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自殺を止められた女の子の話

作者: くろれしき

 まだ朝日が昇る前、空に赤と紫が混じり合った、そんな薄ぼんやりした時間帯だった。場所は学校の屋上、高山ハルカは鉄柵に寄りかかり、ぽかんと口を開けながら、今までの自分の人生について振り返っていた。

 振り返ると言っても、自分の人生にこれといって大事な出来事はない。もっと言えばその事実こそが今ここで人生を振り返らなくてはいけない最大の理由なのだが、それでもハルカは意地になって必死に自分の思い出を探っていたのだ。

 強いていうならば、運動会だろうか。

 頭をぽりぽり掻きながら、ハルカはもうずいぶん昔のことを思い出す。

 当時はまだ小学三年生だった。

 運動会という一大行事を前に、私は人生でおそらく初めての緊張を感じていた。


 徒競走で転ばないか、ダンスの振り付けを間違えないか。学校に行く間中、まだ始まってもいないことをあれこれと考えていた。

 ハルカにとって、その日の運動会は特別なものだった。

 その日は父親が初めて学校に来る日だった。

 父親は、私がまだ幼い頃に都会の病院に入院した。カンゾウという臓器にガンが見つかったのだという。母親が何ともないような顔で『ガン』というので、幼い私はそれを大した病気ではないと勘違いをした。きっと、すぐに父親は戻ってくる。

 病院が家から遠く離れていたこともあり、私が父親に会いに行ける日は限られていた。月に一度、無理やり時間を見つけては母親と二人で父親に会いに行った。すぐに戻ってくるのにどうして会いに行くのか不思議だったが、父親に会える喜びの前ではそんなことはどうでもよかった。 

 病室に入ると父親は大抵じっと本を読んでいたが、入り口に立っている二人に気づくと、すぐに笑顔で病室に招き入れた。

 私は父親に色々な話をした。

 学校でドッジボールをしたが全くつまらなかったこと、学校の給食が美味しくないこと、学校で趣味の合わない友達と喧嘩をしたこと。

 話をするたび、父親は大げさに笑って面白そうに私の頭をぐちゃぐちゃと撫でた。

 そして、お返しをするように父親も色々な話してくれた。

 この間読んだ小説がものすごくつまらなかったこと、病院の食事は全く美味しくないこと、定期検診をしに来たお医者さんと喧嘩をしたこと。

 父親がジェスチャーをつけて大げさに話をするたび、私も大げさに笑った。父親と話すのは楽しく、時間を忘れた。毎日病院に来ていたいと思った。

 幼い私は父親の身体の中にガンがあることなど、全く忘れてしまっていた。

 そんな日々が、四年間続いた。

 そして、その日に至る。

 ずっと入院していた父親が特別に外出の許可を取って学校の運動会を見に来るのだった。その事実だけで心が舞い上がった。

 母親に車椅子を押されて、父親は子供みたいに笑っていた。

 そんな中での運動会ということで、人生初めての緊張を感じている私をよそにに、父親はいつにも増して上機嫌だった。

 七海なら大丈夫だ。父親の優しくて穏やかな口調を思い出す。私の背中を撫でる温かくて大きな手も。

 頑張る。確かそう返事をした。

 私はその日、徒競走で初めて一等賞をとった。父親は手を叩いて祝福し、母はそんな父に大げさよと言った。それからそっと私におめでとうと言った。

 木陰に敷物をひいて家族三人で重箱を囲んで食べた。ピクニックみたい、と私は言った。エビや、メロンや、もちろん私の大好きなアスパラガスチーズも入っていた。

 人生で一番楽しかった瞬間を挙げるなら、そのときかもしれない。

 アスパラガスチーズを食べた瞬間ではなく、その数秒後に母親が口についたマヨネーズを拭ってくれた瞬間。

 私はその瞬間、幸せすぎて死ぬかもしれないと本気で思った。

 人間には、楽しい瞬間と悲しい瞬間が驚くほど均等に現れる。

 そんな祖母の話を思い出した。

 父親が死んだのは、その三日後のことだった。


 靴下を脱いで素足になると、地面のひんやりとした温度が足裏に伝わってきて心地がよかった。 

 朝の地面は生き物の肌みたいだと思う。少し湿り気があって、たまに張り付いた小石がゴロゴロと足元をくすぶる。ちょうど、小動物に舐められている気分だ。ペタペタと幾つか足踏みをしてから、七美は今地面に立っているのだという当たり前のことを実感する。

