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嫡男ですが、無能な父と合法的に縁を切り、静かに子爵位を奪いました

静かなざまぁと、知性による逆転劇です。

感情的な復讐ではなく、手続きと計算で父を追放します。


彼は嫡男として育てられたが、甘やかされたその身に責任という概念はなかった。

学問は身につかず、貴族の学園にも入れず、王都の上流平民向け学校で持て囃されて生きてきた男――ウルフ・グーテマン。

母はすでに亡く、父もまた息子を諫める存在ではなかった。

それでも彼は嫡男であり、子爵位を継ぐことだけは約束されていた。

「相応しい妻が必要だ」

そうして白羽の矢が立ったのが、三女のソニアだった。

だが、ソニア自身がウルフを望んだことは一度もない。

条件を満たす中で選ばれた、ただの妥協。

ウルフにとって結婚とは、体裁を整えるための飾りに過ぎなかった。

そして数か月ぶりに、ウルフは屋敷へ戻ってきた。

腕に絡ませていたのは、愛人の女――ルシア。

「娼館で一番人気のルシアが、俺の子を産んでくれるらしい」

その言葉に、ソニアと息子リッツは眉をひそめた。

「帰ってきて早々、何を仰いますか」 ソニアは穏やかに言う。 「リッツはすでに領地経営に関わっています」

ウルフは鼻で笑った。 「お前たちでは子爵領は発展しない。だから、より貴族らしい女に子を産ませた」

浅ましい誇りが、声に滲んでいた。

リッツが静かに口を開く。 「母は王都の学園で上位成績を修めています。

父上は、どちらの学校に通われていたのですか?」

次の瞬間、机の茶器が床に落ちた。

「黙れ!」

怒声が響いても、使用人は誰一人動かない。

ルシアでさえ、ただ戸惑うだけだった。

「話を進めよう」 ウルフは言った。 「二週間の猶予をやる。荷物をまとめろ。慰謝料は不要だ」

「承知しました」 ソニアは淡々と頷いた。

二週間後。

ウルフは勝ち誇った顔で屋敷に現れた。

だが、用意されていたのは離縁届と、絶縁状だった。

「血縁関係を完全に解消するための書面です」 リッツが静かに説明する。

金銭の請求も、権利の主張もない。

ウルフは一瞬訝しんだが、すぐに笑った。

「面白い」

ペンを取る。

――その先端が、わずかに震えた。

署名が終わった瞬間、家令が告げる。

「屋敷を出て行くのは、あなたです」

ウルフは理解できずに固まった。

「未成年当主の特例です」 ソニアが続ける。

リッツは静かに微笑んだ。 「ウルフ・グーテマン子爵。

――今、その地位にあるのは私です」

空気が止まった。

ルシアの悲鳴も、ウルフの呻き声も、遠く聞こえるだけだった。

「穏便に処理します」 ソニアの声は優しい。 「これ以上、私たちの生活を乱す権利はありません」

ウルフは何も言えず、屋敷を出た。

背後で扉が閉まる音が、すべての終わりを告げていた。

夜、雪が静かに降り積もる。

書斎で書類を整えるリッツに、ソニアは言った。 「これで、ようやく私たちの時間ですね」

「ええ」 リッツは頷く。 「秩序は、守られました」

屋敷は静かだった。

そこに残ったのは、知性と計算によって築かれた、確かな支配だけだった。




第二話 社交界――静かな当主の初陣


 子爵家の朝は静かだった。  当主が変わったからといって、屋敷の空気が騒がしくなることはない。むしろ、余計な雑音が消え、歯車が正しい位置に収まったかのような静謐があった。


 リッツ・グーテマンは書斎の机に向かい、領地の収支表を確認していた。数字は正直だ。無駄な出費、理由のない支出、そして長年放置されてきた歪みが、紙の上ではっきりと姿を現している。


