戦禍の少年
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。体は石のように重たく無防備に風に晒された。細く荒く不規則な呼吸をするたびに口内にザラザラとした灰の苦い味が広がる。指一つ動かせない中で微かに開く瞼の隙間、ぼやけた視界に広がる空いっぱいの赤黒い雲の下を進む何機もの鋼鉄の巨鳥達をただ茫然と眺めていた。
気が付くと僕は見知らぬ場所で目が覚めた。薄いブランケットと固い枕だけの簡易なベットから体を起こす。枕元のサイドテーブルの上には弾の入った拳銃と顔が映りこむほど磨き上げられた銀色の徽章が置かれそれらを何気なく手に取った。いつの間にか身を包んでいた軍服の右胸に徽章を付けようとするがなかなか上手くいかない。そうしていると急に視界の端っこから手が伸びてきて自分の手から徽章を取り、慣れた手つきで右胸に付けてくれた。
僕が感謝を伝えようと顔を上げた時、彼が昔からの親友だった事に気が付く。似合っていないぶかぶかの軍服を着た彼は笑顔で僕の肩を数回軽く叩くと、行こうぜと言わんばかりに首でジェスチャーし背を向けた。よく周りを見てみればやけに騒がしい。僕と同じ軍服を着た男達が足早に行ったり来たりと忙しい。男達の表情は鬼気迫るものがあった。いつから鳴っていたのだろうか。耳を切り裂くほど大きな警報が今更ながら聞こえた。悲鳴にも聞こえる甲高いこの音は空襲警報。すなわち敵の戦闘機と爆撃機が近くまで迫っている事を知らせるものだ。
周りの状況に気を取られているうちに、親友の彼が目の前から消えていた。焦って一生懸命探していると、建物の出口へ向かっている群衆に紛れた彼の背中を見つけた。開いた扉から差し込む目が眩みそうな程の光の中へと消えていった彼を慌てて追いかける。
肩をぶつけ合いながら建物の外に飛び出ると、そこには広大に広がる土の滑走路でパイロットの事をキャノピーを開けて待つ戦闘機が無数に鎮座していた。戦闘機の合間をすり抜けながら親友を探す。周りの軍人は敵機の迎撃に向かうために、慣れた様子で次々戦闘機に乗り、プロペラを回し始めていた。準備ができた者から続々と轟音と共に飛び立っていく飛行機の、残していった風がいたずらに軍帽を攫って行く。
慌てて手を伸ばし追いかけると二機の戦闘機の前にポトリと落ちた。とその時後ろから背中を思い切り手のひらで叩かれた。いつの間にか背後にいた親友の彼が笑顔で僕を追い越し落ちていた僕の軍帽を跨いで、二機ある内の一機。ボディに赤いペンキで大きく円の描かれた戦闘機に乗り込んでいく。それは昔、彼が自分の愛機だと主張するために施した印だった。彼はまるでルーティンのようにキャノピーを閉め、いくつか計器を触った。そんな彼の操作に応えるように彼の機体のプロペラがゆっくりと回り始める。彼が何かを喋ったらしい。口が大きく動いていたがなんと言ったかは分からなかった。彼は勇ましく敬礼をするとゆっくり機体を進ませ滑走路へと向かっていった。その場に残された僕は同じく残されていたもう一機のコクピットを覗く。その時すぐにこの機体が自分のであると気が付いた。なぜなら操縦桿に引っ掛けられていた飛行帽が僕の父親の物だったからだ。決して無くさないように肌身離さず持っていたはずなのに。誰が持ち出してここに置いていったのかは分からない。乗降口の縁に手をかけ颯爽と飛び乗る。固い革の操縦席は不思議と僕の体格に馴染み、操縦桿を握ればどこか懐かしい感覚がした。激しさをます戦局のせいで整備が行き届いていないのか、かなり引っかかるキャノピーを力づくで閉めた。密閉された空間に埃と仄かな火薬の香りがした。眼前に広がる数多くの計測器は非常にややこしいのだが、体が覚えているのか、不思議と次に行うべき操作へと勝手に指が向かう。
ボゴッ…ボゴッッ
