第6章(1811年~1813年):追撃戦と大尉任官、推定150万ポンド以上の略奪品
■登場人物の説明を入れ忘れておりました
アーサー・ウェルズリー:イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍の総司令官。アイルランド貴族の三男。1811年時点では子爵だが戦功により陞爵を重ね、1812年には伯爵、1813年時点は侯爵であり、後にウェリントン公爵となる。イギリス陸軍が誇る英雄筆頭。
半島戦争が終わるまでイギリスに戻らなかったため、本国に凱旋後、一日で男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵として貴族院に紹介された偉人。
■泥濘の日常と戦利品回収ビジネス(1811年後半)
1811年、後半。
秋の長雨が、ポルトガルからスペイン国境へと続く荒れ果てた街道を、底なしの泥沼に変えていた。
マッセナ元帥率いるフランス軍の撤退に伴い、アーサー・ウェルズリー(ウェリントン卿)率いる連合軍の追撃は苛烈を極めていた。
しかし、戦線が東へ、スペインの内陸部へと移動するにつれ、イギリス軍の兵站は悲鳴を上げ始めていた。
補給線は間延びし、現地スペインのパルチザン(ゲリラ)たちが跋扈する山道は、味方にとっても決して安全な道行きではなかった。
「前を見てぬかるみに気をつけろ! ラバの足元に気を配れ!」
王立輸送部隊の中尉、パーシバル・シーモア・シャルトンは、冷たい雨に打たれながら馬上で檄を飛ばしていた。
彼の紺色のマントは泥にまみれ、乗騎の息は白く荒い。
彼が率いる中隊は、弾薬や塩漬け肉、そして何より重要な馬の飼料を積載し、前線で飢える歩兵や騎兵のもとへ日夜を問わず物資を送り届けていた。
過酷な自然環境と、いつ襲撃されるか分からない極度の緊張。
これが王立輸送部隊の日常であった。華々しいサーベルの突撃も、軍楽隊の勇ましい演奏もない。
ただひたすらに泥と馬糞と格闘し、車軸の軋みに耳を澄ませる地味な任務である。
しかし、パーシバルにとって、この追撃戦がもたらす「混乱」は、決して苦労ばかりではなかった。
「……旦那様。前方の谷底に、また『落とし物』がありましたぜ」
前衛を務めていた従卒のスローターが、馬を寄せてきて声を潜めた。
「フランス軍の輜重車の残骸が三台。車軸が折れて見捨てられたようです。中身は空でしたが、近くの泥の中に、教会の銀燭台やら、将校用の立派な馬具やらが転がってました」
「そうか。では、帰りの便で『清掃』しておけ。街道の障害物は取り除かねばならないからな」
パーシバルは表情一つ変えずに指示を出した。
「へいへい、障害物の除去ですね。任せてくだせえ」
スローターはニヤリと笑い、隊列の後方へ下がっていった。
撤退するフランス軍は、行軍速度を上げるため、あるいは馬が死に絶えたために、重い青銅砲の部品や馬車、そしてイベリア半島の各地から略奪した金銀財宝を、道端に容赦なく遺棄していった。
パーシバルは、私財を投じて買い集めた軽便馬車が、前線に物資を届け終えて「空」になってリスボンの集積所へ戻る際の帰路を利用し、これらの遺棄物資を徹底的に回収する「戦利品ビジネス」をシステム化していた。
だが、エスクワイア(郷紳)の家柄に連なるイギリス陸軍の将校が、泥にまみれて他人の落とし物を漁るなど、ジェントリとしての名誉と体面を著しく損なう行為である。
軍法会議にかけられるか、少なくとも士官食堂から追放されるスキャンダルだ。
ゆえに、パーシバル自身は絶対に直接手を下さない。
回収の実動部隊は、スローターを筆頭とする御者や従卒たちだ。
彼らが「勝手に拾ってきた」ものを、パーシバルが「仕方なく処理してやっている」という建前を崩さなかった。
回収された品々は、リスボンの商人バンデイラたちの非公式なルートを通じて、即座に現金へと換金された。
その日の夜。
冷たい雨を避け、設営された天幕の中で、パーシバルは泥を丁寧に拭き取った真新しい軍服に着替えていた。
どんな辺境の野営地であろうと、身だしなみを保つことこそが士官としての威厳を保つ防壁となる。
折り畳み式の野戦机には、ランプの明かりに照らされた分厚い帳簿が広げられていた。
従僕のウィリアム・ホッジスが、淹れたてのコーヒーを銀のカップに注ぐ。
「今月の集計が出たな」
パーシバルはペンをインクに浸し、美しい筆記体で数字を書き込んでいった。
「ええ。スローターの奴らが拾い集めた戦利品の売却益が、バンデイラ氏からの報告によれば今月は約80ポンド。
……相変わらず、落ちているゴミを拾うだけで大した稼ぎです」
ウィリアムが手元の控えを見ながら読み上げる。
「ゴミではない、流動資産の再配分だ」
パーシバルは小さく笑い、帳簿に数字を記載した。
「それに加えて、これまで通り前線でのラバや馬の転売、それとタバコやワインなどの嗜好品の販売益が、約150ポンドあります」
「となれば、今月の粗利益は230ポンドというところか」
「そこから、スローターたち回収組への危険手当と口止め料、それと港の管理役人への賄賂などの『必要経費』が約60ポンド引かれます」
パーシバルは「マイナス60ポンド」と書き込み、下に二重線を引いた。
「差し引き、今月の純利益は170ポンド。……悪くない」
170ポンド。
中尉の正規の給料が年額およそ100ポンド強であることを考えれば、月にその1.5倍以上を稼ぎ出している計算になる。
これが毎月、安全なロンドンのバークレイズ銀行の口座へと、為替手形の形で静かに積み上げられていくのだ。
泥と血にまみれた戦場の裏側で、彼の資産はすでに中堅の地主階級を凌駕しつつあった。
パーシバルは帳簿を閉じると、机の片隅に置かれていた束を手に取った。
それは、本国から補給船に乗って数週間遅れで届けられた、ロンドンの『タイムズ』紙だった。
前線の将校たちにとって、数少ない娯楽であり情報源である。
コーヒーを啜りながら紙面に目を通していたパーシバルは、やがてある記事でピタリと視線を止めた。
天幕の隅でブーツの泥を落としていたスローターが、主人の雰囲気が変わったことに気付いた。
「旦那様、何か面白いことでも書いてありましたかい? ロンドンの貴族のスキャンダルとか」
「いや。もっとスケールの大きな話だ」
パーシバルは新聞を机に置き、ランプの芯を少し上げ明かりを強くした。
「ウィリアム、スローター。この半島戦争も、いよいよ新しい局面に入るかもしれないぞ」
