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▷主人公:男

 ──僕の故郷の村には迷信がある。


 景観のほとんどを占める水田のなかに、こんもりと小島のように盛り上がった地形がある。その「島」は全体が背の高い樹で覆われて、林のようになっていた。


 林の真ん中には細い一本道があって、島の中央にある古びた小さなほこらに通じていた。高さ1mにも満たない、苔むした石造りのそれには、稲作の守り神が祀られている。


「イナコサマ」。それは、そう呼ばれていた。


 どんなに天候不良が続く年であっても、昔からこの村だけはイナコサマの加護で普段通りの収穫を確保できたとか。ただしそのために、凶作が予想される年には、八月の満月の夜、村の子供をひとり生贄に捧げていたのだと云われている。


「だからその夜だけは、島には誰も近付いちゃなんねえ。ずーっと生贄なんざ出してねえから、腹を空かせて怒り狂ったイナコサマにむしゃむしゃ喰われちまうぞ」


 近所のおっちゃんがよく、僕を怖がらせようとそんな話をしてきた。

 青森・男鹿半島のナマハゲなど、年に一度だけ各家を渡り歩く形態で行事化されたいわゆる「来訪神」は各地に存在しているが、ただ禁忌のみが伝えられたイナコサマはそれらとは少し毛色が違うように思える。


 たとえばけっこう近年、戦前ぐらいまでは実際に邪神イナコサマに生贄を捧げる儀式が行われていて、それを隠蔽するため意図的に作られた言い伝えなんじゃないか……?


 などと、僕の話を聞いたオカルトや陰謀論大好きな知人は妄想を膨らませていたが、村の長閑のどかさを知る僕は、そんなばかなと鼻で笑ったものだ。


 まあどちらにせよ、「怒り狂ったイナコサマに喰われてしまう」などというのは明らかに迷信に違いないだろう。



 ──だから、当時もオカルトを鼻で笑うようなひねくれ盛りだった小学六年生の僕も、八月の満月の夜こっそり自室の窓から抜け出して、深夜の祠に足を運んだのである。



◇◇◇



 秋の先触れのように虫の声が響くなか、月明かりに照らされたあぜ道をひとり歩く。


 やがて「島」の付近に着くころには、不思議と虫の声は聞こえなくなって、沈黙が周囲を満たした。

 沈黙それを振り払うように、申し訳程度の石段を一息で駆け上ると、鳥居だったものの名残だろう朽ちかけた二本の木柱に挟まれて、獣道めいた「参道」が林の奥の暗闇へと続いている。


 何度も遊びに来た場所だったけれど、それは日中とはまったく別の世界に続く道のように思えてきて、鳥居の先を数歩だけ進んだところで僕の足は自然と止まっていた。


「──なにしてるの?」


 突然に背後から声がして、僕は心臓から声が出そうなくらい驚いた。


 おそるおそる振り向くと、そこには僕と同年代に見える少女がひとり、にこにこ笑いながら立っている。見たこともない可愛い子だった。村の子供は全員顔見知りだから、おそらくは夏休みで親戚の家に遊びに来ている子だろうか。


「イナコサマが本当にいるか、見に来た」


 照れのせいでぶっきらぼうに答えた僕に、ふーん、と鼻で応じつつ彼女は、小首をかしげて僕の背後、林の奥を覗き込む。ノースリーブの白いワンピースからのぞいた青白い肩を、つやめく長い黒髪がさらりと流れた。

 

「行かないの?」


 僕の顔を覗き込むように、彼女は問いかけて来た。僕はどきどきしながら、何も言わずに林の奥に向きなおる。闇は、ますます濃くなったように思えた。


「行くよ。でも、足元が危ないから」


 そう言って、ズボンのうしろのポケットから小さな懐中電灯をとりだす。と、いっしょにポケットに詰め込んであった棒付きの飴玉がひとつ、ぽろりと彼女の足元に落ちた。


「これ、なあに?」


 屈んでそれを拾った彼女は、棒をつまんで飴玉をぶら下げるようにしながら、くんくんと匂いを嗅いだ。ピンクの包装越しに、イチゴミルクの香りが鼻孔に届いたのか、彼女は目を丸くしてこちらを見つめてくる。


「甘いにおい」


 言ったのとほとんど同時に、彼女のお腹が「くぅん」と可愛く鳴いた。 


「お腹すいてるの?」


 えへへと笑う彼女に、僕は問いかける。


「……うん、食べてないから」


 ふと、お茶の間でニュースを見た家族が、都会では子供にご飯をあげなかったり、暴力をふるったりする親がいると話していたのを思い出す。もしかしたら、そういう子なのかも知れない。それで親戚の家に預けられた、だとか。