何か詰まっていたものが吐き出されたような音と、体全体を大きく揺らす振動の後に、ゆっくりとプロペラが回りだすのを、風防越しに確認する。先ほど取り返した飛行帽は頭と耳をすっぽりと覆い隠した。ぴったりとフィットしたわけではなく、生まれたわずかな隙間が改めて父の大きさを実感させる。ゴーグルを目に当て心地よい締め付け具合になるまでベルトを絞る。レンズは今まさに拭きたてとでもいうように透き通っていた。操縦桿をゆっくり前に倒す。ガタンッという大きな振動とタイヤの転がる甲高い音を引き連れ、機体は低速で前進を始めた。両手でしっかりと握った操縦桿を左右に倒すと、機体はまるで体の一部にでもなったかのように左右に機首を振り極めてスムーズに僕は滑走路へと向かった。
滑走路の端っこについた。目の前に広がる長い道。その上に数機の戦闘機が僕の離陸を待つかのように旋回飛行を行っていた。その中にはボディに目立つ赤円を持つ彼の姿もあった。
いよいよ離陸の時だ。操縦桿を握る手に自然と力が入る。手袋の中では汗が滲んだ。鼓動はその激しさを増し、それを必死に押さえつけようと何度も深く呼吸をする。勿論、高揚感はあった。只、それ以上に尋常じゃない不安が僕を襲った。低く唸るエンジンはまるで今にも手綱を振り払い駆け出さんとばかりの暴れ馬のように思えた。上空では僕のことを今か今かと待ちわびている味方機達がいる。焦りと恐怖に視界は歪み、音は遠く、口内が渇く。操縦桿に額を押し当てまるで祈るかのような体勢で何とか自分を奮い立たせようとしている時だった。
チャリンと金属が擦れる軽い音が僕の履いているズボンのポケットから鳴った。ポケットに手を入れると何か冷たい物が指先に触れる。慎重にそれをポケットから抜き取り、手のひらを開けると、そこには入れた覚えのないドッグタグが握られていた。所々が錆で変色し刻まれた文字も大部分が擦り切れなんと書かれているのか認識はできない。しかしそれを胸の所に持っていくと不思議と心が凪いでいった。視界は澄み渡り鼓動は心地よいリズムを叩いている。あっという間の心境の変化は自分でも驚愕した。ただそれもすぐに飲み込む。とにもかくにも飛び立つならば今しかない。空模様は決して良好とはいえない。分厚い雲と辺りから立ち込める硝煙は日の光を封じ込めている。もう怖くはない。ゆっくりとスロットルレバーを押し込む。所々ボディが軋む音がしたが構わず押し込み続けた。整備の行き届いていない滑走路に転がる小石を踏み越える度にガタンガタンと機体が跳ねる。プロペラの回転はどんどんと速くなり細い線の集合体のように見え始める。メーターの針は今にも飛び出してしまいそうな程振り切れた。肩を抑え込まれるような感覚と共に背中が座席に沈み込む。周りの景色がコマ送りに変わっていく。眼前に滑走路の終わりが近づいてきた。機体の頭を持ち上げるべく、右手で操縦桿を引き込もうとした。しかし想像以上の重さでピクリともしない。滑走路の終着点の先の金網がどんどんと迫ってきている。僕は必死に操縦桿を持つ手を両手に変えて力いっぱいに引いた。腕の血管は表面へと浮き出てきて今にも血液が噴き出そうな勢いだ。歯を食いしばる。操縦桿が折れるほどの勢いで力を込めた。いよいよ金網の穴一つ一つがはっきりと確認できる。その時だった。
フワッと一瞬、急に操縦桿が軽くなった。今まであった車輪の抵抗が消えた。曇り空が緞帳のように上半分からみるみると視界を侵食していく。まるで体全体が軽くなったような心地で座席から身を乗り出し下を見ると、さっきまで走り回っていた地面が遥か遠くにあった。