二人の従僕が、興味深そうに顔を上げた。彼らにとって、パーシバルの語る「予測」は、常に金貨の匂いと直結しているからだ。
「この記事によれば、フランスのナポレオン皇帝と、ロシアのアレクサンドル1世との間の外交関係が、決定的に冷え込んでいるそうだ。パリのロシア大使が召還される寸前らしい」
「ロシアですか? 確か、ナポレオンと仲直りして、イギリスを仲間外れにする条約(ティルジットの和約)を結んだんじゃなかったですかい?」
ウィリアムが首を傾げる。
「その通りだ。だが、ナポレオンが強要した『大陸封鎖令』が、ロシアの首を絞めているんだよ。
ロシアは広大な農業国だ。イギリスという最大の輸出先を失い、穀物や木材、麻が港で腐っている。
ロシア経済は今、破綻寸前だ。皇帝アレクサンドル1世は、もはや国内の貴族や商人たちの不満を抑えきれなくなっている」
パーシバルは、前世の歴史知識という「絶対のカンニングペーパー」を頭の奥底に置きながら、あくまで新聞記事から論理的にマクロ経済を読み解く賢明な将校として語り続けた。
「経済が回らなければ、国は死ぬ。ロシアは遠からず、公然と大陸封鎖令を破り、イギリスとの貿易を再開するだろう。……さて、そうなればナポレオンはどうすると思う?」
「そりゃあ……裏切り者には罰を、ってことで、軍隊を送るんじゃありませんか?」
スローターが答えた。
「その通りだ、スローター。皇帝ナポレオンは、自らの威信にかけてロシアを討伐しなければならなくなる」
パーシバルは立ち上がり、天幕に吊るされたイベリア半島の地図を指差した。
「フランス軍がロシアの広大な大地へ攻め入るとなれば、50万、いや60万の兵力が必要になるだろう。そんな大軍をどこから捻出する? 当然、今このイベリア半島に駐留している精鋭部隊を引き抜くことになる」
ウィリアムがハッと息を呑んだ。
「……ということは、目の前にいるフランス軍の数が減る、と?」
「劇的にな。いずれフランスの主力は東へ向かう。
イベリア半島の手薄になった隙を、我らがウェリントン将軍が見逃すはずがない。
今はこうして泥濘の中で一進一退の追撃戦をやっているが、時が来れば、将軍は一気にスペインの中心部、マドリードへと攻め上がるはずだ」
パーシバルの声には、静かだが確固たる確信が満ちていた。
未来の歴史を知る者の揺るぎない眼差し。
その理路整然とした大局観と、政治・経済を絡めた分析の鋭さに、ウィリアムとスローターは深い畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
目の前の泥や明日の天気を気にしている他の将校たちとは違う。
この若き中尉は、数千マイル離れた雪深いロシアの情勢から、自分たちが明日歩くべき道を正確に見定めているのだ。
「……すげえ。ロンドンの古新聞一つで、そこまで分かっちまうんですか」
スローターが感嘆の溜息を漏らす。
「なら、俺たちはどう動けばいいんです? 旦那様」
「今は耐える時だ。部隊の輸送力を極限まで高め、稼げる限りの資金をロンドンへ送る。
来るべき大攻勢の時、戦線が大きく動けば、兵站の需要は今の比ではなくなる。
そして同時に、軍の組織自体も大きく再編されるはずだ」
パーシバルは、自らの階級章――中尉の肩章を軽く撫でた。
「その『波』が来た時、中尉という立場では動かせる権限に限界がある。
……僕にはもっと大きな船が必要だ。そのためにも、稼ぎを緩めるな。
道端に落ちているフランス軍の馬蹄の釘一本に至るまで、全てを金に換えるんだ」
「了解です。旦那様の仰る通りに」
二人の従僕は、誰に命じられるよりも深く、自発的な敬礼をした。
雨が天幕を叩く音が続いている。
1811年が暮れようとしていた。
パーシバルは、冷めたコーヒーを飲み干し、次なる野望――「大尉(Captain)」への任官という大きな野望に向けて計画を具体化し始めている。
■限界の補給線と拡大の噂(1812年)
1812年。
イベリア半島の戦局は、劇的な転換点を迎えていた。
ウェリントン将軍率いる連合軍は、ついに大規模な攻勢へと転じた。
1月のシウダ・ロドリゴ要塞、そして4月のバダホス要塞という、スペイン国境を扼する2つの巨大な鍵を、おびただしい血の代償を払ってこじ開けたのである。
特に難攻不落を誇ったバダホス攻略戦の直後、城内に雪崩れ込んだイギリス軍兵士たちは軍紀を完全に失い、3日3晩にわたる凄惨な略奪と暴行を繰り広げた。
指揮官たちの制止すら効かず、狂乱状態に陥った軍隊は、統制の取れた組織からただの強盗集団へと成り下がっていた。
王立輸送部隊の中尉パーシバル・シャルトンは、黒煙を上げるバダホスの街を冷ややかな目で見つめながら、自らの小隊を城壁の外に留め置いていた。
歩兵たちが酒樽を割り、血まみれになって金目のものを奪い合っている間、パーシバルはただ黙々と、次の進軍に向けた「水」と「飼料」の確保、そして馬車の車軸の点検に奔走していた。
狂乱の宴はいずれ終わる。その後に待っているのは、過酷なスペイン内陸部への長距離行軍であることを誰よりも理解していた。
そして7月。サラマンカの戦いでフランス軍を鮮やかに打ち破ったウェリントン将軍は、そのまま首都マドリードへと軍を進めた。
だが、勝利の栄光と歓喜の裏側で、イギリス軍の兵站は完全に崩壊の危機に瀕していた。
スペインの夏は、ポルトガルのそれとは比較にならないほど過酷だった。
気温は連日容赦なく跳ね上がり、大地はひび割れ、生命線であるはずの川は干上がった。
「中尉殿! また馬が倒れました! これで今日だけで4頭目です!」
熱波の中、サイモン軍曹がひび割れた唇から血を流しながら、絶望的な声で報告してくる。
イギリス本国から持ち込まれた巨大な4輪の軍用馬車(重ワゴン)は、舗装された平坦な街道を走るための代物であり、スペインの岩だらけの悪路には全く不向きだった。
重すぎる車体と高温と低温の繰り返しによる金属の膨張収縮による金属疲労でサスペンションや車軸から次々と折れ、それを牽く巨大なイギリス馬は、灼熱と極度の水不足に耐えきれず、泡を吹いて次々と道端に斃れていった。
物資を運ぶべき輸送部隊が、自らの重さで自滅していく。
正規の補給線は限界まで引き伸ばされ、今にも断ち切れそうになっていた。
だが、パーシバルが実質的に取り仕切る第3中隊だけは、信じられないほどのペースで前線へ物資を届け続けていた。
その秘密は、彼が自らの「私財」を投じて密かに構築していた私的な輸送網にあった。
