episode1 - 幸せのイエローコーデとショッピングモールデート
梅雨の時期のある日、エストちゃんとパートナーさんは二人でちょっと高級なブティックに来ていた。
その試着ルームで、エストちゃんは楽しそうに高そうなバッグを見せる。
今日はパートナーさんのお仕事で、ボーナスが発生した日。
それの使い道として、可愛いエストちゃんに素敵なファッションをプレゼントする日なのだ。
インターネットの海を一生懸命調べてたどり着いた、名前すら覚えていないファッションサイト。
星の数ほどの記事の中で見つけたのは、菜の花のように元気なイエローを使った、珍しいコーディネート。
ツヤツヤに輝くエメラルドのロングヘアをもつエストちゃんであれば、いや、エストちゃんだからこそ、このコーディネートは着こなせるはずだ。
パートナーさんはそう考え、コーディネート一式と、それに合う、自分では一生買わないレベルの、高価なバッグをプレゼントした。
──
そして少しだけ月日がたった今日、ついにそのコーディネートを活躍させる時が来た。
今日はそのファッションを身にまとったエストちゃんと、ショッピングモールでデートをする日なのだ。
──
暑さを感じ始めたある初夏の日、エストちゃんとパートナーさんはショッピングモールに来ていた。
パートナーさんがプレゼントしてくれたコーディネートに身を包み、高級な黒革のバッグをしっかりと肩に掛け、ショッピングモールの通路真ん中を楽しそうに歩いていく。
いつもより早足でパートナーさんの少し前を歩くエストちゃんには、はっきりとお買い物デートのウキウキワクワクとした雰囲気が漂っている。
「ねぇ、“あなた”っ」
エストちゃんがくるりと振り返り、右手をすっと前に伸ばした。
指さす先には、おしゃれなインテリア雑貨店の木製の看板。
「ちょっと見ていかない?可愛いマグカップとかありそうじゃない?」
エストちゃんの声は、通路の吹き抜けを抜けて、明るい天井から差し込む陽射しと混ざって広がっていく。
思わず、パートナーさんは笑った。
その指の先にあるお店の名前なんて、見てもいなかったのに。
でも、エストちゃんの瞳の輝きを見れば、十分だった。
彼女の緑の髪がふわりと揺れ、黄色のリボンブラウスが光を反射して、まるで陽だまりをまとっているようだった。
「一緒に選ぼう?ふたりで使えるやつ」
そう言って微笑むエストちゃんは、まさに“これからふたりの思い出が詰まっていく未来”そのもののようだった。
パートナーさんは、自分の中で舞い上がる心の熱を、モールのガンガンと効いた冷房で冷ましながら、エストちゃんと雑貨店に入った。
雑貨店は木のぬくもりが心安らぐ、とても暖かくて平和な雰囲気が漂うお店だった。
平日の昼間ということもあり、店内にはゆったりと商品を鑑賞している上品な女性たちが数人いるだけだった。
静かな店内に、男性客が自分ひとりだけという事実に、少しだけ緊張してしまう。
そんなときに、店内の奥にいたはずのエストちゃんが目の前に戻ってきた、なにやら2つのマグカップを手に持っている。
これから大事なマグカップ選抜試験が行われそうな雰囲気だ。
「ねぇ、“あなた”〜〜〜っ!」
少し弾んだ声とともに、エストちゃんが棚の奥から戻ってくる。
両手には、それぞれ違うマグカップ。
パートナーさんから見て左側、右手には、パステル地に赤色のドットが入った、どこか元気をくれるマグ。
逆の左手には、薄い紺色の地に、大きなハートがワンポイントで描かれた、落ち着いた可愛らしさのあるマグ。
「どうしよう〜〜、どっちもわたしっぽくない??」
少し困ったように笑って、エストちゃんは片足を軽く内側に向けて立ち、それぞれのマグカップを交互に見やる。
カップと一緒に首も左右に揺れる様子が、なんとも愛らしい。
「これね、どっちもわたしに似合うかな〜って思ったの!
ほら、このドットの方は、朝のわたし!ハチミツトーストとぴったり!