無意識に叫んでいたらしい。ドっと来た疲れと表面を滑る汗。不足した酸素を取り込もうと必死になって呼吸をしていたら、コツンッという子気味良い音の後に機体が少し右へ傾いた。窓の向こうにはあの赤円の機体が並走飛行していて、どうやら悪戯に翼で小突いたらしい。親友の彼が大丈夫かとジェスチャーしてくる。僕は何とか腕を持ち上げそれに応じると、彼は安心したようにその場を離れ今度は遊ぶようにくるりと機体の高度を維持したまま横回転して見せた。エルロンロールと呼ばれる曲芸だ。風防の向こうで得意げな彼の姿が見える。その姿に先程までの緊迫した状況が嘘のように感じられる。操縦桿の重さにはもう慣れた。なんなら飛び立ってすぐだが、既にこの機体が自分の体の一部のようにさえ感じられる程だ。となると今度は負けていられるかなんて気持ちが湧いてくる。彼ができるなら僕だって。そう思ったがすぐに操縦桿を握り直し倒した。水平器がぐるりと回る。シートベルトが落ちようとする僕の体を繋ぎとめるべく体に食い込む。頭に血が上り、視界には果てしなく続く大地が広がっていた。息が苦しくなってきたところで再び操縦桿を倒すと、機体は何事もなかったようにもとの姿勢へと戻った。興奮は冷めやらなかった。こんなにも簡単なのかとさえ思った。少し離れた所で彼の姿を見つけた。彼は挑発するように機体を揺らすと、今度はいきなり急降下し始めた。勿論僕もその後を追いかける。彼が地面ギリギリで機首を持ち上げたのを確認すると、僕もそれに並ぶように操縦桿を操り、かなりの低空飛行をして見せる。彼のトリッキーな動きに少し遅れながらもついていく僕。地上から見れば二つの戦闘機が曲芸飛行をしているように見えただろう。ほぼ同時に宙返りを決め再び並走飛行をした。彼はとても楽しそうに無邪気な顔して笑っていた。思わず僕も笑みが零れる。こんなに楽しい思いをしたのはいつぶりだろうか。最近は辛く苦しいことばかりだった。そう思うと笑いが抑えきれない。コクピット内で反響するほど、大きな声で笑った。こんな時間がいつまでも続けばいいなと思った。
そんな時間を引き裂くように、一機の戦闘機が目の前を急降下していった。機体の動きが乱れ、窓に肩をぶつける。慌てて機体を水平に戻した時に、周りに無数の戦闘機がいることに気が付いた。それは僕の乗っている物と同じ機種、同じ塗装の物が半分で、残り半分は見慣れない機体。それらがくんずほぐれつに乱れ合い、機体前部からまばゆい閃光を散らす。遠くの方で一機の戦闘機が火を噴いた。まるで秋の枯れ葉のように赤く染まりながらヒラヒラと墜ちていく。そうして遠く地面で米粒程の爆発が起きた時、やっと気づいた。
こいつらは敵機だ。僕は空戦空域に入ったのだと。
彼の姿が消えた。しかしとてもじゃないが呑気に探しに行ける状況ではなかった。風防のすぐ向こうで銃弾が光線となって飛び交い、真横に付いた戦闘機が次の瞬間には鮮血のように火を吐く一瞬の命の奪い合い。四方八方を取り囲むエンジンの音は死神の笑い声にも恐怖で息を飲んでいる音にも聞こえた。何が起きているのか分からない。只、このまま留まっていれば間違いなく危険だ。そう直感した僕は迷わずスロットルレバーを全開にした。苦しそうな音を出しながらも僕の機体は全速力で上昇を始める。視界のどこから飛び出してくるか分からない戦闘機をとっさの判断で交わしていった。不思議と流れ弾が当たることも、敵機に狙われることもなく、気が付けば静寂に包まれた空間に一人ポツンと飛び出す。機体後方を見るとあの戦闘機群が今もなお混乱の最中、必死に命のロープを掴もうと藻掻いていた。
ふと、少し離れたところに二機の戦闘機を見た。一機は味方の機体だ。何度も見たから分かる。その後ろに恐らく敵機がピッタリとくっついていた。味方機は必死になってそれを剥がそうとしている。しかし敵機はヒルの如く、しつこく味方機の後方に位置付け、その隙を虎視眈々と狙っていた。周りに他機の姿は見えない。どうやらこの二機に気が付いたのは僕だけらしい。少し目を離せば味方機は今にも撃墜されてしまいそうな状況。助けられるのは僕しかいない。僕はためらわず操縦桿を前方に倒した。機首がやや下に傾くと同時に戦闘機のスピードに重力の速さが乗る。幾重もの風圧の層を引き裂いく度に、機体を細かい振動が襲った。揺れる標準機の中心をジッと見つめる。高速で動いている二機がその中を出たり入ったりしていた。機銃の発射ボタンに指を掛ける。操縦桿を手放さないように強く握り、しかし指は繊細な力加減でその瞬間を待った。時が止まったような静寂。もはや呼吸の動きですら煩わしい。二機との距離が迫る。味方機は今にも追われるストレスに敗れ、頭から地面へダイブしそうな勢いだ。猶予はない。余裕もない。
