伊豆田俊雄の黄昏
「伊豆田コーチ,お気に入りの子は見つかりましたか?」
山瀬の声に,白髪の男が振り返る。一年中スケートリンクにいるにもかかわらず,男の肌の色が浅黒いのは遺伝によるらしいが,その真偽は定かでない。
「おお,久しぶりだね。君はたしか世相通信の…」
「山瀬です」
記者の顔と名前だけを確認すると,伊豆田俊雄はまた階下のスケートリンクに目を落とす。
そこでは,中学生の少女数名が,思い思いにスケーティングの練習を行っている。
山瀬と伊豆田がいるのは,東京で最も大きなスケート場の二階席なのである
「やはり一流のコーチは目のつけどころが違いますね。普通は選手の細かい手足の向きなんかが気になってしまうところですが,伊豆田コーチはリンク全体の使い方を見ているわけだ」
山瀬は,伊豆田が二階席で一人でポツンと座っている理由を,山瀬なりに解釈する。
「違うよ。俺は口が悪いからね。選手本人に悪口が聞こえないのように,二階席に陣取っているのさ」
伊豆田は鼻で笑う。
「相変わらずの美食家ですね。今練習している子達は,皆ジュニアのトップ選手ですよ」
「灰田那月と比べたら月とすっぽんだよ」
伊豆田は元教え子を引き合いに出す。
灰田が殺される直前まで,伊豆田は灰田のコーチを務めていた。
灰田が日本一のスケート選手と称されたように,そのコーチである伊豆田も,日本一のスケートコーチの称号を仕留めている。
「とはいえ,ここで新しい教え子の品定めをしているということは,伊豆田コーチは,もう灰田は戻って来ないと考えている。違いますか?」
「その通りだよ。俺の灰田はもう戻って来ない」
「安否はまだ判明していないのでは?」
「仮に生きてスケートリンクに戻ってきたとしても,俺の好きな『灰田那月』はもう戻って来ないさ」
山瀬がしばらく言葉に詰まる。伊豆田の発言の趣旨を掴めなかったのだろう。
「つまり,1ヶ月以上のブランクはトップレベルでは取り戻し難いということですか?」
「違う。行方不明になる前から,灰田はすでにダメになっていたんだ」
伊豆田が冷たく吐き捨てる。
「選手としてのピークを過ぎていたということですか? もしくはオリンピック後の燃え尽き症候群とか?」
「どちらも違う」
伊豆田は大きくかぶりを振った。
「灰田の心が迷っていたんだ。スケートに全力を傾けることが正しいかどうかについて,灰田は迷っていた」
「なんでそんなことが分かるんですか?」
「スケーティングを見れば分かるよ」
伊豆田の分析は,どの専門家も未だかつて指摘したことのないものである。
誰よりも長い時間,誰よりも近い場所で灰田を見てきた伊豆田にだけ,灰田の「心の迷い」が伝わったのだろう。
「灰田の心の迷いの原因について,何か心当たりはあったんですか?」
「…まあな」
「何ですか?」
伊豆田は大きな欠伸をした。この話題について話すのが億劫だという意思表示に違いない。
「『友達』だ」
「友達?」
「灰田には友達は多くないが,親友と呼べる者が二人だけいた。山瀬君,誰か分かるだろ?」
山瀬がしばらく考える。
「…火焚と星科ですか?」
「ああ。そうだ」
そう答える伊豆田の声は眠そうだった。
「火焚と星科は灰田の親友だった。ただ,同時にライバルでもあった。灰田はくだらないジレンマを感じていたんだ。自分のスケートを上達すれば上達するほど,火焚と星科との差が開き,大好きな火焚と星科をスターダムから遠ざけてしまう,と」
「なるほど。では,灰田は,親友である2人を思いやって,スケートで手を抜いていた,と伊豆田コーチは考えていたわけですね」
「その可能性もある,と思っていた」
「これで繋がりました」
山瀬がパチンと指を鳴らした。
「…何がだ?」
「伊豆田コーチが,火焚と星科にした命令についてです。俺は知ってるんです。伊豆田コーチが,火焚と星科に,リンク外で灰田を無視するように伝えたことを」
伊豆田の背中が固まる。
火焚と星科の「無視」の真相について,山瀬は焼肉屋で直接二人から聴取済みだった。
「伊豆田コーチは,灰田の心の悩みを消し,灰田の全盛期のスケーティングを取り戻すために,灰田にとってはもちろん,火焚や星科にとっても残酷な命令をしたのです。灰田を無視しろ,と」
山瀬は,息継ぎをせずに話を続けた。
「火焚と星科が親友の人格を傷つけるような「イジメ」に協力したのは,伊豆田コーチに説得され,このことが灰田のためになると信じたからでしょう。火焚や星科は,灰田に最高のスケートをして欲しかったんです。無論,この裏には,2人の,ベストな状態の灰田に勝ちたい,という強い想いがあります」
後ろを振り返った伊豆田が,山瀬に賛辞の拍手を送る。
「山瀬君の取材能力には感心するよ。推理力というべきか」
「いえいえ」
「ただ,とっておきのことを教えておくと,実は,友達が原因で灰田のスケーティングに心の悩みが生じたというそもそもの俺の見立ては間違っていたんだ。自分を仲間外れにした火焚と星科に対する憎しみは,本来灰田をスケートに向かわせるエネルギーになったはずだが,実際はそうならなかった。火焚と星科が灰田を無視するようになった後も,灰田のスケートへの態度は改善しなかった。つまり,灰田の心の悩みの原因は,友達ではなかったんだ」
寂しげな表情を見せた伊豆田に,山瀬が問う。
「じゃあ,本当の原因は何なんですか?」
「分からない。俺はコーチであってカウンセラーではないからな」
伊豆田は再び階下のスケートリンクに目を遣った。
「あの黄色い服のガキ,踏み込みのタイミングが下手くそだな。その隣のガキはもっとヒドイ。リズム感というものがまるでない」
伊豆田が,将来の日本のスケート界を背負っていくであろう少女達に悪態をつく。
「みんなみんな灰田の足元にも及ばない。全員カスだ」
「それは言い過ぎですよ」
山瀬の制止に対して,伊豆田は舌打ちで応答する。その後,伊豆田は大きな溜息をつく。
「俺のコーチ業もそろそろ潮時かもな」