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第7章(1813年):フランス本土侵攻と5年間の成果


■規律の対価とスールト元帥の反撃(1813年夏)

1813年7月。スペイン北部、ビトリアからピレネー山脈の麓にかけて広がる丘陵地帯。

イギリス軍の補給拠点として接収された古い修道院は、ステンドグラスから差し込む夏の日差しとは裏腹に土と汗の匂いが染み付いていた。


回廊の一角を仕切って作られた王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレインの執務室で、第13中隊長パーシバル・シャルトン大尉は、長机に広げられた野戦図と分厚い帳簿に向き合っていた。

今や彼の部隊を動かす実力は連隊内でも一目置かれていた。


フランス軍が置き去りにした推定150万ポンドもの財宝の略奪騒ぎは、軍の憲兵隊による容赦ない絞首刑と鞭打ちによって、ようやく表面上の鎮静化を見せていた。

あの狂乱の夜、パーシバルの第13中隊は彼の厳命を守り、軍資金の金庫や重要美術品を無傷で守り抜いた。

しかし、パーシバルは部下たちに一切の略奪を禁じたわけではなく、「ポケットに入る程度の銀の匙や硬貨」といった些細なネコババについては、暗黙の了解として意図的に見逃していた。

さらに彼は、自らの名誉「部下から略奪者を出し、憲兵に連行された無能な中隊長」という汚名を避けるため、野営地を巡回する憲兵将校に上質なポートワイン数本を贈り、第13中隊の天幕への詮索を穏便に済ませる手回しを完璧に済ませていた。


「旦那様。憲兵の連中、隣の歩兵連隊からはまた2人も首括りの木へ引っ張っていきましたぜ。

うちの連中が誰一人縄を打たれなかったのは、大尉殿のおかげだと、皆よく分かっております」

部屋の隅でブーツの泥を落としていた従卒のスローターが、声を潜めて報告した。


「ですが……」

スローターは少し口ごもった。


「何だ。気にせず包み隠さず教えてくれ」

パーシバルは帳簿から目を上げずに促した。


「へい。正直なところ、下っ端の兵隊どもの間には不満が燻っております。

憲兵から守ってもらった恩は感じていますが、夜に酒場へ行けば、他の部隊で『上手くやった』連中が、懐から金のフラン硬貨を鷲掴みにして見せびらかしているわけです。

それに引き換え、俺たちは真面目に金庫を守って、ポケットの銀貨数枚だけかよ、と」


パーシバルはペンを止めた。

「なるほど。隣の芝生は青く見える、というわけだ」

「兵隊なんてのは現金な生き物でして。このままじゃ、次の行軍で荷馬車の車輪をわざと溝に落としてサボる奴が出かねませんぜ」

横で控えていた従僕のウィリアムも同意するように深く頷いた。


パーシバルは椅子の近くに置いてあった荷物箱を開け、鍵付きの小箱を取り出した。

中には、彼がこれまでの非公式な商売で蓄え、手元に残してあるロンドンの銀行の手形と、ずっしりとした金貨の袋が入っている。


「不満は最もだ。我々はあの夜、最も過酷な労働をした。

それに対する『勤労の報酬』が支払われるのは当然の権利だ」

パーシバルは小箱から現金と手形を取り出し、手元の紙に素早く計算を書き付けた。


「スローター。第13中隊の一般兵卒全員に、特別手当として現金2ポンドずつ支給する。

サイモン軍曹をはじめとする下士官には、役職に応じて3ポンドから5ポンドだ」


「2ポンド!?」

スローターが目を丸くした。


「大尉殿、そりゃあ歩兵の40日分以上の給料ペイですぜ!」


「私は彼らの忠誠と規律を買うのだ。安いものだ」

パーシバルは淡々と答えた。


「それからウィリアム。グレンジャー中尉たち士官連中に現金を直接渡すのは角が立つ。

グレンジャー中尉には私が個人的に買い付けた良質なアンダルシアの乗用馬を回してやれ。

他の士官には、連隊代理人(コックス&グリーンウッド社)に抱えている借金の一部を私が肩代わりしてやると伝えろ。

これで士官たちの不満も消える」


パーシバルは帳簿の支出欄に「部隊規律維持費」という名目で、合計320ポンドと記した。

これは決して慈善ではない。この先の過酷な任務において、部隊の輸送力を極限まで引き出し、自らの地位と事業を守るための冷徹な投資であった。

現金という最も分かりやすく確実な対価を与えられた兵士たちの燻っていた不満は一時忘れられ、他部隊の『上手くやった』連中が散財し、同じ素寒貧に戻っていれば完全に不満も消え去るだろう。


ボーナス支給の噂は瞬く間に中隊内に広まり、兵士たちの燻っていた不満は一瞬にして歓喜の熱狂へと変わった。

しかし、その熱気も長くは続かなかった。

7月も終わりに近づいた頃、ピレネー山脈の向こう側から、最悪の報告が次々と舞い込んできたからである。


「スールト元帥だと? ナポレオンはあの男をわざわざスペインに送り返してきたのか!」

修道院の一室を改装した広い会議室。広げられた巨大な作戦地図を囲み、古参の中隊長であるガートン大尉が血相を変えて叫んだ。

集まった王立輸送部隊の将校たちの顔には、一様に疲労と焦燥が色濃く浮かんでいた。

パーシバルもまた、腕を組んで地図上の赤いピン(イギリス軍)と青いピン(フランス軍)の配置を険しい目で見つめていた。

ビトリアの惨敗でフランス軍は完全に崩壊したと、誰もが油断していた。

しかし、ナポレオンによって急遽スペイン方面軍司令官に任命されたニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト元帥は、敗残兵を驚異的な速度で再編し、ピレネー山脈の険しい峠を越えて猛烈な反撃を仕掛けてきたのだ。