その刹那だった。標準機の右斜め下から敵機が飛び込んできた。手ごたえはない。しかしどうやらボタンを押せたようだ。バララッという短い音と共に、目の前で小さな閃光が起こった。プロペラの隙間をすり抜け、僕の機体から弾が飛んでいく。その弾の行く末を見届ける前に、僕の機体は敵機の下方を垂直に交わるようにすり抜けた。慌てて左舷方向へ視線を向ける。敵機の姿は見当たらない。しかしあの距離で撃ち込んだのだ。何発かはボディに当たっているはず。それが装甲を貫き、内部パーツを砕いてくれたのなら無事ではいられない。敵機を見つけるより先に追われていた味方機を発見した。どうやら無事だったようで礼も言わず遠くへと去っていく。ホッと一息胸を撫で下ろした瞬間だった。バララッとさっき聞いたばかりの音がもう一度聞こえた。だが勿論僕は撃っていない。既にボタンから指は離していた。音の発生源を探す前に、翼を何か小さい物が擦れるような音と同時に機体が大きく揺れる。慌てて加速し後ろを見るとそこには探していたあの敵機がピッタリと今度は僕の機の背中に付いていたのだ。僕の撃った弾は当たらなかったのか?そう思っているうちにまた奴は無数の弾丸をばらまいてくる。幸いにして距離がまだ離れている分、装甲がそれらを受け止めた。しかし変形していく金属の板に風穴が空くのも時間の問題だろう。僕は機体を上下左右に大きく動かす。しかし奴は獲物に噛みつき離れない狼みたく何度も僕の機体にその牙を突き立ててきた。激しい音が機内に木霊する。このままではジリ貧だと察した僕は賭けに出ることにした。スピードはそのままに機首を思い切り引き上げる。地面に対して垂直に近い体勢になるこの動きは強烈な空気の抵抗を受けることで急ブレーキが可能。後ろから猛スピードで迫る敵機をやり過ごし、位置を入れ替えるという算段だった。勿論リスクも大きい。機の推力を少しでも見誤れば、撃たれる前にコントロールを失い地面へと真っ逆さまだ。一瞬とは言え、敵の射線上にコクピットを晒すことになる。そもそもこの機がその動きに耐えられるかも未知数だった。しかし迷っている暇はない。背後の敵は確実に仕留めようとその距離をグングン詰めてくる。僕は深く深呼吸し操縦桿を握りなおした。何度も首を振り間合いを確認する。今スグにも逃げ出したい気持ちをグッと抑え、計器を睨んだ。五感を研ぎ澄ませその瞬間を待つ。そしてその時は来た。敵コクピットの中の様子がはっきりと見えるようになった瞬間、僕は機首を急激に上に向けた。ほぼ同時に奴は機銃を撃ち込んできたらしい。数発の光の線が僕の機の下腹部すれすれを通り過ぎていく。視界が曇り空いっぱいになった。敵の機体から発せられてた獣の唸り声が通り過ぎていくように聞こえた。
成功したんだ。後は機首を下げるだけ…そう思った次の瞬間、バリバリッと何かが剥がれるか捲れるか、そんなような音が機内を襲った。何が起こったのかを把握する前に速度が急激に落ち、僕の機は機首を天空に向けたまま自由落下を始めた。幸いプロペラはまだ動いている。エンジンは死んでいない。僕はとっさに捻り込みと呼ばれる動きに移行した。機の速度が落ちている以上、敵に再び狙われるのは時間の問題だ。なるべく早く奴の姿を見つけ、機の姿勢も水平に戻さければならない。内臓や目玉が押さえつけられ今にも破裂しそうな圧迫感を覚える。肺の空気は雑巾を絞るように強引に口から排出された。気絶しそうな強烈な重力を根性で乗り越え、血液が戻ってきた眼球が映す景色が徐々にクリアになっていく中、今まさに急上昇しようとする敵機の姿を発見した。よく見れば敵の機は尾翼付近から彗星の尾のように炎と黒煙を従えていた。一番最初の僕の銃撃は当たっていたのだ。恐らくは長く持たないだろう。しかしそんな瀕死の状態でも果敢に空へ機首を向け続けている。奴は最期の攻撃として急降下攻撃をしてくるつもりだと、その時直感で気が付いた。僕ももう一度機銃の発射ボタンに指を掛けた。灰暗い空の下で、打ち上がった花火のようなそれは、頂上で急に力が抜けたかと思うと、機首をこちらへ向け急降下してくる。対面で向かい合った機と機は西部のガンマンや中世の騎士のような緊張感に包まれた。感覚にして途方もない時間が流れた気がした。だがその瞬間にも終わりは来る。実際の所あっという間の出来事だったのだろう。プロペラ同士がぶつかると錯覚するほど接近したその瞬間に、僕はためらうことなく引き金を引いた。
