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神田智秋の偏頗

 山瀬の勤務先である世相通信社のビルの一室で,神田智秋かんだともあきは自らの手帳を眺めていた。

 

 神田は元々爽やかなルックスと華麗なステップで脚光を浴びたプロフィギュアスケーターであった。

 そろそろ還暦を迎えようという年齢であり,現役時代のトレードマークだったロン毛も短く剃られているが,未だに異性から好まれそうな見た目をしている。



 その部屋に神田が案内されてからおよそ5分後,丁寧なノックの音とともに,ノートパソコンを持った山瀬が現れた。



「神田さん,わざわざお越しいただいたのに,お待たせして申し訳ありません」


「いえいえ,約束の時間より早く来てしまっただけですから」


 スーツ姿の神田は椅子から立ち上がると,同じくスーツ姿の新聞記者にお辞儀をした。



「最近はお忙しいんですか?」


 席について早々,山瀬が机の向こうの神田に話しかける。



「いやいや,忙しくないですよ。お店の方は若い者に任せてます」


 神田は引退後,都内を中心に飲食店を展開し,荒稼ぎをしていた。もっとも,当時10軒近く展開していた店舗も,今では1軒を除いて店仕舞いしている。



「となると,今は次回の選手権に向けて準備をしているといったところですか?」


「選手ではないので,準備なんて何もないですよ。むしろ,予断や偏見を持たないために,大会当日まで自分が審査員であることを忘れていた方がいいくらいです」


 ここ5年くらいの間,神田はフィギュアスケートの審査員を務めていた。

 3Hが出場する国内の試合をいくつも担当しており,再来週の灰田那月不在の試合においても,神田が審査員の一人を務める予定となっている。



「審査員の仕事は大変だな,とつくづく思います。間違っても特定の選手の肩を持ってはいけませんからね。俺には到底できませんよ」


「山瀬さん,誰か贔屓ひいきの選手はいるんですか?」


「ええ。灰田那月の大ファンです」


 山瀬が灰田の名前を出したとき,神田の表情が少し歪んだ。



「灰田ですか…。この度は残念でしたね」


「やめてください。まだ那月が戻って来ないと決まったわけではありません。単なる行方不明ですから」


「しかし,山瀬さん,子供の家出ではないんですよ。大の大人が3週間近く消息を絶っているということは,おそらくもう…」


「それでも俺は信じてるんです。俺,那月の恋人ですから」


 神田の表情が曇った。



「…そうだったんですか。失礼なことを言ってしまいました」


「いえいえ。神田さんの言いたいことはよく分かります」


 頭を下げようとする神田を,山瀬が手で制止した。



「俺,那月の行方についての手掛かりを探してるんです。取材でもないのに呼び出してしまい申し訳ありませんが,ご協力いただけますか?」


 山瀬が手を合わせる。



「私がご協力できる範囲であれば何なりと」


 山瀬は部屋に入ってくるときに持ってきたノートパソコンを開くと,ある動画を再生した。

 スケートリンクの上で,緑色のドレスを身にまとった女性が舞っている。

 去年の国内大会のショートプログラムでの灰田の演技である。



 演技が終わると,山瀬はそこで動画を止め,神田の顔色を窺った。



「神田さん,覚えていますか?」


「もちろんです。素晴らしい演技でした」


「ありがとうございます」


 恋人の代わりに,山瀬が神田にお礼を述べる。



「引き続き,こちらの演技をご覧下さい」


 次に山瀬が再生した動画は,同じ日,同じスケートリンクの上を撮ったものだったが,被写体が違った。

 ショートプログラムの規定演目を消化するのは,水色のドレスを着た小柄な女性-星科芽美である。



 山瀬が動画を止めるまで,神田は星科の演技に見入っていた。



「神田さん,こちらも覚えていますか?」


「もちろんです。こちらも素晴らしい演技ですね。先ほどの灰田の演技とは甲乙付けがたいです」


「しかし,実際の神田さんは,この試合の審査員として,2人の演技に明確な甲乙を付けています。覚えていますよね?」

 

 山瀬の問いかけに,神田はうーんと唸った。



「申し訳ありません。最近,年齢のせいで物忘れがひどいんですよ。正直,どういうジャッジだったかは覚えていません」


「それでは思い出させてあげます。神田さんはこのとき,灰田の演技構成点を28.25とし,星科の演技構成点を42.75としているんです」


 演技構成点は,審査員の主観がもっとも入りやすいものとして批判されることの多い審査項目である。

 とはいえ,「スケーティング技術」「要素のつなぎ」「動作/身のこなし」「振り付け/構成」「音楽の解釈」という5項目について,それぞれ10点満点で判断するということになっており,完全に印象だけで決まるというわけではない。



「俺は,決して灰田の演技の方が高評価に値するとまで主張するつもりはありません。実際に,あなた以外の審査員は全員,灰田により多いポイントを与えているのは事実ですが。俺が問題にしたいのは,神田さんの採点があまりにも極端だということです。果たして,今俺が再生した2つの動画の演技で,演技構成点が14.5ポイントも開く要素がどこにあったんですか?」


 神田はしばらく黙り込んだ後,山瀬に対して,一言,


「何が言いたいんですか?」


と問い返した。



「次はこちらを見て下さい」


 山瀬は,ノートパソコンの画面を切り替えた。今度は動画ではなく,画面の左半分に字が,右半分に写真が掲載されたページである。



「このネットニュースには神田さんも相当悩まれたことでしょう。ニュースのタイトルを読み上げますね。『星科芽美,神田智秋審査員と密会』」


「…くだらないですね」


 外見上,神田は取り乱さなかったものの,声色には間違いなくイライラが込められていた。



「山瀬さんみたいな立派な記者が,そんな薄汚いゴシップ記事を信じてるだなんて意外ですね」


「別に信じているわけではありません。ただ,俺は真実が知りたいんです。この記事に書かれている通り,神田さんと星科との間にはヨクない関係があったのかどうかを」


「あるわけないです。私には妻も子供もいますし,星科だって,いくら審査員だからといって,還暦近いジジイに抱かれたくはないでしょう。この記事はでっちあげですよ」


「しかし,密会の事実はあるんです。レストランの個室で2人が会ってることは,撮影された写真からして紛れもない事実です。そして,この密会の時期と,神田さんの審査が『狂い出した』時期とはほぼ重なってるんです」


 山瀬の的を射た指摘に,神田は反論することができなかった。



「神田さん,俺に教えてくださいよ。神田さんと星科との間に深い関係がないんだとしたら,どうして星科と密会したんですか?」


「…星科の名誉のためにそれは言えません。ただ,私と星科との間には何もないことだけは断言します」


「星科の名誉のため?」


「…私はこれ以上何も話しませんから」


 神田は再び黙り込んだ。


 山瀬もこれ以上の追及は諦めたようだった。



「神田さん,最後に一つだけ質問させてください」


「…何ですか?」


「神田さんは,星科芽美のファンですか?」


 神田はしばらく中空を見つめた後,彫りの深い目を山瀬に向け,言った。



「大ファンです」


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