「やはり、社交費が異常ですね」


 ソニアが紅茶を置きながら言った。


「父……いえ、前当主は、社交を浪費と混同していましたから」


 リッツは淡々と答える。感情は混ざらない。過去は検証対象であり、評価の材料に過ぎなかった。


「本日、王都の夜会ですね」


「ええ。招待状はすでに届いています。出席しない、という選択肢もありましたが」


 リッツはペンを置いた。


「出ます。今後を考えれば、最初の一歩は重要です」


 社交界は戦場だ。剣も魔法も使われない代わりに、言葉、視線、噂、序列が飛び交う。  そして何より、新しい当主は必ず値踏みされる。


 *


 王都中央、白亜の大広間。  夜会はすでに始まっていた。


 貴族たちの笑顔は一様に柔らかいが、その目は鋭い。誰が強く、誰が弱く、誰が利用できるか――無言の品定めが、酒と音楽の裏で進行していた。

 リッツは広間の入口で一度だけ全体を見渡し、すぐに視線を落とした。誰かと目を合わせるためではない。位置関係と動線を把握するためだ。

「……思ったより静かですね」

 隣でソニアが小声で言う。

「嵐の前だからでしょう」

 リッツはそう返し、歩き出した。

 新当主が現れた、という情報はすでに広間の端から端まで行き渡っている。だが、誰もすぐには声をかけてこない。探り合いだ。

「グーテマン子爵家当主、リッツ・グーテマン様ですね?」

 最初に声をかけてきたのは、中年の男爵だった。柔らかな物腰、しかし視線は爬虫類のように冷たい。

「ええ。初めまして」

「これはこれは。お若い当主だ。前当主様とは、長年お付き合いがありましてな」

 ――来た。

 リッツは一瞬で理解する。

 これは「旧体制との関係」をちらつかせる牽制だ。

「そうでしたか。前当主の時代のご交誼は、すべて記録で拝見しました」

 男爵の眉がわずかに動く。

「記録、ですか」

「はい。ですので、今後の関係は、改めて築ければと思います」

 丁寧で、しかし完全に線を引く言葉だった。

 男爵は一瞬言葉を失い、すぐに作り笑顔を作る。

「……なるほど。これは失礼しました」

 男爵が去ると、ソニアが小さく息を吐いた。

「ずいぶん、はっきり言いましたね」

「曖昧にすると、付け込まれます」

 リッツはグラスにも手を伸ばさない。飲めば気が緩むし、噂になる。

 次に近づいてきたのは、若い伯爵令嬢だった。周囲に控える視線の数が多い。彼女自身が“情報源”なのだ。

「リッツ様。お噂はかねがね」

「悪い噂でなければ幸いです」

「ふふ、当主交代は、いつも話題になりますもの」

 探るような笑顔。

 リッツは少しだけ首を傾げた。

「話題になるということは、注目されているということですね」

「……ええ」

「では、その期待に応えられるよう、努力いたします」

 褒めも謙遜も、過剰にしない。

 令嬢は一瞬だけ戸惑い、そして興味深そうに微笑んだ。

「ずいぶん、冷静な方なのですね」

「感情は、交渉に不向きですから」

 その言葉に、周囲の貴族たちの空気が変わる。

 ――この新当主は、甘くない。

 リッツはそれを、はっきりと感じ取った。

 今夜、この場で勝つ必要はない。

 ただ、「侮れない」と思わせれば、それで十分だ。

 社交界という戦場で、剣を抜かずに勝つ。

 それが、彼の初陣だった。



その男は、最初から視界に入っていた。

 広間の中央ではなく、壁際。

 誰とも群れず、しかし誰からも無視されていない位置。

 年齢は三十代半ば。仕立ての良い礼服だが、華美さはない。唯一目を引くのは、薄く笑みを刻んだまま動かない口元だった。

「……あの方は?」

 ソニアが、気づかれない程度に囁く。

「ハイター公爵家当主補佐。王都社交界では、裏の調整役として有名です」

「補佐、ですか」

「ええ。当主より、影響力があると噂される人物です」

 その瞬間だった。

 視線が、絡んだ。

 正確には――絡められた。

 ハイターの目は、まるで最初からそこに標的があると知っていたかのように、迷いなくリッツを捉えていた。

 彼はゆっくりと歩み寄ってくる。

 足取りは軽く、しかし距離感を完璧に計算している。

「初陣、お見事でしたね。グーテマン子爵」

 初対面で、敬称だけを使う。

 距離を測るための呼び方だ。

「どのあたりが“お見事”でしたか?」

 リッツは即座に返す。

 褒めを受け取らず、評価基準を相手に明示させる。

 ヴァルターは楽しそうに目を細めた。

「旧当主派を切り捨て、新規の同盟にも安易に手を伸ばさない。

 それでいて、敵を作らない言い回し。実に――合理的だ」

「観察がお好きなのですね」

「生業ですから」

 彼はワイングラスを揺らしながら言う。

「ですが、ひとつだけ計算違いがあります」

「伺いましょう」

「あなたは“静かすぎる”」

 その言葉に、ソニアがわずかに身構えた。

 だがリッツは、表情一つ変えない。

「静かな人間は、退屈ですか?」

「いいえ。危険です」

 ハイターは即答した。

「感情で動かない者は、恐れも期待も利用できない。

 それはつまり――王都では、最も扱いづらい」

 周囲の空気が、薄く凍る。

「それでも、興味を持たれた理由は?」

「単純ですよ」

 ハイターは、初めて一歩、距離を詰めた。

「あなたは、まだ何も“欲しがっていない顔”をしている」

 その言葉は、剣より鋭かった。

 多くの貴族は、権力、金、人脈、名声。

 何かを欲し、それを隠そうとする。

 だが、リッツにはそれがない。

「……それが、危険だと?」

「ええ。欲のない人間は、どこに転ぶかわからない」

 ハイターは微笑む。

「敵にも、味方にも、なり得る」

「でしたら」

