第十五話 逃げる背中
誰もいなくなった通路は、驚くほど静かだった。
罠はそのまま。
壁もそのまま。
血の匂いだけが、薄く残っている。
……いや。
匂いが残っているように、感じるだけだ。
実際には、何も残っていない。
俺は、動かない。
動けない。
ただ、考えている。
「……撤退、か」
冒険者たちは正しい判断をした。
負傷者を連れて、無理をしなかった。
誰も死んでいない。
命は失われていない。
――だから、これは「勝利」だ。
ダンジョンとして見れば。
壁として見れば。
侵入者を追い返した。
奥へは進ませなかった。
被害は、相手側に出た。
成果としては、十分すぎる。
なのに。
「……何も、嬉しくないな」
達成感がない。
高揚感もない。
第7話でガルドが転んだ時の、
あの小さな快感とは、まるで違う。
今回は、
「うまくいった」と理解できるのに、
「よかった」とは思えない。
俺は、
逃げていく背中を“見て”いた。
実際に見えてはいない。
でも、振動と距離でわかる。
引き返す足音。
慎重で、重たい足取り。
それは――
諦めの音だった。
「……追い返した、んだよな」
自分に言い聞かせる。
ここはダンジョンだ。
冒険者は侵入者だ。
追い返されるのは、当たり前。
誰かが怪我をするのも、
想定内のリスク。
……頭では、わかっている。
だが。
「……俺、何を守った?」
ダンジョン?
自分?
それとも、
ただ“壊されない未来”?
考えても、答えは出ない。
ただ一つ、確かなことがある。
俺は、
あの瞬間――
止めなかった。
落ちるとわかっていた。
怪我をするとわかっていた。
それでも、
選ばせた。
「……逃げたんだな」
誰かを助ける選択から、
逃げた。
でも同時に。
壊される未来からも、
逃げた。
どちらが正しいかなんて、
今はわからない。
ただ、
どちらも“正義”じゃない。
世界は、静まり返っている。
次に誰かが来るまで、
また、長い無が続く。
だが――
この無は、違う。
もう、
「待っているだけ」じゃない。
俺は、
次を考えてしまっている。
次は、
どこで。
どうやって。
どこまでやるか。
「……慣れるなよ」
自分に、言い聞かせる。
今日感じた重さを、
忘れるな。
忘れたら、
次は、もっと簡単に
人を壊す。
それだけは、
嫌だ。
だが。
そう思っている自分が、
すでに一歩、
危険な場所に立っていることも――
わかっている。
俺は、壁だ。
逃げる背中を、
追うことはできない。
引き止めることも、
助けることもできない。
ただ、
そこに在り続けるだけだ。
そして――
次に来る誰かにとって、
俺はまた、
「越えるべき壁」になる。
それが、
俺の役割だ。
世界は、無に沈む。
だが、
その無の底で、
何かが、確実に変わっていた。
戻れない場所へ、
少しずつ、
近づいている。
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