人の姿を見た。二つの窓を隔てた向こう側に自分と何ら変わらない姿の青年がいた。彼の手の動き、筋肉の強張り、恐怖に歪む表情。細部に至る全てをはっきりと認識した。すれ違いざま、どこかで無念と後悔の重みに潰れた悲鳴が聞こえた気がした。敵の機体は小さな爆発の後、もはや機の体勢を保つ力もなく、自由落下し地面に激しく打ち付けられた。地面で炎上している残骸を上空から眺めていると、急に頭が痛くなる。僕の手には機銃の発射ボタンの冷たく重く、それでいてあっけなく軽い感覚がじんわりと残っていた。
猛烈に頭が痛い。目を開くのもやっとな程だ。あまりの緊張感から足が攣ったか痺れたか、足先の感覚もなかった。鉛のように重たい頭を持ち上げ周囲を見渡す。あれだけいた戦闘機達がその影すら残さず消え去っていた。それどころか周囲には薄い雲が纏わりつくように存在し進行方向を分からなくさせ、平衡感覚も奪った。強い孤独感から逃げるように当てもなくただ飛び続けた。誰でもいいから近くに来てほしい。その願いが届いたのかは分からない。ただ右後方から、音もなく一機の戦闘機がスッと姿を現し横に付いた。ボディにはよく見慣れたあの赤円が描かれていた。操縦席の中では親友の彼が、ただ真っ直ぐ正面を見つめ座っていた。こちらを向くことはおろか、あの子供のような笑顔も見せてくれない。口は一文字に固く結ばれ、ゴーグルで目元は隠れていた。その横顔がやけに懐かしく感じた僕は操縦桿を傾け彼の機へと近づく。翼が触れあうぐらい。なんなら機体同士が衝突するぐらい。彼の手を握るように…ただ何となくもっと近くに行かなければいけないと思った。
光の屈折か爆炎か。急に彼の機の風防が曇った。中の様子がまるで分からなくなったのである。そうしてなんの前触れもなく彼の機体は滑るように降下していった。傷一つない綺麗な機体、外見だけ見れば新品同様のその体が、まるで紐の切れた操り人形のように力なく降りていく様を僕は上空から見下ろし続けた。減速する素振りも見せずだんだんと小さくなっていく彼の機はやがて地面でこじんまりとした爆発を見せた。その姿は足元にひっそりと生える勿忘草の花のように目立たず風に揺れ散っていった。とても寂しい。心の中に決して埋まることのない空白ができたみたいだ。それと同時にあることに気が付く。たった今、彼が墜ちたその場所は、僕が彼と出会った場所。僕は今、穴と瓦礫だらけのすっかり変わってしまった生まれ故郷のちょうど上空を飛んでいたことに。
激しい機体の揺れでハッとする。彼と別れた後、少しぼーっとしてしまったらしい。眼下には見慣れぬ大都市。もっとも本来美しかったであろうそこは台風が過ぎ去った後のように散らかり残骸と火の粉が舞うだけであった。操縦桿を引くと凄く重たい。それはどちらかと言えば機体その物の重量が増した感覚。少し方向を変えるだけでも反応が鈍い。僕以外にも味方機が前方にズラッと並んでいる。みなその腹に大きな爆弾を大切に抱えているのを見て、僕も機体がなんでこんなにも鈍間なのか理解した。機器の隙間に挟まれた地図を手に取ると、時間や方角、ここまでの道順がびっしり書き込まれている。それによると爆撃地点はもう目と鼻の先だ。
飛行機が爆弾をばらまき、地面があちらこちらで派手に爆ぜていく。家は崩れ人が飛び散るこの光景を何度も見てきた気がした。今鮮明にその光景が脳裏に思い出されたのである。爆弾投下のレバーが視界の隅でちらつく。目的地上空に付けばこれを目いっぱい引くだけの簡単な仕事だ。なのにあの光景が消えてくれない。こんなにも慣れたはずなのに。
