山瀬高信の杞憂
「俺のコーチ業もそろそろ潮時かもな」
自信家の伊豆田にしては珍しい弱気な発言である。灰田那月という理想のパートナーを失ってしまった男の背中からは哀愁すら感じられた。
しばらく伊豆田の背中が映された後,プツンという音とともに画面が暗転する。
山瀬がリモコンで操作し,テレビの電源を切ったのである。
「ふう。我ながらなかなかの力作だな」
ソファーに腰掛けながら,山瀬が腕を天井に伸ばし,伸びをする。
「仮に今勤めてる通信社が潰れても,テレビ制作会社でやっていけるかもしれないな。今のご時世,ドキュメンタリー番組にどこまで需要があるかは分からないが」
先ほどまでテレビで流れていたのは,山瀬が撮影した映像である。
ホテルでの火焚絵栗から始まり,喫茶店での久原奎介,世相通信社オフィスでの神田智秋,スケートリンクでの星科芽美,焼肉屋での火焚と星科,スケートリンク2階席での伊豆田俊雄のインタビュー映像が順に収められていた。
全てのインタビューのインタビュアーは撮影者である山瀬自身である。
仮にこの映像にタイトルを付けるとしたら,「プロフィギュアスケーター灰田那月を殺したのは誰か」がふさわしいだろう。
「いくら最新鋭の小型カメラは性能が良いからといって,隠し撮りには結構ヒヤヒヤしたぜ。最初の火焚のときはビジネスバッグに,2番目の久原のときは名刺入れに,3番目の神田のときは天井付近に,5番目の焼肉屋のときも神田のとき同様天井付近に,最後の伊豆田のときはスーツの胸ポケットにそれぞれ小型カメラを仕掛けておいたんだ。4番目の星科のときは星科のスケーティングを映していたビデオカメラの電源を切ったふりをして切らずに回しておくことによって撮影成功。音も映像も思ったよりバッチリ撮れたな」
それぞれのインタビュー映像において,視点は固定されていた。
天井付近から全体を映した,神田のときと焼肉のとき以外は,山瀬の姿は映像には入っておらず,山瀬の声だけが聞こえていた。
「とりあえず,俺の調査結果は以上だ」
山瀬が振り返る。
「この映像を見てどう思った? 那月?」
山瀬は,2人掛けのソファーの隣に座った「私」に話しかけた。
「…え…あ…」
約3時間もの間,私は,山瀬が作成したインタビュー映像を,一言も発することなく黙って見ていたのである。突然話しかけられても,すぐには言葉が出てこない。
「結論から言うと,俺は,那月が『灰田那月』を殺してしまったのは,間違いだった,と思ってる。火焚の週刊誌の件も,神田の審査の件も,無視の件も,那月や俺が考えていたのとは別の真相があったんだ。『灰田那月』への悪意ゆえになされたものではなかったんだ。『灰田那月』が火焚や星科に嫌われている,というのは,実は那月の思い込みだったんだ」
山瀬の視線が,私の右足へと向く。
まるで白い靴を履いているかのように,指の先からかかとに至るまで,隙間なく包帯が巻かれている。
包帯の内側がどうなっているのかと言えば,無数の傷が赤い線として残っている。
その内,「灰田那月」にとって致命傷だったのは,親指の付け根から始まっている,抉られた深い傷である。
この傷によって神経がやられてしまっているため,ジャンプやステップのときに踏ん張ることができない。
黙ったままの私に対して,山瀬がフォローのつもりで言葉をかける。
「もちろん,やってしまったことはやってしまったことで,どう足掻いたって元には戻せないから仕方ない。だから,俺は別に那月を責めているわけじゃないんだ」
山瀬が私を責めていない,というのは,さすがに嘘だと思う。
ただ,嘘だったとしても,山瀬がそう言ってくれたこと自体に,私には大きな意味があった。
リストカットならぬ「フットカット」をすることによって,右足を,プロフィギュアスケーターとして使い物にならないものとしてしまったのは,私である。
右足を失うことにより,プロフィギュアスケーター灰田那月は,リンクに戻ることができなくなり,死んでしまった。
