白い結婚と、白いお砂糖
新しい母となる人に、礼を尽くそうと思った。
……本当は嫌で嫌で堪らないけれど。
伯父である国王が命じた、父の再婚。母の喪が明けたばかりだというのに。
嫁いでくるのは、領土を巡り長年戦を繰り返してきた隣国の王女。和平条約を締結するにあたり、友好の証として望まぬ結婚を押し付けられたのだ。……詳しい事情は知らないが、その王女は“訳あり”で、後妻の道しかなかったらしい。
心は到底受け入れることなど出来ないから、頭で受け入れればいい。
新しい母ではなく、大切な客人を迎えるのだと。……息子ではなく、あくまでも公爵令息として。
それは父も同じらしい。
母が使っていた二階の南の部屋も、内扉で繋がる自分の部屋も堅く閉ざし、階段を見なくて済む一階の角部屋に移動した。
そしてそこから一番離れた二階の北の一室を、客人の為にあてがったのだ。
『形だけの白い結婚』
誰かが言っていた言葉を表すかの距離。父の想いや苦悩を、子供ながらに推し量っていた。
緊張の中迎え入れた隣国の客人は、想像よりも大分若かった。母というよりは、きっと姉程の年齢差だろう。
そしてとにかく……白かった。腰まで伸びた真っ直ぐなホワイトブロンドも、薄い灰色の瞳も、頬の色も。
中年の夫人が着るような、濃紺の地味なドレスだけが、彼女を置き去りにぽっかりと浮かんでいた。
ほんの少しだけ色のある唇が開き、消え入りそうな声が耳に滑り込む。それは何故か僕の鼓膜を激しく震わせ、いつまで経っても消えることはなかった。
年齢や境遇を抜きにしても、父が彼女を『本当の妻』にすることはないだろうと思った。快活で朗らかな……父が愛している母とは、彼女はあまりにもかけ離れていたから。
なにせ『表情』というものがない。一日二回、朝と夜の畏まった挨拶を交わす時も、一日に三回食事を採る時も。
よく喋り、よく笑い、ヘーゼルの瞳に大輪の向日葵を咲かせていた母との違いに、僕は戸惑っていた。
それなのに七つ下の弟は、すぐに彼女に懐いた。最初は遠慮がちだったけれど、ひと月程経った頃には、会えばスカートに飛び込むようになった。母が生きていた頃、よくそうしていたように。
食事の時も隣に座って欲しいと駄々をこねる為、父は仕方なしに、長テーブルの端……父と遠く離れた対面に座っていた彼女を、弟の隣へ移動させた。
それだけではない。弟は彼女の部屋に遊びに行っては、何時間も出てこない日もあった。何をしているのかと問えば、本を読んでもらったり、一緒に絵を描いたり、おやつを食べているのだと。庭で母と追いかけっこや剣術の真似事をしていた活発な弟が、よく飽きないものだと不思議だった。
数ヶ月経ったある日、弟に雪を見せてあげると強引に手を引かれ、彼女の部屋に初めて入った。
青を基調とした部屋には、清涼感のある独特なにおいと紅茶の香りが漂っている。彼女は突然やって来た自分に少しだけ目を開くも、すぐにテーブルの椅子を引いてくれた。
白い手がティーポットを傾け、目の前のカップへと紅茶を注ぐ。弟の前には、子供用のカップに温かいミルク。
はしゃぐ弟を、ちょっと待っててねと優しく制し、彼女は白い陶器のシュガーポットを開けた。
一瞬、何も入っていないと思ったそこには、よく目を凝らせば白い何かがあった。彼女はそれをスプーンで一匙掬い、弟のカップへサラサラと入れる。
弟は「雪!」と嬉しそうに叫び、僕に同意を求めるような視線を送りながら、慣れた手つきでくるくるとミルクをかき混ぜた。
次に彼女は、自分へ向かいこう言う。
「故国のお砂糖なの。こちらと違って白いでしょう? 」
こくりと頷くと、続けて「甘いのは好き?」と訊かれ、またこくりと頷いた。
白い手の白い指が白い砂糖を僕のカップへ入れる。
サラサラサラサラ。
雪なんてこの国では見たこともないけど、もし本当にこんな風だったら、きっと美しいのだろう。
地面とは違い、決して降り積もることのない茶色い水面。その底を覗き込み、白い残像を探した。
「もうひと匙いる?」
こくこくと頷けば、彼女はもう一度同じようにしてくれた。