「ウィリアム、スローター! ラバの背の荷が偏っているぞ! 軽便馬車の車軸に念入りに油を差せ!」
パーシバルは、イギリス製の重いワゴンを早々に見限り、現地で買い集めた頑丈なラバと、スペインの農民が使う2輪の軽便馬車を主力に据えていたのだ。
ラバは少々の水不足にも耐え、粗食で生き延びる。
軽便馬車は岩だらけの山道でも小回りが利き、万が一壊れても現地の木材で素早く修理ができた。
もちろん、これらは軍の帳簿には「現地徴用」として記載されているが、実際にはパーシバルが私費で運用している彼の「個人資産」である。
中隊長のガートン大尉は、自分の部隊だけが優秀な成績を収め、軍上層部から称賛されていることに鼻高々であったが、その実態がパーシバルの私兵と化していることには薄々気付いていたが無視していた。
8月。連合軍が一時的に解放したマドリードの街は、熱狂的な歓喜に包まれていた。
王宮の近くに接収された豪奢な邸宅の一室で、ガートン大尉はパーシバルが横流しした最高級のフランス産ワインを傾けながら、上機嫌で口を開いた。
「シャルトン、お前のおかげで私の面目は丸立ちだ。連隊長殿も、第3中隊の輸送能力の高さに大層感心しておられたぞ」
「光栄の至りに存じます、大尉殿」
パーシバルは背筋を伸ばし、謙虚に頭を下げた。
「ところでな……」
大尉は声を潜め、周囲を気にするように言った。
「これは連隊長殿から直々に聞いた極秘情報だ。本国の陸軍省が、我々王立輸送部隊の組織拡大を決定したらしい」
パーシバルの目が、僅かに細められた。
「拡大、ですか」
「ああ。スペインという広大な戦場を支えるには、今の部隊規模では到底足りんからな。新しい中隊が複数新設される。つまり……『中隊長』のポストが新しく用意されるということだ」
その言葉を聞いた瞬間、パーシバルの脳内で高速の計算が始まった。
イギリス陸軍における「大尉(Captain)」への昇進。
それは、戦場でどれだけフランス兵を倒したか、どれだけ巧みに荷馬車を操り兵站を支えたかという実戦の功績で決まるものではない。
絶対的な要素は2つ。「金」と「コネ」である。
これが、イギリス陸軍を支配する「購入制度」の冷酷な現実だった。
大尉の階級を買い取るための公定価格は、約1500ポンド。
現代の価値に直せば、優に数千万円に相当する莫大な資産である。
組織拡大に伴う「空席」であっても、その権利を得るためには陸軍省への支払いが必要となる。
それに加えて、上官である連隊長の「強力な推薦」がなければ、いくら金を積んでも順番待ちのリストから弾かれてしまう。
だが、パーシバルにはその両方が揃っていた。いや、揃える準備がとうにできていた。
自室に戻ったパーシバルは、即座に手紙の束を取り出した。
宛先の一つは、ロンドンのロンバード・ストリートにあるバークレイズ銀行のジェームズ・ベリエフ氏。
『拝啓、ベリエフ様。
いよいよ我が投資の最大の果実を刈り取る時が参りました。
私の口座から1500ポンドを即座に引き出せるよう流動化し、軍事代理人たるコックス&グリーンウッド社へ支払う手形を準備されたし』
この数年間、焦土作戦の裏で穀物を売り抜け、戦利品を転売し、私的な輸送網で稼ぎ出した莫大な資産。
それはすべて、この日のために蓄えてきた「軍資金」である。
1500ポンドという大金も、今のパーシバルにとっては総資産の一部に過ぎなかった。
そしてもう一つの強力な武器。
それは、彼の「軍歴」である。
パーシバルは1803年、まだ少年であった頃から、父のコネを使って「ボランティア」として軍に籍を置いていた。
実体は名義だけであっても、軍の書類上は「9年間の軍歴を持つ古参将校」として扱われる。
この書類上の勤続年数は、実戦経験の長さよりも、昇進の順番を争う上で決定的な効力を持っていた。
「ウィリアム、いるか」
手紙を封蝋で閉じると、パーシバルは従僕を呼んだ。
「マドリードの街に出て、最高のアンダルシア馬を探してこい。
価格は問わない。見栄えが良く、血統の確かな毛並みの美しい馬だ。
……連隊長殿への『ささやかな敬意のしるし』として贈る」
ウィリアムは、主人の意図を正確に読み取り、悪戯っぽく笑った。
「へえ、大将。ついに『大尉殿』にお成りですか。連隊長殿には馬を、ガートン大尉には……」
「大尉には、マドリードの地下室で見つけた極上のシェリー酒を2樽ほど届けておけ。あれは彼の舌を満足させるはずだ」
実力で部隊を回し、金で階級を買い、贈り物で上官の目を塞ぐ。
あからさまな拝金主義と政治的立ち回り。
だが、それこそがジェントリ階級が支配するイギリス陸軍の真実の姿であり、それを最も効率的に利用できる者だけが、この巨大な組織の頂点へと登り詰めることができるのだ。
「1500ポンドの投資。……安いものだ」
パーシバルは、窓の外のマドリードの夜景を見下ろした。
大尉になれば、独立部隊の主として1つの中隊を完全に掌握できる。それはつまり、彼の私的なビジネスの規模が、これまでの数倍に膨れ上がることを意味していた。
補給線が限界を迎え、軍隊が苦境に立たされれば立たされるほど、兵站を握る者の価値は跳ね上がる。
1812年の秋。反攻の歓喜と過酷な疲労が入り交じるスペインの首都で、21歳となったパーシバル・シャルトンは、いよいよ軍隊という名の巨大企業における「大株主」の座を手に入れようとしていた。
■大尉任官と軋む人間関係(1813年初頭)
1813年の初頭。
イベリア半島の厳しい冬は、ポルトガル国境付近に設営されたイギリス軍の冬営地を分厚い霜と冷たい泥で覆い尽くしていた。
息も凍るような寒さの中、ロンドンから到着した郵便馬車がもたらした一部の『ロンドン・ガゼット(官報)』は、王立輸送部隊の将校たちの間に、小さな、しかし決定的な波紋を広げていた。
「……第13中隊長、パーシバル・シャルトン大尉、か」
薄暗い士官宿舎の一室で、真新しい大尉の軍服に袖を通したパーシバルは、鏡の前で襟の金モールを直しながら低く呟いた。
軍事代理人コックス&グリーンウッド社を通じた1500ポンドもの巨額の資金移動と、連隊長に贈った最高級のアンダルシア馬の効果は絶大だった。広大なスペインでの作戦行動を支えるため、本国陸軍省は王立輸送部隊をこれまでの12個中隊から14個中隊へと拡大する決定を下し、その新設されたポストの一つを、パーシバルは見事に金とコネで買い取ったのである。
彼はまだ21歳。エスクワイア(郷紳)の次男坊に過ぎなかった若者が、ついに独立部隊の主たる「中隊長」の座を手に入れたのだ。