 リッツは、静かに言った。

「今夜の私は、どちらに見えますか?」

 一瞬。

 ハイターの笑みが、わずかに深くなった。

「――まだ、決めかねています」

 その答えに、リッツは頷いた。

「それで結構です。私も、あなたを同じように見ていますから」

 初めて、ハイターが声を立てて笑った。

「はは……なるほど。これは面白い」

 彼は一礼し、踵を返す。

「いずれ、また。必ず」

 その背中を見送りながら、ソニアが低く言った。

「……危険ですね」

「ええ」

 リッツは視線を戻す。

「ですが、避けられない相手です」

 社交界の裏で糸を引く者。

 そして――リッツの静けさに、初めて“本気の興味”を向けた男。

 夜会はまだ終わらない。

 だが、この出会いこそが、後に王都を揺らす一手になることを、リッツは直感していた。


その男は、最初から視界に入っていた。

 広間の中央ではなく、壁際。

 誰とも群れず、しかし誰からも無視されていない位置。

 まるで社交界そのものを、少し離れた場所から眺めているかのようだった。

「……あの方は?」

 ソニアが、気づかれないように囁く。

「ハイター・クロイツ。クロイツ公爵家当主補佐です。

 表に出ることは少ないですが、王都の調整役として知られています」

「補佐、ですか」

「ええ。当主より彼の判断が通る、という噂も」

 その瞬間だった。

 視線が、絡め取られた。

 ハイターの目は、最初からリッツの存在を知っていたかのように、迷いなくこちらを見ている。

 品の良い微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「初陣、お見事でしたね。グーテマン子爵」

 親しげだが、距離を詰めすぎない声。

「どの点を評価していただけたのか、興味があります」

 リッツは即座に返す。

 褒めを流さず、基準を言葉にさせる。

「旧当主の影を否定せず、しかし引きずらない。

 味方も敵も、まだ決めない態度。実に――長期戦向きだ」

「短期決戦はお好みではないので」

「でしょうね」

 ハイターは楽しそうに笑う。

「ですが、あなたは静かすぎる」

「よく言われます」

「ええ。静かな人間は、予測が難しい」

 彼はワイングラスを揺らしながら、低く続けた。

「欲が見えない。恐れも、焦りも。

 それは王都では、最も危険な部類です」

「危険視されるのは、光栄ですね」

「褒めているつもりですよ」

 ハイターは一歩、距離を詰めた。

 その動きは自然で、しかし逃げ道を潰す角度だった。

「あなたは、まだ何も“欲しがっていない”」

 その一言に、空気が張りつめる。

「人は欲で縛れます。

 金、地位、愛情、復讐――ですがあなたには、それが見えない」

「では」

 リッツは静かに問い返す。

「あなたは、何を欲しているのですか?」

 一瞬。

 ハイターの目が、わずかに細くなった。

「……面白い質問だ」

 彼はすぐに微笑みを取り戻す。

「私はね、“退屈しない盤面”が好きなんです」

 正直な答えだった。

「あなたが当主になってから、王都は少しだけ静かになった。

 それが、気に入らない」

「騒がしい方がお好きですか?」

「ええ。人の本性が見えるので」

 二人の間に、短い沈黙が落ちる。

「今夜の私は、敵に見えますか?」

 リッツが問う。

「いいえ」

 ハイターは即答した。

「まだ、味方でもない」

 その曖昧さが、答えだった。

「あなたが何かを欲した時、私は必ずそこにいます。

 それが救いか、破滅かは――その時次第ですが」

 彼は一礼し、離れていく。

 背中越しに、低い声が残された。

「静かな当主様。

 あなたがいつ“人間らしくなる”のか、楽しみにしていますよ」

 去った後、ソニアが息を吐く。

「……相当、厄介ですね」

「ええ」

 リッツは視線を落とした。

「ですが、彼は嘘をついていない」

 それが、何より危険だった。

 ハイター・クロイツ。

 味方でも敵でもないまま、じわじわと盤面を揺らす宿敵。

 この夜会で得た最大の収穫は、

 “倒すべき相手”ではなく、“無視できない存在”を知ったことだった。



静かな援助――貸しを作らない男



 改革は、音を立てずに始まった。

 リッツは当主として、まず領地の内部構造に手を入れた。

 過剰な社交費の削減、実体のない役職の整理、癒着の温床となっていた中間管理職の再配置。

 反発は、当然ある。

 だが奇妙なことに、「致命的な妨害」が起きなかった。

「……おかしいですね」

 執務室で、ソニアが帳簿をめくりながら言う。

「本来なら、王都から横槍が入ってもおかしくない改革です」

「ええ。誰かが、止めている」

 その“誰か”が、誰なのか。

 答えは、数日後にやってきた。

 *

 差出人不明の書簡。

 封蝋は簡素、紋章もない。

 中身は、短い一枚だった。

「西部穀物商組合。

表向きは中立、実際は旧当主派。

今回の改革に対し、王都への陳情を準備していましたが、

その動きは止めてあります。

理由は聞かない方が、互いのためでしょう。」

 署名はない。

 だが、筆跡と文の癖で、リッツにはわかった。

「……ハイターですね」

「間違いありません」

 ソニアは顔をしかめた。

「条件は?」

「書いてありません」

「余計に怖いです」

 だが、その“援助”は事実だった。

 西部からの圧力は、完全に沈黙している。

 数日後、また一通。

「南部港湾税の件。

商会側が騒ぎ始める前に、話はついています。

税率改正は予定通り進めてください。」

 それも、見返りなし。

 ソニアは我慢できず、言った。

「なぜです?