不思議なにおいと、甘過ぎる紅茶、そして三つの喉がこくりと不規則に鳴る室内。
空になったカップから顔を上げれば、柔らかな灰色の視線とぶつかった。もしかしたらこれが……彼女の笑顔なのかもしれない。
それからは弟に誘われなくても、三時になると自ら彼女の部屋へ行き、テーブルへ着くようになった。白い彼女が僕に降らせる、白い二匙の雪を見る為に。
微笑んだり、驚いたり、少し困ったり。向かい合って白い顔を眺める内に、彼女のそんな繊細な表情にも気付くようになった。
そしていつしか、無邪気に彼女にくっついたり、笑い合える幼い弟を、羨ましいとさえ思うようになっていった。そんな素振りは、絶対に見せなかったけれど。
彼女が朝の挨拶も朝の食事も出来なかった日は、彼女の部屋に行くことを禁じられた。体調が優れず、部屋から出られない日が頻繁にあるのだと……父はそれ以上教えてくれなかった。
健康そのもので、たまに頭痛やら風邪やらはあっても、一日中伏せることなど滅多になかった母。それと比べては随分心配した。
部屋に籠った次の日、普段よりも白い顔でテーブルに着く彼女からは、あの清涼感のあるにおいを強く感じた。
彼女が父に向かい、「薬臭くて申し訳ありません」と謝ると、父は「構わない」と一言だけ返す。母がたまに体調を崩した時には、やれ医者だの、やれ薬だの騒いでいたくせに。もう少し……何か気遣いの言葉はないものかと、胸がもやもやした。
弟はにおいなんかお構い無しに、もう彼女にくっついてはしゃいでいる。病み上がりのくせに……ずっと笑顔でとりとめのない話を聴いたり、食べこぼしを拭いてやったり。
チラリと父を覗き見るも、そんな彼女を少しも見ることなく、黙々とフォークを口に運んでいる。その時初めて、父に対して、もやもや以上の強い怒りを感じた。
もし……万一……彼女が明日、母と同じように階段から落ちて死んでしまっても。父は一切取り乱すことなく、淡々と葬儀をして、淡々と彼女の部屋を片付けるのだろう。母の部屋みたいに大切に鍵を掛けるのではなく、要らないものを屑籠に処分するみたいに。……きっと、あの美しい雪も。
ならば自分が、父の分まで彼女を大切にしようと……そう思った。
公爵令息として? 息子として? どちらも違う気がするけれど、あまり深くは考えたくなかった。考えてはいけない気がした。
それから数年が経ち、十四の歳を迎えた頃には、彼女に対する自分の想いをはっきり自覚していた。
決して告げてはいけない想い。一生秘めておかなければいけない想い。
夫婦の関係は相変わらずで、端から見てもその距離は一向に縮まっていなかった。でも今は、逆にそのことに安堵してしまっている自分がいる。彼女を想う幸福な男は、この世に自分だけなのだと。
十七で嫁ぎ二十になった彼女は、初めて逢った時から何も変わっていなかった。白く、優しく、そして心地好い。
貴族学院に通い出した為、毎日三時という訳にはいかなくなったが、帰宅するとすぐに白い雪を降らせてくれた。大切な、大切な……彼女との一時。
半分大人になった今の自分には、彼女が“訳あり”で後妻の道しかないと言われていた理由も分かっていた。
彼女と『夫婦』になる気などない父にとっては、全く問題ないどころか、むしろ好都合だったのだということも。
一方彼女は、どんな気持ちでここへ嫁いできたのだろう。たった十七で、夫から愛されることもなく、姉弟程の年齢差しかない二人の息子の母親になり……
慣れない地で、故国の雪を懐かしみ、毎日紅茶にささやかな雪を降らせて。
身体が弱くても……一生子供が産めなくても、もし自分が夫ならば、沢山の幸せを彼女にあげたのにと思う。
優しく肩を抱き庭を散歩したり、彼女の愛らしい朗読に耳を傾けたり、屋敷中の布に好きな刺繍を好きなだけしてもらったり。
そして毎日、何度も、彼女にあの美しい雪を降らせてもらいながら、沢山話をするだろう。話が尽きないように、新しい想い出を沢山作るだろう。
自分がしたくても出来ないことを、出来るのにしない父が恨めしかった。