「灰田那月」とは,選手としての登録名であって,私の本名ではない。
私の本名は,「戸館那月」である。
戸館は母親の旧姓である。私が中学校に進学するのとほぼ同時期に,両親が離婚したため,戸籍上,私の姓は灰田から戸館に変わった。
しかし,スケート選手としては,色々と悩んだ末,父親の姓である灰田を用い続けた。
ただ,灰田那月がプロフィギュアスケート選手を引退することにより,灰田姓が使われることはもう二度とない。
「灰田那月」はこの世から抹消されたのである。
灰田が死んだことにより,私は戸館那月のみとして生きていく。
今までの人生のほぼ全てを捧げたフィギュアスケートとは一切無縁の生活を送り,普通の女性として普通の幸せを手にするのだ。
近い内に,山瀬と結婚し,私は山瀬那月となるかもしれない。そうすれば,戸館那月ですらなくなる。
ナイフで右足を傷付けて以降の1ヶ月以上の間,私は山瀬の家から一歩も外に出ることはなかった。
右足の傷は,スポーツ選手としては致命傷であるが,歩行等の日常生活には差し支えはない。そのため,出ようと思えば外に出ることはできた。それにも関わらず,私がずっと山瀬の家にいたのは,ハエのようにたかってくるだろうマスコミを避けるためでもあるが,もっと重要な目的があった。
山瀬の調査のためである。
山瀬のインタビューに対して,火焚や星科があそこまで正直に真実を話してくれたのは,山瀬から私を殺した犯人としての疑いを掛けられたからである。自分が犯人ではないと証明するために,2人は自分にとって不利益な事実の暴露を伴うものであっても,素直に証言してくれた。
つまり,山瀬の調査のためには,私が行方不明であるという状況の作出が必要だったのである。
裏を返せば,山瀬の調査が終了した今は,私が山瀬の家に引きこもり,行方不明状態を作出する必要もなくなった。
世間に対して,灰田の死亡を堂々と宣言し,私は新しい人生の一歩を踏み出すことができる。
「これは結果論なんだが,那月のやったことはもったいなかったよ。灰田那月は嫌われているどころか,皆から愛されてたんだ。火焚や星科は,今でも灰田那月がリンクに戻ってくることを心待ちにしている。伊豆田コーチだって,まるで最愛の伴侶を失ったかのような喪失感を覚えていた」
「山瀬君,私のこと,責めないんじゃなかったの?」
「ごめん。責めてるつもりはないんだ。ただ,もったいなかったな,って」
「もういいの。私,少しも後悔はしてないから」
山瀬は,山瀬の調査結果の報告を受け,私がひどく落ち込んでいるとでも思っているに違いない。心配そうに私の顔を覗き込む様子が何よりの証左だ。
しかし,それは杞憂そのものだ。
山瀬は,私が山瀬に調査を依頼した「真の目的」が分かっていない。
「正直,この映像を作った後,これを那月に見せるべきかかなり悩んだんだ」
「どうして?」
「だって,残酷じゃないか? 俺はインタビューによって,那月が自分の足を切ってまでして,フィギュア界から逃げたがったことの原因を知りたかったんだ。那月が俺に調査を頼んだ理由も,トップ選手『灰田那月』の苦悩を俺と共有したいからだと思っていた。ただ,実際の調査結果から導かれたのは,『灰田那月』を殺すべき理由などどこにもなかった,ということじゃないか。今更こんな映像を見せられても,すでにスケートを続けられなくなった那月にとっては毒にも薬にもならないだろ」
毒にも薬にもならない,という言葉には共感を覚える。もっとも,その意味については,私の認識と山瀬の認識との間には大きなズレがある。
「ううん。全然残酷じゃない。調査して,映像を作ってくれて,見せてくれてありがとう」
「本当にこんな調査でいいのか?」
「いいよ。完璧だよ。さすが一流記者さんだ」
私は,山瀬に対して,満面の笑みを見せる。これは本心からの笑顔である。
「山瀬君,本当にありがとう」