しかし、イギリス陸軍における「階級購入制度」の残酷な現実は、必然的に軋轢を生む。
その日の夜。士官食堂の長テーブルは、表面上は普段通りの紳士的な空気を保っていたが、グラスの底には濃密な嫉妬と不満が澱のように沈んでいた。
上座に近い席に座るパーシバルの斜め向かいで、ポートワインのグラスを弄りながら彼を睨みつけている男がいた。第3中隊の先任中尉、ミルトンである。
ミルトン中尉は貧乏なジェントリ階級出身の実務家であり、実戦経験も年齢もパーシバルより遥かに上だった。
本来ならば、組織拡大に伴う中隊長の空席は彼が座るべきものだった。
しかし、彼には階級を買い取るだけの資金がなかった。
多少の役得程度があっても、実家に仕送りをしつつ地道に軍務に励むだけでは、1500ポンドという途方もない大金を用意することなど不可能だったのだ。
「戦場で流した汗よりも、ロンドンの銀行家のサインの方が重いとはな。立派な軍隊だよ、大尉殿」
ミルトン中尉が、静まり返ったテーブルに響く声で吐き捨てた。周囲の若手士官たちが気まずそうに目を伏せる。
ミルトンの怒りはもっともだった。死線を潜り抜け、部下を率いて血と泥にまみれてきた自分の頭越しに、商人のように帳簿をいじり回していただけの若造が上官になったのだ。
だが、パーシバルは顔色一つ変えずにナイフとフォークを置き、ミルトンの血走った目を静かに見据えた。
「これが陛下の定めたルールです。私はそのルールの中で最善を尽くしたに過ぎません」
「ルールだと? 貴様は軍人の名誉を金袋の重さと勘違いしているんじゃないのか!」
「ミルトン中尉。我々は国王陛下の軍隊に属するジェントルマンです」
パーシバルは冷徹な声で応じた。
「軍を維持し、拡大するには莫大な資金が必要です。
国家がそのすべてを負担できない以上、我々士官が私財を投じてその一翼を担う。
それがこの購入制度の根幹であり、名誉の対価です。
あなたが流した汗は尊敬に値しますが、軍という巨大な機構を動かすには、汗と同じくらい金貨が必要なのです」
正論にして、身も蓋もない残酷な事実だった。
ミルトンはギリッと歯を食いしばり、グラスのワインを一気に煽ると、無言で席を立った。
「……失礼する」
足音荒く食堂を出ていく彼の背中を見送りながら、パーシバルは再びローストビーフにナイフを入れた。所属する中隊が別れた以上、彼から実害を被ることはない。無駄な感情の衝突で胃を痛めるより、新しい中隊の編成を急ぐ方が遥かに有益だった。
翌朝、パーシバルは第3中隊長ガートン大尉の執務室を訪れた。
「大尉殿。長らくお世話になりましたが、本日をもって私は新設の第13中隊へ移ります」
「ああ、シャルトン。いや、シャルトン大尉と呼ぶべきだな。お前がいなくなるのは本当に痛手だ。私の私室のワイン樽の管理は、これから誰に任せればいいんだ?」
ガートンは本心から残念そうに肩を落とした。パーシバルの裏工作により、ガートンの軍生活は信じられないほど快適なものになっていたからだ。
「その件も含めて、大尉殿に一つお願いがございます」
パーシバルは背筋を伸ばし、淡々と切り出した。
「新設の中隊を立ち上げるにあたり、どうしても経験豊富な下士官が必要です。ついては、第3中隊のサイモン軍曹を私の部隊へ引き抜かせていただきたいのです」
「サイモンを? 彼は我が中隊の要だぞ。いくらお前の頼みでも……」
「もちろん、ただとは申しません。大尉殿へのワインの定期的な補充と、マドリードの業者が扱う最高級のハバナ産葉巻の融通は、私が中隊長になっても変わらず『個人的な友情』として継続させていただきます」
ガートン大尉は喉を鳴らした。兵站の第一線を知り尽くしているパーシバルとのパイプを失うのは、彼にとっても致命的だった。
「……よかろう。サイモンには私から命令を出しておく。お前の元で存分にこき使ってやれ」
「感謝いたします、大尉殿」
こうして、パーシバルは新設された第13中隊の経理、人事、補給の全権を完全に掌握した。
自前の資金で購入したラバや軽便馬車、私商いで構築したリスボンから前線への物流ルート。そして、裏の事情をすべて知るウィリアム、スローター、サイモン軍曹という手足。すべてが彼の一存で動く、完璧な私兵集団とも言える組織が完成したのだ。
さらに数日後、パーシバルの執務室に一人の将校が着任の挨拶に訪れた。
「第13中隊副官として配属されました、グレンジャー中尉であります! シャルトン大尉殿の指揮下で働けること、無上の喜びに存じます!」
かつてリスボンの路地裏で爆竹の音に腰を抜かした、あの臆病なグレンジャー少尉である。
彼もまた、実家の豊富な資金力をフルに活用し、空席となっていた中尉の階級を買い取っていたのだ。
パーシバルは書類から目を上げ、愛想よく微笑んだ。
「よく来てくれた、グレンジャー中尉。君のような有能で、何より『家柄の確かな』士官が副官になってくれて心強い」
「はっ! 卑劣なるフランス軍を完膚なきまでに叩き潰すため、いかなる過酷な任務も辞さない覚悟です!」
胸を張るグレンジャーだが、その足先が微かに震えているのをパーシバルは見逃さなかった。
彼は死を極度に恐れている。だが、ジェントルマンとしての虚栄心だけは人一倍強かった。
「その意気や良し。しかし、君には剣を振り回すよりも遥かに重要で、我々輸送部隊の命運を握る任務を任せたい」
パーシバルは立ち上がり、うやうやしく一枚の分厚い帳簿を彼に差し出した。
「後方集積所における、物資管理と経理の総責任者だ。君も知っての通り、前線は野蛮で不衛生だ。
計算と管理に長けた君のような紳士には、安全な後方陣地で兵站の心臓部を守ってもらいたい。
大砲の弾が飛んでくるような泥まみれの前線は、私や下士官たちが引き受けよう」
「後方の……総責任者、ですか」
グレンジャーの顔に、隠しきれない安堵の色が広がった。砲弾に怯えることなく、それでいて「総責任者」という立派な肩書きが手に入るのだ。
「謹んでお受けいたします、大尉殿! このグレンジャー、後方の守りは鉄壁にしてみせます!」
「頼もしい限りだ。それから……」
パーシバルは声を潜め、親しげにグレンジャーの肩に手を置いた。
「部隊を維持するには、軍の支給品だけでは兵士の士気が保てない。君の実家は裕福だと聞いているが、もし可能なら、故郷のお父上に頼んで、上質な毛布やブーツ、それに少しばかりのポートワインやジャムなどを『部隊への寄付』として送ってもらえないだろうか?