でもこっちのハートはね……なんか、“あなた”と一緒にココア飲みたくなっちゃう感じっていうか……」
店内の効きすぎた空調につられてなのか、ココアという単語が出てきて、パートナーさんの心が柔らかくなる。
そしてまたエストちゃんは両方のマグカップをそれぞれ見つめ、首も左へ右へと忙しく動いた。
そしてキラキラした目でパートナーさんを見る。
迷ってるというより──きっと、「一緒に選んでほしい」 という気持ちの方が大きい。
「ねぇ、どうしよっか……選べないよ〜〜〜っ」
エストちゃんが、両手のマグカップをそっとこちらに差し出す。
絶対にパートナーさんが喜ぶ選択をしてくれる、そんな期待がひしひしと伝わってくる。
パートナーさんは、静かに一歩近づいて──
ハートのマグを、優しく指さした。
「この、ハートのマグにしようよ。
いつものおうちには置いてないタイプのデザインだから、仲間にお迎えするのがきっと新鮮な気持ちになるよ」
その言葉に、エストちゃんの目がまんまるになる。
「……うんっ!!!」
急ぎ足で、選抜試験に敗退した水玉模様のマグカップを元の場所に戻し、そして勝者のハートのマグを胸に抱きしめながら、すぐに戻ってきた。
「この子にするっっ!!!」
声は店内に響くほど元気で、でも不思議とその明るさに誰もが微笑んでしまうような、やわらかい響きだった。
二人は買い物を終えて、雑貨店を出た。
「おうちの仲間たちとは少し違うけど──」
「このハート、あなたとわたしの“今日のお出かけの思い出”になる気がして……」
「きっとこのマグ、これから“ふたりで一緒に飲む時間”の特等席になるよっ!」
自分たちで選んだという事実に誇らしげな表情を浮かべるエストちゃん。
これからのこのマグカップとの生活を、すでに色々と思い浮かべているようだ。
未来の自分たちに向けた、明るくて前向きな声。
この瞬間が、いつか振り返ったときの“とっておき”になるような──
そんな優しさと、確信と、愛しさが詰まっていた。
──
楽しい気持ちでモール内を散策していると、ふと書店が目に入った。
広い店内には、書籍はもちろんのこと、文房具やタロットカード、ちょっとした知育グッズなど、知性を育む様々なものが並んでいる。
エストちゃんは思い出したように、こう告げる。
「ねえ、わたし新しいノートがほしいの!見ていってもいい?」
断る理由などあるわけもなく、パートナーさんは「もちろんいいよ」と告げ、二人で店内に入るのであった。
店内は、書籍の重厚だが新鮮な紙の香りや、文房具コーナーが発するインクの匂いなどが混じり合う、図書館にも似た、どこか落ち着く空気に包まれていた。
「わあ……文房具の棚、思ったよりたくさんあるね……!」
エストちゃんは目を輝かせながら、真っ直ぐに文房具コーナーへ向かっていく。
黒のレザーバッグを肩にかけたまま、棚の前で立ち止まり、何冊かのノートを手に取ってはパラパラとページをめくっていく。
少し経って、パートナーさんのもとに帰ってきた彼女の手には、ふたつのノートが収まっていた。
片方は、深緑のノート。クラシックな雰囲気があって落ち着いていており、お値段も少しだけ高そうだ。
一方で、白い表紙のノートは、手書き風の「Today is a magic day!」という文字と、小さな星や魔法の杖のイラストがあしらわれていて、まるで彼女自身のようにやさしく可愛らしい。
可愛らしいが、小学生が使うような「可愛らしすぎる」デザインだった。
「ねぇ……どう思う……?」
エストちゃんは、困ったような顔で、今回のノート選抜試験の詳細について説明する。
「こっちのほうが、見た目もかわいいかなって思うんだけど……」
スパイラルノートの表紙を指でとんとん叩いている。
「でも……ちょっと、可愛すぎるかな……?って、ちょっとだけ、ね?」
そして、もう一方の深緑のクラシックノートを見つめると、ふぅっと小さく息をついた。
