第8章(1814年):ナポレオン退位とパーシバル退役
※誤字のご報告、大変感謝しております。
■名誉少佐の誕生と隠された大失態
1814年の初頭。
フランス南部、ピレネー山脈を越えた先に広がる荒涼とした平原に設営されたイギリス・スペイン連合軍の冬営地。
前年の秋から続くフランス領内での戦闘は、悪天候と補給線の極度な延長により一時的に膠着状態に陥り、両軍とも息を潜めるように春を待っていた。
そんな陰鬱な冬の野営地に、イギリス本国からの郵便を積んだ荷馬車が到着したのは、1月の身を切るように冷たい朝のことだった。
王立輸送部隊第13中隊が接収していた石造りの農屋。その一室に設けられた中隊長室の扉が、乱暴なノックの直後に勢いよく開け放たれた。
「大尉殿! いや、シャルトン少佐殿! 本国から届いた『ロンドン・ガゼット』に、お名前が載っておりまさあ!」
息を切らせて飛び込んできたのは、従卒のスローターだった。
その手には、インクの匂いも真新しい数週間遅れの官報が握りしめられている。
彼の背後には、サイモン軍曹をはじめとする第13中隊の下士官たちが、寒さで顔を赤くしながらも満面の笑みを浮かべて押し寄せていた。
机に向かって書類に目を通していたパーシバル・シャルトンは、ゆっくりと顔を上げ、差し出された官報を受け取った。
ざらついた紙面、陸軍省からの人事を告げる欄の片隅に、彼の名前は確かに刻まれていた。
『……王立輸送部隊第13中隊長、パーシバル・シーモア・シャルトン大尉を、その卓越した軍功と軍紀維持の功績により、名誉少佐に推挙し、国王陛下の承認をもってこれを宣す』
パーシバルは静かに息を吐き出し、官報を机の上に置いた。
「ようやく、手続きが終わったようだな」
「おめでとうございます、少佐殿! 22歳の若さで名誉少佐への任官など、軍の歴史を見渡してもそうあることじゃありません。我々第13中隊の誇りです!」
普段は厳しい顔つきを崩さないサイモン軍曹が、感極まったような声で最敬礼をした。
他の下士官たちからも、次々と祝福の言葉が投げかけられる。
名誉少佐という階級は、連隊内での役職は「大尉(中隊長)」のままでありながら、陸軍全体における公式な身分が「少佐」として扱われるという特別な名誉職である。
金で買い取ることはできず、軍司令官の強力な推挙がなければ絶対に得られない特権だった。
あのビトリアの戦いの狂乱の中で、部下に厳命を下して巨額の軍資金を守り抜いたパーシバルの判断が、ついに国家によって正式に認められた瞬間であった。
「ありがとう。だがこれは皆の働きがあってこその名誉だ。
サイモン軍曹、今日の夕食には中隊の全員に特別なラム酒の配給を許可する。
火の番には十分に気をつけた上で、ささやかな祝いをしてくれ」
パーシバルがそう告げると、農屋は割れんばかりの歓声に包まれた。
下士官たちが喜び勇んで退出していった後、部屋に残ったのはパーシバルと、壁際で彼の軍服にブラシをかけていた従僕のウィリアム・ホッジスだけになった。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻ると、ウィリアムは少し不満げな表情で口を開いた。
「皆は大喜びですがね、俺はどうにも納得がいきませんよ、旦那様」
「何がだ、ウィリアム。少佐の給金が増えるわけではないからか?」
パーシバルは暖炉の火に近づき、冷えた手を温めながら振り返った。
「金の話じゃありません。称号の格の話です」
ウィリアムはブラシを置き、真剣な顔でパーシバルを見た。
「あのビトリアで、旦那様と俺たちは、暴れ狂う味方の兵士どもから銃口を向けられながら、30万ポンドもの大金と王様の絵画を守り抜いたんですよ。
30万ポンドですよ! そんな途方もない財産を国庫に納めた恩人に対して、『名誉少佐』なんていう軍の中だけでしか通用しない肩書き一つで済ませるなんて、あんまりじゃありませんか。
俺はてっきり、ウェリントン将軍が本国に口を利いて、旦那様に『騎士』の称号くらいはくれるものだと思っていましたよ」
パーシバルは声を出して笑った。
「騎士の称号か。ウィリアム、お前は少しばかり物語の読みすぎだな」
「そうでしょうか。旦那様はジェントリの次男坊です。
もし『サー・パーシバル』になれれば、ご実家のご両親や、バースにいる妹さんだって、どんなに鼻が高いか……」
「確かに、名前の前に『サー』がつくのは響きが良い。
だがな、ウィリアム。イギリスの階級社会における称号の現実と、今回の事件の『政治的な裏側』をまったく理解していない」
パーシバルは椅子に深々と腰掛け、両手で三角の形を作った。
「いいか。現在イギリスにおいて『サー』と呼ばれる身分には、大きく分けて一代貴族であるナイト爵(ナイト・バチェラー等)と、世襲制である準男爵の二つがある。
これらの称号は、軍で輝かしい戦果を挙げた将軍や、国家に莫大な貢献をした大商人、あるいは長年議会で尽力した政治家などに与えられるものだ。
そして、それを授与するのは国王陛下、実質的には政府と議会の承認が必要になる」
「だからこそ、30万ポンドを守った旦那様にふさわしいんじゃありませんか」
「そこが間違っているのだ、ウィリアム。
私がなぜ大々的に表彰されず、称号を与えられなかったのか。
その理由は、私が成し遂げた功績そのものではなく、その背景にある『イギリス軍の隠滅したい大失態』のせいなのだから」
パーシバルの蒼い瞳が、暖炉の火を反射して鋭く光った。
「思い出してみろ。
あのビトリアの戦場で、フランス軍が置き去りにした戦利品は、馬車列の数とフランス軍捕虜の話からすると、優に150万ポンドは超えていたはずだ。
だが、実際に国庫に納められたのは、我々第13中隊が死守した約30万ポンドと、他の部隊が辛うじて回収した数千ポンドに過ぎない。
……では、残りの120万ポンドの戦利品はどこへ消えた?」
ウィリアムは押し黙った。
答えは分かりきっている。他の部隊の兵士たち、そして一部の将校たちが、軍紀を忘れて私腹を肥やしたのだ。
「もし、政府が私の功績を大々的に称え、議会で『パーシバル・シャルトン大尉は、略奪の嵐の中から30万ポンドを救い出した英雄である』と宣言して騎士の称号を与えたとしよう。
野党の議員たちは必ずこう追及するはずだ。
『素晴らしい。では、残りの120万ポンドはどうなったのだ?
ウェリントン将軍の軍隊は、規律ある国王陛下の軍隊ではなく、単なる強盗集団だったのではないか?
