後編「布団は睡を守護り、かくしてトリは降臨す」
もはや枠に立てかけてあるだけといった様相の遮音扉を深山が取り外す。
途端、黒板を引っ掻いているような金切り声が音量を増した。
「いよいよご対面ですね、お嬢さん。入りますよ」
耳を押さえて背後に佇む依頼者夫妻を残し、春暁は部屋の中へと足を進める。
その前、先導と護衛を兼ねた立ち位置にはすかさず深山が着く。
「渦巻く感情……怒りと涙。居たたまれませんね」
「水気かと思ってヒヤヒヤしましたけど、とすると、やはり主は木気ですか」
「フフ……どうやら君を連れてきたのは正解だったようですよ」
まだ黒い影が靄のように立ちこめた部屋の中はまるで見通しが利かない。
加えて、ここは異界と化しており、住宅の一室とは思えない広さがあった。
とは言え、奥にはベッドが置かれ、奇声と騒音の出所は容易に知れる。
「唵――」
と、春暁が影を祓うための真言を発しようとしたとき。
――クゥルゥナァァァアアアアアアア!
部屋の奥で舞い上がった何かが大きく広がりながら飛びかかってきた。
ぼたぼた冥い影と丹い水とを床に滴らせ、二人を包み込もうとするソレ。
ソレは先ほどの黒い影と同質のものでありながら、比べものにならない密度と強度を備えた実体であると即座に理解させられてしまう。
「いや、これは! 布団!? ……なるほど、布団の怪ですか!」
「なんでもかまいやしませんが、けっこうな大物ですよ! さっさと呪を――」
両手の鉄爪を縦横無尽に振るい、おぞましい穢れに染まりきった布団を必死に押し返そうとする深山だが、いかんせん彼我の大きさには差がありすぎる。
その小柄な身が押しきられてしまうまで、もう幾許も有余はあるまい。
「確かに、出し惜しみをしている状況ではなさそうです。ならば……」
刀印を以て宙に描き出されたのは五芒星を象る紋章・桔梗印であった。
その左下の一角を指し示し、春暁が命ずる。
「金剋木! 十二天将、後五……白虎よ! その威を疾く顕せ!」
発せられた命に、今、目の前で戦っている一人の少女が応じる。
少女――深山はその小柄な身を相対する布団の内側へと投げ出していった。
それは自殺に等しい暴挙と思えたが……。
「グウォオオオオオン!」
轟く咆哮! 一瞬で無数の破片と化したのは、彼女の矮躯を包み込んでいった布団の方……そして、その内から現れた深山も幼なげな少女の姿では最早ない。
真っ白な毛皮に包まれた堂々たる体躯の獣がその場に顕現していた。
春暁が使役する強大な十二の識神――十二天将の一にして四方位を司るという伝説の四神、その一。西方の守護神・白虎が封じられていた正体を現す。
破片から瞬時に再生する布団の怪を、白虎もまた瞬時に塵芥へと戻していく。
鋭い牙と爪が閃けば、それだけで部屋の中まで浄化されていくようである。
黒と白、決して混ざり合わぬ二つの色が幾度となくぶつかり合う。
「……とは言え、これでは少々時間が掛かりそうですね。終わらせましょうか。来たれ、我が守護獣! 翼の王・鳳――オオトリの降臨! 急急如律令!」
異界化の影響で遥か高みにある天井をすり抜け、その先の天より舞い下りる、万色光に彩られた巨鳥の姿。
鳳の放つ清浄な光の中では、あらゆる邪気は存在さえ許されない。
白虎に切り裂かれた細切れの破片は一斉に黒い靄を吹き出し床へと落ちる。
最後に左右の爪が十字に交差すると、布団はただのぼろきれとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
鳳は消え、白虎は少女の姿に戻り、怪異と黒い影を祓われた室内は、すっかり落ち着いた雰囲気の上品な子ども部屋へと変わっていた。
同時に甲走っていた騒音や叫声も鳴りを完全に顰めている。
これが本来の部屋なのだろう、もはや鬼気など痕跡さえ残ってはいない。
部屋の外に出ていった深山が、依頼者夫妻をベッドの側まで案内してくる。
そこには……。
「そんな……まさか……な、なんてことを。アタクシは何も知らされて……」
衝撃のあまり、その場へ膝から崩れ落ちた夫人のことなど目にくれず、夫君は俯いたまま表情を殺し、沈黙し続けている。
怪異と化した布団をそっくり失いながらもベッドは部屋の奥に残っていた。
そこに少女が眠っている。
苦悶の表情を浮かべ、着衣は乱れ、大きな鋏で己が首を突いた遺体として。
部屋の異界化と鬼気の影響だろう、腐敗等はさほど進んでいない。
しかし、そのために一層の痛々しさを感じさせられる有様で保存されていた。
相当以前から食事を与えられていなかったのか衰弱の跡が甚だしい。
全身に残る生々しい傷痕は、幼少期からごく最近のものまで数限りなく。
中でも、直接の死因となった喉の自傷を除けば最も新しい、彼女の死の間際に付けられたと思われる性的暴行の痕は……。
「いやはや、惨いことを」
「反吐が出ます。まったく、どちらが鬼だったんだか」
彼らの仕事は霊障・怪異が主であり、それはもう既に解決を見た。
現実的な事件など専門外、後は関係者としかるべき機関に委ねるべきだろう。
それでも、つい嫌悪を漏らしてしまう辺り、この二人、外見以上に心は若い。
「ともあれ、鬼祓いは成功です。そちらのお望みとは違った結果のようですが」
「し、知らん。ワシは何も知らん。学校や家のことなど、妻が――」
「ふっふふふっ、アナタは、アナタはいつもそうですね。そうやってアタクシに全部押し付けて。アナタがメイドたちとしていたことを気付いていないとでも思っているんですか? しかも、しかも、娘にまでこんなことを」
「ワシは……知らん……わ、ワシはただ!」
「この家には他に男性などおりませんよ! ずっと引き籠もっていた娘が外から誰かを連れ込んだとでも!? メイドさえ入れなかった部屋に!?」
喧々諤々、夫妻は角突き合わせて互いを醜く罵り始める。
怒鳴り合いはどこまでも激しさを増す。
ただし、どちらも上流階級の矜持か、手を上げる様子はなさそうだ。
「……あちらの話が落ち着くまではまだ掛かりそうですね」
「これだけしっかりと遺体が残っていれば真実はすぐ明らかになるでしょうに。学校での苛め、メイドによる虐待、両親の責任放棄……はたまた。これだから、人間は嫌いなんです。とっとと報酬を受け取って帰りませんか?」
「フ……そうですね。ですが、その前に」
言って、春暁は閉ざされていた部屋の窓を大きく開ける。
「唵 訶訶訶 尾娑摩曳 蘇婆訶」
そうして唱えられたのは死者の平穏を願う地蔵菩薩真言だ。
「地蔵菩薩よ、泰山府君よ、この憐れな魂を安らかな来世へと導きたまえ」
ふいに、深山の頭上を飛びこえていくものがあった。
ひらひらと舞い踊るように窓から大空へと出でる……。
それは、染み一つない真っ白な掛け布団だ。
はたして幻でもあったのか。
どうやら、その光景は深山の目にしか映ってはいないようだったが。
温かな日の光を浴びながら天高く昇っていく布団は、一人の少女を大事そうに包んでいるような、そんな光景にも見えたのだった。