「前衛の歩兵旅団はマヤ峠とロンセスヴァージェス峠で猛攻を受け、後退を余儀なくされています。スールトの動きは早すぎる。我々の部隊は完全に虚を突かれました」

伝令からの報告を読み上げる副官の声が、会議室に重く響く。


「馬鹿な!」

ガートン大尉が地図を強く叩いた。


「我々はフランス本土への侵攻準備のために、弾薬と食料の巨大な集積所をピレネーの山腹まで前進させたばかりだぞ! 前線が押し戻されれば、あの膨大な物資がすべて敵の手に落ちてしまう!」


「その通りです、ガートン大尉」

パーシバルが静かに、しかしよく通る声で発言した。


「ウェリントン将軍が後方で防衛線を再構築するまでの間、我々輸送部隊は、一度前進させた物資を大至急『後退』させねばなりません。昼夜を問わず、です」


将校たちの間に重苦しい沈黙が落ちた。

兵站において、部隊を前進させることよりも、戦術的な撤退に伴う物資の後送の方が、何倍も困難で過酷である。

狭く険しいピレネーの山道は、前線へ向かう増援の部隊と、後方へ逃れる負傷兵や避難民で大渋滞を起こす。

その逆行する混乱の流れの中を、重い四輪馬車ワゴンを何十台も牽いて後退させなければならないのだ。

少しでも車輪が泥に嵌まれば、道を塞ぎ、追撃してくるフランス軍の砲火の餌食となる。


「道は泥濘み、馬の疲労も限界です。

それに、パニックを起こした歩兵が我々の荷馬車を奪って逃げようとする事態も想定されます」

パーシバルは各中隊長たちの顔を見回した。



会議が終わり、足早に自室へ戻るパーシバルの後を、ウィリアムが小走りで追いかけてきた。

「旦那様。せっかくビトリアで勝ったのに、また泥の中を逆戻りですか。

兵隊どもの機嫌を取っておいて正解でしたね」


「ああ。あの320ポンドの投資が、すぐに役立つ時が来た」

パーシバルは野戦用の外套を羽織り、革手袋をはめた。


「第13中隊に直ちに出動命令を出せ。サイモン軍曹に伝えろ、前線から弾薬箱を1つでも多く引き上げてこいとな。

泣き言を言う暇はない。フランス軍の進軍速度との勝負だ」


英雄ウェリントン将軍でさえ想定外の苦戦を強いられたスールト元帥の有能な反撃は、パーシバルたち後方部隊の日常を再び過酷な泥濘と混乱の中へと引きずり込んでいた。

だが、彼が私財を投じて規律を回復した第13中隊の兵士たちは、険しい山脈へ向けて任務のため出動を開始した。


ピレネー山脈の険しい峠道は、スールト元帥の奇襲を受けた連合軍の前衛部隊が雪崩を打って押し返されてきたことにより、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化した。