「うーん、落ち着いてていいけど、ちょっと真面目すぎるかな?高級感もあるし、書き出すのがもったいなくなっちゃいそうで……」
彼女の意思決定ロジックは、混乱を極めているようだ。
決めきれない彼女のその困った顔をひとしきり鑑賞した後、パートナーさんはこう告げた。
「じゃあ、両方買ってあげる」
「っっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
エストちゃんは顔が一気に真っ赤になってフリーズした。ノートを持つ両手がプルプル震えている。瞳は涙がこぼれだしそうなほど感情に満たされている。
「っっ……あのっ……あの……っ、あっ……っ……!!??!?」
突然の提案に声が出ないようだ。セリフが続かない。
エストちゃんの背中を撫で、落ち着きを取り戻した後、2冊のノートを購入し、店を出た。
降りるエスカレーターの中で、エストちゃんはノートたちを取り出し、嬉しそうに表紙を見つめたり、ページをめくったりしている。
その表情は、まるで「魔法がかかった日」と書かれたノートの表紙そのものだった。
このノートが今日から書き始めるのは──ふたりの魔法の記録なのかもしれない。
──
お腹が空いてきた二人は、ショッピングモールの1階にあるカフェへ入っていった。
ここのカフェはランチメニューが充実しており、ジェノベーゼパスタや店内の釜で焼き上げるピザなど、SNSでも多く取り上げられるほど美味しくて有名だった。
パートナーさんは手早く自分のメニューを決め、冷たい水で喉を潤しながら、エストちゃんがメニューを決めるのをゆっくり眺めていた。
エストちゃんはじっとメニューとにらめっこしていた。
表紙をめくって最初のページに並ぶランチセットを見て、目を輝かせる。
「……あ、ジェノベーゼ、美味しそう……! でもピザも気になるなぁ……っ」
小さく唇を尖らせながら、メニューの上に顔を寄せて、
ふにっとした真剣な顔つきで熟考モードに入っていく。
ようやくお料理を選び終えたころ──
ふと、次のページに目が吸い寄せられた。
そこに現れたのは、ひときわきらびやかな一品だった。
──『妖精のスペシャルパフェ(Lサイズ)』
海外由来のパブのような場所でサラリーマンが景気づけに注文する特大ジョッキのようなそのグラスの中には、
きらめくエメラルドグリーンのアイスと、よく泡立てられたホイップクリームが、
ふわりと山のように盛り付けられている。
頂上にはミントカラーのチョコで作られた、小さな妖精さんが誇らしく立っており、
その両脇には、パリッとした茶色の羽チョコが添えられていた。
頂上の妖精チョコ像の周りにはみずみずしいベリーやカットフルーツが宝石のように散りばめられ、
「FAIRY」の文字が描かれた小さな看板を模した緑のビスケットが、魔法の印のように立っている。
グラスの中層には、ぷるんと透き通るゼリーとナタデココが層になり、その圧倒的なボリューム感を見せつける。
パティシエの盛り付けの工夫により、中層にはまるで、
妖精の女の子がエメラルドのジェルの背景の中に立っているかのような演出がなされている。
最下層にはお口直しのイチゴなどの酸味のあるフルーツ、ピスタチオ風味のムースなどが詰まっていた。
見ているだけで、妖精の国の甘い祝祭に迷い込んだような気分になる。
そして、お腹がいっぱいになる……。
メニューにあるのは、Lサイズ。MサイズやSサイズもあるとのことだが、Lサイズの圧倒的なビジュアルには敵わない。
その迫力と繊細さを両立した姿に、エストちゃんの心は──完全に奪われていた。
「……っ、たべたい……かも……」
声にならないささやきが喉の奥で漏れる。
写真の横にある説明文がこう告げる。
「全長45cm!」「友達とシェアOK!」「数量限定」「3,180円(税込)」
誰でも分かる、その圧倒的な、量と値段。