そのせいでフランス軍の追撃に失敗し、戦争を長引かせたのではないか?』
とね」
ウィリアムは息を呑んだ。
「……つまり、旦那様を目立たせると、軍全体の恥を世間に晒すことになる、と」
「その通りだ。ウェリントン将軍にとっても、政府の陸軍省にとっても、ビトリアの略奪と追撃の失敗は、何としても隠蔽したい、あるいは最小限に被害を留めたい大失態なのだ。
そのような政治的にデリケートな状況下で、私一人が目立つ褒賞を受け取ることは絶対に許されない。
派手な栄誉は、余計な詮索を呼ぶ毒でしかないからだ」
パーシバルは机の上の『ロンドン・ガゼット』を指先で軽く叩いた。
「ウェリントン将軍は極めて合理的な実務家だ。
彼は私の高潔さというより、損得をわきまえた計算高さに報いる必要があった。
だが、公の場で勲章や称号を与えることはできない。
だからこそ、軍の内部制度であり、議会の承認も必要なく、一般大衆の目にも留まりにくい『名誉少佐への推挙』という、絶妙な特権で密かに借りを返してきたのだ」
パーシバルの説明を聞き終えたウィリアムは、呆れたような、それでいて深い感嘆の溜息を漏らした。
「……恐れ入りました。
戦場での大砲の撃ち合いより、ロンドンの政治家どもの腹の探り合いの方が、よっぽど恐ろしくて面倒ですね」
「それが現実というものだ。そして私は、その現実の枠組みの中で手に入れられる最高の利益を確保した」
パーシバルは立ち上がり、窓の外の凍てつく平原を見渡した。
「私には、新聞で持て囃されるような名声は必要ない。
そんなものは身を滅ぼす火種になるだけだ。
私に必要なのは、ジェントリ社会で盤石の地位を保証してくれる『名誉少佐』という確固たる肩書きと、ロンドンの銀行に眠る莫大な資産、ただそれだけだ」
彼の言葉には、18世紀の終わりから19世紀にかけての激動の時代を、ただの軍人としてではなく、資本家として生き抜こうとする確固たる決意が込められていた。
名誉少佐という肩書きは、戦場を離れてイギリス本国の田園地帯やロンドンの社交界に戻った時、彼に特等席を用意してくれる。
地主階級の次男坊が、将官の推薦によって22歳で少佐の扱いを受ける。
それだけで、どこの貴族のサロンに行こうと、いかなる投資の話を持ち掛けようと、相手は彼を「信用に足る実力者」として扱うのだ。
「騎士などという見栄えだけの称号より、誰にも文句を言わせない信用と現金の方が、遥かに価値がある。そうだろう、ウィリアム」
「たしかに、旦那様の仰る通りです。
名誉少佐の肩書きと、俺の口座に眠る315ポンドがあれば、こんな泥まみれの戦争ともおさらばして、本国で優雅に暮らせる日が来るってわけですね」
ウィリアムは晴れやかな顔で頷いた。
「戦争の終結は近い。ナポレオンがどこまで持ちこたえるかは分からんが、我々がフランスの土をこうして踏んでいる以上、長くは続かないだろう」
パーシバルは窓から差し込む冷たい光の中で、自身の分厚い帳簿に視線を移した。
戦地における軍という巨大な組織を利用した蓄財は、すでに目標額を遥かに超えて完了している。
平和な時代が訪れれば、この巨大な軍隊は国家の財政を圧迫するだけのただの金食い虫へと転落し、一斉にリストラが始まるはずだ。
「次の準備を始めねばならないな。この泥沼からいち早く抜け、本国の新しい舞台へと拠点を移すための準備を」
1814年の初頭。歴史的な大略奪の事実が政治の闇に葬り去られる中、パーシバル・シャルトンは一人、その隠蔽の恩恵を最大限に享受し、誰よりも早く来るべき戦後の世界を見据えていた。
■ボルドー開城と雇用契約
1814年、春。
ピレネーの厳しい冬がようやく終わりを告げ、雪解け水が川を潤す頃、ウェリントン将軍率いるイギリス・スペイン連合軍は再び重い腰を上げ、フランス本土の奥深くへと進軍を開始した。
彼らの行く手には、これまでの荒涼としたイベリア半島とは全く異なる風景が広がっていた。
豊穣な葡萄畑と、手入れの行き届いた石造りの街並みである。
そして何よりイギリス軍の将兵を驚かせたのは、フランス南西部の中心都市であるボルドーの対応だった。
ナポレオンの果てしない戦争と大陸封鎖令によって経済的な大打撃を受け続けていたボルドーの市民や商人たちは、皇帝を完全に見限っていた。
王党派が実権を握るこの街は、ブルボン家の白百合の旗を掲げ、イギリス軍を「解放軍」として熱狂的に歓迎し、一発の銃弾も交えることなく無血開城したのである。
ボルドーの豊かな物資と安全な港を手に入れた連合軍は、軍の胃袋を瞬時に満たし、さらに内陸の要衝トゥールーズに陣取るスールト元帥の軍を完全に包囲・撃滅すべく、最終的な兵站の準備を整えつつあった。
ボルドー近郊に広がる葡萄畑の丘。
そこにある豪奢なシャトー(邸宅)の離れを接収し、自らの中隊本部としていたパーシバル・シャルトン大尉(名誉少佐)は、マホガニーの机に向かってペンを走らせていた。
窓の外からは、春の陽光の下で新しい蹄鉄を打つハンマーの音や、荷馬車の車輪に獣脂を塗る王立輸送部隊の兵卒たちの威勢の良い声が聞こえてくる。
「ウィリアム、スローター。手が空いているな。少し中に入れ」
パーシバルが声をかけると、扉の外で待機していた二人の従僕がすぐさま部屋に入り、背筋を伸ばして直立した。
パーシバルはペンを置き、引き出しから上質なボルドー産の赤ワインのボトルを取り出すと、自ら三つのグラスに注いだ。
「大尉殿、真っ昼間から俺たちにまでワインですか? 憲兵に見つかったら鞭打ちですよ」
スローターが少し戸惑いながら言うと、パーシバルは静かにグラスを一つずつ二人の前に押しやった。
「構わん。憲兵隊の将校には昨夜、このシャトーの地下室にあった年代物のコニャックを数本贈ってある。
それに、これは軍務の話ではない。
……私の私的な、そして今後の計画についての話だ」
パーシバルが自分のグラスを軽く持ち上げると、ウィリアムとスローターも顔を見合わせ、おずおずとグラスを手に取った。
「結論から言おう。
この戦争は、おそらく数週間、遅くとも数ヶ月以内には完全に終わる。
トゥールーズでの戦いが最後の激突になるだろう」
パーシバルは極めて冷静な声で告げた。
「そして、戦争が終われば、私は大尉の任官権をロンドンの陸軍省に売却し、軍を退役する」
二人の従僕は、ワインを飲むのも忘れて絶句した。
「た、退役ですか!?」
先に声を出したのはウィリアムだった。
「お待ちください、大尉殿。
いや、少佐殿。旦那様は名誉少佐の推挙を受け、この部隊で誰よりも実権を握っているじゃありませんか。
これからという時に、なぜ軍を辞めるんです?」
「平和な時代の軍隊ほど、退屈で利益の出ない組織はないからだ」
パーシバルはワインを一口味わい、椅子に深く腰掛けた。
「戦争が終われば、巨大な兵站の需要は消滅する。
軍は大幅な軍縮を行い、将校たちの給与は半分に削られ、名誉少佐の肩書きも平時ではただの飾りに成り下がる。
私が軍隊という組織を利用した蓄財は、すでに目標額を超えて完了している」
パーシバルの脳内には、前世の歴史知識という絶対的な青写真があった。
だが、未来の出来事を基にしているため、ウィリアムたちに退役後の計画は大筋でしか説明は出来ない。
「私の目標は、軍での出世ではない」
パーシバルは静かな、しかし確固たる野心を込めて言った。
「退役後はロンドンへ戻り、手元の資金を金融市場で運用してさらに資産を増やす。
そして最終的には本国の土地を買い取り、領主となる。
巨大な財産と土地を持つ、真のジェントルマンになるのだ」
ウィリアムとスローターは、若き主人が描く計画をただ黙って聞き入るしかなかった。
「そこで、お前たち二人のことだ」
パーシバルは視線を鋭くし、二人を交互に見つめた。
「ウィリアム、お前の名義で私の口座に預けてある報酬は、これまでの利子も含めれば350ポンド近くに達している。
スローター、お前にも戦利品の分け前や口止め料など、100ポンド以上の現金がロンドンで待っている」
パーシバルは机の上で両手を組んだ。
「本国へ帰還した暁には、その金を全額お前たちに渡そう。
ウィリアム、お前は以前から言っていた通り、その金で宿屋の権利を買って一国一城の主になれる。
スローター、お前も田舎に小さな農地を買うか、街で自分の店を持つことができる。
……主人に仕える従僕生活から抜け出し、独立した自由な平民として生きる権利が、お前たちにはある」
部屋に重い沈黙が落ちた。
春の風が窓を揺らし、遠くで軍馬がいななく声が聞こえた。
「しかし」
パーシバルは沈黙を破り、言葉を続けた。
「もし、お前たちが良ければ。
このパーシバル・シャルトンに付き合い、更に豊かな生活を望んでいるのであれば……
私は喜んで、お前たち二人と新しい雇用契約を結ぼう」
パーシバルは机の引き出しから、すでに文字が書き込まれた二枚の羊皮紙を取り出した。
「ウィリアム。お前には、将来、屋敷を手に入れた際の家令、あるいは筆頭従僕としての地位を約束する。
私の財産管理の補佐と、屋敷の使用人全体を統括する役目だ。
給与は年額で50ポンド。もちろん、衣食住はすべて私が保証する」
ウィリアムの目が限界まで見開かれた。
当時のイギリスにおいて、農村の一般的な労働者の年収が15ポンドから20ポンド程度である。
ロンドンの立派な貴族の屋敷で働く見栄えの良い従者でさえ、年俸は20ポンドからせいぜい25ポンドが相場だった。
