灰田那月を殺した犯人(1)
「もうだいぶ遅い時間だな」
山瀬が壁に掛けてある丸い時計を見ながら言う。
時刻は夜の10時を回っている。
「那月,今日もいつものでいいか?」
山瀬の提案は夕飯に関するものである。
私は大きく頷く。
山瀬の家に引きこもるようになって以降,夕飯はいつも決まったコンビニ弁当である。
本当は山瀬のために料理の腕を奮いたいところだが,フィギュアスケート一辺倒の人生を送ってきた私は,情けないことに,野菜炒めすらロクに作ることができなかった。
「じゃあ買ってくる」
そう言って,ソファーから腰を浮かせかけた山瀬だったが,何かを思い出したかのようにはたと動きを止める。
その行動の意味に気付いた私の心臓がバクバクと音を立てる。
私の予想した通り,山瀬は私の肩を抱くと,私の唇を奪った。
「留守番頼んだよ」
顔を離すと,山瀬は私の髪を丁寧に撫でた。優しい温度によって,心も身体も私の全てが溶けそうになる。
キスの魔力で石像になってしまった私は,ソファーから動くこともできないまま,家を出て行く山瀬の背中をただ見送るだけの存在だった。
山瀬の背中は細く,しかも若干の猫背が入っている。
それでも私にとっては,世界中のどの男よりも逞しい背中である。
私が初めて愛した男の背中。
そして-
-灰田那月を殺した男の背中でもある。
灰田那月を殺した犯人は山瀬だ。
山瀬と出会った当時,私の頭にはスケートのことしかなかった。
焼肉屋で火焚が証言していた通り,私の人生にはプライベートはなく,単調にスケートの練習を繰り返すだけの日々が続いていたのである。
次回のオリンピックで金メダルを獲ること以外の欲求はなかった。
まさに私は「ロボット」と呼ぶにふさわしい人物だったのだ。
恥ずかしい話,山瀬に繰り返し食事に誘われたときも,その意味することに全く勘付くことはなかった。
取材熱心な記者だなと感心していたことを覚えている。
山瀬が,私のことを取材対象ではなく,恋愛対象として見ていたことには,山瀬から交際を申し込まれたときに初めて気が付いた。
私の恋心は遅咲きだったものの,その分強烈だった。
私は,スケートが上手くいっているときもそうでないときも,私のことを常に支え,私のことを常に考えてくれる山瀬にゾッコンだった。
私の中での山瀬の存在はあっという間に肥大化し,スケートをする目的も,いつの間にか,オリンピックの金メダルではなく,山瀬に良い記事を書いてもらうことにすり替わっていた。
他方で,私の中ではある不安が芽生え始めていた。
その不安の発生源は私の心の弱さであり,自分に自信のないことの裏返しだとは分かっていた。
しかし,それでも日々育っていく不安に,私は押しつぶされそうになっていた。
その不安とは,山瀬が好きなのは,私ではなく,「灰田那月」なのではないか,という不安である。
山瀬は長年フィギュアスケートを担当している記者であるだけでなく,根っからのフィギュアスケートファンだ。
山瀬は私より10歳年上だが,私がスケート靴を履く前から,スケートリンクに赴き,フィギュアスケートの試合を観戦していたらしい。
歴代のオリンピック等主要大会のメダル獲得者の名前を暗唱することができるのが山瀬の自慢の一つだ。
そして,中でも山瀬が熱を上げていたのは3Hだった。
山瀬は3Hの存在が世間に知れ渡るずっと前から3Hのファンだった。
私は記憶していなかったが,ジュニア時代の私からサインをもらったこともあるらしい。
山瀬は3Hの中でも私の大ファンだったのである。
私は決して美人ではない。
見た目も性格も地味だ。
星科のように男性ファンから「恋人にしたいタレント」に名前を挙げてもらうこともなければ,火焚のように女性ファンから毎日のようにファンレターをもらうこともない。
3Hの中で私が誇れることといえば,大会での受賞歴が一番多いことだけなのである。
山瀬がアタックをかけたのが,火焚でも星科でもなく私だった,ということは,山瀬がフィギュアスケートについて玄人であり,私のスケーティング技術に惚れ込んでいたからに違いない。
山瀬が好きなのは,あくまでもプロフィギュアスケーター灰田那月であり,生身の私である戸館那月ではないという疑念は,極めて正当だ。
山瀬が私のスケートに歓声をあげればあげるほど,少年のような目で私のスケートついて語れば語るほど,私は山瀬から見放されていくような気分だった。
この心の迷いから,私は以前のようにフィギュアスケートに真剣に打ち込むことができなくなっていた。