「あげる」

「ほんと? ありがとう!」


 言うが早いか飴玉をぱくりと咥える。包装されたまま。


「あっ、ダメだよ袋あけないと」

「んー? どうやるの?」


 僕は懐中電灯を小脇に挟んで、彼女から受け取った飴玉の包装をむきとる。そして彼女の口元にピンクの飴玉を差し出した。


「んむっ」


 僕に棒を持たせたまま、彼女は再び飴玉を咥える。少しだけ、彼女の柔らかい唇と舌が僕の指先に触れた。その心地よく鳥肌が立つ未体験の感触に、僕はつい手を離すのを忘れて、彼女が美味しそうに飴を頬張る姿をぼーっと眺めてしまった。


「ふぉうふぃはほ?」

 

 口を離して「どうしたの?」と言い直す彼女に、僕は慌てて飴を押し付ける。


「自分で持って」

 

 ちょっと突き放すような口調になってしまったのは、照れ隠しだ。

 そして僕は改めて懐中電灯のスイッチを入れ、林の奥を照らす。飴を咥えた彼女の気配を背中に感じながら、ずんずん歩いて祠の前まで辿り着く。怖さは、かけらも感じなくなっていた。


「何にも、ないね」

「うん」


 僕の言葉に応える声が思いのほか耳元から聞こえて、耳たぶが熱くなる。

 懐中電灯に照らし出された光景は、昼と何ら変わらず拍子抜けだった。そして、さすがにあんまり長く部屋を空けておくと、家族に気付かれてしまうかもなと思い至る。


「そろそろ帰るよ」

「うん。途中までいっしょに行くね」


 振り向いた僕に、応えた彼女の表情はすこし寂しそうに見えた。


「うちは郵便局の裏だから。いつでも遊びにきていいよ」


 鳥居の手前ではやくも足を止め、飴玉咥えたまま手をふる彼女に、僕は精一杯の言葉をかける。


「うん、ありがとう。おやすみ」

「……おやすみ」


 後ろ髪ひかれながら石段を駆け下りて、あぜ道の途中で名前を聞きそびれたことを思い出す。だけど振り向いた月明かりの下に、彼女の姿はもう見つけられなかった。


 翌日、朝からずっと彼女のことが頭から離れなかった。どこかで会えないものかと村をぶらぶら歩いて、五周ぐらいしたけれど、その日は彼女に会えず終いだった。


 それから何度か夜中に抜け出して「島」を訪れてもみたけれど、結局そのまま、僕が彼女と再会できる日は来なかった。


 ──それが僕の、淡い初恋のお話だ。


 次の年、中学に上がるタイミングで僕は両親とともに近隣の町に引っ越すことになる。


 やがて大人になって県外の企業に就職し、働いて、働いて、働いて──そしてまんまと体を壊し、療養のため何年ぶりかで村に戻ってきたのだった。



◇◇◇



 病気のことを詳しく伝えていない祖父母は、それはそれは喜んで僕を迎えてくれた。


 そして昔のまま何ひとつ変わらない村の風景のなか、イナコサマの「島」を目にした僕は、忘れかけていたあの夜のことを鮮明に思い出したのだ。


 今になってみれば、色々と疑問も浮かぶ。彼女はなぜ、あの時間あの場所にいて、そしてあの場所で別れたのか。やはり、虐待を受けた少女が逃げ込んでいたのだろうか。


 家に帰らなかったのなら、彼女はあの後どうなったのか。それはもう確かめようがない。


 あのとき、もっと何かできることはなかったのだろうか。切ないような、後ろめたいような、もやもやが僕の胸の中にわだかまる。


 今宵は八月の満月。もしかしたら、もやもやを少しでも晴らせるかも知れない。根拠もなくそう考えた僕は、あの日のように、夜中にこっそり家を抜け出した。


 月明かりの中を歩くあぜ道、「島」に近付くにつれて静かになっていく虫の声。まるでタイムスリップしたかのように何もかも同じで、ただ、石段を登るだけで僕の息が切れたことだけが、違っていた。

 

 やはり、林の奥の闇は深い。何もないことは知っていても、そのまま進む勇気は湧かなくて、ライトを点灯するためにポケットからスマホを取り出した。


「──なにしてるの?」


 そのとき背後から、あの夜と同じ言葉が聞こえた。僕は驚くよりも、喜んで振り返っていた。ありえないと思いつつ、そんな展開をどこかで期待していたから。


「ひさしぶり。会いに来てくれて、うれしいな」


 あの頃と全く変わらない少女の姿でそう言って──と見えたのは一瞬だけで、その全身がモザイクみたいに滲んだあと、そこには僕と同年代の女性が立っていて、穏やかな笑みを浮かべている。