 何も要求しない援助なんて、ありえません」

「ええ」

 リッツは、机に指を組む。

「だからこそ、彼は“貸し”を作っていない」

「……?」

「貸しを作れば、返済を求められる。

 ですが、彼は最初から“借り”として認識させない」

 つまり――

 こちらが気づかなければ、それで終わる。

「気づいてしまった以上」

 ソニアが静かに言う。

「もう、盤上に乗せられている」

「ええ」

 リッツは、書簡を畳んだ。

「彼は、私の改革がどこまで進むかを見ている。

 止めるためではなく――どこまでやれる人間かを測るために」

 その夜、リッツは一人、王都の資料室に足を運んだ。

 そこにいたのは、予想通りの人物だった。

「こんばんは、静かな当主様」

 書架の影から現れた、ハイター・クロイツ。

「ずいぶん親切ですね」

「そう見えますか?」

 彼は肩をすくめる。

「私はただ、邪魔な石をどかしただけです。

 駒がどう動くかは、あなた次第」

「なぜ、そこまで?」

「理由が欲しいですか?」

 ハイターは少し考え、そして言った。

「……あなたが失敗するところを、見たくない」

 それは、嘘にも本当にも聞こえる言葉だった。

「私が成功すれば?」

「もっと面白い」

 即答だった。

「王都は、予定調和が多すぎる。

 あなたの改革は、それを壊す可能性がある」

 リッツは、しばらく黙ってから言う。

「借りは作りません」

「ええ。作らせていません」

 ハイターは、にこやかに笑う。

「だからこそ、対等でしょう?」

 その理屈が、何より厄介だった。

 助けているのに、縛らない。

 敵対しないのに、信用もさせない。

 ハイター・クロイツは、

 リッツの改革を支える影であり、

 同時に、いつでも背後から盤をひっくり返せる存在だった。

 静かな当主の改革は、

 こうして“最も危険な観客”を得たのだった。



幕間 観測者の嗜み――ハイター・クロイツ

 静かな男だ。

 それが、ハイター・クロイツの第一印象だった。

 グーテマン子爵家新当主、リッツ・グーテマン。

 若く、感情を表に出さず、王都の空気に迎合しない。

 ――嫌いじゃない。

 書斎で、ハイターは紅茶を口に運びながら、報告書に目を通していた。

 彼の仕事は、事実を集め、歪みを見つけ、必要なら“少しだけ”整えることだ。

「改革は、想定より早いな」

 領地の収支改善、商会との再交渉、無駄な役職の整理。

 どれも派手ではない。だが、確実に効く。

 普通の貴族なら、ここで一度は感情を爆発させる。

 恨み、焦り、自己顕示。

 だが、リッツにはそれがない。

 だからこそ、危険だ。

「欲が見えない人間は、壊れにくい」

 ハイターは机に指を組む。

 彼は、人が壊れる瞬間を見るのが好きだった。

 正確には――壊れる直前の、歪みが露出する瞬間。

 だが、リッツには、それがない。

「……いや」

 正確ではない。

 “まだ、見せていない”だけだ。

 だから、少しだけ手を貸す。

 邪魔な圧力をどかし、敵を減らし、盤面を滑らかにする。

 普通なら、ここで借りを意識する。

 感謝する。警戒する。疑う。

 だが、リッツは違う。

「借りを作らない、か」

 ハイターは、くすりと笑った。

「本当に、つまらないほど理性的だ」

 ――だからこそ、追い込む価値がある。

 彼は、あえて見返りを求めない。

 紐をつけない。首輪をかけない。

 自由にさせる。

 それでなお、どこまで冷静でいられるか。

「自分が“観測されている”と気づいても、態度を変えない」

 それは、実に興味深い。

 ハイターはふと、過去を思い出す。

 王都で、同じように静かな男がいた。

 ――結局、何も欲しがらないふりをして、

 最後に“世界そのもの”を欲しがった。

「君は、どこまで行く?」

 独り言は、誰にも聞かれない。

 窓の外、王都の夜景が広がっている。

 秩序と混沌が、薄い均衡で成り立つ街。

 リッツの改革は、その均衡を揺らし始めていた。

 少しずつ。

 だが、確実に。

「壊れるか、壊すか」

 ハイターは紅茶を飲み干す。

「どちらでもいい。

 面白ければ」

 それが、彼の本音だった。

 善人のふりをするつもりも、悪役を演じる気もない。

 彼はただ、結果が見たい。

 そして、その結果を最前列で眺めるためなら、

 いくらでも“親切な補佐役”を演じられる。

「静かな当主様」

 ハイターは、薄く笑った。

「あなたが感情を取り戻す瞬間を、

 私はきっと、見逃さない」

 その時――

 彼は初めて、ほんの少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。

 それが期待なのか、破滅への予感なのか、

 本人にも、まだ分からなかった。



密室――静かな当主と観測者



 その部屋に、窓はなかった。

 王城の奥、記録庫のさらに内側。

 重要文書を扱うための、小さな会議室。

 石壁は音を吸い、外の気配を完全に遮断している。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

「ここまで人払いをするとは」

 ハイターが軽く笑う。

「私を信用していないか、

 よほど大事な話か」

「両方です」

 リッツは即答した。

 椅子に座り、向かい合う。

 机の上には、書類は一切ない。

「……いいですね」

 ハイターは楽しそうだ。

「この感じ。

 ようやく“個人”として話してもらえる」

「確認したいことがあります」

「どうぞ」

 リッツは一拍置いた。

「あなたは、私が失敗しないよう手を貸している」

「ええ」

「それは、善意ですか?」

 直球だった。

 ハイターは一瞬だけ目を細め、すぐに微笑みを戻す。

「善意、という言葉を使うなら……

 半分はそう」

「残りの半分は?」

「興味」

 即答。

「あなたは、壊れにくい。

 だから壊したくなる」

 ソニアがいない密室だからこそ、

 その言葉は飾られなかった。

「……正直ですね」

「ええ。嘘をつく意味がない」

 ハイターは椅子にもたれかかる。

「あなたはもう気づいている。

 私があなたの改革を“調整”していることに」

「ええ」

「なら、なぜ止めない?」

 ハイターの視線が鋭くなる。

「あなたのやり方なら、

 私を排除することもできたはずだ」

 その問いに、リッツはすぐ答えなかった。

 沈黙。

 密室の空気が、じわりと重くなる。

「……あなたが、私を止めていないからです」

「ほう」

「あなたは邪魔をしていない。

 それどころか、道を整えている」

 リッツは、まっすぐハイターを見る。

「敵なら、排除します。

 味方なら、信用します」

「私は?」

「どちらでもない」

 その言葉に、ハイターが小さく息を吸った。

「それは、ずいぶん冷たい評価だ」

「事実です」

 リッツは続ける。

「ですが……一つだけ、違和感がある」

「聞きましょう」

「あなたは、私が“何かを欲する瞬間”を待っている」

 ハイターの笑みが、わずかに止まった。

「もし私が」

 リッツは、静かに爆弾を落とす。

「最後まで、何も欲しなかったら?」

 数秒。

 完全な沈黙。

 ハイターは、初めて言葉を選んだ。

「……それは」

 彼は、ゆっくりと口角を上げる。

「それは、私にとって最悪だ」

 はっきりした答えだった。

「観測できない。

 変化しない。

 壊れもしない」

 ハイターは、机に指先を置く。

「あなたがそういう存在なら、

 私は――あなたを揺さぶる」

「どうやって?」

「あなたが欲しがらないものを、

 無理やり“選ばせる”」

 その言葉は、脅しでも宣言でもない。

 ただの予告だった。

「例えば?」

 リッツは、目を逸らさない。

「誰かの命」

 空気が、凍る。

「あるいは、あなたの改革が救えない犠牲」

 ハイターは、穏やかな声で言った。

「どれだけ理性的でも、

 選択を迫られれば、人は感情を取り戻す」

 リッツは、しばらく黙っていた。

 そして、初めて――

 本当にわずかだが、表情を変えた。

「……それを、楽しむのですか?」

「ええ」

 ハイターは、否定しない。

「あなたが“人間”である証を、

 見たいだけです」

 長い沈黙の後、リッツは立ち上がった。

「理解しました」

「怒らないのですね」

「怒りは、まだ不要です」

 扉に手をかけ、振り返る。

「一つだけ、伝えておきます」

「何でしょう」

「私が何かを欲するとしたら」

 その声は、低く、静かだった。

「それは、誰かを守るためです」

 一瞬。

 ハイターの瞳が、確かに揺れた。

 それは、予想外だったからか。

 あるいは――期待以上だったからか。

「……いい答えだ」

 彼は、心から楽しそうに笑った。

「やはり、あなたは退屈しない」

 扉が閉まる。

 密室に残されたハイターは、

 一人、静かに呟いた。

「さて……

 どこまで守れるかな、当主様」

 その声には、

 愉悦と、ほんのわずかな苛立ちが混じっていた。



察知――彼女だけが気づいた違和感



 ソニアは、廊下で立ち止まっていた。

 理由は、はっきりしない。

 ただ、胸の奥に小さな引っかかりがあった。

「……静かすぎる」

 王城の奥。

 人払いされた区画特有の、音が死んだ空間。

 本来なら、記録庫の管理官が一人はいる。

 警備の足音も、巡回の気配もあるはずだった。

 それが、ない。

 扉の前で、ソニアは足を止める。

 中から声は聞こえない。

 だが、何かが終わった直後の空気だけが、確かに漂っていた。

 やがて、扉が開く。

 出てきたのは、ハイター・クロイツだった。

 いつもの、穏やかな笑み。

 いつもの、余裕ある歩調。

「おや」

 視線が合う。

「これはこれは。

 グーテマン家の有能な補佐官殿」

「……失礼します」

 ソニアは、丁寧に頭を下げた。

 だが、視線は外さない。

「当主と、何を?」

「少し、お話を」

 あまりに自然な答え。

 だが、軽すぎる。

「ずいぶん奥まで入られたのですね」

「重要文書の確認です。

 あなたもご存じでしょう?」

 知っている。

 だが、それは“理由”であって、“説明”ではない。

「当主は――」

「お元気ですよ」

 即答。

 そして、一拍遅れて付け足される。

「今のところは」

 その言葉に、ソニアの背筋が冷えた。

 今のところ。

 ハイターは、それ以上何も言わない。

 言わずに、通り過ぎる。

 残された空気だけが、妙に重い。

 扉の向こうへ、ソニアは足を踏み入れる。

 室内は、整然としていた。

 机の上も、椅子の位置も、何一つ乱れていない。

 だが。

「……」

 リッツは、立ったままだった。

 いつもなら、すぐに書類を手に取る。

 あるいは、椅子に座る。

 なのに今は、扉を見つめたまま、動かない。

「当主」

 呼びかけると、わずかに肩が動いた。

「ソニア。

 もう、よろしい」

 声は、いつも通り。

 だが、ほんのわずかな遅れがあった。

「……何を、話されましたか?」

 問いは、慎重に。

「重要なことですか?」

 リッツは、少し考えてから答えた。

「ええ。ですが」

 一拍。

「あなたに、すぐ伝えるべき内容ではありません」

 その言葉は、拒絶ではない。

 保留だった。

 それが、余計に重い。

 ソニアは、それ以上踏み込まなかった。

 だが、確信する。

(……当主は、脅された)