衣食住が完全に保証された上での「現金50ポンド」の年給というのは、熟練の職人や中堅の事務官をも凌駕する、従僕としては破格中の破格、途方もない高給であった。
「スローター」
パーシバルはもう一枚の羊皮紙を見た。
「お前には、私の専属の従者兼、護衛の役目を与える。
平時は私の馬車の後ろに立ち、いざという時はその腕力で私を守れ。
給与は年額で40ポンドだ。衣食住の保証はウィリアムと同じとする」
スローターもまた、自分の耳を疑うように口を半開きにしていた。
年給40ポンド。田舎の村長よりも多くの現金を毎年受け取れるという計算だ。
「どうだ。もちろん、危険な戦場に比べれば退屈な仕事になるかもしれないが、ロンドンの裏通りで強盗に喉を掻き切られる心配はない。
お前たちがこれまで戦場で預けてきた300ポンドや100ポンドの金は、そのまま私の口座で手堅い公債として運用し、年に3パーセントの利子を支払う。
……自分で宿屋の親父になるか、私の下で働くか」
パーシバルの提示は、情に訴えかけるような湿っぽいものではなかった。
これまでの数年間、共に死線を潜り抜け、血と泥にまみれて戦利品を回収し、数々の裏取引を成功させてきた主従の絆。
それを、パーシバルは「忠義」といった曖昧な言葉ではなく、「明確な役職と、相場を遥かに超える莫大な金額」という、彼にとって最も誠実で、最も重い形で提示したのだ。
ウィリアムとスローターは顔を見合わせた。
二人の間に言葉は必要なかった。宿屋の親父になって、毎日酔っ払いの相手をして小銭を稼ぐ平穏な人生。
だが、目の前にいるこの22歳の若き少佐。この底知れぬ才覚を持つ男の背中についていけば、ただの宿屋の親父より、豊かな生活が待っているのではと感じる。
ウィリアムは姿勢を正し、深く、完璧な敬礼をした。
「宿屋の親父なんて、俺の柄じゃありません。それに、大尉殿の身の回りの世話や裏の帳簿の管理なんて、他の鈍臭い使用人に務まるとも思えませんからね。
……喜んで、家令の職をお受けいたします。
年給50ポンド、実家の収入と比べれば倍近くの報酬だ、こんな好条件を蹴るやつなんていませんよ」
スローターもそれに続いた。彼の場合は敬礼ではなく、ニヤリと笑って拳を胸に当てた。
「俺も同じですぜ。年給40ポンド、ありがたく頂戴します」
「交渉成立だ」
パーシバルは二枚の羊皮紙に素早くサインを書き入れると、それを二人に手渡した。
「我々の商売もそろそろお終いだ。
ボルドーのワインを飲み干したら、急いでトゥールーズへ向けて荷馬車を動かすぞ。
最後の最後まで、給与分以上の利益を絞り取らねばならないからな」
「了解!」
二人の従僕の声は、かつてないほど力強く、晴れやかだった。
1814年の春。フランスの豊かな大地の上で、パーシバル・シャルトンは自らの手足となる最も強力で忠実な「従者」との雇用契約を、金貨という最も強固な鎖で結び終えた。
■歴史のズレと一抹の不安
1814年4月。フランス南部、ガロンヌ川の畔に位置する都市トゥールーズ。
雪解けの泥濘を越えて進軍を続けてきたウェリントン将軍率いる連合軍は、ついにこの堅固な都市を包囲し、総攻撃の準備を整えつつあった。
都市には、有能なるニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト元帥が指揮するフランス軍が立てこもっている。
城壁の周囲には強固な土塁と砲兵陣地が築かれ、連合軍の将校たちの間でも「シウダ・ロドリゴやバダホスのような、血みどろの凄惨な攻城戦になる」という悲観的な観測が広がっていた。
王立輸送部隊第13中隊長、パーシバル・シャルトン大尉(名誉少佐)もまた、これから始まるであろう大消耗戦に備え、後方のボルドーから前線へと続く補給線を維持するため、昼夜を問わず荷馬車の差配に忙殺されていた。
しかし、その「血みどろの決戦」の火蓋が切られる直前。
南フランスの春の空気を切り裂くように、パリ方面から猛烈な勢いで馬を駆ってきた急使が、ウェリントン将軍の野戦司令部へと飛び込んだ。
数十分後、司令部から放たれた伝令たちが、泥だらけの軍馬を走らせながら、各連隊の陣地に向かって声を限りに絶叫した。
「戦争は終わった! 皇帝ナポレオンが退位したぞ!」
「同盟国軍がパリに無血入城した! フランスは降伏だ!」
その瞬間、トゥールーズ包囲陣を覆っていた重苦しい緊張感は、一瞬の静寂の後に、地鳴りのような歓声へと変わった。
兵士たちはマスケット銃を放り投げ、軍帽を空高く放り投げた。
将校たちは軍規を忘れて抱き合い、軍楽隊は命令されるまでもなく狂喜のパレード曲を奏で始めた。
長きにわたる泥と血の半島戦争、そしてヨーロッパ全土を巻き込んだ大戦争が、ついに終わったのだ。
これ以上、誰の血も流れることはない。トゥールーズは無血で開城されるだろう。
野営地全体が熱狂の渦に巻き込まれる中。
第13中隊の本部として設営された天幕の中で、パーシバル・シャルトンただ一人が、広げられた兵站地図に両手をつき、顔面を死人のように蒼白にして震えていた。
輸送してきた弾薬の搬入先である歩兵連隊の将校とティータイムを楽しんでいた時、ナポレオン退位の知らせを聞き慌てて歴史を日本語で書き記した秘密の手帳を確認しに戻って来たのだ。
「……あり得ない。日付が、早すぎる」
何度も見直したが前世の記憶に目覚めて直ぐ、可能な限り書き出した未来の歴史とズレが発生していた。
外から聞こえる歓喜の歌声とは対照的に、パーシバルの喉から絞り出された声は、ひどく掠れ、恐怖に満ちていた。
彼の脳内にある「前世の歴史知識」という、これまで彼に富と将来への自信の根拠としていた絶対的な青写真。
それが今、凄まじい音を立てて崩れ去ろうとしていた。
史実において、このトゥールーズの戦いは、ナポレオンが退位したという知らせが両軍に「届く前」に行われた、悲劇的な遅れによる大激戦のはずだった。
何千人ものイギリス兵とフランス兵が意味もなく命を落とし、その数日後にようやくパリからの急報が届いて戦闘が停止する。それが、パーシバルの知る「歴史」であった。
だが現実はどうだ。トゥールーズでの最初の砲弾が放たれる前に、ナポレオン退位の知らせが届いてしまった。
歴史の時計の針が、およそ「1週間」も早まっているのだ。
「なぜだ……どこで狂った?」
パーシバルは震える指で地図をなぞり、過去の数年間の自分の行動を猛烈な勢いで逆算していった。
原因はすぐに思い当たった。他でもない、彼自身の「有能すぎる立ち回り」である。
前年の夏、ビトリアの戦いにおいて、パーシバルは軍規を保ち、フランス軍が遺棄した約30万ポンドもの莫大な軍資金を無傷で国庫(ウェリントンの手元)に納めた。
史実では略奪によって雲散霧消し、数千ポンドしか回収されなかったはずの現金である。
この30万ポンドという途方もない軍資金の注入により、イギリス軍の兵站は史実とは比較にならないほど潤沢になった。
ウェリントンは現地フランスの農民から食料を略奪するのではなく、適正な価格で「買い取る」ことができたため、ゲリラの抵抗に遭うことなく進軍速度を劇的に早めることができたのだ。
さらに、イギリス政府が同盟国に対して外交的圧力を強めるための資金援助も、この30万ポンドの存在によってより強力なものとなったはずだ。
結果として、連合軍の包囲網は史実よりも早く、そして強くナポレオンの首を絞め上げ、皇帝の心を1週間早くへし折ってしまったのである。
「私が……私が、歴史を変えてしまったのか」
1週間のズレ。ヨーロッパの悠久の歴史という大河から見れば、それは水面に落ちた小石の波紋に過ぎないかもしれない。
このままナポレオンがエルバ島へ流されれば、大局的な歴史のうねりは史実通りに収束していくように見える。
しかし、パーシバルという一人の資本家にとって、この1週間のズレがもたらす意味は、致命的な恐怖であった。
なぜなら、彼が軍を退役した後に計画していた最大の事業。彼を単なる小金持ちのジェントリから、大資本家へと押し上げるための大規模インサイダー取引は、彼が持つ「絶対確実な未来の知識」に完全に依存していたからだ。
来年、1815年。
エルバ島に流されたナポレオンは島を脱出し、再びパリへ舞い戻って皇帝に返り咲く。
いわゆる「百日天下」である。
この時、ロンドンの金融市場は、無敵の怪物が復活したという恐怖によって大パニックに陥る。
イギリス政府が発行しているコンソル公債(国債)の価格は、国家破産の恐怖から大暴落するはずだ。
パーシバルの計画はこうだった。暴落のどん底で、手持ちの7000ポンド以上の資金を元にコンソル公債を10倍以上のレバレッジを掛けた信用取引で買う。
そしてベルギーの「ワーテルローの戦い」でウェリントン公がナポレオンを完全に撃破したという知らせがロンドンに届き、公債の価格が天井知らずに暴騰した瞬間に、すべてを売り払う。
ロスチャイルド家が史実で行ったとされる伝説的な投機。
未来を知る者だけが実行可能な、誰にもバレない史上最大の大規模インサイダー取引である。
これに成功すれば、パーシバルの資産は数万ポンド、いや十数万ポンドへと一気に膨れ上がるはずだった。
だが今、その絶対の前提が根底から揺らいでいる。
もし、ナポレオンがエルバ島から脱出しなかったら?