つまり,伊豆田が指摘していた私の心の迷いの原因は,火焚や星科ではなく,山瀬だったのである。
私がこの不安を杞憂としてやり過すことができなかったのは,実は,同様の不安を過去に抱いたことがあったからだった。
両親が離婚する以前,私はいわゆるパパっ子だった。
私の両親のうち,フィギュアスケートにより熱心だったのは,父親の方だった。
私が幼い頃から,スケートリンクでの送迎を車でしてくれたのも父親だったし,練習や試合を毎回観戦しにくるのは父親だった。
私が大会でミスをすると,父親は私の頭を撫でながらいつも励ましてくれた。
私が初めて練習で2回転ジャンプを跳んだとき,父親がスケート靴も履かずに裸足でリンクに飛び出してきて,私を抱き上げたたことは,私の中で一生忘れられないシーンである。
他方,幼いながらも,両親の仲が良くないことには気付いていた。
私が小学校3年生に進学する頃には,すでに父親と母親は家庭内別居をしており,一切口を聞かない状態だった。
私は,父親が家を飛び出していかないのは,フィギュアスケートがあるからだと気付いていた。
父親は,当時すでに才能を開花させつつあった私を近くで見守るために,離婚を踏みとどまっているに違いなかった。
結果,私がフィギュアスケートによって父親を繋ぎ留められたのは,小学校を卒業するまでの間だけであった。
離婚前,父親が最後に観戦に来た試合は,私が12歳の頃に出場した,ジュニアでもっとも権威のある全国大会だった。
そこで私は,中学生の選手を差し置き,優勝した。
私の勇姿を見送った父親は,これで自分の役目が終わったと言わんばかりに,母親が手渡した離婚届にサインをし,親権の放棄にも応じたのである。
最大のファンであった父親を失った私の喪失感は,言葉にならないほどであった。
もしも私が最後の大会で優勝しなければ,もう少し長く父親と一緒にいられたのではないか,ということを何度も繰り返し考えた。
私が,スケート選手としての登録名に「灰田」という父親の姓を用い続けたのは,父親への感謝の念を示すためであり,父親にずっと見守っていて欲しいという思いの表れである。
両親が離婚して以降,私がより一層スケートに打ち込んだのも,仮に私がオリンピックで優勝したらまた父親がまた私の元に戻ってきてくれるかもしれない,という勝手な期待を抱いていたからだ。
私と父親はフィギュアスケートによって結ばれていて,フィギュアスケートが縁の切れ目となってしまった。
だからこそ,山瀬ともフィギュアスケートによって結ばれているという状況はどうしても耐え難かった。
私は,山瀬に,プロフィギュアスケーター灰田那月ではなく,生身の人間である戸館那月を愛して欲しかった。
山瀬には,プロフィギュアスケーター灰田那月は見て欲しくなかった。「私」だけを見て欲しかった。
そこで,私は,自らの右足を傷付けることにしたのである。
私が灰田那月を死なせたのは,山瀬のため。
つまり,灰田那月を殺した犯人は,山瀬なのだ。
私が右足を切った後,火焚の週刊誌の件,神田の偏向審査の件,火焚と星科の無視の件についての調査の依頼をしたのは,それらの件についての真相が知りたかったからではない。これらの件が私が右足を切ったことと一切関係していないことについては,私が誰よりも知っている。
私が山瀬に調査を依頼した目的はただ一つだ。
山瀬の愛情を確かめること,である。
私が知りたかったことは,フィギュアスケートを失った私に対しても山瀬が変わらない愛情を示してくれるかどうか,である。換言すると,山瀬が,灰田那月ではなく,戸館那月をちゃんと愛してくれるかを知りたかったのだ。
今回の調査には,莫大な時間と労力を犠牲にする。さらに,山瀬が「好き」な火焚,星科との関係悪化も必須だ。もっといえば,今回の調査は記者の職権濫用を伴う。山瀬の行為は世相通信社からよく思われないだろう。少なくとも,フィギュアスケート担当の記者からは外す人事がされると思う。
果たして,山瀬が,スケートのできなくなった私のためにここまでの負担を負ってくれるのかどうか。
それを知ることにより,山瀬の,戸館那月に対する愛情の大きさを知りたかったのだ。
結果,山瀬は私のために十分過ぎる調査をしてくれた。
映像の中の,山瀬が犯人を追及する言葉の節々に,私は山瀬の愛情を感じ取ることができた。
調査の「真の目的」は無事果たすことができたと言っていいだろう。