「立ち止まるな! 後ろがつかえているぞ!」


王立輸送部隊第13中隊のサイモン軍曹の怒号が、谷間に木霊する砲声とマスケット銃の破裂音にかき消されそうになる。

ウェリントン将軍がフランス本土侵攻のために山腹深くへと前進させていた巨大な弾薬集積所。

そこから大量の火薬樽と鉛玉の詰まった木箱を引き上げ、後方の安全な陣地へと「後退」させるのが、パーシバル・シャルトン大尉に課せられた命令であった。

しかし、道幅の狭い岩だらけの山道で重い荷馬車を何十台も牽いて進むのは至難の業である。


「大尉殿! フランス軍の猟兵がすぐ後ろの尾根まで迫っています! このままでは最後尾の車列が追いつかれますぜ!」

馬を駆けさせてきた従卒のスローターが叫んだ。


パーシバルは愛馬の上で振り返り、立ち昇る黒煙と、恐怖に駆られて逃げてくる友軍の背中を冷静な目で見据えた。

「我々の軽便馬車は動いているか?」

「へい! 荷を減らした軽便馬車とラバの列はどうにか下り坂を抜けていますが……

問題はその先です。正規の兵站部の重い4輪馬車が道を完全に塞いでいやがるんです!」


パーシバルは舌打ちし、すぐさま馬の腹に拍車を当てた。

「スローター、ついて来い。障害物を排除する」


現場に駆けつけると、状況は最悪だった。

イギリス本国から持ち込まれた無骨で巨大な4輪の軍用馬車が、岩に乗り上げて前輪を破壊し、狭い山道を完全に封鎖していた。

その後ろには、パーシバルの第13中隊が運ぶ弾薬を積んだ軽便馬車が何台も立ち往生している。

立ち塞がる4輪馬車の前では、若い少尉がパニックを起こし、叫んでいた。


「早く修理しろ! これは国王陛下の財産だぞ!」

少尉が金切り声を上げているところへ、パーシバルが馬を乗り入れた。


「やめろ、少尉。その車軸の壊れ方では修理に数時間は掛かる」

パーシバルは馬上から冷たく言い放った。


「シャルトン大尉殿! しかし、この馬車には野砲の部品が……」

「後ろの銃声が聞こえないのか。フランス軍の歩兵はもうそこまで来ている。

ここで道を塞げば、私の後ろにいる30台の軽便馬車に積まれた火薬と鉛玉が、そっくりそのままフランス軍の手に渡ることになるのだぞ」


パーシバルは馬から降りると、サイモン軍曹とスローターに向かって短く命じた。

「積荷の野砲の部品は諦める。……この馬車ごと、谷底へ落とすぞ」


若い少尉が顔を真っ青にして叫んだ。

「正気ですか、大尉殿! 陛下の財産を谷底へ捨てるなど!」

「このまま道を塞いで、スールト元帥に火薬をプレゼントするよりマシだ。私が全責任を持つ」


「第13中隊! 全員で押せ! テコを使え!」


兵卒たちは、大尉の命令に従って丸太を車輪の下に差し込んだ。

「せーのっ!」

男たちの怒号と共に、巨大な4輪馬車がミシミシと軋みながら傾き始める。

重力に引かれ、バランスを崩した巨大な塊は、轟音を立てて崖下へと転がり落ちていった。真鍮の部品が谷底の岩にぶつかり、甲高い音を立てて砕け散る。


「道が空いたぞ! 軽便馬車を急がせろ! 止まるな!」

パーシバルの号令により、第13中隊の軽便馬車とラバの列が、怒涛の勢いで塞がっていた山道を駆け下りていく。


「大尉殿、容赦ねえな……」

スローターが谷底を見下ろしながら呆れたように言うと、パーシバルは泥を払って再び馬に跨った。

「兵站とは、優先順位を決めることだ。

いま不要な野砲の部品を捨てて、明日の戦いに必要な火薬を生かす」


その日の夜、さらに数マイル後退した安全な盆地に設営された集積所で、パーシバルは松明の明かりの下、次々と到着する自軍の荷馬車の数を帳簿と照らし合わせていた。


「大尉殿。最後尾のラバも無事に陣地に入りました。……奇跡ですぜ。第13中隊は、弾薬を積んだ馬車を1台もフランス軍に奪われませんでした」

ウィリアムが、煤だらけの顔に安堵の笑みを浮かべて報告した。

「他の部隊じゃ、馬車を捨てて逃げ出した御者が山ほど出たそうです。

うちの連中が誰一人逃げ出さず、荷を運んだのは、やっぱりあの『ボーナス』のおかげですね」


「現金という燃料は、鞭よりも確実に人間を動かす。証明されたな」

パーシバルは帳簿の「回収済弾薬」の欄に、無事に引き上げた火薬樽と薬包の数を書き込んだ。

「スールト元帥の反撃は確かに脅威だが、我々が持ち帰ったこの火薬があれば、ウェリントン将軍はすぐに防衛線を再構築し、再び反撃に転じることができる」


パーシバルは周囲を見渡した。

冷たい雨が降り始めた野営地で、第13中隊の兵卒たちは泥にまみれ、疲れ果てて座り込んでいたが、彼らの顔に絶望の色はなかった。自分たちが他のどの部隊よりも見事に任務を遂行したという自負と、大尉が約束通り温かいシチューとラム酒を用意させているという安心感が、彼らを支えていた。


「しかし、これだけ前線が乱高下すると、商売の計画も狂いますね」

ウィリアムが少し恨めしそうに言うと、パーシバルはペンを止めて暗い夜空を見上げた。




■サン・セバスティアン陥落と商脈の切断(1813年秋)

1813年9月。

70日以上に及ぶ凄惨な攻城戦の末、スペイン北部の要衝サン・セバスティアンはついに陥落した。

堅牢を誇った城壁はイギリス軍の重砲火によって無惨に崩れ落ち、市街地は突入した兵士たちの狂乱と火災によって黒焦げの廃墟と化していた。


フランスへの本格的な侵攻を目前に控え、ウェリントン将軍は軍の巨大な胃袋と火薬庫を満たすため、軍事的に極めて合理的な決断を下した。

1808年の半島上陸以来、長年にわたってイギリス軍の絶対的な主補給拠点であったポルトガルのリスボン港を見限り、前線にほど近いスペイン北部のパサヘスなどの港湾へと、補給の拠点を完全に切り替えたのである。


何百マイルも離れたリスボンから、荒れ果てた陸路を荷馬車で延々と運ぶのに比べれば、イギリス本国からビスケー湾を通って直接スペイン北部に船を着ける方が、圧倒的に効率が良い。

軍全体の兵站を考えれば、この変更は必然であった。


しかし、王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレイン第13中隊長のパーシバル・シャルトン大尉にとって、この地政学的な戦線の移動は、彼が数年がかりで構築してきた「商売の仕組み」に対する致命的な打撃を意味していた。


10月上旬。

パサヘス近郊の小高い丘に設営された中隊本部で、パーシバルは分厚い革装丁の帳簿を睨みつけていた。

薄暗い天幕の中、ランプの灯りに照らされた数字の羅列は、明らかに彼を落ち込ませていた。


「……今月の純利益は、ピーク時の半分以下に落ち込んでいるな」


パーシバルは羽ペンを置き、大きく息を吐き出した。

最大の原因は、リスボンの豪商バンデイラと築き上げた、強固な蜜月関係が物理的に切り離されたことにある。

バンデイラの倉庫に横流ししていた戦利品や、安く買い叩いた軍需物資の利益は、リスボンという安全で巨大な市場あってこそのものだった。

現在、イギリス軍の補給船はビスケー湾を抜けてパサヘス港へ入る。

この海域はボルドーやナントなどを拠点とするフランスの私掠船が我が物顔でうろついている。

物資を載せた船が拿捕される危険性が高く、海上の物流は常に不安定だった。


「バンデイラ氏から手紙が届いておりますが、陸路でスペイン北部まで彼の手代を向かわせるのは、山賊とゲリラのリスクが高すぎて割に合わないとのことです」

傍らで控えていた従僕のウィリアム・ホッジスが、封の切られた手紙を片手に報告した。


「当然の判断だ。いくら彼でも、護衛なしでピレネーの麓まで現金や品物を運ぶ冒険はしないだろう」

パーシバルは眉間を揉んだ。


軍隊の進軍による補給線の変更。これこそが、戦地における最大の地政学的リスクである。

どれほど強固な取引網を構築しても、前線が数百マイル移動してしまえば、それまでの人脈も倉庫も無用の長物と化す。

パーシバルの手元には、スールト元帥との激戦の合間に部下たちが回収したフランス軍の遺棄物資や、不要になったラバが数多く残されていたが、それを高値で現金化してくれる「お得意様」が不在となってしまったのだ。


「帳簿の数字が悪いのは分かりますが、今はそんなことを気にしている場合じゃありません」

ウィリアムは少し呆れたような口調で言った。


「スールト元帥への反撃準備で、弾薬の輸送スケジュールはカツカツです。

それなのに、うちの第13中隊の連中ったら、この忙しい時期に大尉殿から支給されたボーナスを握りしめて、パサヘスの酒場や娼館を買い占める勢いで暴れ回ってますよ。

昨日も憲兵の巡回に引っかかりそうになって、サイモン軍曹が慌てて揉み消しに走りました」


ビトリアの戦いの後、パーシバルは部下たちの規律に対する対価として、一般兵士に2ポンド、下士官にはそれ以上の現金を私費で支給していた。

日給1シリング(食費や雑費を天引きされて実質は数ペンス程度)の兵士にとって、2ポンドは途方もない大金である。

彼らはスペイン北部の冷たい雨に打たれる過酷な輸送業務の鬱憤を晴らすかのように、休みのたびに港町へ繰り出し、安酒をガブ飲みしては地元の女たちに気前よく銀貨をばらまいていた。