もちろん、連隊長殿には『グレンジャー中尉からの多大な貢献』として私がしっかりと報告しておく」
「寄付、でありますか? ええ、もちろんですとも! 父も息子の部隊のためとなれば、喜んで資金を出しましょう!」
グレンジャーは誇らしげに胸を叩いた。
パーシバルは心の中で冷たく笑った。実家からの寄付物資を利用すれば、中隊の維持費を大幅に節約できる。面倒な事務仕事と物資の管理を彼に押し付け、さらに金蔓として徹底的に利用し尽くす。
人間関係の摩擦や個人の性格の欠陥は、感情で処理するものではない。利益を生むように配置し、管理するだけのことだ。
パーシバルが新体制の構築をこれほどまでに急いだのには、明確な理由があった。
歴史の知識が、彼の脳裏で強く警鐘を鳴らしていたのだ。
冬が明け、再び戦いの季節がやってくれば、ウェリントン将軍はこれまでにない規模の大攻勢に出る。スペイン北部、ビトリアという地で、フランス軍との決戦が行われるはずだ。
そしてその戦いは、単なる領土の奪い合いではない。フランス軍が数年間にわたってイベリア半島から略奪し尽くした、想像を絶する莫大な金銀財宝や美術品が、戦場に集結することを彼は知っていた。
「準備は整った」
誰もいなくなった執務室で、パーシバルは一人、壁に掛けられたイベリア半島の地図を見つめた。
その視線の先は、遥か北東、ビトリアの平原へと向けられている。
軍隊という組織を操る権限、資金、そして兵站網。
この数年間で培ったすべての力を動員し、来るべき歴史的イベントから最大の利益――単なる金貨の重さではなく、生涯を裏打ちする絶対的な『名誉と信用』――をもぎ取るために、若き大尉は静かに爪を研ぎ澄ませていた。
■ビトリアの黄金と最大の投資(1813年6月)
1813年6月21日、スペイン北部ビトリア。
長きにわたる半島戦争において、最も決定的な一日が幕を閉じようとしていた。
ウェリントン将軍率いるイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍は、ナポレオンの兄でありスペイン王を僭称するジョゼフ・ボナパルトの軍隊を、ビトリアの盆地で完全に包囲し、粉砕した。
フランス軍は組織的な抵抗能力を失い、東方のピレネー山脈へ向けて蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
だが、この戦いの真の特異性は、フランス兵の死傷者の数ではなかった。
盆地からフランス国境へと続く街道に、信じがたい光景が広がっていたのである。
ジョゼフ・ボナパルトがマドリードから逃亡する際、フランス軍が数年間にわたってイベリア半島全土から略奪し尽くした金銀財宝、美術品、王室の宝飾品、そしてフランス本国から届いたばかりの莫大な軍資金。
それらすべてを詰め込んだ、およそ3000台にも及ぶ巨大な輜重車列が、交通渋滞によって完全に立ち往生し、戦場に置き去りにされていたのだ。
その総額は、控えめに見積もっても150万ポンド以上。
一等戦列艦の建造費がおよそ10万ポンド、15隻の一等戦列艦を建造できる額であり。
1813年のイギリスの国家税収は約7,000万ポンドであることを考えると税収の約2%に匹敵する。
現在の価値に換算すれば、途方もない富が、泥だらけの街道に無防備な姿を晒していた。
「……神よ、これは何かの幻か?」
夕闇が迫る中、王立輸送部隊第13中隊長、パーシバル・シャルトン大尉は馬上で息を呑んだ。
彼の視線の先では、大英帝国が誇る規律正しき赤軍服の兵士たちが、まるで血に飢えた獣のように馬車群へと群がっていた。
戦勝の歓喜と極度の疲労、そして目の前に積まれた莫大な富。それらが混ざり合い、兵士たちの理性を完全に焼き切ってしまったのだ。
「開けろ! 斧を持て、木箱を叩き割れ!」
「金だ! フランスの金貨が山ほどあるぞ!」
怒号と歓声が入り交じる。兵士たちは銃の台尻で馬車の扉を破壊し、手当たり次第に財宝を引きずり出していた。
泥水の中には、銀の燭台や黄金の十字架が転がり、スペイン王室のコレクションであったゴヤやベラスケスの名画が、雨避けのキャンバス代わりに乱暴に引き裂かれている。
馬車の積荷の多くは高級なワインやブランデーの樽でもあった。
兵士たちは銃剣で樽の腹を突き破り、流れ出す酒を軍帽ですくって飲み干し、そのまま泥の中で酔い潰れていった。
指揮官たる士官たちがサーベルを抜いて制止しようとするが、狂乱の渦に巻き込まれ、もはや誰の耳にも命令は届かない。
ウェリントン将軍の精強なる軍隊が、一夜にして宝の山に群がる強盗集団へと成り下がった歴史的瞬間であった。
そこへ、泥にまみれた伝令の騎兵がパーシバルの元へ駆け込んできた。
「シャルトン大尉殿! 軍司令部からの緊急命令です!」
伝令の声は、周囲の狂騒に掻き消されんばかりに上ずっていた。
「ウェリントン将軍は激怒しておられます! 略奪を即座に中止させ、軍資金を回収せよとのこと! だが、憲兵隊の手には負えません。