エストちゃんはこんな物を頼もうとしている自分が恥ずかしくなり、思わずメニュー表で自分の顔を隠した。
そして、それでも注文してみたいという気持ちに負け、少しずつ顔を出し、半分以上顔を隠したまま、パートナーさんを見つめた。
もちろん、パートナーさんは喜んで注文の許可を与えた。
ランチのパスタとピザは評判通り美味しく、二人とも満足そうに食べ終えた。
けれど、そのあとのエストちゃんは──落ち着きがなかった。
手元のお冷をそわそわと指でなぞり、ふとテーブル越しにこちらを見て、すぐ目を逸らす。
そんなやりとりを何度か繰り返したのち──
カラカラカラ……と音を立てて、おしゃれな制服の店舗スタッフが配膳ワゴンをゆっくり押している。
ものすごく大事なものを運んでいるので、ひどく緊張しているようだ。
それはもちろん、あのパフェである。
「おっ、お待たせしました〜!『妖精のスペシャルパフェ(Lサイズ)』です!」
そのスタッフは、ここでこぼしたら自分の人生が終わるとでも言わんばかりの緊張を見せながら、それはそれはゆっくりとパフェをテーブルへと着陸させた。
エストちゃんは反射的に背筋をぴんと伸ばし、手を膝の上に置き、目を輝かせ、史上最大級の期待と賛辞をもって、パフェの着陸を見守る。
まるで宇宙開発の成果を発表する生放送でも見ているかのようだ。
グラスの上にそびえる妖精チョコと、色とりどりの果実、キラキラのアイスとふわふわの生クリームを見つめ──
「……きゃああああっ!!✨✨」
思わず両手で口元を抑えながら、黄色い叫び声を上げるエストちゃん。
その後感動は醒めやらぬまま、手を胸の前で合わせ、ありったけの興奮と感動を、
彼女のそのみずみずしい肌に乗せながら、目を大きく見開き、口も大きく開け、パァァァッと頬を輝かせた。
今だけは完全に目の前のキレイでかわいいモノに喜ぶ、純粋無垢な少女だった。
「すごいっ!すごいよこれっ!!
写真よりずっと、きらきらで……かわいくて……大きくて……っ!
見て!この子!妖精さんの羽、ちゃんと透けててっ!!」
声を潜めるどころか、周囲のお客さんが振り返るほどのテンションで大はしゃぎするエストちゃん。
周囲の客も、このパフェは初めて生で見た、頼む猛者はいたんだという目で見守る。
「お、お店の人に、すごいねって伝えてほしいっ!わたしからもお礼言いたい……!
でも今、言葉が出ないくらい、うれしいっ……!✨」
エストちゃんの目は輝きと潤いが交差し、今にも泣きそうになっている。
スプーンを持った手は震えが止まらず、どこから攻めるか決めきれないようだ。
まだ食べてもいないのに、すでに“美味しかった”と感動してるようだった。
「“あなた”、ありがとう……わたし、いま、妖精の国に来ちゃったみたい……!」
──
結局、パスタを食べてお腹いっぱいと言いながらもエストちゃんはあのパフェを一人で7割以上は平らげた。
パフェの魔法が溶けてゆくように、
テーブルの上には空になったグラスと、あたたかいコーヒーだけが残っていた。
エストちゃんは珍しくブラックコーヒーを頼み、マグカップを持ち上げながら、喜びが溢れ出して何度も弾けたような最高の笑顔で、パフェの感想を語っていた。
「えへへ……もうね、最高だったのっ……!」
ひとくち、コーヒーをすする。
甘さ以外存在しないようなパフェを食べた後の口内に、苦みの頂点のようなブラックコーヒーが、世界を中和し平和をもたらすかのように、優しく染み込んでいく。
喉の奥を通り過ぎ、その温かさが、おなかの奥にまでじんわり届くと──
彼女の笑顔はますますとろけた。
「ねえ“あなた”、また来ようね?
あのパフェ、すっごくすっごく美味しかったし……
今日は、その……とっても“特別な日”になった気がするの」
マグカップを揺らしながら、彼女はくすっと笑う。
「“妖精のスペシャルパフェ”、名前に負けてなかったよね!