目の前で味方機が一機、突如として轟音を上げ吹き飛んだ。地上から無数の迫撃砲が襲い掛かってきたのである。重くなった機体では避けることは困難だ。周りの味方機達が羽虫のように簡単に散っていった。僕はただ当たらぬことを祈るように操縦桿にしがみついた。今更引き下がることはできない。絶対にこの爆弾を落とさねばならぬという使命感に押され、僕は爆発の中を進んだ。何度も時計とコンパスを確認する。周りの機は見てわかるぐらいに減ってきた。頼むから早く着いてくれと心の中で叫んだ。
この爆弾を落とせば全てが終わる。喉が渇く。視界を光がチラつく。暑い。
いよいよ目的地だ。投下レバーを握る。足の感覚がない。腕に力が入らない。なのになぜかレバーを握る手は爪が食い込むほどしっかり握りこまれた。息が苦しい。砂と鉄の味がする。手が冷たい。とても寂しい。周りを轟音が包む。プロペラの動きがスローモーションに見える。
手の先、足の先から砂になって風に溶けていく。
寒い。寂しい。寒い。寂しい。寒い。寂しい。
目印は無かった。只、直感でここだと分かった。体は完全に脱力していた。しかし力いっぱいレバーは引かれた。機体から離れ落下していく爆弾。真下には既にボロボロに崩れ落ちている家。独りでに旋回する機体。真下の惨劇を目に焼き付けろとでもいうのか。酷く汚れた風防越しに地上が見える。
僕はそこで本当にちっぽけな、ただしはっきりと、瓦礫に潰された
僕と目が合った
視界を覆う強烈な白い光。その中で色んなことを思い出す。生まれ故郷に親友がいたこと。その親友と戦闘機の模型で一緒に遊んだこと。国が戦争を始めたこと。のどかな故郷が戦地になってしまったこと。母と二人だけでそこから逃げだしたこと。父が軍人だったこと。ちっぽけなドッグタグと飛行帽しか返ってこなかったこと。母と二人で硬いパンを分け合ったこと。耳をつんざく空襲警報を聞いたこと。繋いでいた母との手が離れてしまったこと。真後ろで爆弾が炸裂したこと…。
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。体は石のように重たく無防備に風に晒されていた。細く荒く不規則な呼吸をするたびに口内にザラザラとした灰の苦い味が広がった。指一つ動かせない中で微かに開く瞼の隙間、ぼやけた視界に広がる空いっぱいの赤黒い雲の下を進む何機もの鋼鉄の巨鳥達をただ茫然と眺めていた。
ある都市を爆撃が襲った。もう何度も来ている爆撃だ。それだけこの国同士のいざこざも終わりが近いというこどだろう。歴史ある美しかった街並みや活気ある住民の営みは見る影もなく、目を背けたくなる現実がそこには広がっている。
少年が倒れていた。足の上に瓦礫が何層も積み上がっており頭から流れ出た血だまりに顔が浸っている。その体はピクリとも動かずただ血なまぐさく生ぬるい風に晒されている。少し離れた所には既に事切れた女性が横たわっていた。顔は地面に伏せ表情は見えない。しかし何かを手探りで探していたのか爪は剥がれ数本の血の線が引いてある。少年の周囲には彼の所有物と思われるものが散乱している。
木製のおもちゃの拳銃。戦闘機の模型。傷だらけのドッグタグ。レンズの割れたゴーグル。血に濡れた飛行帽。まるで英雄のようなパイロットの絵が描かれた軍人募集のビラ…。彼の胸元で彼の父が付けていた徽章が光る。これらの全てが彼を守ること叶わず散らばっていた。
誰にも看取られず、炎と灰と煙と血の中で、戦争に憧れた少年は、ひっそりと死んでいった。
拙い文章とネットで調べただけの情報で構成されてます故、読み苦しい部分もあったかと思いますが、なにか一つでも感情を動かせる箇所があったのなら幸いです。もし私の文が好きだと言ってくださるならば、これからも慎ましく活動を続けたいと思いますで、どうか暖かく見守ってください。