もし脱出しても、私が早めた1週間のズレのせいで、プロイセン軍の到着が遅れ、ワーテルローでウェリントン公が負けてしまったら?
もしワーテルローの戦いそのものが起こらず、別の場所で、別の結果の戦いが起きたら?
パーシバルの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。
未来が分からない。これまで彼を守り、彼に無敵の采配を振るわせてきた「カンニングペーパー」の文字が、突然白紙に変わってしまったような絶対的な恐怖。
歴史を変えるほど有能に立ち回り、富を貪りすぎたことへの、残酷な代償であった。
「旦那様! 大尉殿! 聞きましたか、戦争が終わったんですよ!」
天幕の入り口が開き、興奮で顔を紅潮させたウィリアムが飛び込んできた。
しかし、ウィリアムはすぐに主人の異変に気づき、笑顔を凍りつかせた。
「旦那様……? いかがなさいました。お顔が真っ青です。どこかお悪いのですか」
パーシバルは両手で顔を覆い、深く、長く息を吐き出した。
震えを無理やり抑え込み、肺に冷たい空気を送り込む。パニックに呑まれている暇はない。
最も愚かな行為は、不確実な未来に怯えて思考を停止することだ。
歴史の変化は、いまさらどう足掻いても戻すことはできない。
「……何でもない、ウィリアム。少し、急な知らせに眩暈がしただけだ」
パーシバルは顔を上げ、強引に冷静な士官の仮面を被り直した。
ワーテルローの計画は、もはや「絶対安全なインサイダー取引」ではなくなった。
リスクを伴う「ただの巨大な投機」へと変質したのだ。
だが、計画自体を捨てるつもりはない。ナポレオンという男の野心がこのまま終わるとは思えない。
1815年の危機は、形を変えて必ずやってくる。
これからは未来の知識に盲従するのではなく、自らの目で情報を集め、自らの頭脳で相場を読む必要がある。
「ウィリアム、外の連中には好きなだけ酒を飲んで騒ぐように伝えろ。だが、お前はすぐに仕事だ。急ぎの手紙をロンドンへ送る」
パーシバルは机の上の白紙を引き寄せ、ペンにインクをたっぷりと含ませた。
歴史のズレに怯える前に、今すぐやらねばならないことがあった。
平和の到来。それは即ち、イギリス陸軍における巨大な軍縮の開始を意味する。
現役のポストは激減し、将校たちは次々と半給の待機状態へと追い込まれるだろう。
「宛先はロンドンの軍事代理人、コックス&グリーンウッド社だ」
パーシバルは、一切の迷いのない素早い筆致で手紙を書き殴っていった。
「内容はただ一つ。私の大尉任官権の売却準備を直ちに進めよ、とな」
パーシバルは手紙に封蝋を垂らし、自らの印璽を強く押し当てた。
「これを、急行便の騎兵に持たせろ」
「承知しました! すぐに手配します!」
ウィリアムが手紙を受け取り、天幕を飛び出していく。
一人残されたパーシバルは、椅子に深く背中を預け、目を閉じた。
外からは、まだ兵士たちの終わらない歓声と、勝利を祝う喇叭の音が鳴り響いている。
彼が頼りにしてきた「歴史」という名のレールは途切れた。ここから先は、彼自身の本来の知略と、戦場で鍛え上げた商人としての牙だけが頼りだ。
1814年4月。戦争が終わったその日、パーシバル最大の武器(歴史の知識)に影が差す。
■軍縮の嵐と第13中隊の解体
1814年の夏。
ナポレオンがエルバ島へ追放され、ヨーロッパに久しぶりの平和が訪れた数ヶ月後。王立輸送部隊の将兵たちは、数年ぶりに祖国の土を踏んだ。
しかし、彼らの帰還地である王立輸送部隊の本部、ロンドン南郊のクロイドンで待っていたのは、ローストビーフの豪勢な歓迎会でも、ロンドンの市民たちによる華々しい凱旋パレードでもなかった。
連隊本部の大講堂には、泥と硝煙の匂いを綺麗に洗いさり戦場では無視していた解れも直され、下ろし立ての様な軍服を身に纏った将校たちが集められていた。
彼らの顔には祖国へ帰還した安堵と勝利による喜びの色よりも、これから下されるであろう「宣告」に対する不安が色濃く表れていた。
演壇に立った王立輸送部隊の指揮官、ハミルトン少将は、並み居る将校たちを見渡し、深く重い溜息をついた。
「諸君。まずは、長きにわたるイベリア半島およびフランス本土での過酷な任務、真にご苦労であった。
ウェリントン公爵からの報告書にも、我々王立輸送部隊の兵站維持がいかに完璧であったかが記されている。
諸君は間違いなく、国王陛下と大英帝国を救った英雄である」
少将の言葉に、何人かの若手将校が誇らしげに胸を張った。
だが、パーシバル・シャルトン大尉(名誉少佐)は、壁際に寄りかかったまま静かに少将の演説を聞いていた。
「だが」と、ハミルトン少将は沈痛な面持ちで言葉を継いだ。
「平和というものは、軍隊にとって最も過酷な冬の時代でもある。
現在、政府の金庫は完全に空だ。ナポレオンを打倒するために各国へばら撒いた資金と、長年の戦費により、我が国の国債残高は天文学的な数字に膨れ上がっている。
大蔵省からの至上命令はただ一つ。徹底的な『軍縮』である」
講堂内がざわめいた。
「少将閣下!」
中堅の将校が声を上げた。
「ヨーロッパの戦争が終わったとはいえ、新大陸では未だにアメリカとの戦争(米英戦争)が続いております!