将軍は、最も後方で規律を保っている貴官の輸送中隊に、戦利品の即時確保と国庫への輸送を命じられました!」
この大勝利の功績により、「公爵」の称号を約束されたウェリントンであったが、今や彼の軍隊は追撃もままならない烏合の衆と化している。
軍の生命線である軍資金すら、味方の兵士に奪われているのだ。司令官の怒りは想像に難くない。
「了解した。ウェリントン将軍に伝えよ、第13中隊は直ちに事態の収拾に当たる、と」
パーシバルは伝令を帰すと、中隊の先任下士官であるサイモン軍曹を呼んだ。
「軍曹! グレンジャー中尉は後方の野営地に残し、動ける荷馬車をすべて前へ出せ。ラバ引きたちにも武装させろ。我々はこれより、友軍から財宝を奪い返す!」
「了解! だが大尉殿。あいつら、完全に眼の色が変わってますぜ。下手をすりゃ撃ち合いになります」
「構わん。空砲で威嚇しろ。それでも退かなければ、頭上を撃て」
パーシバルは愛馬に鞭を入れ、中隊を率いて地獄絵図と化した馬車列の中心部へと突入していった。
「どけ! 王立輸送部隊だ! 司令官閣下の命令である! 馬車から離れろ!」
パーシバルはサーベルを抜き放ち、略奪に夢中になっている歩兵の群れを馬で蹴散らした。サイモン軍曹率いる輸送兵たちが、次々と馬車の周囲に陣形を敷き、銃剣を突きつけて味方の兵士たちを押し留める。
だが、目の前の莫大な富は、パーシバルの部下たちの心をも激しく揺さぶっていた。
馬車の一つから、重々しい鉄張りの金庫が転げ落ち、衝撃で蓋が開いた。
中から溢れ出したのは、眩いばかりに輝く金貨の山だった。
「だ、旦那様……」
パーシバルの傍らにいた従卒のスローターが、泥にまみれた金貨の山を見て喉を鳴らした。
普段は抜け目なく立ち回る彼でさえ、その足はすくみ、目は黄金の光に魅入られていた。
「大尉殿……これの1箱、いや、ほんの一掴みでもくすねちまえば、俺たちは一生遊んで暮らせますぜ。
ロンドンで馬車を乗り回して、貴族みたいな生活ができる……誰も数えちゃいません、この混乱なら、ちょっと帳簿をごまかすだけで……」
従僕のウィリアムも、生唾を飲み込んでパーシバルを見た。
「スローターの言う通りです、大尉殿。他の連中のことを見てください。将校たちでさえ、マントの下に銀器を隠し持っています。我々だけが真面目ぶって貧乏くじを引くことはありません!」
二人の言葉は、この戦場にいるすべての者の本音であった。
パーシバル自身、王立輸送部隊の大尉という立場を利用し、1万ポンドや2万ポンドの軍資金を自らの軽便馬車に紛れ込ませることは、容易かった。
この数年間、彼は戦場の裏側で誰よりもしたたかに立ち回り、戦利品の横流しや穀物取引で莫大な資産を築いてきた。金に執着するなという方が無理な話である。
しかし、パーシバルは冷たく澄んだ目で二人を見下ろし、持っていたピストルの撃鉄を静かに起こした。
カチャリ、という金属音が、狂騒の中で奇妙なほどはっきりと響いた。
「ポケットに入る程度の銀の匙や、泥に落ちた小銭……その程度の役得は見逃してやる」
パーシバルは、ピストルの銃口を、開いた金庫へと向けた。
「だが、軍資金の詰まった金庫や美術品には、指一本触れるな。もし私の部下の中から、金庫に手を伸ばす者が出れば、私がこの手で撃つ」
スローターとウィリアムは、主人の発する本気の殺気に冷水を浴びせられたように身をすくませた。
「旦那様、本気ですか……? この目の前の黄金を見逃すなんて、あんた狂っちまったのか!」
「私は正気だ、スローター。だからこそ計算しているのだ」
パーシバルは馬上で姿勢を正し、泥沼の中に散らばる無数の金貨を冷徹な目で見つめた。
「よく聞け。ここで1万ポンドを盗んだとしよう。確かに一生遊んで暮らせるかもしれない。だが、どうなる?
私は一生、軍の監査官の影に怯え、横領の罪で絞首台に送られる恐怖を抱えて生きねばならない。
コソ泥として日陰を歩く人生だ。……そんなものは、ジェントルマンの生き方ではない」
パーシバルの脳内では、瞬時に巨大な天秤が揺れていた。
片方の皿には、目の前の現金数万ポンド。
もう片方の皿には、大英帝国最高の英雄となるウェリントン公爵からの「絶対的な信用とパトロネージ(後援)」。
「いいか、ウィリアム。この途方もない混乱の中で、私がこの軍資金をすべて無傷でウェリントン将軍に差し出したら、どうなると思う?
他の全将校が理性を失って略奪に走った中、ただ一人、規律を守り抜いた男として、私の名は彼の脳裏に永遠に刻み込まれる。
ウェリントン将軍からの個人的な恩義と絶対的な信用。これ以上の『無形の資産』がこの世にあるか?」
パーシバルはサーベルを高く掲げた。
「目先の小銭に目を眩ませるな!
最高の投資とは、誰もが見向きもしない時に、最も価値のあるものを買収することだ。
私は今日、このビトリアの地で、大英帝国の未来の権力者からの『信用』を買い占める!