 屋上には、誰もいなかった。

 ただ風が吹いていて、シャツの中をサラサラとくぐり抜けていった。

 セカンドバッグと靴を柵の前に綺麗に並べてから、七美は曇り空を見上げた。毎日見ているはずなのに、空を見るのがずいぶんと久しぶりな気がした。

「絶好の、自殺日和じゃん」

 私は大きく伸びをする。

 曇りは、私が一番好きな天気だった。人生最後の時に、曇り空なのは運がよかったと思った。

 

 もう一度、再確認するみたいに、自分の胸に手を当てる。

 何もない、と思う。

 何も背負うものがなくて、さらに言えば、何も背負わされていない。

 さっきまで感じていた寂しいという感情は、いつの間にか人生を捨てる安堵に変わっていた。


 私は手すりに身を乗り出して、柵を跨ぐ。昨日の雨の湿り気が、まだ手元に残っていた。涙は流さない。最後にせめて笑っていようと決めた。すーっと息を吸い込む。体が軽くなるみたいだ。

「お母さん、お父さん」

 空に呼びかけても、返事がないことは、よく考えれば当たり前のことだ。

 最後に一言。

 ありがとう。

 この世界はつまらなかったけど、でもありがとう。

 最後の最後に思い浮かべた両親の顔は、繕ってるのがバレバレの半泣き笑いだった———。


「何してんの?」

 飛び降りようとした時、背中から声をかけられた。手すりから手を離すのを一瞬躊躇して、私は振り返る。そこには知らない顔の男が立っていて、キョトンとした様子でこちらを見ていた。

「そこで、何してんの?」同じことを聞く男の表情は本当に何をしているかわからない類のものだった。

「見て分かんない?」一度決めかけた決意を邪魔されて、つい怒った口調が口に出てしまう。

 男はのんきにこちらに好奇の目を向けていた。

「死にたいの?」

「あなたには関係ない」

「まあ、そりゃそうなんだけど……」

「説教でもする?」

 人生集大成の八つ当たりをぶつけたつもりだったが、男は気にする風でもなく「手厳しいな」と苦笑いを浮かべただけだった。

「飛び降り自殺って、失敗するとかなり痛いらしいよ」

 そうきたか。

 新鮮な切り口に、つい感心する。

 ドラマや映画で自殺を止めさせる場面はよく出てきた。命がもったいないだの、世界は素晴らしいだの、みんな好き勝手に説教する。でも正直なところそんなことは最初から考えているし、その結果裏切られたから自殺をするのであって、ドラマの登場人物のように感銘を受ける気分にはなれなかった。

 しかし痛さという観点から自殺を評価したものは見たことがない。実際、どのぐらい痛いのか想像すると少し慄いた。

「全身の痛覚が反応するんだもん、そりゃそうだよな。植物状態になると、脳は動いてるのに痒いとことか全然かけなくて、言いたいことも言えなくて、それでストレスとかドンドン溜まったりして、もう、ヤバイらしいよ。植物状態だったばあちゃんが言ってた」

