その4
:.゜。 ゜・。゜゜. .゜。・。゜ ::.゜。・。゜.゜.
バク君。いや、もう、あんな凄いの見たら、バク君なんて呼べないよ。
バクは、豚みたいな土色の巨体を、のしのしと揺らしていた。胴回りに対してやけに短い四本の足が、ゆっくりと動いていた。
頭の手前に緩やかなコブがあって、そこからシャープな顔が突き出ていて、先っちょに、ぶつ切りのゴムホースみたいな鼻が伸びている。その鼻を《プルルルルル》と上唇を震わせるみたいに、しきりに上下させていた。時折、細くて長い舌をちょろりと出して、それが砂漠の白の中で遠くからでもはっきりと映えた。そうやって、何度も同じ場所をぐるぐると回っていた。おじさんはただ砂山のてっぺんにしゃがみ込んで、それを眺めることしか出来なかった。
そうこうしている内に、突然バクは立ち止まった。それから顔を地面に近づけたかと思うと、器用に鼻を使って、辺りを掃き回した。鼻がモップ糸の一本みたいだった。そうやって、きらきらと砂金のように光るものが、一辺に集まったかと思うと、バクはゾウのように鼻でそれらを周りの砂ごと口に運んだ。おじさんはもう呆然としてしまっていて、バクが口をもぐもぐとさせているのをじぃっと見て、それが夢を食べる動作だったのだと、ようやく理解した。
どれくらい、経ったのだろう。一時間かもしれないし、一日だったのかもしれない。月の砂漠には太陽も星も無いから朝も夜もわからないし、昔のことだったせいか良く覚えていないんだ。バクは足をネコみたいに畳んで、腹ばいになった。時折、耳をひくひくさせるくらいで、他は動かなくなった。寝てしまったんだ。それを見て、おじさんは、一気に砂山を滑り降りた。
チャンスだ!
おじさんはバクの方へと走った。一休憩したおかげか、足は驚くほど軽かった。それでも、土の山みたいなバクの寝姿が遠景に霞むまで随分とかかったし、それからがまた一大事だった。どんどんと近付けば近付くほど、バクはどんどんと大きく目に映っていく。まだ結構な距離があるのに、そこでおじさんは間違いを犯したことに気付いた。三階立ての大屋敷ほどだった筈のバクが、どう見ても五階分はある。あれは遠くの高い砂山からの、目算だったからね。少しの間違いは覚悟していたけど、ちょっと間違え過ぎだ。寄ってみるとずっとずっと大きい。まだ疲れてないのに、足はがくがく笑って、汗が背中から吹き出した。それでも、おじさんはやらなくちゃいけない。バクをやっつけなくちゃ。
少し前から、ズー、ズー、と音がしていて、何だと思っていたら、バクの寝息だった。バクは腹ばいになっているのだけど、それでもおじさんの頭のてっぺんよりも高い所から、それは響いていた。近付くごとに、音は大きくなっていく。怖かったけど、少しだけ安心した。砂を踏む足音が、それに紛れるからね。
バクが目の前で眠っている。とうとう運命の時がやって来た。小さな頃から、夢描いていた時だ。その夢をポケットから取り出すと、ぴかぴか光っていて頼もしかった。それを両手で掴んで、そのまま真っ直ぐに肘を伸ばして。神様に捧げ物をするようなポーズだね。夢を両手でしっかりと掴んだまま、左肘は真っ直ぐに保ち、右肘を後ろに引く。姿勢は弓を引くポーズとなり、夢はぐんと伸びて一本の線となる。あとは夢に願いを込めて、放つだけ。ここまで来たんだ。でも、ここまで来て、恐ろしいことに気付いてしまった。
失敗したら、どうしよう。
おじさんは自分の夢に自信はあったけど、バクがこれ程までに大きいとは、思ってもみなかった。想定外のケースだ。失敗するかもしれない。矢がバクを倒せればいいのだけど、逆にバクに矢が倒されてしまう危険性だってある。夢の矢はバクの皮膚に弾かれる。夢はバクの目の前で、砕け散ってしまう。バクは蚊にでもさされたかと目を覚ます。すると、どうなるだろう。最悪だ。バクは粉々になった夢の欠片を一つ残らず食べてしまう。おじさんの夢は、バクに食べられ、忘れられ、消えてしまう。
どんな失敗も、これより酷いことってあるだろうか。だって、どんな失敗をしたってその記憶は残るじゃないか。やり直すことだって、反省することだって、苦虫を噛むことだって、諦めることだって、出来る。
でも、この夢は失敗すると、それそのものが消えてしまうんだ。挑戦しようとした思い、ずっと遠い日の決意、叶えようと頑張った毎日、それ自体を全く忘れてしまうんだ。次の日の朝になっても、何事も無かったかのように生きていくんだ。とても大切なものが消えてしまったのに、それに気付かないで。
例えば十年後の別の場所にいるきみが、今ここにいるきみのことなんてすっかり忘れてしまって、それでも日々を何気なく過ごしているなんて、想像したら、悲しいだろう。きっと悲しいだろう。
おじさんは動けなかった。どうすればいいのか、ずっと、考えていた。頭の上から、ズゥーッ、ズゥーッ、とバクの寝息が轟いていた。