 いや、正確には違う。

(選択を迫られた)

 それが、ハイターのやり方だ。

 部屋を出た後、ソニアは一人、王城の中庭に立った。

 冷たい風が、頬を打つ。

「……貸しを作らない援助。

 信用を求めない親切」

 それが、どれほど危険か。

「当主は、強い」

 だが、一人だ。

 ソニアは、拳を握った。

「なら……

 一人にしない」

 彼女は、知らない。

 何を言われたのか。

 どんな選択肢を突きつけられたのか。

 だが、察している。

 そして、それで十分だった。

 この日から、ソニアは決めた。

 ハイター・クロイツを、

 当主の背後に立たせない。

 彼女だけが気づいた違和感は、

 やがて、物語の均衡を崩す“もう一つの意志”になる。



踏み込み――観測者と補佐官



 その日の夕刻、王城西棟の回廊は人が少なかった。

 ソニアは資料を抱え、足早に歩いていた。

 視線は前だけを見ている。

 ――見られている感覚が、消えない。

「歩き方が変わりましたね」

 背後から、声。

 振り返る前に、わかっていた。

「ハイター・クロイツ様」

「警戒心が増している。

 それだけで、十分な答えです」

 彼は壁にもたれ、穏やかな笑みを浮かべている。

「君、気づいてたね?」

 核心だった。

 ソニアは一瞬だけ呼吸を整え、答える。

「何に、でしょうか」

「密室の空気」

 即答。

「言葉は聞こえなかった。

 でも、当主の“戻り方”が違った」

 ハイターは、楽しそうに目を細める。

「優秀だ。

 だからこそ、君の存在は少し厄介だ」

「当主の補佐官ですから」

「ええ。

 だから排除はしない」

 さらりと言われた“排除”の二文字。

「だが――」

 ハイターは一歩、距離を詰める。

「君が邪魔をするなら、話は別だ」

 空気が、張りつめる。

「邪魔、とは?」

 ソニアは、視線を逸らさない。

「当主を“人間らしく”しようとすることですか?」

 一瞬。

 ハイターの眉が、ほんのわずかに動いた。

「……そこまで察しているとは」

「当主は、道具ではありません」

 ソニアの声は低く、しかし揺れない。

「あなたの退屈を紛らわせるための」

「誤解ですよ」

 ハイターは軽く肩をすくめる。

「私は、結果が見たいだけだ」

「結果のためなら、犠牲を出す」

「必要なら」

 即答。

「ですが、無意味な犠牲は好みません」

 ソニアは一歩、前に出た。

「当主が壊れる未来も?」

「それも、結果の一つです」

 ハイターは、穏やかに笑う。

「壊れないなら、それもいい」

 どちらでもいい。

 それが、何より恐ろしい。

「……一つ、忠告を」

 ソニアは、静かに言う。

「当主は、あなたの期待通りには動きません」

「知っています」

「なら、なぜ」

「だから、面白い」

 言い切り。

 沈黙が落ちる。

「君は、どうしたい?」

 ハイターは問いかける。

「当主の盾になる?」

「ええ」

 即答だった。

「当主が選ばされる前に、

 私が選びます」

 その言葉に、ハイターはしばらく黙った。

 やがて、ゆっくりと息を吐く。

「……なるほど」

 初めて、彼の声から軽さが消えた。

「それは、計算外だ」

 観測対象が、増えた瞬間だった。

「君自身が、盤面に乗る覚悟をした」

「最初から、乗っています」

 ソニアは一礼する。

「当主の補佐官ですから」

 すれ違いざま、ハイターは低く囁いた。

「いいでしょう。

 では、君も観測対象だ」

 足音が遠ざかる。

 ソニアは、しばらくその場を動かなかった。

 勝ったとは思わない。

 だが――踏み込ませなかった。

(当主は、守る)