我々輸送部隊を、大西洋の向こう側へ派遣していただけないのでしょうか!」
ハミルトン少将は首を横に振った。
「その希望は完全に絶たれたと理解してほしい。
考えてもみたまえ。数千頭の馬とラバ、そして巨大な軍用馬車を大西洋を越えて輸送するのに、どれだけの船と費用が必要になるかを。
さらに、アメリカ大陸の深い森や湿地帯において、我々の重装備な荷馬車列が機能する保証はない。
政府の立場からすれば、兵站物資の輸送は海軍の艦船と現地の河川水運に任せ、陸軍は歩兵だけを送り込むのが最も安上がりで現実的なのだ」
少将は、手元にある陸軍省からの命令書を読み上げた。
「平和が訪れた欧州において、巨大な輸送部隊はもはや不要である。
これより、戦時中に特別に拡大・新設された中隊は、すべて削減される。
対象となる中隊の一般兵卒および下士官は、本日をもって部隊を解散し、除隊とする」
その宣告は、あまりにも冷酷だった。
昨日までウェリントン公の軍隊を足元で支え、泥水をすすって弾薬を運んだ兵士たちが、今日から突如として無職となり、路頭に迷うことになったのだ。
彼らに支払われるのは、わずか数日分の給与と、故郷へ帰るための最低限の旅費のみである。
パーシバルの率いる第13中隊も、その「戦時中に新設された中隊」の一つであり、当然のごとく解体の対象となった。
講堂での通達が終わった後、パーシバルは自身の執務室へ戻り、サイモン軍曹をはじめとする下士官たちを呼び集めた。
「大尉殿。いや、少佐殿。……こんな終わり方ってのがあるんですか」
サイモン軍曹が、怒りとも悲しみともつかない顔で立ち尽くしていた。
「俺たちは、ビトリアでもピレネーの雪山でも、誰一人逃げ出さずに荷馬車を守り抜いたんですぜ。それが、祖国に帰ってきた途端に『用済みだから出て行け』だなんて」
「それが国家の論理だ、軍曹」
パーシバルは机の上に、あらかじめ用意しておいた1ポンド紙幣の束が入った厚手の茶色い包装紙をいくつか置いた。
「軍の帳簿上、君たちは今日からただの民間人だ。
だが、私の私的な帳簿の上では、君たちは最後まで最高の利益をもたらしてくれた優秀な労働者だった。この30ポンドは私から下士官たちへの、退職金だ。
それと、本当は兵卒たちにもそれなりに渡してやりたいが、彼らには一人当たり4ポンドだ。
ウィリアム、これを兵卒たちに配るように。次の職を見つけるまでの生活費にはなるだろう」
パーシバルは下士官たちに紙幣が入った厚手の茶色い包装紙を手渡した。
軍が支給するはした金とは桁が違う、次の職を得られるだけの資金である。
「お前たちのおかげで、私の部隊は常に最高の稼働率を誇った。感謝している。
故郷へ帰り、これで小さな店でも開くか、新大陸に渡り自前の農園主になるか、いずれにしても真っ当に生きろ。
博打で浪費したり、酒場で豪勢に使って散財するような真似はするなよ」
「……少佐殿」
サイモン軍曹は30ポンドの退職金を強く握りしめ、深く、完璧な敬礼をした。
「少佐殿の下で戦えたこと、第13中隊の誇りでありました。お元気で」
下士官たちが退出していく後姿を見送りながら、パーシバルは一つの「事業」が完全に清算されたことを確認していた。
第13中隊の下士官9名に270ポンド、兵卒95名に380ポンド、合計650ポンドの出費ではあるが、パーシバルにとって当然の出費である。
幸い、本国へ帰還する際に軍務の為に私財を投じて購入していた馬車・荷馬・ラバを売却したことにより1200ポンド程度の追加資金を手に入れていたので、懐にも退職金を支給する余裕があったのだ。
部下の解雇は終わった。残る最大の問題は、パーシバル自身の身分と資産の処理である。
中隊が解体されたことにより、パーシバルは「中隊長」という現役のポストを失い、自動的に「半給状態」へと移行することになった。
半給状態とは、将校としての身分と階級は保持したまま、現役の役職を持たない「待機将校」となる制度である。
その名の通り、支給される給料は現役時代の半分(大尉であれば1日約5シリング、年間100ポンド弱)に激減する。
「旦那様、いよいよ俺たちの番ですね」
部屋に残っていたウィリアムが、パーシバルの軍服を鞄に詰めながら声をかけた。
「退役の手続きはいつなさるんです? ロンドンの代理人に任官権の売却を急がせていたはずですが」
「それが一筋縄ではいかなくなった」
パーシバルは机の上にある陸軍省からの通達書を忌々しげに指で弾いた。
「私の階級は名誉少佐だが、売却できる本来の任官権は『大尉』のものだ。
大尉の公定価格は約1500ポンド。だが、それはあくまで『現役のポスト(中隊長職)』とセットになっている場合の価格だ。
今の私のように、ポストを失い『半給状態』に落ちた将校の任官権は、著しく価値が下がる」
ウィリアムは手を止め、怪訝な顔をした。
「価値が下がる? 同じ大尉の階級なのにですか?」
「階級を買う人間が何を求めているかを考えろ」
パーシバルは冷徹に解説した。
「金を出して階級を買う若者は、前線で部隊を指揮する権限や、それによる更なる出世、あるいは現役の満額の給与を求めている。
半給状態の任官権を買っても、得られるのは『名ばかりの大尉の肩書き』と『半分の給与』だけだ。
誰もそんなものに1500ポンドもの大金は払わない。
買い叩かれて、良くて1000ポンド、下手をすればそれ以下になる」
「えらい損失だ! 」
ウィリアムは声を上げた。
「何か手はないんですか? 旦那様のことですから、そのまま泣き寝入りするわけがないでしょう」
「当然だ。私は意味もなく損をすることが大嫌いだ」
パーシバルは立ち上がり、窓の外の練兵場を見下ろした。
半給状態の任官権を現役の最高値で売り抜けるための唯一の合法的な手段。
それは、現在「現役のポスト」に就いている将校と巧妙に枠を入れ替え、その上で買い手を見つけるという、複雑な三者間の階級売買を成立させることである。
パーシバルの頭の中には、すでに二つの「駒」の顔が浮かんでいた。
一人は、現在も第3中隊長という現役のポストに座っている、あの面倒くさがりで貴族的なガートン大尉。
もう一人は、同じく第3中隊の副官であり、実力は十分ながら「大尉の階級を買う金がない」と日頃から呪詛のように愚痴をこぼしていた実務家、ミルトン中尉である。
「ウィリアム、まだクロイドンを離れるわけにはいかない」
パーシバルは外套を羽織り、冷たい微笑を浮かべた。
「私が最高の条件で退役するためには、他人の人事権を少しばかり操作してやらねばならない。
あのガートン大尉とミルトン中尉に、誰もが幸せになれる『素晴らしい取引』を持ちかけてくる」
19世紀のイギリス陸軍を支配する拝金主義的な購入制度。
平和の到来によって多くの将校がその理不尽なシステムに泣き寝入りし、半給の貧困に喘ぐ中、パーシバル・シャルトンは制度の隙間を縫って自らの利益を最大化するための次なる一手に取り掛かる。
■階級売買のブローカー
ナポレオンが退位し、ヨーロッパに平和が訪れたことで、イギリス陸軍の日常は劇的に変化していた。
泥と血にまみれた実戦は終わりを告げ、代わりに兵舎を支配したのは、果てしなく続く書類仕事と、無意味な観閲式、そして兵站倉庫の備品を数え直すだけの退屈な平時任務であった。
王立輸送部隊の将校たちも例外ではない。
戦時中に拡大された中隊の多くが解体され、現役のポストを失った将校たちは次々と「半給状態」へと追いやられていた。
解体された第13中隊長であったパーシバル・シャルトン(名誉少佐)もまた、その半給状態の身にあった。
しかし、彼は自らの大尉の任官権を、価値の下がった半給枠のまま安値で手放すつもりは毛頭なかった。現役の最高値である1500ポンドで売り抜けるため、彼はイギリス陸軍の「購入制度」の複雑な規則を逆手に取った、巧妙な三者間取引を仕掛ける準備を整えていた。
ある日の午後、パーシバルは上質なポートワインのボトルを片手に、第3中隊長であるガートン大尉の執務室を訪れた。
「シャルトンか。……いや、今は少佐殿と呼ぶべきだったな」
ガートン大尉は、机の上に山積みになった馬の飼料の納品書と、兵士の軍服の修繕記録から顔を上げ、深い溜息をついた。準男爵家の次男である彼は、もともと書類仕事や泥臭い実務を極端に嫌う男である。
スペインでの戦線では、パーシバルがすべての実務と上質な嗜好品の調達を代行していたため快適に過ごせていたが、本国に帰還してからはその恩恵もなくなり、日々の煩雑な業務に完全にうんざりしていた。
「階級は今まで通りで結構ですよ、大尉殿」
パーシバルは微笑を浮かべ、持参したワインをグラスに注いで差し出した。
「どうやら、平和な本国での軍務は、あなたの性に合っていないようですね」
「窒息しそうだ」
ガートンは大げさに肩をすくめ、ワインを煽った。
「毎日毎日、馬房の藁の数を数え、補給物資の在庫を書類に書き込む。
こんなことをするために、私は高い金を払って大尉になったわけではない。
いっそ退役して、実家の領地で猟でもしながら暮らしたい気分だ。
だが、裏方の輸送部隊では買い手を探すのも一苦労でな」
「その件で、素晴らしいご提案があります」
パーシバルは椅子に腰を下ろし、静かな声で切り出した。
「私と階級の『交換』を行いませんか。大尉殿は私の『半給枠』を受け取り、私が大尉殿の『第3中隊長の現役ポスト』を引き受けるのです」
ガートンは目を丸くした。
「交換だと?
