星科芽美の決意
トリプルアクセル-
-ダブルトゥーループ。
目の前のリンクで,高難度のコンビネーションジャンプを見せつけられた山瀬が声を漏らす。
星科芽美が,山瀬の持っているビデオカメラに対して,ガッツポーズと満面の笑みを向ける。
小動物のような愛くるしいルックスを持った星科に付けられた愛称は「氷上のアイドル」。灰田の「氷上の女王」,火焚の「氷上の女騎士」という愛称と比較してみれば,星科がファンからどれほどチヤホヤされているのかということが分かりやすい。
ビデオカメラに映った星科の姿がどんどん大きくなる。
目標としていたジャンプを成功させ,練習を終えた星科が,黒髪を揺らしながら,山瀬のいるスタンドの方に滑って来たのである。
「山瀬さん,お疲れ様です」
「星科さんの方こそお疲れ様。俺の疲れは,今のコンビネーションジャンプをで吹き飛んだぜ」
「ありがとうございます」
山瀬はカメラを座席に置き,代わりにタオルを拾い上げた。
星科が山瀬から受け取ったタオルで汗を拭く。
リンクは氷に覆われているので,室内の気温は当然低い。それでもフィギュアスケートのハードな練習は,選手に滝のような汗をもたらす。
「それにしても,今日はずいぶん遅くまで自主練をしていたね」
「なかなか満足のいくジャンプができなかったんです。試合まであまり日にちがないのに,私ダメですね」
星科がため息をつく。
大会まであと1週間を切っているため,コンディション調整の期間も考えれば,星科がちゃんとした練習をできる時間はほとんど残されていない。
「全然ダメじゃないよ。トリプルアクセル,ダブルトゥーループのコンビネーションジャンプを跳べるのは,今の日本では星科さんしかいないんだから,別に本番で跳べなくたって足を引っ張ることはない。表現,ステップの多様性を考えたら,次の大会の大本命は星科さんだよ」
「ダメです。それじゃ,勝てないんです」
星科は,小さな頭を大きく横に振った。
「それより,山瀬さん,取材するんですよね? 場所を移動しますか?」
「いや,ここでいいよ。星科さんと俺以外はもう帰っちゃったから,リンク全体が大きな密室みたいなものさ。ほら,これを着て」
山瀬が差し出したのは,星科が愛用している灰色のパーカーだった。
愛くるしいルックスとキャラクターの虜となり,世の大抵の男性は,星科に優しく接してしまう。
星科のライバルを恋人に選んだにもかかわらず,山瀬もその例外ではないのかもしれない。
山瀬に手渡されたパーカーを羽織ると,星科は山瀬の2つ隣の席に腰掛けた。
「星科さん,時間も遅いから,さっそく本題に入りたい。いいかな?」
「はい。何でも訊いてください。可能な限りで答えます」
「俺は灰田那月と付き合ってる」
山瀬の告白はあまりにも突然だったが,意外にも星科はあまり驚いた素振りを見せなかった。
その理由は,次の星科の発言によって明かされる。
「絵栗に話を訊きました。山瀬さんが実は那月の恋人で,那月の行方を探してるって」
星科と火焚は仲が良く,プライベートで2人で一緒に出掛けることもある。
「ならば,話が早いな。俺は…」
「言っておきますけど,私も絵栗も,那月の失踪には関与していませんから!」
星科が山瀬の話を遮る。普段おっとりと話す星科にしては,珍しく感情が込もっている。
「『3H不仲説』とか,マスコミは好き勝手言ってますけど,そんなことありません。3人ともジュニア時代からずっと一緒で,大の仲良しなんです。 那月がいなくなって,私たち本当に悲しいです。…きっと山瀬さんと変わらないくらい辛い想いをしています」
「信じられないね」
「どうしてですか?」
「じゃあ,この写真について説明してもらってもいいかな?」
山瀬が星科に見せたのは,例の密会写真だった。
「この写真について,マスコミが好き勝手言っている内容を要約するとこんな感じだろう。シニアに上がってから万年シルバーコレクターの星科芽美は,女王灰田那月に勝つために,ある禁じ手を使った。審査員である神田智秋の愛人となり,自分に有利な,そして灰田に不利な採点をするように仕向けたのである」
「…全部作り話です」
「じゃあ,説明してくれ。この密会写真の真相を」
「それは…その…」
星科の声がくぐもっていく。
「説明できないのか? 俺が那月の恋人だからといって,気を遣わなくていいぜ。星科さんにとって,那月は邪魔な存在なんだろ?」
「違います!」
星科が張り上げた声は,リンク中に響き渡るくらいに大きかった。
「じゃあ,説明してくれよ」