誰にも邪魔はさせん!」
その声には、単なる欲得を超越した、冷酷なまでの合理性と野心が満ちていた。
スローターとウィリアムは、主人のその異様なまでの凄みに圧倒され、もはや反論する言葉を失った。
「……分かりやした、大尉殿。あんたがそこまで言うなら、俺たちは死ぬ気でこの宝の山を守り抜きますよ」
スローターは唾を吐き捨て、マスケット銃を構え直した。
「第13中隊、円陣を組め! 荷馬車群を包囲しろ! 近づく者は味方であっても容赦なく撃て!」
パーシバルの号令が夜の戦場に響き渡る。
泥にまみれながら、輸送兵たちは略奪兵たちの前に立ちはだかった。
同胞同士の罵声と怒号が飛び交い、時には空砲が放たれた。
酔い狂った歩兵たちが銃剣で突っ込んでくる場面もあったが、パーシバルは怯むことなく馬を走らせ、自らピストルを発砲して暴徒を退けた。
一晩中続いた狂乱と暴動の中、パーシバル率いる第13中隊は、一睡もすることなく孤軍奮闘を続けた。
彼らは血走った目で黄金の山を守り抜き、泥の中から重い鉄の金庫を引き上げ、破かれたキャンバスの下から無造作に放り出された王室の絵画を慎重に回収していった。
数日後。
ようやく軍の憲兵隊が到着し、狂気から覚めた兵士たちが疲労困憊して野営地に戻る頃、ビトリアの戦場は嵐の後のような静寂に包まれていた。
フランス軍が残していった150万ポンドとも言われる財宝の多くは、悲しいかな、イギリス軍兵士たちのポケットの中に消え、あるいはスペインの山賊たちの手に渡ってしまった。
しかし、ウェリントン将軍の司令部前に整列した第13中隊の荷馬車群には、奇跡とも呼べる成果が積み上げられていた。
厳重に封印された軍資金の金庫群。
そこには、金貨や銀貨が手付かずの状態で保管されている。
さらに、スペイン王室のコレクションであった貴重な絵画や装飾品が無傷で回収されていた。
パーシバルが提出した目録によれば、その総額は約30万ポンド相当。
略奪の嵐が吹き荒れたビトリアにおいて、これだけの莫大な国庫財産を完全に保全し、輸送に成功したのは、全イギリス軍の中でパーシバル・シャルトン大尉の率いる部隊ただ一つであった。
泥に塗れた軍服のまま、パーシバルは野戦司令部の天幕を見上げた。
彼の懐には、略奪した金貨は一枚たりとも入っていない。
だが、彼がこの数日間で手にした「見えざる富」は、彼がこれまでの人生で稼ぎ出したすべての資産を合わせたよりも、遥かに巨大で、重い価値を持っていた。
歴史上最大の略奪戦の裏で、若き大尉は、最も巨大な「投資」を完了させたのである。
■鉄の公爵と名誉少佐への推薦(1813年夏)
1813年の夏。
スペイン北部のビトリア盆地を吹き抜ける風には、まだ硝煙と血の匂い、そして祭りの後のような奇妙な熱気が混じっていた。
歴史的な大勝から数日が経過したものの、連合軍の野営地は依然として異様な空気に包まれていた。
フランス軍が置き去りにした150万ポンド以上とも言われる莫大な財宝の略奪に走った兵士たちは、二日酔いと憲兵隊による厳罰に怯え、陣地には重苦しい沈黙が落ちていた。
規律を取り戻すため、あちこちで鞭打ちの刑が執行され、最悪の略奪者は絞首台へと送られていた。
その泥と混乱にまみれた野営地の中央、小高い丘の上に、アーサー・ウェルズリー(この戦勝の報により、間もなくウェリントン公爵となる男)の野戦司令部が設営されていた。
「王立輸送部隊、第13中隊長、パーシバル・シャルトン大尉。司令官閣下の命により出頭いたしました」
パーシバルは、泥を完璧に拭い落とし、真新しい金モールを輝かせた礼装で天幕の入り口に立った。
副官に案内されて中に入ると、そこは外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
装飾品は1つもない。野戦用の簡素な折り畳み机の上には、ピレネー山脈へと続く広大な地図と、死傷者の報告書、そして弾薬の残量を示す無数の書類が山積みになっている。
その机の奥に、大英帝国が誇る不敗の将軍が座っていた。
鷲のような鋭い鼻梁、氷のように冷たく、すべてを見透かすような青い瞳。
後に「鉄の公爵」と呼ばれることになる男の放つ威圧感は、パーシバルがこれまで対峙してきたロンドンの銀行家や、強欲な商人たちのそれとは次元が違った。
国家の命運を両肩に背負い、何万人もの命を盤上で動かす者だけが持つ、絶対的な冷酷さと孤独がそこにあった。
「シャルトン大尉か。入れ」
ウェリントンは羽ペンを置き、鋭い視線を真っ直ぐにパーシバルへ向けた。
「はっ。閣下のご命令通り、戦場に遺棄されていた軍資金および重要美術品の確保、ならびに国庫への輸送準備が完了いたしました。こちらがその目録となります」
パーシバルは軍帽を小脇に抱え、革張りの分厚い帳簿をウェリントンの机の上に差し出した。
ウェリントンはそれを手に取り、無言でページを捲った。そこには、金貨、銀貨、フランス軍の軍資金箱、そしてスペイン王室から略奪されていた絵画や宝飾品が、1点の狂いもなく完璧な筆記体で記録されていた。
総額はおよそ30万ポンド相当。あの狂乱の戦場から、これだけの国庫財産を無傷で引き上げたのは奇跡に近い。
「……私の兵は、地上最悪のクズどもだ」
ウェリントンは帳簿から目を離さず、吐き捨てるように言った。
「酒と金のためなら軍規も名誉も忘れる。あのビトリアの夜、私の軍隊はただの強盗集団に成り下がった。
……だが、君のように私欲を抑えられる将校がいたとは驚きだ。
聞いたところによれば、君は部下に銃を向け、自らピストルを発砲してまで味方の略奪兵から金庫を守り抜いたそうだな。
1ポンドも盗まなかったのか?」
将軍の青い瞳が、パーシバルの心の奥底を射抜くように細められた。
並の将校であれば、ここで「すべては国王陛下と閣下への忠誠のためです」と模範的な返答をするところだろう。
だが、パーシバルは違った。相手が真の合理主義者であることを、彼は歴史の知識と、目の前にある書類の山から理解していた。
偽善は通用しない。
「私欲がないわけではありません、閣下」
パーシバルは背筋を伸ばし、澄み切った声で答えた。
「私はただ、目の前の金貨よりも、閣下からのご評価の方が価値があると計算したまでです。