「放っておけ。金は使わせなければ、次の労働への意欲が湧かない。

彼らが持ち回っている硬貨は、いずれ現地の商人の懐に入り、経済を回す」

パーシバルは全く意に介さず、冷めたコーヒーを口にした。


「それに、憲兵沙汰になる前に軍曹が抑えているなら問題はない」



■故郷からの手紙と令嬢の戦場(1813年秋)

1813年10月。

スペイン北部の山岳地帯に設営されたイギリス軍の野営地。


王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレイン第13中隊長、パーシバル・シャルトン大尉の専用天幕の中で真鍮製の携帯用ストーブの上では従僕のウィリアム・ホッジスが湯を沸かしている。

やがて、天幕の中に上質な紅茶の香りが漂い始めた。

東インド会社が運んできた極上の茶葉である。

これもまた、パーシバルが非公式な物流網を駆使して手に入れた「私物」の一つだった。


「旦那様、紅茶が入りました。

それと、今朝パサヘス港に着いた郵便船(パケット船)の束の中から、大尉殿宛ての手紙を受け取ってきてあります」

ウィリアムは銀のトレイにティーカップと、分厚く束ねられた数通の手紙を乗せて、机に向かっていたパーシバルの前に置いた。


「ご苦労。本国ホームからの便りか。随分と分厚いな」

パーシバルは羽ペンを置き、カップの縁に口をつけながら手紙の束を手に取った。

一番上にあるのは、見慣れた父ヘンリー・シャルトンの几帳面な筆跡だった。

封蝋をペーパーナイフで割り、中から数枚にわたる紙を取り出す。


手紙の前半は、実家であるシャルトン家の農場ホーム・ファームの順調な経営状況についての報告だった。

パーシバルが軍の兵站部との間に強力なコネクションを築き、実家の領地で採れた燕麦オーツや干し草を軍の正規価格よりも有利な条件で納入できるよう斡旋したおかげで、シャルトン家の収入はここ数年で増加していた。

長男であり跡取りである兄のアーサーも、父の下で領地管理の実務を立派にこなし、近隣のジェントリ(郷紳)たちからの評判もすこぶる良いという。


『……お前がまだ21歳という若さで、名誉ある大尉キャプテンの階級に昇進したこと、シャルトン家一同、これ以上の誇りはない』

父の手紙は、次男であるパーシバルへの深い感謝と称賛で満ちていた。


『思えば、お前が中尉に昇進したあの日から、お前は私からの仕送りを一切断り、完全に自立してしまった。

それに、お前が毎年送ってくれる100ポンドもの仕送りのことだ。

危険な戦地で得た血の滲むような給与の中から、実家のためにこれほどの大金を融通してくれるとは。

お前の優しさと家への責任感に、父親として深く感謝している。

この金は、アリスの教育と、この秋の準備のために大切に使わせてもらった』


パーシバルはそこで少しだけ目を細め、静かに息を吐いた。

年に100ポンドの送金。大尉の正規の年俸が200ポンド弱であることを考えれば、その半分を実家に送っている計算になり、世間から見れば「実家思いの立派な次男坊」そのものである。

彼が実家からの仕送りを断り、逆に少額の送金を始めたのは、決して「血の滲むような苦労」をして小銭を節約したからではない。

単に、自身の裏のビジネス(戦利品の転売や穀物の焦土取引など)で得た莫大な利益があるからだ。

とはいえ、親に心配をかけず、立派な軍人として自立した息子を演じることは、彼自身の「実家における発言力」を盤石にするための重要な布石であった。


続いて、パーシバルは母からの手紙を開いた。

そこには、農場の話や戦争の心配事よりも、さらに熱を帯びた長文がびっしりと書き連ねられていた。

話題の中心は、今年17歳になったばかりの可愛い妹、アリスのことである。



『……パーシバル、あなたも知っての通り、アリスは今年ついに社交界デビュー(シーズン)を迎えました。

私たちはバース(Bath)に数ヶ月の予定で立派な借家を用意しましたのよ。

アリスの可愛らしさはパンプ・ルームでも大層な評判で、先日のアッパー・アセンブリー・ルームスでの舞踏会では、何人もの立派な紳士たちからダンスを申し込まれました……』


母の手紙は、アリスがどれほど愛らしいモスリンのドレスを着て、どれほど礼儀正しい青年たちから注目を浴びているかという、母親特有の自慢と興奮で埋め尽くされていた。


パーシバルは手紙を机に置き、ティーカップを手にして、ふっと柔らかい笑みを漏らした。


「……どうやら、親父も母上も、極めて堅実で身の丈に合った判断を下したらしいな。

アリスも元気そうで何よりだ」


天幕の隅で、パーシバルの軍靴の泥を落としていたウィリアムが顔を上げた。

「堅実な判断、ですか? 確か、妹さんの社交界デビューのことで?」

「ああ。アリスのデビューの舞台を、ロンドンではなくバースに選んだことだ」



パーシバルは、ゆったりとした仕草で紅茶を味わいながら語り始めた。

「ウィリアム、女たちの戦争は我々のいる泥沼の戦場とはまた違う厳しさがある。

砲弾は飛んでこないが、家柄と持参金という大砲で撃ち合い、見栄と噂で相手を値踏みする。

これが『結婚市場マリッジ・マーケット』と呼ばれる戦場だ。

……アリスのバース用のドレスやリボン、舞踏会の参加費を賄うだけで、私が送った100ポンドなどあっという間に消し飛ぶだろうな」


ウィリアムは靴磨きの手を止め、呆れたように目を丸くした。

「100ポンドが消し飛ぶ!?