たしかに私が半給枠を受け取れば、給与は半分になるが、厄介な任務からは完全に解放される。
そのまま実家に帰って、恩給をもらいながら優雅な隠居生活に入れるというわけか。
…しかし、そんなことが可能なのか?」
「問題ありません」
パーシバルは頷いた。
「買い手を探す煩わしい手続きは、すべて私が引き受けます。
大尉殿は書類にサインをするだけで、この埃っぽい兵舎から永遠に解放され、領地で美味しいワインを飲む生活に戻れるのです」
「……私にとって損のない話だ。だが、お前はどうする? わざわざ現役ポストに戻って、この退屈な書類仕事を引き継ぐつもりか?」
「ご心配なく。私はその現役ポストを、即座に別の人間へ最高値で売却します。すでに心当たりはありますから」
ガートンの顔に、安堵と喜びの色が広がった。
「お前のその抜け目のなさには、スペインの時から感心させられ通しだな。
よかろう、その提案に乗る。すぐにでも書類を用意してくれ」
第一の標的を難なく陥落させたパーシバルは、すぐさま次の標的の元へと向かった。
同じ第3中隊の副官であり、実務を取り仕切っている先任のミルトン中尉である。
ミルトン中尉は、薄暗い兵舎の一室で、馬車と荷馬の配備表を睨みつけていた。
実務家である彼は、戦争が終わった今、これ以上の昇進は絶望的であると悟っていた。
戦時中であれば、上官が戦死することで無償で昇進できる機会もあったが、平時においては「金」がすべてである。中尉から大尉へ昇進するためには、規定の差額である約800ポンドの資金が必要だったが、地道に軍務に励んできただけの彼に、そのような大金を用意できるはずがなかった。
「邪魔をするよ、ミルトン中尉」
パーシバルが部屋に入ると、ミルトンは顔を上げ、露骨に苦々しい表情を浮かべた。
「名誉少佐殿。半給で暇を持て余して、私をからかいに来たのか?」
「安心して下さい。その様なことはしませんよ」
パーシバルはミルトンの向かいに座り、単刀直入に言った。
「ガートン大尉が、私の半給枠との交換で退役することになった。
つまり、第3中隊長(大尉)のポストが空きます。中尉、中隊長と大尉を買いませんか?」
ミルトンの表情が硬直した。
「……買えるものなら買いたいさ。長年、第3中隊の実務を回してきたのは私だ。
だが、私には中尉の階級を売ったとしても、大尉になるための差額の800ポンドを払う蓄えがない。
あんたのように、実家の太い紳士とは違うんでね」
「でしたら、私がその差額である800ポンドを融資しよう」
ミルトンは自分の耳を疑うように、パーシバルをまじまじと見つめた。
「融資だと? 私に、800ポンドもの大金を貸すというのか?」
「私はこれでも中尉の実務能力を高く評価し尊敬もしているんです。
軍隊には、平時とはいえ中隊長には有能な大尉が必要でしょう」
パーシバルは懐から契約書を取り出し、机の上に広げた。
「これが条件です。
私が差額の800ポンドを立て替え、中尉は私の手から第3中隊長の現役ポストを1500ポンドで買い取る。貸し付けた800ポンドについては、年利3パーセントとする。
大尉になれば給与も上がる。毎年少しずつ、無理のない範囲で返済して頂ければ構わない。
……あなたは念願の中隊長になり、私は現役の任官権を現金化できる。互いに利益のある話だ」
ミルトンは契約書とパーシバルの顔を交互に見比べた。
パーシバルの提示した条件は、法外な高利貸しなどではなく、ロンドンの銀行と遜色のない極めて良心的なものだった。
しかし、あの計算高いパーシバルが、単なる善意で金を貸すはずがない。
「……自分の階級を最高値で売り抜けるために、ガートン大尉を唆して現役枠を奪い取り、その買い手として私に金を貸し付けるのか。
自分の懐を一切痛めずに、確実に利益を出す仕組みか」
「私は公平な取引だと確信していますよ」
パーシバルは涼しい顔で答えた。
「どうしますか?