十七歳のある日、長期休暇の為に、学院の寮から家に帰った時のことだった。
彼女と二人きりでお茶を飲む為に、弟が家庭教師と勉強をしているであろう午前中を狙って、朝早くに馬車に乗った。こんな時間に帰ったらどんなに驚くだろうかと、胸を躍らせながら。
屋敷に着くと、土産を手に真っ直ぐ彼女の部屋に向かう。だが……ドアの前でピタリと足を止めた。
何だろう……何かが違う。しんと静かに留まっていた空気が、色を帯びて廊下にまで溢れているような。
控えめにノックをすると、現れたのは彼女ではなく父だった。驚く自分を余所に、彼女とお茶を飲んでいたのだと淡々と言ってのける。
今更引き返すことも出来ず、勧められるままにテーブルに着くと、変わらぬ白い手が紅茶を注いでくれた。けれどシュガーポットに入っていたのは、いつものサラサラの雪ではなかった。クリーム色の鳥やら、緑の葉やら……色とりどりの飾りが付いた、白い小さな四角の山。
「お父様が故国から取り寄せてくださった角砂糖よ。溶かしてしまうのがもったいないくらい素敵でしょう?」
そう言いながら彼女は、淡いピンク色の花が付いた一粒を、僕の紅茶に入れてくれた。それはユラユラと重く底まで沈み、細かい泡を表面に浮かび上がらせる。
……全然雪なんかじゃない。
いつもの習慣でもう一粒入れてくれようとしたけど、咄嗟に手で制し断わる。
……とりあえず溶かさなければ。スプーンで角をつつくと、固く見えたそれは簡単に、ほろほろと崩れ溶けていく。形は違えど、一口飲めばそれはやはり砂糖で。ほんのりと広がる甘さに胸が締めつけられた。
ふと顔を上げれば、彼女の柔らかな笑みがある。その奥には、寒々しい青ではなく、さっきの砂糖の花と同じ、淡いピンク色のカーテン。
……それだけじゃない。ソファーも、ベッドカバーも全て。青からピンクを基調としたインテリアに変わっていた。
いつから……一体いつから?
寮に入ってから? それとも、もっと前から?
……気付かなかっただけなのだろうか。
……気付きたくなかっただけなのだろうか。
この部屋のせいか、彼女の白いはずの頬までが、淡いピンク色に見える。
父のカップが空になったのに気付くと、彼女は何も言わずに紅茶を注ぎ、またシュガーポットから一粒を入れた。
恐る恐る隣を向けば……父の黒い瞳は、白い手でも白い砂糖でもなく、彼女のピンク色の笑みを映していた。
甘い口内は一気に苦くなり、やがて全ての味を失った。
翌年、貴族学院を卒業した僕は、男児に恵まれなかった王室の為に、従姉の王女と婚礼を挙げることとなった。もう十六の歳には、王命で決まっていたことで。
この屋敷から……彼女から離れなければいけないのだと、考える度に苦しかったけれど、今は逆にありがたい。彼女と父が愛し合うのを、傍で見なくて済むのだから。きっとこの先、彼女を母と思えることなどないのだろうから。
別れの日、彼女は泣きながら、僕に白いシュガーポットをくれた。蓋を開ければ、中にはサラサラの白い雪。
「あなたはこちらの方が好きでしょう?」と言って。
そうだな……四角いのは嫌いだ。僕の好きだった、美しい雪じゃないから。
…………雪…………
僕は、本当の雪を見たことがない。見たことなんてないじゃないか。もしかしたら、サラサラしている甘いこっちの方が偽物で……無理やり固めて見映えを良くした苦いあっちが本物なのかもしれない。
結局僕は、彼女に恋という名の夢を見ていただけの、幼い子供だったのだ。
彼女が直射日光に弱く散歩など出来ないことも、朗読で喉を痛めてしまうことも、父のクラヴァットの刺繍は全て彼女がしていたことも、話なんかとっくに沢山していたことも……白でも青でもなく、淡いピンク色が何より好きだったことも。何も、何も知らないままで。
淡い雪を胸に降らせたまま、新しい雪を積もらせることなど出来るのだろうか。
王宮へ向かう馬車の中、頼りないシュガーポットを両手で握り締める。
鏡のような白い陶器には、白い彼女ではなく、母を亡くしたばかりの父によく似た、哀れな黒い双眸が映っていた。
ありがとうございました。