レベル96 夏の夜の庭で
夜が私にささやく。
お前は弱い。
役に立たぬ。
生きる価値はない。
仕えていた主を裏切った。
憧れていた人は手の届かない場所にいった。
強さを学んだ師は目の前で死んだ。
拠り所を全て失って、私は故郷で一人だ。
師であり、上官であったダークエルフのファリオスがヨートに殺されて以来、アグリスはまともな生活を送ることができなくなった。
剣を持っては取り落とし、鎧を着けては恐怖に震えた。
食事は満足にとれず、痩せ細り戦うための筋肉も枯れていった。
幽鬼のような、という表現がぴったりだった。
見かねた魔王軍の魔将キースは、駐屯しているのがアグリスの故郷であるグランデ王国であることをかんがみて、一時休養を命じた。
混成魔軍団の元同僚数名に送られて、生まれ故郷である小さな村にたどり着いた。
アグリスの生家は、その村の領主であった。
父母はアグリスが騎士団に入るころに亡くなり、弟が領主の職を継いでいた。
魔王軍から、ベルデナット女王を経由して命じられた弟は、姉の変わりように驚きながらも、すぐに療養の部屋を用意してくれた。
元の自分の部屋だ。
懐かしい匂いに包まれて、アグリスは数日間寝た。
やがて、不安が襲うようになっていく。
このまま、何も成せずに自分は朽ちていくだけなのでは?
グランデ王国から仲間になった魔王様たちは、みな大きく飛躍している。
魔王様は言うに及ばないにしても、キースは“謀将”と呼ばれ魔王軍を大きくするために二国を併合するという荒業を成し遂げた。
メルチは魔王とともに夢の中で戦い、起きたときにはレベルの限界を超えて、そして魔王様の妻となった。
そして、共に弱さを自覚したヨートは修行を終え強くなって戻ってきた。
“闇将”ファリオスを倒すほどに。
そこまで考えて、アグリスは絶望を覚える。
ファリオスは死んだ。
敬愛していた師、ダークエルフの彼女はいなくなってしまった。
ボロボロと涙をこぼす。
泣いても泣いても、涙は枯れることはない。
歌が聞こえてきたのは、そんな絶望の夜だった。
グランデの晩夏はまだまだ蒸し暑い。
窓を開けて寝ることが、この季節の習慣だ。
血を吸う虫が訪れるから、窓に網をはるのもグランデの習慣だ。
網戸ごしの夜の庭から歌が聞こえた。
歌詞はわからない。
共通語のようでもあるし、グランデの古語のようにも聞こえる。
ただ、悲しげな曲調だけが耳に残った。
次の日の夜もまた歌が聞こえた。
痩せた体を起こして、アグリスは庭に出る。
夏の夜の庭、というのは小さな精霊である妖精が舞い踊ると言われているが、それだろうか。
庭の中心には小さな噴水がある。
ただ、倹約家の弟は水を噴き上げる装置を止めているので、見た目は池だった。
その池の縁に腰かけて、女性が歌っている。
長い黒髪に、黒い体にピタリとした衣装を身にまとっている。
衣装は半袖であらわにした腕は白い。
手首には黒い石を連ねた腕輪をしている。
顔は、猫のような雰囲気を感じさせる。
アグリスの一族にはいないような感じの女性だ。
「歌が、聞こえたのかい?」
歌から感じられたようなキレイな声だった。
「はい」
「私の歌は夜の相を持つものにしか聞こえないんだ」
「夜の相?」
歌っていた猫のような女性はこちらを見る。
瞳は金色だ。
「希望を失った人、夜の闇に安息を抱く者、悲哀に囚われる君。夜の相とはそんな顔のことだよ」
それが夜の相というのなら、アグリスは間違いなくそれを持っていると言える。
「それを、夜の相を持っていたらどうなるのですか?」
「さあ。私は想像して歌うだけだから。でも、いずれは押し潰される。想いの重さに心がね」
確かに、アグリスは押し潰されかけていた。
もう、これ以上生きているのも嫌になっていた。
「私は……どうすればいいのですか?」
初対面の相手に聞くことではない。
けれど金の瞳の夜の歌い手は笑う。
「私の名を継ぐかい?」
それは唐突でわけのわからない問いだった。