 それだけは、揺るがなかった。

 一方、回廊の先で、ハイターは小さく笑った。

「……二重構造、か」

 静かな当主。

 その背後に立つ、意志ある補佐官。

「ますます、退屈しない」

 観測者は、盤面が複雑になるほど、愉快になる。

 そして気づいていなかった。

 自分自身もまた、

 ゆっくりと盤の中に引きずり込まれていることに。



密室・三点――静寂が張り裂ける瞬間



 部屋に入った瞬間、リッツは理解した。

 ――これは、偶然ではない。

 王城南棟、非公開会議室。

 簡素な机と椅子が三つ。

 窓はなく、外の音も遮断されている。

 すでに、ハイターが座っていた。

「おや」

 柔らかな笑み。

「お二人揃ってとは。

 これは珍しい」

 ソニアは、当主の半歩後ろに立つ。

 いつも通りの位置。

 だが、その背筋は、いつもより張っていた。

「……あなたが呼び出したのですね」

 リッツが言う。

「ええ」

 ハイターは隠さない。

「三人で話した方が、

 もう誤魔化さなくて済むと思いまして」

 扉が閉まる。

 重い音が、密室を完成させた。

「何の話でしょう」

 リッツは椅子に座る。

 ソニアは、黙ってその隣に立ったまま。

「確認です」

 ハイターは指を組む。

「あなたは、自分が観測されていると知っている」

「ええ」

「それでも、改革を止めない」

「止める理由がありません」

「犠牲が出る可能性があっても?」

 その言葉に、ソニアがわずかに動いた。

 リッツは、目を伏せず答える。

「出さないために、最善を尽くします」

「最善、ね」

 ハイターは、楽しそうに息を吐く。

「では、君は?」

 視線が、ソニアに向く。

「君は、当主が選ばされる前に、

 自分が選ぶと言った」

 空気が、張りつめる。

「当主に代わって、犠牲になる覚悟がある?」

 直球だった。

 ソニアは、即答しなかった。

 一拍。

 二拍。

「……あります」

 低く、はっきりした声。

 その瞬間、リッツの視線が、初めて彼女に向いた。

「ソニア」

「当主」

 彼女は振り向かない。

「それは、許可していません」

「許可を求めることではありません」

 言い切りだった。

 ハイターは、二人のやり取りを黙って見ている。

 獣が、呼吸を潜めるように。

「なるほど」

 彼が、静かに言った。

「君は、当主の意思を尊重しているふりをしながら、

 最終的には自分で背負う」

「ふりではありません」

「では、何です?」

 ソニアは、初めてハイターを見る。

「責任です」

 その言葉に、ハイターが目を細めた。

「……美しい」

 心からの感想だった。

「だが、危険だ。

 君が先に壊れる」

「それでも構いません」

 沈黙。

 リッツが、ゆっくりと立ち上がった。

「ここまでです」

 二人の視線が、同時に彼へ向く。

「私は、誰かを犠牲にして進むつもりはありません」

「理想論だ」

 ハイターが言う。

「現実は、選択を迫る」

「ええ」

 リッツは、静かに頷いた。

「ですが、選択肢を作るのは、

 私一人ではない」

 視線が、ソニアに向く。

「彼女は、私の盾ではありません」

「……当主」

「共に考え、共に責任を負う存在です」

 その言葉は、ソニアの胸を強く打った。

 ハイターは、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと笑う。

「失敗したな」

「何をですか」

「君を、孤独な観測対象だと思っていた」

 ハイターは、二人を見る。

「だが違う。

 君はすでに、“関係性”を持っている」

 それは、観測者にとって最悪の条件だった。

「関係は、計算を狂わせる」

 彼は立ち上がる。

「そして――

 私を、盤の外に追い出しかねない」

 密室の空気が、少しだけ緩んだ。

「今日のところは、引きましょう」

 ハイターは、扉に手をかける。

「ですが、忘れないでください」

 振り返り、微笑む。

「選択を迫る現実は、

 必ずやってくる」

 扉が閉まる。

 残された二人の間に、静寂が落ちた。

「……すみません」

 ソニアが言う。

「勝手な覚悟を」

「いいえ」

 リッツは、はっきり答える。

「私は、あなたがいて助かっています」

 短い言葉。

 だが、確かだった。

 ソニアは、深く頭を下げた。

「なら……

 最後まで、ご一緒します」

 密室は、静かに役目を終えた。

 だがこの日、三人は理解した。

 もはや誰も、

 安全な位置にはいない。



ハイター視点

「越えると決めた瞬間」

 密室は、思ったよりも狭かった。

 扉が閉まった音が、やけに大きく響く。

 リッツは机の前に立っている。背筋は真っ直ぐだが、わずかに肩が強張っているのが分かる。

 ソニアはその斜め後ろ。視線は落ち着いているが、指先だけが微かに震えていた。

――ああ、もう遅い。

 ハイターはそう理解した。

 この二人は、すでに同じ地平に立っている。

 ならば自分だけが、外に留まることはできない。

「現実の事件が起きた」

 彼は淡々と告げた。

「偶然じゃない。王都の倉庫火災、帳簿の消失、証人の急死。

 ――全部、繋がっている」

 リッツの目が細くなる。

「誰が糸を引いている」

「君の改革で切り捨てられた連中だよ。

 そして……私が“放置してきた”人間たちだ」

 ソニアが息を呑む気配がした。

「放置、ですか」

「そう。見て見ぬふりをした。

 君の改革が正しい方向に進むと分かっていながら、

 止めるべき芽を摘まなかった」

 沈黙。

 ハイターは、自分の心臓の音を数えていた。

 ここまでは、まだ“助言者”だ。

 だが――。

「リッツ」

 名前を呼んだ瞬間、空気が変わった。

「このままなら、次は屋敷が狙われる。

 それも“事故”の形でね」

 ソニアが一歩前に出る。

「……それを、なぜ今ここで?」

 ハイターは彼女を見た。

 逃げ道を断つためだ。

「君が気づいていたからだよ、ソニア。

 さっきの夜会で、君は“誰が消えたか”を数えていた」

 彼女は否定しなかった。

 リッツが低く言う。

「では、あなたの提案は?」

 ――来た。

 ハイターは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 これを口にした瞬間、自分は戻れない。

「先に潰す」

 ソニアの顔色が変わる。

「証拠が揃う前に、影響力を奪う。

 噂を流し、信用を折り、社交界から締め出す。

 法の外だ。だが血は流れない」

 リッツは即答しなかった。

 その沈黙が、ハイターには痛い。

「これは君の理想を守るための汚れ役だ。

 君がやれば、改革は歪む」

 一歩、前に出る。

「だから私がやる」

 ソニアが叫びそうになるのを、リッツが手で制した。

「見返りは?」

「ない」

 即答だった。

「名前も、立場も、失っていい。

 ただ一つ――」

 ハイターは、初めて感情を滲ませた。

「君が、ここで躊躇して折れる未来だけは見たくない」

 長い沈黙の後、リッツが言った。

「……それは命令ですか」

「いいや」

 ハイターは微笑った。

 自分でも驚くほど、穏やかに。

「選択だ。