一生、中尉のままで他人の下働きをするか。それとも、私の融資を受けて中隊の主になるか」
ミルトンは深々と溜息をつき、やがて諦めたように苦笑した。
「要領の良さと悪辣さには、本当に呆れるよ。
……だが、乗らない手はない。契約書にサインしよう」
こうして、ミルトンは念願の大尉への昇進を手にし、パーシバルは彼への融資という形で、利子を生む債権と、大尉任官権の売却益を確保することに成功した。
しかし、この複雑な三者間取引を陸軍省に認めさせるためには、所属する連隊本部の強力な承認と推薦状が必要不可欠であった。
平時におけるこのような変則的な階級交換と即時売却は、管理部門から却下される恐れがあったからだ。
数日後、パーシバルはクロイドン本部の管理棟にある、とある少佐の執務室のドアを叩いた。
恰幅の良いその少佐は、突然のパーシバルの訪問に眉をひそめた。
「シャルトン名誉少佐か。何か用かね。私は今、各中隊の備品監査の書類で忙しいのだが」
「お忙しいところ申し訳ありません、少佐殿。
実は、私とガートン大尉、そしてミルトン中尉の間で階級の売買手続きを行いまして、その承認と連隊長殿への推薦状を頂けないかと参りました」
パーシバルが書類を差し出すと、少佐はそれにざっと目を通し、鼻で笑った。
「却下だ。このような露骨な階級のたらい回しは、軍紀を乱す。
ガートン大尉が退役するのは自由だが、その後任は正規の順番待ちリストから選ばれるべきだ。君のような半給将校が間に入って利益を抜くなど、認められるはずがない」
少佐が書類を突き返そうとしたその時、パーシバルは懐から、古びた一冊の革張りの手帳を取り出した。
「それは残念です。承認頂けないとなれば、私も時間が余ってしまいます。そうなれば、ロンドンの監査局へ赴き、昔の『調査記録』を提出して相談しなければならなくなるかもしれません」
少佐の手がピタリと止まった。
「……調査記録、だと?」
「はい」パーシバルは手帳のページをゆっくりと捲った。
「1808年。私がこのクロイドンで訓練を受けていた少尉時代のことです。
部隊に納入されたはずの上質なキャンバス製の天幕と、塩漬け肉の樽が、帳簿上の数字と全く合わないことに気付きました。
正確に言えば、全体の数だけは一致していましたが、本来は消耗や腐敗を理由に廃棄される予定であったゴミが残っていて納品されたばかりの新品が無くなっている状態です。
興味を持って個人的に調べてみますと、それらの軍需物資は、兵舎の裏口から地元の商人の荷馬車へと積み込まれ、横流しされていました。
……その時の指示書と、商人が書き残した受領証の写しが、この手帳に挟んであります」
パーシバルは目を細め、凍りついたように動かなくなった少佐の顔を真っ直ぐに見据えた。
「当時、倉庫管理の責任者だったのは、まだ大尉であったあなたでしたね、少佐殿。
……もしこの記録が陸軍省の監査官の目に留まれば、あなたの軍歴は終わり、横領罪で軍法会議にかけられることになるでしょう。
もし、陸軍省の監査官が見逃したとしても、ご存知の通りウェリントン公とちょっとした繋がりがありまして、私からの手紙でしたら恐らく信じて頂けるでしょう。
そしてその場合、ウェリントン公の怒りによっては絞首刑もあり得ますね」
室内に、時計の秒針の音だけが不気味に響き渡った。
少佐の額からは滝のように冷や汗が流れ落ち、その恰幅の良い身体が小刻みに震え始めていた。
彼は目の前にいる22歳の若者が、スペインの戦場でいかにして成り上がってきたかという黒い噂を思い出し、恐怖に慄いた。この男は、本気で自分を破滅させる気だ。
「……ま、待ってくれ、シャルトン少佐」
少佐の声は裏返っていた。
「あの時は、少しばかり手違いがあっただけだ。それに、過去の話ではないか」
「ええ、私も過去のつまらない手違いで、有能な少佐殿の経歴に傷をつけたくはありません。私はただ、これからの私自身の『退役』という未来に集中したいだけなのです」
パーシバルは手帳を懐にしまい、再び階級売買の承認書類を机の上に滑らせた。
「ですから、どうかこの書類にスムーズにサインを頂き、連隊長殿への素晴らしい推薦状を書いて頂けないでしょうか。
そうして頂ければ、私の手帳は暖炉の火の中で永遠に灰になることをお約束します」
少佐は震える手で羽ペンを握り、インクをこぼしそうになりながら、パーシバルが差し出した書類のすべてに承認のサインを書き殴った。
その月の終わり。
ロンドンのクレイグス・コートにある軍事代理人、コックス&グリーンウッド社の重厚な事務所から出てきたパーシバルは、秋の澄み切った青空を見上げた。
彼の手元には、大尉任官権を最高値で売却して得た1500ポンドの手形と、ミルトン中尉への債権が残されていた。
ガートン大尉は望み通り領地での隠居生活に入り、ミルトンは念願の大尉となった。
そして横領少佐の秘密は守られた。誰もが望む結果を手に入れた、完璧な取引であった。
しかし、パーシバルがこの一連の立ち回りで得た最大の成果は、金銭的な利益だけではない。
彼は「軍籍を完全に離脱し、純然たる民間人となった」のである。
歴史を知るパーシバルには、一つの確信があった。
来年、1815年。エルバ島を脱出したナポレオンがフランスに帰還すれば、イギリス政府はパニックに陥り、退役した半給将校たちを強制的に再動員して戦場へと送り込むはずだ。
だが、任官権を完全に売却し、軍との雇用関係を断ち切ったパーシバルに、動員令が及ぶことは絶対にない。
彼は戦場に引き戻されるリスクを完全に回避し、最も安全なロンドンの金融市場の中心で、歴史上最大の暴落と暴騰の相場を操作する準備を、この日ついに完了させたのである。
紳士に相応しい高品質なウールで仕立てられた紳士服に身を包んだパーシバル・シャルトンは、待たせていた馬車に乗り込み、シティの中心部へと向かって静かに走り出した。
■シャルトン家への帰還と次なる舞台
1814年末。
すべての退役手続きと階級の売却を終え、「元大尉・名誉少佐」として完全に民間人となったパーシバル・シャルトンは、ロンドンで購入した仕立て下ろしの高級のフロックコートに身を包み、実家であるシャルトン家の領地へと帰還していた。
シャルトン家では戦争中、父ヘンリーは堅実な経営を続け、借金返済に行き詰まった隣人から一部の土地120エーカーを買い取り。その結果、現在のシャルトン家の所有地は合計1140エーカーという、中堅のジェントリ(郷紳)として順調に規模を拡大していた。
パーシバルは親から経済的に完全に独立し、莫大な資産をロンドンの銀行に預けていたが、彼自身の拠点となるロンドンの借家を見つけるまでの間、実家の自室を間借りすることにしていた。当然、居候として甘えるつもりはなく、食費や馬の維持費、諸経費を含めた「家賃」として、毎月20ポンドという十分すぎる額を実家の金庫に納める契約を父と交わしていた。
屋敷での平穏な田園生活の裏側で、シャルトン家の使用人区画だけは、奇妙な活気と緊張感に包まれていた。
「違います、ホッジス。銀のトレイは弾薬箱ではありません。
もっと肩の力を抜き、指先で優雅に支えるのです。
お客様は従僕の質で主人の格を判断するのですよ」
廊下の一角で、初老の執事ハミルトンが、冷ややかな声でウィリアムに指導を行っていた。
ウィリアムは、仕立てられたばかりの従僕用の制服に身を包んでいたが、その動きはひどくぎこちない。
戦場で培われた無駄のない実用的な動きが、逆に平和な屋敷での「優雅な作法」の邪魔をしているのだ。
「え、えぇ、ハミルトンさん……いや、ハミルトン氏。
どうもこのカラー(襟)が首を絞めつけてきまして、息が詰まりそうなんですが」
「言葉遣いも一からやり直しですね。『えぇ』ではありません。
『はい、かしこまりました』です。
あなたは将来、シャルトン少佐殿の屋敷で家令を務める予定なのでしょう?