「…誰にも言わない,って約束してください。私のスケート人生に関わりますから」
「ああ。約束する」という山瀬の応答を待って,星科が説明を始める。
「マスコミの人は大切な事実を見落としているか,わざと捻じ曲げています。たしかに,私は神田さんを呼んで,2人きりで話す機会を設けました。しかし,それは,神田さんがオカシなジャッジをする前ではなく,その後なんです」
「神田との密会は複数回あったんじゃないのか?」
「ありません。写真を撮られた1度きりです」
星科はまっすぐな目を山瀬の方へと向けた。
「私は,オカシなジャッジをするように頼むために神田さんを呼んだんではありません。逆です。オカシなジャッジをすることをやめるように注意するために神田さんとお話ししたんです」
「…どういう意味だ?」
「神田さんは,元プロフィギュアスケーターで,現役時代は『魅せるスケート』をすることで有名な選手でした。しかし,現代のフィギュアスケート競技で,競われるのは技の正確性や,減点をどれだけ減らすか,です。神田さんの美学と,現代の採点基準は相反していたんです」
フィギュアスケートがオリンピック種目として,順位を競うスポーツとして発展していく過程で,当然に求められたのが採点の客観性である。演技の美しさ,表現の豊かさといった主観的な要素は審査項目からどんどん排除されていき,フィギュアスケートは,スポーツとして洗練された反面で,ショーとしての魅力を失いつつある。
「そこで,神田さんは,現代の採点基準を半ば無視する形で,独自の採点をし始めたのです。荒削りであっても挑戦的な,リズムが狂っていても情熱的な演技に高得点を付け,そうでない退屈な演技には低い得点を付けるようになった。その神田さんの独自の採点基準に適った選手が,たまたま私だったんです」
星科が「氷上のアイドル」と称される所以は,決して星科のルックスだけではない。表現豊かで,常に観客の目線に立った星科の演技は,まさしく「魅せるスケート」なのである。
「逆に,神田さんの採点でもっとも泡を食らった選手が,那月でした。那月の演技は完璧です。しかし,完璧であるがゆえに退屈とも言えます。那月は決して無理なスケーティングはしません。自分ができることだけを淡々とこなします。もちろん,それは那月にしかできないことで,誰も真似できないからこそ,那月は常にトップにいるんです。しかし,神田さんの採点基準では,那月は全然評価されないんです」
灰田のスケーティングは,巷で「ロボットスケーティング」と呼ばれている。
はじめにその言葉を使い始めたのは,他でもない,当時解説者をしていた神田だった。
「神田さんのオカシなジャッジを止められるのは,私だけだと思いました。神田さんのジャッジでもっとも恩恵を受けている私以外の抗議は,全てひがみととられかねないですから」
たとえそれが自分にとって不利になるものであったとしても,現役の選手が審査員の審査方法に口出しし,それを変えさせようとするのは,やはりご法度である。
星科が,選手生命にかかわる,と言ったことは,あながち間違いではない。星科はそれだけの大事を行ったのである。
「星科さんの言っていることは俺には理解できる。でも,信じられない」
「…どうしてですか?」
「星科さんの動機が分からないからだ。神田の採点基準がオカシいとしても,結果としてそれが星科さんに有利であり,那月に不利だったら,星科さんにとってはそれでいいじゃないか。なぜわざわざ神田に採点基準を戻すように迫ったんだ?」
「それでは世界と戦えないからです」
星科はピシャリと言い放った。
「国内の大会で世界の採点基準と違った基準が用いられてしまえば,国内の大会がガラパゴス化してしまいます。神田さんの思惑通り,国内で魅せる選手が増え,国内の大会は面白くなるかもしれませんが,世界大会で勝てないんだったら意味がないんです」
それに,と星科が付け加える。
「私は,そんな卑怯な方法で那月に勝ちたくないんです。那月には,ちゃんとしたルールの下,正々堂々戦って勝ちたいんです」
星科の目から大粒の涙が溢れる。
「だから,私が,那月にいなくなって欲しいなんて思うはずがないんです。この気持ちは,絵栗だって一緒なはずです」
星科の視線が,山瀬から,先ほどまで自分が滑っていたスケートリンクへと移った。
「私,今度の大会では,絶対にトリプルアクセル,ダブルトゥーループのコンビネーションを跳んでみせます。その上で,優勝します。そうでないと,那月に勝ったことにはならないですから」