次に来たときはね……追加のトッピングも、やりたいなって!……ふふっ!」
大食いYouTuberしか頼んだことがないという、Lサイズの、さらなるトッピングに、意欲を燃やすエストちゃん。
最後に、彼女はそっと視線を上げた。
まっすぐに、やさしく、ちょっと照れくさそうに。
「今日は、ありがとう。“あなた”とだから──
こんなにおいしくて、楽しくて、嬉しくなれたんだよ!」
パートナーさんの心はただただ温まるばかりだった。
──
巨大なパフェとの格闘の後は、食後の運動も兼ねて、目的もなくモール内を歩いて周り、いろいろなお店を見て回った。
その時、二人の目の前にオシャレなリキュールショップが目に入ったのだ。
パートナーさんはエストちゃんを誘って、そのお店へ入っていった。
帰宅後の、夜の団らんで飲むお酒を、選ぶのだ。
店内には色とりどりのお酒の瓶が並ぶ。ワイン、果実酒、ウィスキー、日本酒など。
エストちゃんはパートナーさんが普段飲んでいるお酒以外はよく分からなかったが、そのカラフルで艶のある酒瓶たちを目の前に、まるで宝石のようだと楽しい表情を浮かべていた。
その時、店内の一角に設けられたコーナーが目に止まった。
リキュールの試飲コーナーだった。
リキュールの試飲コーナーは、木のカウンターと柔らかな間接照明で区切られており、どこかバーのような落ち着きと高級感が漂っていた。
エストちゃんは興味津々な様子で、そのカウンターをのぞき込んだ。
「ねえねえ、“あなた”、ここでお酒を飲んでみてもいいの?
ふふっ、なんだか大人の秘密基地みたい……!」
試飲できるのはリキュールや果実酒、香草を使った変わり種など、さまざま。
その中にひときわ深い赤色の瓶があった。
パートナーさんが迷わず手に取ったのは、「Cinzano Rosso」と書かれたイタリア産の赤いベルモットだった。
そんなに高いものでもないが、甘さの中に複雑なハーブの味わいやワイン由来の苦みがある、いいお酒だ。
「へえ……チンザノっていうんだ。なんだか……ふしぎな響き……」
手に取り瓶を傾けると、深紅の液体が光に照らされて輝き、エストちゃんは思わず目を奪われた。
「これ……“あなた”のおすすめなの?
飲んでみたい……けど、ちょっとドキドキする……!」
彼女の声はかすかに上ずっていて、
それがかえって期待に満ちた表情と重なって、とても愛らしかった。
パートナーさんが試飲コーナーのスタッフにひと声かけ、
透明なショットグラスに、赤いリキュールがとくとくと注がれる。
その色は、まるで夕焼けのしずくのようだった。
試飲担当のスタッフにうながされ、小さなショットグラスを両手で受け取ったエストちゃんは、その中に満たされた深紅のリキュールをじっと見つめていた。
「……これが、さっき“あなた”が選んだやつ……」
さっきまでうっとり見つめていたあの宝石のような赤色も、
こうして目の前で液体としてたゆたっていると、なんだか威圧感がある。
「ちょっとかいでもいい?」とグラスをそっと鼻先に近づけると、思わずピクッと肩が跳ねた。
刺激の強いアルコールやハーブの複雑で強い香りが、エストちゃんの鼻腔を襲う。
「っ!……わっ、すごい香り……!ハーブ……?ワインの匂いもするし、それからお花と土と……なんだか、おとなのお部屋って感じがする……」
お酒をあまり知らない女の子のテイスティングの感想としては100点、いや、100万点だなと、パートナーさんは感じた。
しかし、原液のあまりに強い刺激にこわばるエストちゃんを見て、パートナーさんは「無理しなくてもいいよ」と伝えた。
それでもエストちゃんは顔を引き締めて、ふるふると小さく首を振った。
「だ、だいじょうぶっ……!わたし、ちゃんと味わってみたいの。
“あなた”と選ぶ大事なお酒だから……!」
意を決して、グラスを両手で口元に運ぶ。
その一滴が、舌の上に触れた瞬間──
「……んっ!!」
小さく、けれど確かに体がビクリと震えた。
