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企画参加作品

満月を入れたロゼワイン

作者: 柿原 凛

 満月の夜、僕は同期の安井と一緒に会社に残って、プレゼンの資料をせっせとまとめていた。蛍光灯の光が青白くオフィスを照らし、満月の輝きを押さえつけている。蛍光灯の光よりもさらにドギツいパソコンのブルーライトが眉間のあたりをだる重くしていく。


 安井はとにかく真面目だけが取り柄の幸薄そうな女性社員で、いわゆる“OLさん”のような女性らしさはない。当然、二人きりだがオフィスラブなんて想像もつかないほどだ。しかしそんな安井のきっちりとした性格や、意外と体育会系の根性論で頑張る姿を僕は知っている。他の奴らが転勤したりやめていく中、唯一残った同期が安井だった。昔はみんなで『同期会』って毎週のように飲みに行ったりしていたけど、今となっては遠い思い出だ。


 パソコンと向かうのが億劫になってきて、僕はそのまま背もたれに深く座り込んで満月の方をぼうっと眺めた。俺も狼人間に……はならないけど。それくらい強い気持ちで迫れたら、俺にも彼女の一人や二人はいたことだろうな。そう思うとため息がこぼれてきた。そのため息に気づいてか、安井がパソコンのモニターの端から顔をのぞかせて、首をぐるっと一周回したあと、おっさんみたいな声で話しかけてきた。


「同期会、しよっか。久しぶりに」


 それは飲みの誘いだった。正直これ以上オフィスにいても煮詰まるだけで進展はなさそうなので、今日はこれで切り上げることにした。二人きりの同期会。寂しいものではあるが、ストレス発散くらいにはなるだろう。そう思い、荷物をまとめて五分以内に部屋を出た。明かりを消してドアを閉める時に見た満月は、さっきよりも力強く輝いていた。


 安井に連れて行かれたのは、いつもの大衆居酒屋ではなかった。同期会と言えば大学生が行くような安い大衆居酒屋でテーブルを囲んで上司の悪口を言ったりしていたのが思い出されるが、そこは雑居ビルの地下にある怪しげなバー。“隣のお客様からです”なんて台詞が聞こえてきそうな、熱帯魚の水槽が淡いピンク色に光っている、静かな所だった。


「意外だな、安井がこういうところ知ってるなんて」

 申し訳ないが、安井はもっとこう、主婦的な奴だと思っていた。閉店間際のスーパーで安売りしている冷たい握り寿司のセットを一人で食べている、そんなイメージ。おつまみにチーズが出てくるところに来るとは思えなかった。

「ふふふ、ギャップ萌え、みたいな?」

 

 ピンク色に光る水槽のせいか、安井が妙に安っぽい風俗嬢のように見えてきた。安井、無理するなよ。

「ねぇ、何飲む? 私、ロゼ・オン・ザ・ロックで」

「あ、えっと、じゃあ……ビールとかあります?」

 こういうところに始めてくる僕は、もちろんどんなお酒があるのかわからない。慣れた感じでオシャレそうなお酒を頼む安井の横で、僕はついつい居酒屋のノリでビールを頼んでしまった。バーテンダー? っていうの? その人が、静かに微笑みながら、もちろんですよ、といろいろな種類を紹介してくれた。アルファベットに疎い僕は、とりあえず一番始めに紹介されたものを恐る恐る指差し、これで……と頭を下げた。


「こういうとこ、はじめてだった?」

「初めてに決まってんじゃん! てっきり居酒屋だと思ってついてきたのにさぁ……」

 どんどん声が小さくなっていく俺。目の前ではイメージ通りかっこいい感じの人がシャカシャカしている。

「ごめんごめん、でも、たまには非日常なのも良いでしょ?」


 安井の目の前に出されたなんとかっていうお酒は、淡いピンク色に光っている水槽と同じような色をしていて、真ん中に大きな丸い氷が入っている。それはまるでピンク色の夜空に満月が光っているようで、艶やかな感じがする。そのカクテルをすっと口元に持っていく安井。唇の前でその手が一瞬止まったとき、入社してから初めて“あの”安井にドキッとした。


 その時からだった。だんだん安井の背筋が伸び、足を組んだかと思うと、結んでいた長い髪を振りほどいて、前髪をかきあげるような女性になった。さっきまでの安井はもう、そこにはいない。


「これね、ワインなの。満月の日だから、こういうまんまるの氷のが飲みたいなって思ったの」

「へぇ……」

 正直、安井の話はあまり頭に入ってこない。それより安井の絵になるようなその姿に釘付けになってしまっている。静かなバーで、淡い光とともに頬を微かに赤らめている安井の横顔をチラチラ見ながら、そわそわしている自分を客観的に見られなくなってきている。


「月ってね、すごいパワーがあるんだよ。月の引力で、潮の満ち引きが変わるのって知ってた?」

「う、うん、それくらいなら」

「満月を見たら狼男になるっていうのも、あながち間違いじゃないのかもね」

「狼男、ねぇ」


 狼男に、なりたい。なれたら、目の前にいるこの女性をものにできるかもしれないのに。満月は女性にしかパワーを授けてくれないのだろうか。目の前でパワーを得て変身した安井のように、俺にもパワーを授けてほしい。

 アルコールのせいか、視界がどんどん狭くなっていく。安井のすらっとした足首に、細長い指に、喉元に、髪に、唇に、視線がその数点にしか集まらなくなってきた。同期が大勢いた頃の、オフィスでのあのクソ真面目な安井は、もう思い出せないほど。ピンク色の大海原から大きくてまんまるな月が上ってくるように、安井の飲んでいる桜色の酒は少しずつだが確実に減ってきている。そのたびに、安井の引力が上がっていくような気がする。氷の満月が姿を現すほど、桃色の液体が減っていくほど、それを苦しく感じる自分がいる。やめてくれ、これ以上減って零になったら、安井の引力に屈服するしかなくなってしまう。最後の一滴を僕に見せつけるように舌の上で転がしながら飲み込んだ安井が、カランとわざと音を立ててグラスを置くと、目の前が歪んで、もうどこを見たら良いのか分からなくなって、グラスの中で溶け切っていない氷の満月だけが最後まで頭に残っていた。



 気づいたら、真っ白いシーツの上で汗をかいて天井を見上げていた。満月はとっくに青空にかき消されていて、髪を縛った安井が何事もなかったかのように常設の机でキーボードを叩いていた。俺が起きたことに気づいた安井はゆっくりと近づいてきて、ぱっとしないあの安井の格好のまま耳元でこう囁いた。


「おはよう、狼男さん」

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― 新着の感想 ―
自宅で丸氷を作っているので、惹かれて読んでみました・・・ 余韻と少しの想像力とで、私は梅酒で乾杯!
[良い点] こんばんは。 この、ロゼワインを飲んで、変身のシーンがすごく良かったです。 [気になる点] オフィスに戻って、ですと……白いシーツがどこにあったのかしら? それとも、ここはゆうべはお楽し…
[一言] エッセイ「なまこが紹介する、お気に入り短編集」の紹介でお邪魔しました。 実は私は生粋のドMでして(突然の性癖暴露)、このような魔性の女性に翻弄されるのが高校生の頃からの夢だったのです(筋金入…
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