信じる者は掬われる
フランスで痛ましい事件がありましたね。
宗教が絡むと、人は残酷になれます。
かつては黄巾の乱、十字軍、一向一揆、島原の乱、太平天国の乱、オウム真理教による日比谷サリン事件など宗教関係で起こされる騒乱がありました。
しかし、多様性を認め、互いを尊重する成熟した社会に於いては宗教対立を暴力で解決しようという動きは減少していきます。
信仰の自由は、何を信仰し、或いは信仰しないかを個人が決定できます。それは自由ですが、相手が信仰している対象を頭ごなしに否定する自由はありません。それと同じく、自己の信仰を他者に押し付けてはなりません。
そういう分別がつかない未熟者は、社会の中で信仰を叫ぶ権利はないのです。
話し合いもできない、要するに議論すれば崩れてしまう信仰などまやかしです。
戦国時代の日本へ布教活動に来た宣教師たちは、我が国での布教活動の難しさを本国に書き送っております。
ある者は「日本人に教義を教えるのは難しい」と書き残し、別の者は「難しいけど、やり甲斐がある」と書き残しました。
宗教は一つの文化体系ですから、根付くまでには長い時間と多大な努力が必要です。
我が国でも仏教の受容を巡って内乱があり、それ以後も何十年、何百年とかけて少しずつ受容が進みました。
キリスト教が伝来してより四百年以上経過しても、我が国でのキリスト教受容は微々たるものです。
他国でも同じ状況になると思いますが、性急な受容は軋轢を生み、禍根を残すのが常です。
押してダメなら、引いてみるのが良いでしょう。