そのような野蛮な振る舞いでは、訪問されるジェントルマンの方々に少佐殿が恥をかくことになりますよ」
ハミルトンの容赦のない叱責に、ウィリアムは泣きそうな顔でトレイを持ち直した。
一方、中庭の厩舎では、馬丁のモーリスがスローターに向かって頭を抱えていた。
「おいおい、スローター。紳士の乗る馬車馬に、荷馬車のラバを引くような掛け声を出すんじゃない。
鞭の音だけで馬が怯えちまってるぞ」
「すまねえ、モーリス。どうも勝手が違ってな。
溝に嵌って動かなくなった荷馬車を引き上げる時は、これくらい気合を入れねえと動かなかったもんで」
従者兼護衛として雇われたスローターもまた、平和なイギリスの馬や馬車の扱いに悪戦苦闘していた。
書斎の窓からそのコミカルな光景を見下ろしていたパーシバルは、声を立てずに笑った。
戦場の泥臭い従卒から、ロンドンの紳士に仕える洗練された使用人へとクラスチェンジさせるための教育期間。こればかりは、金で解決することはできない。
ロンドンへ乗り込むまでの間、実家の優秀な使用人たちに彼らをしごいてもらうのは、極めて理にかなった選択だった。
「随分と手こずっているようだな、パーシバル。お前の連れ帰った二人の部下は」
背後から声をかけられ、パーシバルは振り返った。父ヘンリーが、パイプに葉巻の葉を詰めながら書斎に入ってきたところだった。
「ご迷惑をおかけします、父上。
ですが、彼らは大陸で共に苦労をし戦場で背中を任せていた信頼できる男たちです。
ロンドンに連れて行くには、作法を知るだけの見知らぬ使用人を雇うより、少々粗野でも背中を預けられる彼らの方が遥かに役に立ちますから」
パーシバルが答えると、ヘンリーは満足そうに頷いた。
「お前がそう言うなら、間違いはないのだろう。
それにしても、22歳にして軍を退役し、毎月20ポンドの家賃を払いながら、自分の使用人を抱えるとはな。
……お前がスペインでどれだけの資産を築いたのか、父親としては恐ろしくて聞けないよ」
「大した額ではありませんよ。ただ、これからの時代の流れに備えるだけの準備はできました」
パーシバルは窓から離れ、革張りの椅子に腰を下ろした。
「それより父上。お渡ししたあの債権の書類は、無事に連隊の代理人を通して処理できましたか」
「ああ、お前が第3中隊のミルトン大尉に貸し付けていた800ポンドの債権だな。
確かに私の名義で引き受けた。
だが、本当に良かったのか? お前が受け取るべき利子を、実家の帳簿に入れてしまって」
ヘンリーは少し心配そうに尋ねた。
パーシバルは退役する際、ミルトン中尉を大尉に昇進させるために貸し付けた800ポンドの債権を、すべて父ヘンリーに譲渡(事実上の売却)していたのだ。
「私にはもう、軍の内部に直接的なコネクションは必要ありません。ですが、実家の農場にとっては違います」
パーシバルは静かに説明した。
「父上。ナポレオンが退位し、ヨーロッパに平和が訪れたことで、これからイギリスの経済はどうなると思われますか?」
「それは……戦争が終わったのだから、良くなるのではないのか?」
「逆です」
パーシバルは即答した。
「戦争という巨大な消費がなくなり、軍隊が縮小されれば、軍向けの食料や飼料の需要は激減します。
さらに、大陸からの安価な穀物が港になだれ込んでくる。
間違いなく、数年以内に国内の穀物価格は暴落し、地主や農家はかつてない不況に直面します」
ヘンリーの顔から血の気が引いた。
1140エーカーに拡大した農地は、穀物価格が高値で安定しているからこそ利益を生む。
価格が暴落すれば、一転して巨大な負債になりかねない。
「だからこその、あの800ポンドの債権です」
パーシバルは落ち着き払った声で言った。
「第3中隊長となったミルトン大尉は、王立輸送部隊の物資調達において強い発言力を持っています。
彼が800ポンドの借金をシャルトン家に握られている限り、軍が縮小されようとも、優先的にシャルトン家の燕麦や干し草を正規価格で買い上げ続けるでしょう。
あの債権は、来たるべき農業不況の波から、シャルトン家の領地を守るための強固な防波堤なのです」
ヘンリーはパイプを持つ手を震わせ、目の前に座る次男を畏敬の念すら込めて見つめた。
「パーシバル……。お前は、農場の未来まで見越して、軍の人事を動かしたというのか」
「私はシャルトン家の一員ですから。実家の基盤が盤石であってこそ、私もロンドンで心置きなく戦えます」
その日の夜。
シャルトン家の食堂は、バースから一時的に戻ってきた母を含めた家族全員(バースにいるアリスを除く)が揃い、温かく華やかな晩餐の席となっていた。
テーブルの上には、領地で獲れた雉のローストや、パーシバルが持ち帰ったフランス産の最高級ワインが並んでいる。
「本当に、怪我一つなく無事に帰ってきてくれて……母さんはそれだけで十分です」
母シャーロットは、目尻に涙を浮かべながら何度もパーシバルにワインを勧めた。
「おまけに名誉少佐殿だなんて。近所の奥様方が、あなたのお話を直接聞きたがって、お茶会のお誘いが絶えないのよ」
「戦場の泥話など、ご婦人方の耳に入れるようなものではありませんよ、母上。私はただ、後方で帳簿をつけていただけですから」
パーシバルが謙遜して微笑むと、隣に座っていた15歳の妹、マリアが目を輝かせた。
「お兄様はご謙遜が過ぎます! アリスお姉様もバースからのお手紙で、お兄様が毎月送ってくださるお小遣いのおかげで、素晴らしいドレスが仕立てられたと大層喜んでいらっしゃいましたわ。
私も早く社交界に出たいです」
「マリアにはまだ早い。お前はまず、フランス語と刺繍を完璧にしてからだ」
長男のアーサーが、ワイングラスを傾けながら兄らしくたしなめた。ケンブリッジ大学を卒業し、父の下で次代の地主としての実務を学んでいる彼は、25歳となり、立派な青年紳士に成長していた。
「そういえばアーサー兄上」
パーシバルは肉を切り分けながら尋ねた。
「戦争が終わって大陸への渡航が解禁されましたが、延期していたグランドツアー(遊学)には行かれるのですか?」
当時のイギリスの貴族や裕福なジェントリの若者にとって、大学を卒業した後に数ヶ月から数年かけてヨーロッパ大陸(主にフランスやイタリア)を巡り、見聞を広めるグランドツアーは、一人前の紳士になるための必須の通過儀礼であった。
ナポレオン戦争によって長らく中断されていたが、平和の到来とともに多くの若者が大陸へ渡り始めていた。
「ああ、そのつもりだ」
アーサーは嬉しそうに頷いた。
「来年の春頃には出発しようと計画している。
まずはパリに入り、ナポレオン美術館(現代のルーヴル美術館)で本場の芸術に触れた後、南下してイタリアのローマやフィレンツェを回る予定だ。数年間はイギリスを離れることになるだろう」
パリに入る。その言葉を聞いた瞬間、パーシバルの脳内で冷たい警鐘が鳴り響いた。
来年の春。すなわち1815年の春。エルバ島を脱出したナポレオンがフランスに上陸し、再びパリへ向けて進軍を開始する時期と完全に重なっている。
もしアーサーがその時期にフランスに滞在していれば、敵国人として拘束されるか、最悪の場合は再び始まる戦争の混乱に巻き込まれて命を落とす危険性があった。
「兄上」
パーシバルはナイフを置き、極めて真剣な表情でアーサーを見た。
「どうかしましたか、パーシバル。そんな怖い顔をして」
「差し出がましいようですが、フランスを経由するのは避けた方が賢明です。
どうしても行くのであれば、海路で直接イタリアへ向かうか、オランダからライン川沿いにドイツを抜けるルートをお勧めします」
アーサーは不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ? パリは今、ブルボン家のルイ18世が復位し、同盟国軍も駐留していて平和そのものだと新聞には書かれているが」
「新聞は表面上のことしか書きません。私は数ヶ月前まで、そのフランスの土を踏んでいました」
パーシバルは、自らの持つ『未来の知識』を隠しつつ、軍人としての経験からくる分析という体裁で言葉を紡いだ。
「フランス国内には、未だに数十万人の復員兵が溢れています。彼らはナポレオンと共にヨーロッパを支配した栄光を忘れられず、急ごしらえの王政に強い不満を抱いている。
社会の底には、火薬庫のような不穏な空気が充満しているのです。
ほんの小さな火花一つで、再び巨大な内乱が起きる危険性が十分にあります。
シャルトン家の次期当主である兄上が、わざわざそのような不安定な国に足を踏み入れるべきではありません」
パーシバルの静かだが絶対的な確信に満ちた口調に、食卓の空気は水を打ったように静まり返った。
長年、最前線の兵站を担い、軍の裏側を知り尽くした名誉少佐の忠告である。
その言葉の重みは、ロンドンの新聞記事などよりも遥かに説得力を持っていた。
「……お前がそこまで言うのなら、間違いはないのだろうな」
アーサーは真剣な顔で頷いた。
「分かった。旅行の代理人と相談し、フランスを避けてドイツ方面からイタリアへ抜けるルートに変更しよう。ありがとう、パーシバル」
「ええ。それが良いと思います。素晴らしい旅になることを祈っていますよ」
パーシバルは再び微笑を浮かべ、ワイングラスを持ち上げた。
父ヘンリーも安堵の息をつき、「さあ、平和とアーサーの旅立ち、そしてパーシバルの無事の帰還に乾杯しよう」と声を上げた。
家族との温かい団欒の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
泥と硝煙にまみれた5年間を終え、パーシバルはついに、イギリス・ジェントリ社会の穏やかで豊かな日常の中へと帰還した。
しかし、彼の心はすでに、この静かな田園風景にはなかった。
(1815年。すべてがひっくり返る年がやってくる)
来たるべきワーテルローの激動。彼が手元に集めた莫大な資金と、ウィリアムやスローターという忠実な手足。
家族との平穏な夕食を楽しみながらも、パーシバル・シャルトンは、次なる主戦場であるロンドンの金融街で大規模なインサイダー取引をするための、準備を静かに進めていたのである。
(第8章 完)