 冗談を言ったつもりか知らないが、あいにくツッコミを入れる気分にはなれない。

「なんなら楽なの?」

「さあ、自殺には詳しくないから。でも、ガス自殺とか楽そうじゃん?」

 さらっと倫理的に危ういことを喋るのは、この男の特技なんだろうか。

 男は違和感なく隣に歩いてきて私を鉄柵から引っ張り下ろし「それと、これはお願いなんだけど」と付け加えた。

「ここで自殺するの、やめてくれないかな」

「あんたに決める権利はないでしょ」

 私はつっけんどんに言い返す。

 男は少し寂しそうに苦笑した。

「うん、ないよ。だから、これは単なる僕の身勝手なお願い。この場所、気に入ってるんだよね」

 男は気持ちよさそうに辺りを見渡す。

「風気持ちいし、山見えるし」

 屋上からは、うっすらと山麓が見えないこともなかった。

「でも、そんなところで死ぬ人が出たら、次からここ立ち入り禁止になっちゃうでしょ?だから、死ぬなら他の場所にして欲しい」

 私は言葉に詰まる。

 これからの世界と関係なくなる者が、これからも関係を持ち続ける者の場所を守る。男の話には全体として筋が通っていたし、頷けるものだった。

「なるほど、道理だね」

「やけに物分りがいいんだね」男は笑い、それから言った。

「どうせなら、木に囲まれたところで死ぬといい」

「なんで?」

「植物状態のおばあちゃんの話によると、人の魂は死んだ後森に帰るんだとさ。」

「魂が帰ったからなんだっていうのよ」

「さあ、でも最後くらい、帰るところがあってもいいんじゃないかな」

「馬鹿みたい」

「そうかな」

 人が自殺しようとしているというのにのんきな彼にため息をつく。

「そういえばあんた、私が自殺するの止めないのね」

「止めて欲しいの?」

 さも驚いたといった様子でこちらを振り向く。

「いや、別に」

「だったら、いいじゃん。それで」

「そうかしら」

 実際私も何度か止められた。まあ結局誰も私を説得できなかったけど。

「その人がちゃんと考えて死のうと決めたんなら、俺にそれを止める権利はない。それに止めたところで、最終的に決めるのは君じゃない」

「ふーん」隣に置いてあったバックをもう一度肩にかけ直す。

「あんたの考え方、結構好きよ」

 手を振ってもう会うこともないだろう男に別れを告げ、私は昇降階段を下った。

 会話をするのは、ずいぶん久しぶりだ。両親が死んでから、私の周りには私を本気で思ってくれる人はいなくなった。

 それどころか、自分と会話をしてくれる人さえいたかどうかと聞かれたら首をかしげる。

 もっと前にこの男に会いたかったと思ったのは、現状とのギャップによる人間センサーの誤作動だろうか。私が昔この男に会っていたら好きになっていたかもしれないと思ってしまったのは、多分センサーの誤作動だ。

 

「ただいま」

 玄関で叫んだところで、返事はない。それでも一応、事務的に挨拶をする。一度挨拶せずに内に入った時、ほとんど八つ当たりで泥棒と同じように扱われたことがあるから。

 いつものようにおじさんはソファーに座ってつまらなそうに夕方のニュースを見ながら、私に食器洗いと洗濯物の取り込みを命じた。家事さえこなしていれば、特に文句の一つも言われない。

 本当はもう帰ってくるはずのなかった家を見て、私はふと不思議な気持ちになった。

 本当は、今私はここにはいない。

 でも不思議なことに、不思議でないけど不思議なことに、私の心臓は今ちゃんと波打っているし、私の眼の前に閻魔大王は立っておらず食洗機がぐるぐると回っていたのだった。


 とりあえず、私はサイトで『自殺スポット 人気 ランキング』と打ち込み、行けそうな距離にでかつ綺麗なところを一つだけ見つけた。


 青い空、波の音、それに渡り鳥の群れも見える。

 私は一人、地球岬にいた。

 サイトに書いてあったように、地○岬からは本当に地球の丸い形が見えた。

 海にそり出した断崖絶壁の一番先端で、私はどんとあぐらをかく。

 昨日当てずっぽうで決めたにしては、運の悪いことに悪くない場所だ、と私は一人で苦笑いを浮かべる。

 昼食は『港の宿』と書いてある定食屋ですでに済ませていた。最後だからということで、怪しまれない程度に贅沢なコースを注文。——出てきたカニ料理は見るからに大げさな器にのせられていて、尻込みしていると味わうこともできずにすぐに満腹になってしまった。


 しばらく私はそうやって、座っていた。

 ついに死ぬのだな、ということは、一回目よりも素直に実感できた。一回目は不覚にも邪魔が入ったが、今回ばかりは周りには誰もいない。

 多分、私の自殺に最初に気づくのは、おじさんだろう。

 ———おじさんは、いつ気付くだろうか。

 私が帰ってこないでは、おじさんは一人で食器も洗えない。あいつはどこだ、と拗ねながらもさして気に留めることもなく寝床につくだろうか。

 変だなと思い始めるのは明日の朝ぐらいだろう。今までに一度も、日をまたいで帰らなかったことは無い。だんだん焦り出したおじさんは、昼間ぐらいから本気を出し始め、その1時間後やっと私の机の上の置き手紙に気づく。