まあ、お貴族様の世界は金がかかるんでしょうが、それならなぜ一番華やかなロンドンに行かなかったんです?

イングランドで一番いい男が集まるのはロンドンでしょう」


「確かにロンドンは最高峰だ。

だが、その最高峰に登るには、それ相応の重装備と特別な『入場券』が要る」

パーシバルは真剣な声色で言った。


「ロンドンのメイフェア地区にタウンハウスを借り、最高級の馬車を仕立て、アルマックスのような一流の社交クラブの入場許可バウチャーを得るには、数千ポンドの資金と、由緒ある貴族ピアリッジの強力な後援が必要不可欠だ。

我がシャルトン家は最近農場の経営が順調で潤ってきたとはいえ、所詮は田舎の小地主ジェントリに過ぎない。

身の丈に合わない金を使ってロンドンへ乗り込んでも、洗練された大貴族たちから『田舎者の成り上がり』と冷笑され、誰にも相手にされずに壁の花になるのがオチだ。

無能な指揮官が準備もなしに巨大な要塞へ歩兵を突撃させるようなものさ」


ウィリアムは納得したように頷いた。

「なるほど。ロンドンの壁は、田舎の地主には高すぎるってわけですね。それで、バースですか」


「バースは、我々のような地方のジェントリにとって最も完璧な戦場だ」

パーシバルは指先で机を軽く叩いた。


「領地を離れて保養に訪れる貴族もいれば、裕福な地主、成功した商人、そして休暇中の軍人や聖職者が集まる。

階級の入り混じり方がいくぶん緩やかで、法外な費用をかけずとも、上品な借家とアセンブリー・ルームスへの会費さえ払えば、きちんとした社交の場に参加できる。

アリスのような田舎育ちの娘が、洗練されたマナーを身につけ、良い出会いを探すにはこれ以上ない場所だ」


「じゃあ、大尉殿が毎年送っている100ポンドは、そのバースでの戦いのための『弾薬代』ってことですね」


「そういうことだ。

私は別に、妹の持参金として5000ポンドを用意して、貧乏男爵の息子を買い叩いてやろうなんて野心は持っていない。

そんな分不相応な真似をしても、アリスが肩身の狭い思いをするだけだ」

パーシバルは、遠く離れたイギリスにいる、幼い頃から可愛がってきた妹たちの顔を思い浮かべた。


「アリスには、ただ幸せになってほしいのだ。

実家の規模に相応しい、誠実で立派な相手を見つけてな。

たとえば、堅実な領地を持ったジェントリの長男や、教区で安定した収入のある聖職者クレルジマン、あるいは将来有望な軍の将校……。

そういう相手を見つけるには、それなりに質の良いモスリンのドレスを着て、品の良い帽子を被り、堂々と舞踏会に出入りできなければならない。

みすぼらしい格好をしていれば、最初から声をかけられることもないからな」


ウィリアムは、主人の言葉に微かな温かみを感じて微笑んだ。

「大尉殿は、戦場じゃあ血も涙もない悪魔みたいに銀貨を数えていますが、妹さんのことになると、ただの優しいお兄様ですね」


「失礼な言い草だな、口を慎め、ウィリアム。これも立派な家門の維持費だ」

パーシバルはわざと冷たく言い放ったが、その表情は少しも険しくなかった。


「私がここで泥にまみれて稼いだ100ポンドが、バースの仕立て屋に渡り、アリスを美しく飾る。

そして彼女が良き伴侶を見つけ、幸せな家庭を築けば、それはシャルトン家全体の繋がりを強くし、社会的な信用を確固たるものにする。

……私が戦場で命を懸ける理由は、私自身の出世のためだけではない。

実家の農場を守り、兄を支え、妹に最高の機会を与えてやるためでもあるのだ」


イギリスの階級社会において、土地を持たない次男坊であるパーシバルは、本来ならば自らの腕一つで食い扶持を稼がねばならない日陰の存在である。

しかし彼は、ただ己の金銭欲を満たすためだけの孤独な守銭奴ではなかった。

彼が泥にまみれ、時に憲兵の目を盗み、血生臭い戦場で蓄財に励む最大の理由の一つ。

それは、シャルトンという「家」を愛し、その経済力を底上げしてやるという、次男なりの強い責任感であった。


「戦場というのは、ここだけではないということだな」

パーシバルは母からの手紙を丁寧に折り畳み、引き出しの中にしまった。


「私は、私自身の戦争をここで勝ち抜く。

それが、バースで戦う妹への、遠く離れた兄からの最大の援護射撃だ。

彼女が素晴らしい相手と巡り合えるよう、せいぜいロンドンの銀行口座から送金を続けてやらねばな」


外では、遠くで荷馬車の車輪の軋む音が聞こえ始めていた。

フランス本土への侵攻準備は、いよいよ最終段階に入っている。

ピレネー山脈の険しい峠を越えれば、そこはもう敵国フランスの領土だ。

補給線はさらに細く、長く引き伸ばされることになる。

それは輸送部隊にとって地獄を意味するが、パーシバルにとっては、自身の地位をさらに盤石にし、家族を守るための資産を築く絶好の機会でもあった。


「さあ、ウィリアム。令嬢たちの舞踏会の話はここまでだ。現実の仕事に戻るぞ。

明日の朝一番で、前線に送るラバの飼料の数を再確認しろ。

スールト元帥がいつまた動き出すか分からないからな」


「へいへい。大尉殿のため、ひいてはお美しい妹さんのドレス代のために、馬車馬のように働かせていただきますよ」

ウィリアムは苦笑しながら敬礼し、天幕の入り口へと向かった。



■ピレネー越えと兵卒たちの日常(1813年晩秋)

1813年11月。

ピレネー山脈の険しい峠道を吹き抜ける風は、文字通り氷の刃となって兵士たちの頬を切り裂いていた。


ウェリントン将軍率いるイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍は、ついにイベリア半島での長い戦いに区切りをつけ、数年ぶりに敵国フランスの本土への侵攻を開始した。