「名?」
「千年くらい受け継いできた名前なんだけど、私には重い名前だ。私たちのような普通の人には見えない種族には、ね」
「普通の人には見えない種族?」
はっきりとその姿は見えている。
「インビジブルっていうんだ。見えないって意味らしいけど。夜の相を持たないと私たちのことは見えない」
「昔、魔王様に仕えていた人にそんな種族がいたと聞いたことがあります」
「そう。霊魂的にはそれは私なんだ。といっても、家系的にはひいひいお祖母さんくらいなんだけど」
インビジブル種は自分の娘に魂が受け継がれる。
最初のインビジブルから延々と魂は受け継がれている。
そして、自分の意思というのもある。
両者は共存している。
「“影将”でしたっけ?」
かつていた魔将の一人の称号を、アグリスは思い出す。
「そう“影将”ヒュプノス。眠りの歌を唄う夜の幻」
「そんな名前を簡単にあげていいんですか?」
「ベリティスが死んだ時、私もあの城にいた。そして君を見た。あの脳筋ダークエルフ女に依存している君をね」
「ファリオス様を悪く言わないでください!」
思わず大きな声が出た。
「悪口じゃないよ。本当のこと」
「それでも!」
「名前は君を強くするよ。霊的にね」
ファリオスを貶していたかと思えば、今度は質問に答える。
このインビジブルの女性のことが、アグリスはわからなくなってきた。
「あなたは私をどうしたいんです?」
「私のことが見える君が、幸せになってほしいだけ」
その言葉からは嘘をついている気配はしなかった。
だから、アグリスは決めた。
自棄になっているだけのような気もしたけれど、このままじゃ何も変わらない。
今は決める時だ。
「ください。私に名前を」
「いいよ。ただ一つ注意。名前を受けとるということは良くも悪くも、その存在が変わるということ。もう、君には戻れない」
「いいんです。私は私が嫌いですから」
「私は君が好きだよ」
「女性同士じゃないですか」
「好意は、恋愛感情だけじゃないよ」
「むう」
「夜の相を持つアグリスに、我が名を授ける」
歌うように彼女はアグリスにそう言った。
アグリスの中に何かが入ってくる。
不思議と悪い気分ではない。
欠けていたものが元に戻ったような感覚すら覚える。
意外にあっさりと、そして自然に今の自分を認識する。
「私はアグリス・ヒュプノス。“影将”の名を受け継ぐ者」
全身に今まで感じたことのない魔力が満ちている。
「君が魔王様の力になれることを祈っているよ」
夜の歌い手は微かな声で言った。
もう姿は見えない。
「どこへ……?」
「……君は変わった。だから夜の相も無くなった、だから私のことが見えなくなった」
「そう、ですか」
「忘れないでくれ。私はここにいる。姿が見えなくてもいつもいるんだ」
もう彼女の声はささやくようにしか聞こえない。
「忘れません。あなたみたいな意地悪で、キレイな声の人は」
「意地悪とは、心外だね」
それが最後の声だった。
もう、風のそよぎにしか聞こえないほどかすかだったけれど。
面白がるような声に確かに聞こえた。
翌朝。
アグリス・ヒュプノスは弟に挨拶した。
「世話になった」
「もう、いいんですか? 姉上」
「うん。魔王軍に戻る」
「なんか姉上変わりましたね」
「それはそうだろう」
「ここに来た時もそうでしたけど、もっと前にここを出ていった時からも変わったように思います」
「そう、かな」
「早めに伴侶を見つけた方がいいですよ。悪い男に騙されないように」
「家族にそんなことを言われると、あまりいい気分ではないな」
「家族だから言えるんですよ。他人に言われたらもっといい気はしないでしょ?」
「そう、かもな」
こんな他愛もない話を弟としたのはいつ以来だったろう。
妙に満たされた気持ちで、アグリス・ヒュプノスは生家を出た。
次回!二人倒された亀裂側陣営!魔王軍を倒すべく、次なる刺客が声を上げる!
明日更新予定です。