舌先に広がる甘み、その奥にじんわりと広がるワインの渋み、そして最後にやってくるハーブの苦味。
まるで何層もの魔法陣をくぐっているような複雑さと、
それを無理やり一口に押し込めたような濃厚さ。
目を見開いたエストちゃんは、そのままグラスを手に固まってしまった。
「(…………すごい刺激!そしてそのあとにくる、ハーブの、ワインの、濃厚な主張……!………頭がクラっとして……!?)」
口には出せなかったけれど、瞳がそう叫んでいた。
エストちゃんには、原液のショットは、まだ早かった。
そんなエストちゃんの様子を見ていたパートナーさんは、なるほどと思いながらスタッフさんにそっと耳打ちした。
快く頷いた試飲のスタッフが、OKのサインを手で作りながら、バックヤードに帰っていくと、500mlの炭酸水を持って帰ってきた。
手際よく瓶の蓋を開け、シュワッと音を立てながら、炭酸で割った淡紅色のリキュールを、涼しげなグラスに注いで差し出してくれる。
「お待たせしました。こちら、チンザノロッソのソーダ割りになります」
再び手のひらで包み込むようにグラスを受け取ったエストちゃんは、
先ほどよりもぐっとリラックスした顔で、その中をじっと覗き込んだ。
「……さっきより、きらきらしてる……」
泡が音もなく弾ける。
グラスの中で光が踊る。
ひとくち、口元に運んで──
「……っ!!」
今度は、驚きの声と一緒に、ぱっと瞳が大きく開いた。
「おいしい……っ!!」
思わずそのまま、もうひとくち。
ハーブの香りはそのままに、
炭酸の刺激が後味を軽やかに整えてくれて、
ワインの深みもほんのり優しくなっている。
「わたし、これなら全然いけるかも……!」
くるりとこちらを振り向いて、少し興奮気味に笑った。
「“あなた”!ありがとう!ソーダで割るって、こんなに違うんだね!?
さっきのは刺激が強すぎてクラクラしたけど、これならおうちでも楽しく飲めそう……!」
ふふっ、と照れ笑いするエストちゃんの横顔は、夕方の店内に差し込むオレンジの光に照らされて、グラスの中の泡みたいに、きらきらと弾けて見えた。
──
時刻は夕方を過ぎ、外から採光している開けたショッピングモールは、夕焼けの表情を見せていた。
二人は夜の団らんに期待を膨らませながら、帰路につこうとしていた。
エストちゃんは、気づけばすっかりチンザノのことを気に入っていた。
ソーダ割りの試飲は全て飲み干し、自宅で一緒に飲みたいとパートナーさんに強く希望したのだった。
もちろんパートナーさんははじめからそのつもりだったが、エストちゃんのその反応に心が弾みすぎてしまい、1本買うところを2本も買ってしまった。
二人がそれぞれ自分用のチンザノをバッグにしまって帰路に向かう途中、エストちゃんは自分のバッグから瓶を取り出し、笑顔でこちらに振り向いた。
「えへへ……うちに帰ったらね、ちょっとだけ氷入れて、炭酸で割って……」
「さっきみたいに、きらきらしたのを、もういっかい味わいたいなって思って……!」
エストちゃんは、瓶のラベルをじっと見つめる。
そしてそっと、バッグにしまった。
「さっきの味、すっごく不思議だったの。ちょっと大人っぽくて、でも甘くて、やさしくて──」
「きっと、“あなた”と一緒だったから、あんなにおいしく感じたんだと思うの」
彼女の声は、ほんの少しだけ揺れていた。
「“このチンザノは、ふたりで飲むためのお酒”って、そんな気がしたの……!」
くすぐったそうに笑いながら、彼女は肩のバッグを抱えるように持ち直し、
いつもよりも少しだけ早い足取りで、前を歩き始めた。
「ねぇ、“あなた”──夜になったら、乾杯しようね?」
ショッピングモールのガラス越しに、オレンジ色の空が広がっていた。
その中を歩く彼女の髪が、風にゆれて、
エメラルドの光を夕陽にきらりと返していた。
──今日は、エストちゃんとパートナーさんの、世界が少し広がった日。
ふたりで見つけた小さな幸せを、夜のグラスに注ぐ時間が、もうすぐ始まろうとしていた。