国境の標識を越え、眼下に広がるフランスの谷間を見下ろした時、前衛の歩兵連隊からは地鳴りのような歓声が上がった。長きにわたる泥と血の退却戦、終わりの見えなかった半島戦争が、ついにナポレオンの足元へと雪崩れ込む歴史的な瞬間であった。

将校たちはサーベルを掲げ、軍楽隊は凍える指で勇ましい行進曲を奏でた。


だが、その華々しい歴史的偉業の足元を支える王立輸送部隊ロイヤル・ワゴン・トレインの兵卒たちにとって、フランス本土への第一歩は、歓喜でも何でもなかった。

彼らにとって国境を越えるということは、ただ単に「道がさらに悪くなり、後方の港からの補給線がさらに何十マイルも伸びる」という、最悪の環境悪化でしかなかったからだ。


「押し込め! 車輪の下に石を噛ませろ! 」


崖沿いの凍りついた獣道で、従卒のスローターが枯れた声で怒鳴り散らしていた。

重い荷馬車が、登り坂で耐えきれず、ズルズルと谷底へ向かって滑り落ちようとしている。

「駄目です、蹄鉄が滑りまさあ!」

「鞭を入れろ! ここで止まったら後ろの車列が全部つっかえるんだぞ!」


数人の御者たちが車輪のスポークに太い丸太を突っ込み、顔を真っ赤にして車体を押し上げている。

馬たちは口から白い泡を吹き、いななきながら必死にくびきを引いた。

彼らは歴史の教科書に名を残すような英雄ではない。華やかな軍服を着ることもなく、敵兵とサーベルを交えることもない。

ただひたすらに、凍てつく山風に吹かれながら、崖から落ちそうになる荷馬車を必死に支え、馬やラバの機嫌を取り、ひび割れた手で車軸に獣脂を塗る名もなき労働者たちだった。


パーシバル・シャルトン大尉は、愛馬の上からその光景を静かに見下ろしていた。

彼は苦力のように働く兵卒たちに対して、涙ぐましい同情や哀れみを抱くことはない。

しかし、彼らが引いている荷馬車は、パーシバル自身の「資産」であり、彼がこの戦争で利益を生み出すための大切な「商売道具」であった。

資産が崖から落ちてしまえば、彼自身の損失となる。


「……スローター、一部の荷物を予備のラバに載せ換えて荷台を軽くしろ」

パーシバルが馬から降りることなく的確な指示を飛ばすと、兵士たちはすぐさま従い、どうにか荷馬車を平坦な場所まで引き上げることができた。


その日の夜。

ピレネーの山腹に設けられた野営地は、底冷えのする厳しい寒さに包まれていた。

兵卒たちの日常は過酷を極める。

朝は凍りついたラバの蹄鉄を火で炙って交換する作業から始まり、1日中泥の中を歩き回り、夜は凍死を避けるためにラバの腹に身を寄せて、泥だらけの毛布に包まって眠るのだ。


だが、パーシバルが指揮する第13中隊の野営地だけは、周囲の部隊とは明らかに異質な空気が漂っていた。

パチパチと勢いよく燃える焚き火の上には、巨大な鉄鍋が吊るされ、そこから食欲をそそる濃厚な肉と豆の匂いが立ち込めているのである。


「おいジャック、手首の霜焼けはどうだ。火の近くに来て手を温めろ」

古参の御者であるトムが、震えている若い兵卒に木製の椀を差し出した。


「ありがとうございます、トムさん。……ああ、すげえ。肉がゴロゴロ入ってる」

ジャックは椀を受け取ると、夢中で温かいシチューを掻き込んだ。中には塩漬けの豚肉だけでなく、玉ねぎや豆、そしてとろみのある脂がたっぷりと浮いている。


「隣の歩兵連隊の連中を見ろ。湿ったビスケットを水で流し込んで、寒さで歯をガチガチ鳴らしてるぜ。俺たちは大尉殿のおかげで、毎日こんな温かい飯にありつける」

トムは、自分の分厚いウール製の外套グレートコートを撫でながら言った。


「飯だけじゃねえ。この外套も、大尉殿がどこからか新品を仕入れてきて、俺たち全員に配ってくれたんだ。

穴の空いたボロ布を着せられている他所の部隊の連中から、『第13中隊の奴らは貴族みたいな飯を食って、貴族みたいな格好をしてる』って恨めしそうな目で見られるくらいだ」


