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慰安婦問題の根源

 さて慰安婦問題が表沙汰になったのは、日韓の国交が樹立して以後のことでした。

 「ただ働きさせられた」と報道したのは朝日新聞で、しかし当時を知る元軍人は取り上げませんでした。何故なら、慰安婦が一般兵士たちよりも多額の給与だった事実を知っていたからです。

 それでは何故、「ただ働き」になってしまったのか、結論から言えば「国連の責任」です。

 経緯を説明しましょう。

 慰安婦への支払いは「軍票」という、一種の信用手形で行われていました。

 軍票は軍で換金しなければ現金として使えません。そこで慰安婦は休日を利用して、軍の経理部で軍票の現金化を行っていました。

 しかし多額の現金を持ち歩くのは不都合が多く、大抵は「軍事郵便貯金」として管理されました。

 これらが後に悲劇に繋がります。

 日本が戦争に敗れ、戦地にいた日本国民は全て故郷に強制送還されることになりました。

 国連軍の方針は「日本人は日本列島に、朝鮮人は朝鮮半島に」で、軍人や軍属が優先的に保護されて送還されていましたが、民間人である慰安婦は保護対象ではありません。

 そこで日本軍は一計を案じ、慰安婦を軍属として国連軍に申告し、彼女たちを無事に故郷へ送り届けることに成功します。

 ところが、ここで慰安婦たちの境遇に差が出ます。国連軍は朝鮮半島と日本国内の連絡を断絶して、朝鮮人慰安婦たちが懸命に稼いで貯金した現金を、全く扱わせなかったのです。

 また国連軍の命令で軍隊が解散させられた結果、軍票の現金化は困難になり、ほとんどが紙切れになりました。

 更に軍事郵便貯金も整理され、持ち主不明の口座は全て国庫に接収されましたので、国交が断絶されていた朝鮮人慰安婦は口座の貯金を払い戻し請求することもできないままに、全ての貯金を失っています。

 こうした状況を、韓国との国交樹立後に取材した新聞社がありました。

 恐らく慰安婦たちはこう言ったはずです。

「まるでただ働きさせられたようではありませんか?」

 これを新聞記者が面白おかしく脚色して「日本は慰安婦たちをただ働きさせた」などと、事実関係を伏せて書き立てた為に話がこじれ、現在に繋がります。

 もしも新聞記者が正確に事の経緯を報道していれば、日本政府の対応は違っていて慰安婦問題は即座に解決していたでしょう。

 国連軍が朝鮮人の貯金を払い戻しさせていれば、問題にもならなかったでしょう。

 軍隊が残存していれば、軍票の取り扱いも少しは好転していたかもしれません。

 こうした経緯を裁判所は全て調べておりますから、慰安婦の中には貯金を取り戻した人もいますし、訴えそのものが荒唐無稽、事実無根として斥けられている人もいます。

 慰安婦問題は国内法でも、国際法でも解決した問題の一つであり、未だに騒ぎ立てる人々は国連軽視の無知蒙昧なる人々です。

・従軍慰安婦にされてしまった李容洙(イ・ヨンス)さん

1928年・・・韓国の大邱テグに生まれる。


1942年・・・14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられ従軍慰安婦となる。連行される際抵抗すると殴られたり電気による拷問を受けて死にかける。


1943年・・・韓国の大邱から15歳ごろ連行される。なお、42年の出来事と整合性が取れないのは、消せない記憶だが電気ショックのため若干消えてしまったためと思われる。


1944年・・・16歳の時に軍服みたいな服を着た男に連行され、台湾へ渡る。

 移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強姦される。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれた。こののち1947年まで慰安婦として過ごす。なお、過去の出来事と整合性が取れず、なおかつ敗戦後も慰安婦であったのは電気ショックによる脳へのダメージが起因しているものと思われる。


1947年・・・慰安婦生活を終え、故郷に戻る


1993年・・・1944年夏、友達が家に誘いに来てついて行くと、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンピースと赤い靴をもらって感激してついて行く。(「写真記録 やぶられた沈黙」1993年)


1993年・・・一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。

 国民服に戦闘帽をかぶっていました。赤いワンピースと革靴の入った包みをもらって、幼心にどんなにうれしかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座についていくことにしました。(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」1993年10月)


1998年・・・1944年のある夜、韓国の故郷から日本軍により誘拐され、日本軍の性奴隷として足かけ3年間従事

慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。(英文中国日報 1998年8月23日)


2002年・・・14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられ、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた(元「慰安婦」へ補償を~日本共産党との会合 2002年6月26日)


2004年・・・1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。(「消せない記憶」~京都での市民集会李容珠 2004年12月4日)


2004年・・・16歳でわけが分からないまま連行され、1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦(京都新聞(2004年12月5日)


2005年・・・女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。その時、私は韓国の年齢で16歳でした。(証言集会~同志社大学(2005年4月21日)