 そしてこれは――私が初めて、自分で選ぶ一線だ」

 扉の向こうで、遠く鐘の音が鳴った。

 その瞬間、ハイターは理解した。

――もう、戻る場所はない。

 だが不思議と、後悔はなかった。



リッツ視点

「当主の決断」

 夜明け前の書斎は、まだ冷えていた。

 机の上には二通の書簡が並んでいる。

 一通は王都監査局から。

 もう一通は――名も署名もない、だが内容だけで誰の手によるものか分かる報告。

 ハイター。

 彼が“動いた”証拠だった。

 リッツは、感情を挟まずに事実だけを整理する。

 ・三人の貴族が社交界から事実上排除された

 ・資金源は絶たれ、協力者は距離を置いた

 ・不自然なほど、血は流れていない

 ――完璧すぎる。

 そこへ、ノック。

「失礼します」

 ソニアだった。

 彼女の顔色で、すでに察しはついている。

「来ましたか」

「はい。王宮側から正式に」

 彼女は一枚の文書を差し出した。

「非公式調査です。

 “グーテマン家と、ある仲介人の関係について”」

 リッツは受け取ったが、開かない。

「……彼の名前は?」

「出ていません。でも――」

 ソニアは言葉を切った。

「このままなら、次は“当主の監督責任”が問われます」

 沈黙。

 リッツは、ふとハイターの言葉を思い出していた。

――だから私がやる。

 合理的だった。

 自分がやれば、改革は歪む。

 彼がやれば、汚れは彼に集まる。

 だが。

「ソニア」

「はい」

「この選択肢で、最も家を守れるのはどれですか」

 彼女は一瞬だけ目を伏せた。

「……ハイターを切ることです」

 その言葉は、剣よりも重かった。

 リッツは頷く。

「彼を正式な関係者から外す。

 過去の接触は“独断”と処理する」

「それは……彼を――」

「孤立させます」

 言い切った瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。

「彼は理解するでしょう。

 最初から、その覚悟で越えた」

 ソニアが、珍しく感情を滲ませる。

「……それでも、ひどい」

「ええ」

 リッツは初めて、自分の弱さを認めた。

「だからこれは、当主の決断です。

 友人のものではない」

 机に向かい、命令書を書き始める。

 ・ハイターとの公式な接触禁止

 ・王都での後ろ盾の否定

 ・必要とあらば、切り捨てる旨を明文化

 書き終えたとき、外が白み始めていた。

「伝令を」

「……はい」

 ソニアは扉の前で、振り返った。

「後悔、なさいますか」

 リッツは少しだけ考えた。

「後悔はします。

 ですが――」

 ペンを置く。

「選ばなかった後悔より、選んだ責任を取ります」

 扉が閉まる。

 書斎に一人残されたリッツは、最後に例の報告書を手に取った。

 裏面に、短い走り書きがある。

――これでいい。君は前を向け。

 リッツは、それを静かに燃やした。

 灰が落ちるのを見ながら、呟く。

「……あなたは、優しすぎた」

 その日、社交界では噂が流れ始めた。

 ――新しい当主は、冷酷だ。

 ――恩を切り捨てることを躊躇わない。

 だがリッツは知っている。

 その冷酷さの下に、誰の犠牲があるのかを。



偽名の刃

 事件は、あまりにも“らしかった”。

 王都西区、旧商会の倉庫。

 押収された帳簿には、端正な文字で一つの署名が残されていた。

――H. Heiter

 誰もが息を呑んだ。

 噂は、事実よりも速く走る。

 ・裏取引

 ・脅迫

・改革派貴族への圧力

 すべてが「ハイターならやりかねない」形で整えられていた。

 *

 書斎で報告を受けたリッツは、最初に違和感を覚えた。

「……雑です」

 ソニアが頷く。

「ええ。あの人なら、こんな痕跡は残しません」

 だが問題は、真実ではないことではない。

 信じられてしまうことだ。

「王宮の反応は?」

「“調査対象”として名前が上がりました。

 そして――」

 ソニアは一瞬、言葉を選んだ。

「当主様。

 “あなたが切った人物”だからこそ、

 責任を問いやすいと」

 リッツは理解した。

 これは罠だ。

 ハイターを切った判断そのものを、

 誤りだったと証明するための罠。

「選択肢を整理します」

 リッツは淡々と口にする。

「一。沈黙する。

 ――ハイターは罪を着せられ、完全に消える」

 ソニアの拳が握られる。

「二。彼の無実を主張する。

 ――しかし、それは“関係を否定した当主”の矛盾を突かれる」

「三」

 リッツは一拍置いた。

「彼を切った理由を、真実に近い形で公表する」

 沈黙が落ちた。

 それはつまり――

 ハイターが“汚れ役を引き受けた”事実を、

 部分的に世に出すということ。

「それをすれば」

 ソニアが低く言う。

「彼は“悪ではないが、危険な人物”として記憶されます」

「ええ」

 リッツは頷く。

「英雄にはなれない。

 無実も、完全には証明されない」

 ソニアは、苦しそうに目を閉じた。

「……ひどい選択です」

「はい」

 だが、リッツの声は揺れなかった。

「それでも、家と改革を守る。

 そして――」

 一歩、前に出る。

「彼が自分で選んだ役割を、無駄にしない」

 *

 公式声明は、驚くほど短かった。

 ――グーテマン家は、過去に一部の非公式な助言を受けていた。

 ――その方法は、法に触れぬ範囲であったが、当主の理想とは相容れない。

 ――ゆえに、関係を解消した。

 名前は出さない。

 だが、誰もが分かった。

 これで、ハイターは救われない。

 しかし――

 完全な悪にもならない。

 *

 数日後。

 リッツの元に、一枚の紙が届いた。

 差出人なし。

 短い一文だけ。

――相変わらず、君は一番痛いところを選ぶ。

 リッツは、紙を静かに折りたたんだ。

「……生きていますね」

 ソニアが小さく笑った。

「ええ。

 そしてきっと、これで終わりじゃありません」

 リッツは窓の外を見る。

 改革は進む。

 犠牲を積み重ねながら。

 そしてどこかで――

 名を失った男が、まだこの盤面を見ている。



その決断は、正しくなかった

 その知らせは、夜更けに届いた。

 王都南区。

 裏路地での小競り合い。

 一人の男が重傷――名は伏せられている。

 だが、報告書の最後に添えられた一文で、リッツは立ち上がった。

――「Hの名を騙る者たち」と口にしていた。

 胸の奥が、冷たく締めつけられる。

 合理的に考えれば、これは罠だ。

 感情を挟めば、相手の思う壺。

 それでも――

「場所を」

 リッツは言っていた。

 ソニアが息を呑む。

「当主様、それは――」

「命令です」

 声が、いつもより低い。

 *

 治療院は、薄暗く、薬の匂いが重かった。

 寝台に横たわる男は、顔を包帯で覆われている。

 だが、その声を聞いた瞬間、リッツは確信した。

「……やはり」

 ハイターだ。

 彼は、薄く笑った。

「来ると思ってたよ。

 君は……こういう時だけ、賢くない」

 その言葉が、胸に刺さる。

「なぜ、逃げなかった」

「逃げる理由がない」

 息を整えながら、ハイターは続ける。

「私の名を使った連中を、少し探っただけだ。