「シャルトン大尉殿は、金持ちで羽振りがいい人ですね」

ジャックが感極まったように言うと、トムは鼻で笑った。


「馬鹿野郎、そんな生温いもんじゃねえよ。

あのお方は、ロンドンの冷酷な銀行家みたいな人だ。

俺たちを飢えさせないのも、ラバに上等な燕麦オーツを食わせるのと同じことさ。

腹が減ってぶっ倒れたら、誰が荷馬車を引くんだってな」


その会話から少し離れた天幕の中で、パーシバルは従僕のウィリアムからの報告を受けていた。

「大尉殿、バスク人の業者から買い入れた干し肉と豆の在庫は、まだ十分にあります。

それに、寒さ凌ぎのラム酒も配給しました。

兵隊どもの士気は上々です。明日の朝も、日の出と共に荷馬車を動かせるでしょう」


「ご苦労。火の番だけは怠るな。火事のような失態は困るし、明日の輸送力が落ちるからな」

パーシバルは、ランプの明かりの下で手帳に数字を書き込みながら答えた。


他部隊の指揮官たちは「愛国心」や「名誉」といった精神論で兵士を動かそうとする。

だが、パーシバルはそんな安っぽい言葉に頼ることはなかった。

精神論では車輪は回らない。凍えた手では手綱は握れない。

過酷な環境下において人間を確実に動かすのは、温かいシチューと破れていない外套という物理的な「燃料」のみである。


パーシバルは、自身の私費や、裏のビジネスで得た利益の一部を躊躇なく部下の衣食住に投資した。

軍の正規の配給を待っていれば、物資は中抜きされ、届く頃には腐っているのがオチだ。

だからこそ、彼は自らの金とコネを使って質の良い食料と防寒着を調達し、第13中隊の兵士たちに惜しみなく与えたのだ。

部下たちに同情しているわけではない。

だが、彼らが病に倒れ、あるいは過労で荷馬車を崖から落としてしまえば、その損失はパーシバル自身の懐を直撃する。

温かいシチュー1杯で弾薬箱が前線に滞りなく届き、自身の「中隊長としての評価と利益」が守られるのであれば、これほど投資対効果の高い出費はなかった。


「しかし、大尉殿。他の部隊の将校たちからは、少しばかり嫉妬の目が向けられていますぜ」

ウィリアムが苦笑混じりに言った。


「『シャルトンの部隊だけが甘やかされている』と。彼らの部隊では、馬も人間も次々と倒れているというのに」


「無能な指揮官の嫉妬など気にするな。

兵站の維持もできない者たちが、前線でフランス軍をどうやって倒すというのだ」

パーシバルは手帳をパタンと閉じた。


「我々の任務は、ウェリントン将軍の指示通りに、必要な物資を、必要な時に、必要な場所へ届けることだ。

そのために最高の稼働率を維持する。文句があるなら、同じように部下の腹を満たしてみせろと言ってやれ」


翌朝。

ピレネーの山脈の向こう側に朝日が昇る頃、第13中隊の陣地にはいち早く活気が戻っていた。

腹を満たし、分厚い外套で十分に睡眠をとった兵卒たちは、霜で白く凍りついた荷馬車の軛を力強く持ち上げ、ラバたちに威勢の良い声をかけた。


「さあ、出発だ! ニヴェル河畔まで一気に下るぞ!」

サイモン軍曹の号令とともに、巨大な車輪が重々しい音を立てて回り始める。


パーシバルは馬に跨り、整然と進み始めた部隊の車列を見つめた。

彼らの前には、急峻な下り坂と、フランス本土の大地が待ち受けている。

偉大な将軍の戦術も、華麗な騎兵の突撃も、すべてはこの泥臭い車輪とラバ、そして名もなき兵卒たちの双肩にかかっている。


「行くぞ、ウィリアム。フランスの土がどれほど重いか、我々の車輪で確かめさせてもらおう」

パーシバルは愛馬の腹を軽く蹴り、部隊の先頭へと進み出た。




■5年間の決算と忠僕への報酬(1813年末)

1813年12月末。

フランス南部、バイヨンヌ近郊に設けられた冬営地。

ピレネー山脈を越えてついにフランス領内へと侵攻を果たしたイギリス軍であったが、急激な冷え込みと悪天候、そして補給線の極度な延長により、進軍を一時停止して泥濘の中で冬営に入っていた。


石造りの裕福な農家の一室では、広い暖炉の中で太い薪が赤々と燃え、外の身を切るような寒風を完全に遮断していた。

パーシバルは、ウィリアムに入れてもらった紅茶を飲みながら机に向かい、分厚い革装丁の帳簿を開いていた。


1808年の夏、わずか17歳の少尉としてポルトガルの土を踏んでから、丸5年という歳月が経過しようとし彼は現在22歳となっていた。

肩には大尉の階級章が輝き、ウェリントン将軍からの名誉少佐への推挙状はすでに本国ロンドンの陸軍省へと送られている。

官報に掲載され正式に任官されるのは翌1814年になるだろうが、彼の軍内における地位と名誉はもはや盤石なものだった。

しかし、パーシバルにとって真の「力」の証明は、階級章の金モールの重さではない。

机の上に広げられた帳簿の、一番最後のページに記された数字の羅列こそが、彼の5年間の戦争の総決算であった。


「……よし、これでロンドンの代理人からの直近の報告書とも数字が合うな」

パーシバルは羽ペンをインク壺に浸し、総資産額の欄の下に丁寧に二重線を引いた。

帳簿には、士官としての給与所得と日常の支出とは別の5年間で彼が築き上げた、およそ一人の青年士官が手にするとは信じがたい額の資産明細が記録されている。

所謂、裏帳簿である。


・ポルトガルでの馬とラバの取引(1808年~1813年):純利益 約2200ポンド

・半島戦線での嗜好品の非公式販売(1808年~1813年):純利益 約2300ポンド

・トレス・ヴェドラス線での穀物焦土取引および商人バンデイラからの情報料(1809年~1810年):純利益 約4500ポンド

・撤退するフランス軍からの戦利品回収と転売(1811年~1813年):純利益 約1000ポンド

・バスク人密輸業者等を通じた嗜好品の非公式販売(1813年):純利益 約300ポンド

・ロンドンにおけるコンソル公債(年利3パーセント)の利息:利益 約400ポンド

合計利益:10700ポンド


・中尉任官時の諸費用(1809年):支出 マイナス100ポンド

・大尉任官および中隊長職の購入費用(1812年):支出 マイナス1500ポンド

・部下への特別手当、中隊の維持費など諸経費:支出 マイナス約850ポンド

・実家への仕送り:支出 マイナス350ポンド

・その他雑費:支出 マイナス約500ポンド

合計支出:3300ポンド


これらをすべて合算した現在の総資産額は、7400ポンドに達していた。

大尉の正規の年俸が約200ポンド弱であることを考えれば、実に37年分以上の給与に相当する。現代の価値に直せば数億円という途方もない財産のほとんどが、ロンドンのロンバード・ストリートにあるバークレイズ銀行の堅牢な金庫の中に、安全な公債と現金の形で保管されているのだ。