2005年・・・韓国の大邱から15歳ごろ連行された。(朝日新聞 2005年8月11日)


2006年・・・15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間の経過を証言した。(「埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議」JanJan 2006年10月13日)


2007年・・・1944年の16歳の時に台湾に慰安婦として連行され(中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’韓国・オランダ人女性3人が証言」2007年2月 16日)


2007年・・・15歳の時、家で寝ているとき小窓をたたく音に目を覚まし(イヨンスさいたま公聴会(2007年2月23日)


2007年・・・15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた。(JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」2007年2月26日)


当初の証言では、友達のおかあさんに自分の娘と一緒に慰安婦になれと勧められて慰安婦になった。


■(P.133)ある日、私がその子の家に遊びに行くと、おばさんが「お前は履物ひとつ満足に履けなくてなんというざまだ。いいかい、お前もうちのプンスンと一緒にあのなんとかというところに行けばなんでもあるらしいから。ご飯もおなか一杯食べられるし、お前の家族の面倒もみてくれるって話だよ」と言いました

 →友達のキムプンスンのおかあさんがイ・ヨンスに娘と一緒に慰安婦になるように諭している様子が克明に描写されています。この頃は日本人、朝鮮人の売春あっせん業者による月300円の「慰安婦募集募」の新聞広告が出ていましたから、彼女らの両親は娘が売春婦になる事を100%認めていたという事になります。


■(P.133) プンスンと川で貝を採っていたら、向こうの土手の上にみたことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人達が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方に降りてきました。

男の人が私達に手真似で行こうという仕種をしましたが、プンスンは知らん振りして反対の方に逃げました。

 それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。

母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。赤いワンピースと革靴の入った包みをもらって、幼心にどんなにうれしかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座についていくことにしました。

 →イ・ヨンスを呼びに来たのは友達のキムプンスンと言っています。これは後に「軍人と、軍人に首のほうになにかをつきつけられている女性」に変化します。また、日本人の男=慰安所の経営者の服装も国民服です。「軍人」「銃剣をつきつけられた」に今は証言が変わっています。

ワンピースと皮靴をもらって嬉しかったと、自分の意思で慰安所の経営者についていく事を決心したと述べていますね。軍人による強制連行など全くのウソです。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/iyonsu/iyonsu.html



・従軍慰安婦にされてしまった鄭書云チョン・ソウンさん


1924年・・・生まれる


1937年頃・・・13歳の時、(当時オランダ領である)インドネシアに連れて行かれ、7年間にわたって日本軍の慰安婦として働かされたと証言。同行23人、虐待され体は今も傷だらけ。アヘン中毒となる。


1945年・・・終戦時に日本軍の慰安婦生き埋め計画を知り、連合軍に通報して阻止。


1995年・・・中国で開かれた北京女性大会で、韓国代表として出席「日本の軍医官から不妊手術を受けており金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」と証言した。


1996年・・・72歳


※ 日本軍がインドネシアを占領していたのは、1942年~1945年までの3年間。

※ 1942年以前のインドネシアは、オランダの植民地でした。

※ 彼女の主張では、日本が支配する以前のオランダで売春行為を行い、日本がインドネシアを占領すると、売春を止めた事になります。



・従軍慰安婦にされてしまった黄錦周」(ファン・クムジュ)おばあさん


(1)従軍慰安婦と戦後補償 / 著者:高木健一

 生活は貧しく、12歳の時100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。

 1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった。


(2)国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日

 17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。


(3)日本TV企業"TBS"「ここが変だよ日本人」というTV番組より(従軍慰安婦問題)

 私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ


(4)日韓社会科教育交流団韓国を訪問 / 1997夏期

 満18歳になった時のある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。


(5)元日本軍「従軍慰安婦」の証言を聞く集会 / 1997年12月5日

 村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅かされ、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。


(6)黄錦周さんの証言を聞く会 / 2001.07.17 / 東京大学にて

 14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。

 つらい体験だった。



・従軍慰安婦にされてしまった金君子キム・グンジャおばあさん

 1942年3月、養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。

 中国・ソ連・朝鮮の国境近くのコンシュンというところに金曜日に連れて行かれ、土曜日の午後にはもう軍人の相手をさせられました。

(「東京の高校生 平和のつどい」 2005年11月)


 幼いとき両親をなくした金さんは、六十数年前、日本植民地時代の韓国江原道で、養女に出された。ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。着いたのは、中国吉林省琿春の「慰安所」。

 女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。

 翌日から兵隊たちが小さな紙の券を手に小屋の前で列をつくった。広さは三畳ほど。堅い木の寝台に裸電球。一日三十人の相手をさせられた。

(北海道新聞 2005/06/23 <戦後60年 戦禍の記憶> 語り継ぐ心 (3))


 李さんの隣の部屋で暮らす金君子キム・グンジャさん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。

(韓国新聞 元慰安婦たち、静かに寄り添って(朝日新聞・関西) 2006年03月 02日)

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