき思考の深淵を覗き込んでしまったような感覚に襲われていた。
誰もが平和を信じ、公債の価格が上がると疑わなかった時期に、パーシバルは一人だけ、ナポレオンの帰還とそれに伴う大暴落を完全に予測し、己の全財産を担保にして巨額な投機を仕掛けていたのだ。
それがどれほど危険な賭けであったか、そしてその賭けに勝った今、パーシバルがどれほどの利益を手にすることになるのか。
「旦那様は、この事態を1ヶ月以上も前から完全に予測して、全財産を賭けておられたのですか……」
ウィリアムの言葉には、忠誠心を超えた、ある種の戦慄が混じっていた。
人間の所業とは思えないほどの先見の明。戦場で30万ポンドを守り抜いた時の冷徹ささえ、今のこの男の計算高さに比べれば児戯に等しく思えた。
「私はただ、政治の力学と人間の野心を計算に当てはめただけだ。
そして、その計算結果が正しかったことが、今証明された」
パーシバルは静かに立ち上がり、窓の外を見た。
大通りからは、新聞売りの少年の叫び声や、慌ただしく行き交う馬車の音がここまで聞こえてくるようになっていた。
平和の夢から覚め、恐怖に駆られたロンドン市民たちの騒乱の足音が、刻一刻と近づいてきている。
「スローター、すぐに馬車の用意をしろ」
パーシバルは外套を手に取り、振り向いた。
「ウィリアム、お前は留守を頼む。これからシティへ向かう。
市場はパニックになるだろうが、私はブローカーのバーンズと会わねばならない。
彼に、いつ、どの価格で公債を買い戻し、決済を行うか、その指示を出すためにな」
「かしこまりました。お気をつけて、旦那様」
ウィリアムは深く頭を下げた。その動作には、これまで以上の絶対的な畏怖が込められていた。
1815年3月上旬。
ナポレオンのエルバ島脱出という歴史的な一報は、大英帝国全体に絶望の影を落とした。
しかし、ブルームズベリーのタウンハウスからシティへと向かうパーシバル・シャルトンの馬車の中だけは違った。
彼の頭の中では、暴落していく公債の価格と、手元に転がり込んでくるであろう莫大な利益の計算でいっぱいになっていた。
投稿が遅くなり大変申し訳ございませんでした。
年度末の対応ですが、私の担当範囲では、なんとか大きなシステム障害も無く山場を乗り越えました。
他のチームは可哀想な事になっていましたが。。。
(残業時間が労基法の実質上限である80時間ピッタシなのは偶然かな?フシギデスネー…)
引き続き投稿は不定期で続けさせていただきますのでよろしくお願い致します。