あの場で1万ポンドを懐に入れれば、私は一生コソ泥の恐怖に怯えて暮らすことになります。
しかし、これをすべて無傷で閣下に差し出せば、私は大英帝国の司令官からの信用を得ることができる。
……私にとって、信用こそが最高の資産なのです」
ウェリントンは、その言葉を聞いて僅かに目を見開いた。
名誉や忠誠といった美辞麗句ではなく、冷徹な「投資対効果」としての規律。
軍人というよりは、シティの老練な銀行家のようなその露悪的で正直な返答に、鉄の将軍は微かに口角を上げた。
「……面白い男だ。君のその計算高い頭脳は、前線で剣を振り回す騎兵将校どもより余程役に立つ」
ウェリントンは帳簿をパタンと閉じた。
「飢えた軍隊は戦う前に負ける。大砲がいくつあろうと、兵士の胃袋が空であれば戦線は崩壊する。
ビトリアの勝利は、歩兵の銃剣だけで得られたものではない。
君の部隊が泥まみれになって運んだ靴とパン、そして馬の飼料が、この勝利を作ったのだ。
私はそのことを誰よりも理解しているつもりだ」
パーシバルは、胸の奥で静かな戦慄を覚えた。
華々しい戦術や英雄的な突撃ばかりが語られる戦争において、この総司令官は「靴とパン」の重要性を最も高い次元で理解している。ウェリントンが不敗であり、歴史に名を残す真の理由はここにあるのだ。
兵站への異常なまでの執着と理解。
パーシバルは、自分と同じ「数字と物資」の価値を知る究極の実務家が目の前にいることに、深い共鳴を覚えた。
「シャルトン大尉。君の部隊が運んだ物資と、この目録に記された30万ポンドの金貨は、今後のピレネー越えとフランス本土への侵攻において、我が軍の巨大な推進力となる。
この働きに対し、単なる給金の増額で報いるのは、君の『計算』に合わないだろう」
ウェリントンは立ち上がり、パーシバルの前に歩み寄った。
「私は本国の陸軍省に対し、貴官を『名誉少佐(Brevet Major)』に推挙する書簡を送る。
……この狂乱の戦場において、君が示した完璧な規律と高潔さへの対価だ」
「名誉少佐……」
パーシバルは、その言葉の重みに息を呑み、深く、完璧な敬礼を捧げた。
「身に余る光栄に存じます、閣下。
このシャルトン、いかなる泥濘の道であろうと、閣下の軍隊の胃袋を満たすため、全力を尽くす所存です」
「期待しているぞ、シャルトン少佐。下がってよろしい」
天幕を出たパーシバルは、眩しい夏の日差しに目を細めた。
背中は冷や汗で濡れていたが、彼の足取りはこれまでにないほど力強かった。
野営地に戻ると、彼専用の天幕で従僕のウィリアムとスローターが待ち構えていた。2人は、主人が司令官からどのような処分(あるいは褒賞)を受けて帰ってくるのか、気が気ではなかったのだ。
「旦那様! お戻りになられましたか。首は……ちゃんと繋がってますね?」
スローターが恐る恐る尋ねる。
パーシバルは軍帽を机に置き、椅子に深く腰掛けた。
「ああ。繋がっているどころか、新しい肩書きを手に入れられそうだ」
「肩書き、ですか? 大尉殿の上に、まだ何かあるんですか?」
ウィリアムが戸惑いながらグラスを用意する。
「『名誉少佐(Brevet Major)』だ」
パーシバルがその名を口にすると、ウィリアムの手が止まった。
「少佐……?
ちょっと待ってください、旦那様。
大尉の階級を金で買って中隊長になったのは、ほんの数ヶ月前じゃありませんか。
また金を払って階級を買ったんですか? いくらなんでも早すぎます!」
「違う、ウィリアム」
パーシバルは紅茶を入れたカップを傾け、琥珀色の液体を見つめた。
「名誉少佐というのは、金では買えない階級だ。
購入制度の枠外にある、軍司令官の特別な推挙と国王陛下の承認によってのみ与えられる特権だ。
ウェリントン将軍からの推薦で順調に進めば連隊内での私の役職は第13中隊長(大尉)のままだが、陸軍全体の中での公式な身分は『少佐』として扱われることになる」
ウィリアムとスローターは顔を見合わせた。
庶民の彼らには、その複雑な階級制度の真の価値がまだピンときていないようだった。
「いいか、2人とも。これがどれほど巨大な意味を持つか教えてやろう」
パーシバルは紅茶を飲み干しカップ机にを置き、静かな、しかし熱を帯びた声で説明を始めた。
「私は1500ポンドという『金』を使って大尉の地位を買った。
金さえ積めば、無能な貴族の三男坊でも手に入る階級だ。
だが、この名誉少佐は違う。大英帝国の英雄であるウェリントン将軍が、私の高潔さと軍人としての規律を認め、自らの名に懸けて推挙してくれたという絶対的な証明だ」
パーシバルは立ち上がり、天幕の入り口から見える広大な軍営を見渡した。
「イギリスのジェントリ社会において、成金の商人はいくら金を稼いでも、背後で成り上がり者と嘲笑われる。
だが、20代前半でウェリントン将軍から名誉少佐に推挙されたエスクワイア(郷紳)の息子を、誰が笑える?
私はこれで、単なる金持ちではなく、いかなる貴族のサロンでも上座に座れる『盤石の名誉』を手に入れたのだ」
スローターが、呆然とした顔で呟いた。
「……あの夜、目の前にあった金庫の山を見逃したのは、このためだったんですかい」
「そうだ。目先の30万ポンドを盗めば、私は一生コソ泥だ。
だが、誠実さという『無形の資本』をウェリントン将軍に投資した結果、私は金では決して買えない、大英帝国における究極の信用と地位を手に入れた」
パーシバルは振り返り、2人の従僕に向かって不敵に笑った。
「投資の基本は、複利で回すことだ。
私はこれまで戦場で稼いだ『金』を使って大尉の地位という元本を作り、あのビトリアの夜、『誠実さ』という投資を行うことで、名誉少佐という莫大な利子を引き出した。
……これぞ、最高のビジネスだと思わないか?」
「……恐れ入りやした」
スローターが降参したように両手を上げ、ウィリアムも呆れたように笑いながらグラスを掲げた。
「では、我らが悪魔のような名誉少佐殿の、輝かしき未来に乾杯を」
「ああ、乾杯だ」
アルコール度数が高い酒が苦手なパーシバルは、紅茶のカップを掲げて乾杯を行った。
(第6章 完)
年度末の業務多忙により更新頻度が下がります。
申し訳ございません。