 遺書を見て驚くおじさんの顔を想像して、どこからともなくクスッと笑いが漏れた。


 そういえば、あの男の名前を聞き忘れたな、と今更になって思う。

 最後の最後に私の邪魔をした一回会ったっきりの男の名前が無性に知りたかった。何年ぶりだろう、あんなのんきな人を見たのは。

 その人との会話は楽しくて、気のせいかずいぶん懐かしい感じがした。

 ありがと、と一応声に出して言う。


 次に、さようなら、と声に出さずに頭を下げる。宛先は全地球の生物に。さようなら、私はここから去ります。


 そういえば、あいつは森で死ぬといいとか言ってたけど、結局海になってしまった。まあ、変わらんからいいか。


 真っ青な空を見て、深く深呼吸した。

 北海道の新鮮な空気。

 私は一歩を踏み出す。

 正確に言えば、踏み出そうとする。

 そこで聞こえた、のんきな声。

 

 飛び降り自殺って、痛いらしいよ


 ———私の足は、そこで止まった。



 

 

「オス、死ななかったんだ」

 私がコーラを口の中で転がしながら甘露甘露と言っていると、背中をぽんとたたかれた。

「おはよ、少女よ」三日前に出会ったばかりなのにやけに馴れ馴れしく隣に並んだ男を、私はギロリと睨む。

「二回も邪魔しやがって」

「ん?」

 やっかむセリフは完全に八つ当たりだ。

「そういえば、よく屋上にこれたわよね」

 一旦自殺から話題を変える。この学校の屋上の鍵を持っているのは私と教職員だけで、男が来るまで屋上で誰かに会ったことはなかった。三日前はそれ以外のところに驚思考がいって気づかなかったが、よく考えればおかしな話である。

「ああ、鍵ね。こないださおり先生がくれた」男はくるくると指で鍵を回してみせる。

 あのヤロウ、と私は30代ほどの女性ののニヤリと笑う顔を想像する。私だけ特別にって、言ってたのに。

「そういえば、あんたの名前」

 さおり先生の文句の一つも言う代わりに、最後死ぬ間際に気になって仕方がなかったことを聞く。

「木下拓哉」あっさり。

「お前と同じ学年。クラスは違ったと思うけど」

「全然気づかなかった」

 まだ私が真面目に授業に参加していた頃、下を向いて本ばかり読んでいた私はクラスの子の名前すら全員覚えていない。そういえば、そんな名前に女子がピャーピャー騒いでいた気がするが、うろ覚えだ。

「ハルカでしょ?」

 男が読んだ私の名前に、一瞬ドキッとする。名前を相手が知っているということに驚いたのではなく、単純に何年も下の名前で呼ばれていなかったために体が反応しきれなかった。

 私は大きく頷く。

 家ではお前。クラスにいた頃は高山さん、もしくはアバズレ。両親がいなくなってから、私を下の名前で呼ぶ人は完全に途絶えた。

 それだけに、最近会ったばかりの男に言われた名前はこそばゆかった。

「そう、高山ハルカ。よく知ってるわね」ごまかすようにそう言うと、木下は「まあ、同学年の名前ぐらいはね」と、なぜか知ってることを言い訳する口調になった。

「高山ハルカ。いい名前だし、覚えやすいもん」

 付け加えられた言葉は、素直に嬉しかった。

「そこで提案なんだけどさ」

 うん、と相槌を打って私は木下を見る。

「俺と、付き合わない?」

「は?」

 突然の申し出に、コーラを吹き出しそうになる。実際少し吹いた。

「ふざけてんの?」

 冷静を装って聞いたが、木下はジョークを言っているようには見えなかった。

「全く?でもどうせ一度は捨てた命なんでしょ。だったら俺のために使ってくれないかな。ハルカかわいいし、別に無理にとわ言わないけど」

 木下は一度捨てた命、というワードを使うことに躊躇しない。その事実に触れないように気を使われるのは不本意だが、しかし逆にそれを逆手にとって人質にするとは……。

「あんた、ほんといい性格してるね」

「よく言われる」ニコッと厳めしく笑う木下は、私にオッケー以外の返事ができないことを見通している。さっき木下を認めかけていた自分を恥じる。

「わかった」

「まじで言ってる?」

「でも、言っとくけど私付き合うって言っても全然わからないからね。てか、何すればいいの?」

「うーん、そうだなあ……」言いかけて木下はポンと手を叩き、飛びっきりの笑顔をこちらに向けた。

「とりあえず、死なないで」


 ———やっぱり、嫌な奴だ。


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