火焚絵栗の激昂
トントン-
山瀬高信が,身体の線の細さの割には大きめの手でドアを2回ノックする。
「ちょっと待って」
という鼻にかかった高い声からしばらくして,戸が引かれる。
戸を引いたのは,バスローブ姿の火焚絵栗だった。
「火焚さん,ご無沙汰しています。世相通信の記者の山瀬です」
山瀬が,自分よりも年齢が10歳近く若い女性に対して,うやうやしく挨拶する。
「たしかに久しぶりね。でも,長い付き合いでしょ。そんなに丁寧に頭を下げないで」
火焚は,山瀬に部屋に入るよう手招きした。
火焚の部屋のベッドの隣には,小さい背の低い丸机を挟んで,ソファー地の椅子が向き合って並んでいた。
火焚には,山瀬の来訪は予め伝えてあった。
山瀬は火焚の案内に従って,奥の椅子に腰掛けた。
同時に,ビジネスバッグを同じ椅子の上に置いた。
山瀬の正面の席に,火焚が脚を組んで座った。
「わざわざ合宿先のホテルの部屋までお邪魔しちゃって申し訳ないね」
山瀬の話し方は挨拶のときと比べて砕けたものだった。
山瀬は4年前からフィギュアスケートを担当している記者である。つまり,火焚が15歳のときから火焚を取材しているのだ。
そのことを考えれば,これくらいのフランクさがむしろ普通である。
「いえいえ。突撃取材には慣れてるから。というか,事前にアポ取ってくれるだけだいぶマシ」
火焚がチャームポイントの八重歯を見せて笑う。
いくら10代とはいえ,火焚の肌荒れひとつない陶器のような肌はあまりにも美しい。一見するとすっぴんには思えない。
「いやあ,それにしても最近の火焚さんの活躍は目覚ましいね。4回転を跳ぶのが朝飯前って感じだね」
山瀬は情熱のある記者である。火焚の試合も,試合直前の練習も含め,全てチェックしているに違いない。
「それは言い過ぎだって。本番での成功率はまだ50パーセントくらいかな」
フィギュアスケーターとしての火焚の魅力は,女性らしからぬ豪快さにある。
180cm近い長身と長い手足を存分に使ったスケーティングは,男性選手顔負けの迫力だ。
また,火焚は,男性選手でも一部の者しか跳べない4回転ジャンプを必ずプログラムに組み込んでくる唯一の女性選手である。4回転ジャンプは火焚の代名詞としてすっかり定着している。
「またまたご謙遜を。最近の3試合では全て成功しているじゃないか。とりわけ前回の名古屋でのスケーティングは圧巻だった。連続してもう1回くらい跳べるんじゃないかとも思ったよ」
「それも言い過ぎ。跳んだ後はフラフラで目を回しながらステップ踏んでたんだから」
火焚が両手を広げ,首と一緒に左右に揺さぶり,目を回す様子を表現する。
こうした動作が自然と出るところに,大人びたルックスの背後にあるあどけなさが見える。
「それより,山瀬さん,今日は取材じゃないの? 世間話をしに来たの?」
火焚がそのように訊くのも無理はない。
山瀬は机の上にメモ帳も,ICレコーダーも出していなかったのだから。
「まあまあ,もう少しだけ世間話に付き合ってくれよ」
山瀬の頼みに対し,火焚はもう一度八重歯を見せた。
「今の火焚さんの勢いを見てると,来月の東京での大会は火焚さんが優勝候補筆頭に思うんだよね。自分ではどう思ってるの?」
山瀬の質問は,火焚をおだてるものであった関わらず,火焚の表情は急に暗くなった。
「…私,今の状態で優勝しても全然嬉しくない」
「どうして?」
「灰田那月がいないから」
この時点で,世間的には,灰田那月は,2週間前から行方不明,という扱いになっていた。
「…なるほどね。ちなみに,火焚さんは灰田さんの居場所について心当たりはないの?」
「…ないよ。どこでもいいから元気にしてて欲しい,と願うだけだね」
山瀬が声のキーを下げる。
「へえ。随分と那月のことを心配してるんだね。世間一般的には,君が那月を嫌っているっていうもっぱらの評判だけど」