パーシバルはもはや、実家からのわずかな仕送りを頼りに細々と暮らす貧乏な次男坊でもなければ、軍の給与だけで生計を立てるしがない士官でもない。

彼は自らの才覚と冷徹な計算によって、この泥沼の半島戦争から莫大な富を合法的に吸い上げ、独立した「資本家」の領域へと完全に足を踏み入れていたのである。


「ウィリアム、いるか」

パーシバルが声をかけると、隣の部屋で馬具を点検していたウィリアム・ホッジスがすぐに姿を現した。


「お呼びでしょうか、大尉殿」

「ああ。少し座れ」

パーシバルは机の引き出しから上質なフランス産のコニャックを取り出し、グラスを1つ用意して琥珀色の液体を注いだ。そして、ウィリアムへと差し出した。

軍隊において、士官が平民の従僕に酒を注いで勧めるなど、本来であればあり得ないことだ。ウィリアムは少し戸惑いながらも、そのグラスを恭しく受け取った。


「今年の、いや、この5年間の総決算が終わったところだ」

パーシバルは自分のグラスを軽く持ち上げた。

「お前がいなければ、商品の仕入れも販売も出来ずに終わっていただろう。

5年間の忠実な働きに感謝する、ウィリアム」

「勿体ないお言葉です、大尉殿。俺は大尉殿の背中についてきただけですから」

ウィリアムは照れ臭そうにコニャックを一口飲んだ。冷えた身体に、強いアルコールが熱となって染み渡っていく。


「それでな、お前の『取り分』についても、改めて確認しておこうと思って呼んだのだ」

パーシバルは帳簿を裏返し、ウィリアムの方へと向けた。

そこには「W・H勘定」と見出しがつけられたページがあった。


「これまでの戦利品回収における危険手当、ラバの売買を手伝わせた際の口銭、それにビトリアの戦いでの特別手当など、約束した報酬をすべて合算してある」

パーシバルは羽ペンの先で、ページの最後にある数字を指し示した。

そこには、315ポンドという数字がはっきりと記されていた。


ウィリアムはグラスを持ったまま、その数字をまじまじと見つめ、やがてゴクリと生唾を飲み込んだ。

「315ポンド……。大尉殿、これ、本当に俺の金ですか?」

「帳簿に嘘は書かない」

「信じられませんぜ。普通の従僕が一生かかって馬車馬のように働いても、せいぜい30ポンドかそこらしか貯まらないってのに……。

300ポンドもありゃあ、本国に帰って立派なパブや商店の権利を丸ごと買い取れちまう」

ウィリアムの声は微かに震えていた。彼にとって、それは人生を根本から覆すほどの巨富であった。


「大尉殿、もしかして、今ここでそのいくらかを現金で……」

「馬鹿を言え」

パーシバルは冷たく、しかし諭すような口調で即座に否定した。


「戦地で300ポンドもの現金を持ち歩く馬鹿がどこにいる」


ウィリアムはハッとして我に返り、首をすくめた。

「そ、そうですね。すいません、少し頭に血が上っちまいました」


「金は人間を狂わせる。私でさえ、現金をこの天幕に置くのは兵士の給与や賄賂に使う最小限にしているのだ」

パーシバルは帳簿を手元に戻し、パタンと閉じた。


「お前の金は、ロンドンのバークレイズ銀行にある私の口座の中に、お前の名義を分けて安全に保管してある。

ロンドンの金庫は、フランス軍の大砲でも破れんからな。

我々がこの戦争を生き抜き、本国イギリスへ無事に帰還した暁には、この315ポンドにその時までの利子をつけて、ロンドンで一括して全額支払うと約束しよう」


ウィリアムは深く息を吐き出し、姿勢を正した。

「十分すぎます、大尉殿。俺の金を預けておくのに、イングランド銀行よりも確実な金庫は大尉殿の頭の中以外にありませんからね」

その言葉には、単なる主人と従僕という身分の差を超えた、泥と硝煙の中で築き上げられた絶対的な信頼があった。

ウィリアムは、ウィンチェスターのグラマー・スクールからの友人であり、戦地でいかにして利益を生み出し、そして一度口にした契約を誠実に守り抜いてきたかを一番近くで見てきたのだ。


「分かればいい。お前には本国で商店の旦那になるかは追々考えてもらおう。引き続き、よろしく頼むよ」

「大尉殿こそ、気をつけてくださいよ。

大尉殿が死んじまったら、俺の315ポンドを引き出せる人間がいなくなっちまう」


ウィリアムの軽口に、パーシバルは声を立てずに笑った。

「違いない。互いに死ねない理由ができたということだ」


パーシバルは冷めてしまったていた紅茶飲み干し、カップを机に置いた。


「1813年が終わる」

パーシバルは燃える暖炉の火を見つめながら呟いた。

「来年はいよいよ、この長い戦争に決着がつく年になるだろう。

ナポレオンの首元であるパリへ向けて、全軍が動く。それに伴って、補給線はこれまでで最も巨大な規模にまで引き伸ばされるはずだ」

彼は自らの手を握り締め、冷徹な計算に基づく確固たる野心をその目に宿した。

「我々の商売も、いよいよ総仕上げだ。最後の1シリングまで、この戦争が終わるまでに稼ぐぞ、ウィリアム」

「ええ、どこまでもついて行きますよ」


17歳の少尉として半島に降り立った青年は、5年の歳月を経て、莫大な資本と絶対的な名誉を手にした大尉へと成長していた。



(第7章 完)







読み専の時は、作家さんのHDDが壊れました、保存していたデータが吹き飛びましたとの言葉を実は少し疑っていました。

でも実際に起こるものなのですね。。。

RAID5で構成しているから大丈夫だろうと油断していたら、

某野牛社のハードディスク 4ドライブケース本体がぶっ壊れました。

幸いにもGoogleドライブに少し古いですが、バックアップが残っていたので助かりました。

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― 新着の感想 ―
初めて読みました。一気読みしてしまいました。 ものすごく面白いです。ナポレオン戦争時の時代背景は新鮮でした。 ちょっと、昔読んだ「ホーンブロアー」シリーズを思い出して、懐かしくもなりました。 この後に…
忙しい中でも更新して貰ってありがたいです。
ー彼自身の「実家における発言力」を盤石にするための重要な布石ー 「ワーテルローの戦い」終結後の実家でのビジネス構想について、ようやく、その構想が明らかに成ろうとしている。1815年といえば、イギリス…
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