 ……君が動くか、見たかったのもある」

 その瞬間、リッツは悟った。

 自分は試された。

「あなたは――」

「安心して。

 今回の怪我は、私の不注意だ」

 沈黙。

 本来なら、ここで距離を保つべきだった。

 当主として、切った相手に関与すべきではない。

 だが。

「私が護衛をつけます」

 リッツは、そう言ってしまった。

 ソニアが、はっきりと顔色を変える。

「当主様!」

「彼が死ねば、噂が事実になる。

 それは避けるべきだ」

 理屈は、後付けだった。

 ハイターは一瞬、目を細めた。

「……それは、感情だね」

 リッツは答えなかった。

 *

 結果は、最悪だった。

 護衛の存在が、ハイターの居場所を確定させた。

 翌朝、王宮から正式通達。

 ――グーテマン家は、非公式に問題人物を匿った疑いがある。

 改革法案は、審議棚上げ。

 協力者の貴族が、距離を取り始める。

 書斎で、ソニアが静かに言った。

「……初めて、判断を誤りましたね」

 リッツは否定しなかった。

「ええ」

 ペンを握る手が、わずかに震えている。

「私は、彼を救いたかった」

 その言葉は、当主のものではない。

「その結果、守るべきものを危うくしました」

 沈黙。

 しばらくして、伝令が入る。

「ハイター氏が、姿を消しました」

 リッツの胸が痛んだ。

 ――これでいい。君は前を向け。

 あの言葉が、今になって重くのしかかる。

 リッツは窓の外を見る。

 感情で選んだ決断は、必ず代償を伴う。

 それでも。

「……それでも、私は」

 言葉を、最後まで続けることはできなかった。

 当主は、初めて知ったのだ。

 正しさよりも、人を選んでしまう瞬間があることを。


名を失った男



 ハイター・――

 その名が、公に語られたのは、これが最後だった。

 王宮の記録から、彼の名は削除された。

 調査対象でも、協力者でもない。

 **「確認不能」**という、最も曖昧で残酷な処理。

 人は噂を好む。

 ・実は処刑された

 ・辺境へ追放された

 ・別の貴族に匿われている

 だが、どれも証拠はなかった。

 *

 リッツは、彼に関する最後の書類に目を通していた。

 紙の端には、あの日と同じ癖のある筆跡で、短い注釈。

――もう探すな。君が当主である限り、私は不要だ。

 指が、紙の上で止まる。

 探さない。

 それが、彼との最後の約束だった。

 ソニアが静かに言う。

「……これで、本当に終わりですね」

「ええ」

 リッツは頷いた。

「彼は、盤面から降りました」

 だが――

 影は、消えない。

 *

 数年後。

 改革は実を結び、グーテマン家は“静かな名家”として知られるようになった。

 派手な失脚も、血の粛清もない。

 その裏で、囁かれる名がある。

「聞いたか?

 昔、当主の影を歩いていた男がいたらしい」

「名前は?」

「さあ……忘れられてる。

 でも、彼が動いた後は、必ず“最悪だけは避けられた”そうだ」

 誰かが笑う。

「都合のいい伝説だな」

 だが、別の誰かが言った。

「違う。

 名前を残さなかったからこそ、伝説になった」

 *

 夜。

 リッツは、一人で書斎にいる。

 引き出しの奥に、小さな箱がある。

 中身は、焼け残った一片の紙。

――相変わらず、君は一番痛いところを選ぶ。

 それを、もう一度だけ読み、元に戻す。

「……あなたの選択は、無駄にはしません」

 返事はない。

 だが、リッツは知っている。

 名を失った男は、どこかで生きている。

 そしてもう二度と、表舞台には戻らない。

 それでいい。

 それが、彼が選んだ終わり方だ。

 *

 記録に残らない者は、裁かれない。

 だが、称えられることもない。

 それでも――

 世界が少しだけマシな方向へ進んだなら。

 それが、

 ハイターという男の存在証明だった。


最終章:影を歩む者

 書斎の窓から差し込む夕陽は、静かに机を染めていた。

 紙の上に並ぶ記録は、過去の出来事を淡々と記しているようで、実際は心の震えを隠せないものだった。

 私は、当主リッツのそばで、ずっとその動きを見てきた。

 改革に燃え、冷徹に見えるその背中の影には、もう一人の影が常に寄り添っていた。

――ハイター。

 彼の存在は、公式の文書には一切残らない。

 しかし、私には分かっていた。

 その影が、どれだけ多くの決断を支え、守ったのかを。

 夜会で初めて彼を見たとき、リッツはまだ何も知らなかった。

 だが、彼の横に立つハイターの視線、言葉、沈黙は、すべてを物語っていた。

「君、気づいてたね?」

 あの言葉を思い出す。

 リッツは動揺しなかった。だが、その目に一瞬、迷いの影が走った。

 私は気づいた。彼の理性は完全ではなく、確かに人を選ぶ瞬間がある――と。

 そして、あの日。

 ハイターが一線を越え、決断を代行した時、私は初めて、リッツの表情に“揺らぎ”を見た。

 理性で選ぶべきものと、感情で救いたいもの――その間で葛藤する当主の顔を、誰も見ていなかった。

 彼がハイターを切った後、事件が起きた。

 偽装事件――名もなき影が再び動いた時、私はリッツの内側の痛みを、初めて理解した。

「後悔はします。

ですが――選ばなかった後悔より、選んだ責任を取ります」

 その言葉は、私の心に深く刻まれた。

 正しいかどうかではなく、背負う覚悟の重さを知った瞬間だった。

 今、全ては落ち着いた。

 ハイターは名を消し、伝説となった。

 その存在は目に見えず、声も届かない。だが、彼が選んだ孤独な役割は、リッツの改革と、私たちの生活を守ったのだ。

 私はこの記録に、ただ一つ書き残す。

「当主は影を歩く者を切り離した。しかし、その影があったからこそ、彼は今も前を向ける。」

 ハイターの影は、消えたようで消えていない。

 そして、これからも――

 リッツの判断を、行動を、密かに見守り続けるだろう。


書斎の隅に残る小さな紙片



 日が暮れ、書斎の空気は静まり返っていた。

 リッツは机の上の書類に目を落とし、私はそっと後ろで控えている。

 ふと、机の脇の古い本棚の隅に目が留まった。

 埃の下に、小さな紙片――わずかに角が折れ、所々に手書きの跡がある。

 私はそれを拾い上げた。

――君は一番痛いところを選ぶ

 筆跡は、あの人だ。

 薄くにじんだインクから、かすかに香る薬品の匂い。

 文字のリズムから、あの穏やかだが決然とした声まで、頭の中に浮かぶ。

 私は息を止めた。

 ハイターはここに、形を残さず姿を消したはずだった。

 それなのに――

 紙片は、静かに、確かに、彼の存在を語っていた。

 そっと折りたたみ、胸の内にしまう。

 誰にも見せない。

 リッツにも、渡すつもりはない。

 それでも、私は知っている。

 あの男はまだ、影として生きている――

 私たちを、そして当主を、密かに守り続けているのだと。

 夜の書斎は、静かすぎるほど静かだ。

 だがその紙片の存在が、ひとつだけこの空間を温めている。

――生きている。

 そして、これからも――。




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