「ひさしぶり。……元気だった?」


 白いワンピースも、長い黒髪も青白い肌もそのままで、美しい大人の女性になっていた彼女は、僕の問いかけに無言で小さく頷いて──そして抱きついてきた。 


「えっ」


 腰に細い腕を回し、耳を僕の胸に押し当てる彼女。ふんわりと香る髪の匂いは、子供の頃にかいだ道端の小さな白い花のそれだ。心臓の早鐘が聞こえてしまわないか気が気でない。


「……きみは、あんまり元気じゃなかったみたい」


 彼女は言って、僕の顔をじっと見上げる。


「そう、だね」


 蠱惑的な上目遣いに頭が沸騰しかけ、リアクションに困った僕は辛うじて、あのとき聞けなかった問いを口にした。


「そういえば、名前を知りたかったんだ」


 彼女は「いいよ」と言って、今度は僕の首に腕を回すと、背伸びして耳元に唇を寄せる。そうして、その名を囁いた。



「わたしが、イナコサマ」



 ……ああ……。からわれているとは思わなかった。もしかしたら、そういうこともあるのかなって、頭の端っこでは考えていたからだろう。


「ね、自分にサマって付けたら変? みんな、そう呼ぶから」

「変じゃないよ」


 僕はそう答える。そして、もし「そう」だったら言おうと思っていたことを、そっと口にした。


「お腹、すいてるよね」

「……うん。ずっと、食べてないから……」

「じゃあ、食べてもいいよ。もう美味しくないかもしれないけど」


 彼女は何も答えずに、回した腕でぎゅっと僕を抱きしめる。たぶん、三分くらいはそうしていた気がする。そして、すうっと体を離す。


「きっと、痛いよ?」

「なるべく、優しくしてほしいな」

「ふふ、がんばるね」


 微笑んだ彼女の全身がまたモザイクみたいに滲んで、そして人の形の輪郭を崩しながら僕の体を呑み込んだ。よく見るとそれは無数の小さなバッタ──イナゴの群体で、僕の肌にとりつくと、その小さな顎を蠢かせてぼくをむさぼり喰いはじめた。


「ぐっ……あがっ……」


 体じゅうを襲う凄まじい激痛に僕はのけぞり、地面をのたうつ。ふと気がつくと、イナゴが集まってできた上半身だけの彼女のきれいな顔が目の前に近づいて、柔らかい唇が重なって、入り込んできた舌が絡みついて──次の瞬間にはそれがぜんぶイナゴに戻って、僕の舌にむさぼりついていた。



 そして僕の意識は、闇に呑まれ消えた。



◇◇◇



 それから数か月後。僕は「島」の祠の前に屈んで、目を閉じ手を合わせていた。


 あのあとの記憶は、すごく曖昧だった。目が覚めたときには、幼いころから見慣れた天井の木目もようを背景に、妙に落ち着いた様子の祖父母が僕を覗き込んでいた。


 マンガみたいに全身ぐるぐる巻きの包帯は、一日で血や膿やよくわからないもので汚れ切ってしまうから、毎朝かいがいしく祖母が取り替えてくれた。そのとき祖母が戸棚から取り出して塗ってくれる瓶詰めの薬が、驚くほど痛みをやわらげてくれるのだった。


 そうして一度も病院に行かず、すべてを祖母に任せてドロドロのおかゆだけを食べる生活を一ヶ月くらい続けただろうか。


 気付けば、包帯の下はきれいさっぱり完治していた。そもそも今となっては僕がどのくらいの傷を負っていたのかわからないし、あの薬のことも含め、祖父母に聞いてもはぐらかされるばかりだったけど、とにかく僕の体はすっかり元通りになっていた。


 ──いや、「元通り」は語弊があるかも知れない。なにせ、僕の体を侵していたはずの末期癌までも、完治してしまっていたのだから。


 夕刻の林の中を、秋風が吹き抜ける。僕は目を開けて祠を見つめた。


 先日、近年でも稀なくらい出来がよかったと祖父が言う新米を、炊き立てで食べた。3パックで72円の納豆をかけただけのその一杯は、今まで生きてきた中でいちばん美味しい食べ物だった。


 休職していた会社を正式に辞めることにした僕は、来年から祖父母の農作業を手伝うことになる。だから今日は、そのへんの諸々を稲作の守り神であるイナコサマに報告しに来たのだった。


「また来るよ」


 ポケットから取り出した棒付きの飴玉の包装をむいて、祠の前にそっとお供えする。そしてゆっくり立ち上がると、参道をひとり鳥居の方へ歩き出す。


 ────。


 なんとなく呼ばれた気がして振り向くと、ピンク色の飴玉に、小さなイナゴが一匹ちょこんと乗っていた。



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