山瀬の様子が先ほどまでとガラリと変わったことに,火焚は大きな目をパチクリさせる。
「…どういうことなの?」
「実は俺,那月と付き合ってるんだ」
「えっ!?」
火焚が両手で口を押さえ,驚きを表現する。
「ここ2週間,俺がいくら電話を掛けてもLINEをしても,那月からは一切の反応がない。だから,俺は那月を探してるんだ」
山瀬は隣に置いていたビジネスバッグの中身をガサゴソと探ると,一冊の雑誌を取り出し,机に置いた。
去年発売された週刊誌「アン・オンリー・ファクト」である。
「すまん。ちょっとトイレを借りる。その間にこれを読んでてくれ」
山瀬は机に置かれた「アン・オンリー・ファクト」を火焚の方に寄せると,席を立ち上がり,火焚の背後にあるユニットバスへと向かった。
山瀬が中座している最中,火焚は雑誌のページを捲るどころか,雑誌の表紙に目を向けようともしなかった。
その代わり,火焚は小刻みに膝を揺らし始めた。
ストレスを感じているときに貧乏ゆすりをするのは,火焚の子供の頃からの癖である。
山瀬が席に戻ってからも,火焚は雑誌を読むポーズすらしなかった。
「もう読んだのかい?」
「ううん。読まなくても内容は分かってるから」
「当たり前だよね。君のインタビュー記事なんだから」
山瀬が火焚に渡した「アン・オンリー・ファクト」のトップ記事は,「火焚絵栗が語るリンク裏の3H」である。
オリンピック直前に出されたその記事は,オリンピック選手選考から漏れた火焚が,灰田をひどくこき下ろす内容が衝撃的であるとして,世間から注目されたものだった。
「言っとくけど,その記事は丸っきし嘘だから」
火焚が目を伏せながら言う。
「それは,インタビューを受けてすらいないという趣旨かな?」
「ううん。インタビューは受けた。だけど,その記事には私が言ってないことがたくさん書かれてるの」
「いくつか言ったことも書かれているということだね?」
山瀬の鋭い反対尋問に,火焚は口を噤んだ。
「この記事には君しか知り得ないことが書かれている」
山瀬が,火焚が手を付けなかった雑誌のページをパラパラと捲る。
「たとえば,この部分。君の台詞だ。そのまま読み上げるよ。『那月ってマジでダサいんですよ。私服のセンスは最悪。しかも,極めつけは下着のセンス。ベージュ色でおばん臭いの。痛すぎて見て見ぬ振りするしかないんです』」
「私,そんなこと言ってない! 記者が勝手に捏造したの!」
「じゃあ,どうして記者が那月の下着の色を知ってるんだ? 那月本人に確認したが,那月が一時期ベージュの下着を履いていたことは事実らしい。君が更衣室で見た那月の下着の色を,記者に対して面白おかしく伝えたんじゃないのか?」
「違う!」
火焚は雑誌を掴み取ると,床に思いっきり投げつけた。
「へえ。だいぶ感情的になるんだね」
「違う! というか,山瀬さん,どういうつもりなの? まさか私が那月を毛嫌いしてたから,那月を殺したとでもいうわけ!?」
火焚の目が大きく吊り上がる。スケーティング中の演技とは違う,正真正銘の感情の発露だった。
「それは分からない」
「私がどうやって那月を殺したって言うの!?」
「別に君が直接手を掛ける必要はないだろ。誰か別の人に頼んだのかもしれない」
「はあ? そんなわけないじゃん!」
「それに,そもそも俺は那月が殺されたと決めつけてるわけじゃない。俺だって,那月にはどこでもいいから元気にしてて欲しいと願ってるよ」
火焚の目には未だ炎が燃え盛っている。
しかし,火焚にはもう山瀬と言い合う気がないようだった。
「とにかく,私は那月のことを悪く言ってない。もちろん,那月の下着の色について記者に告げ口したこともない。真実が知りたいんだったら,私じゃなくて,その記事を書いた記者に訊けばいいじゃない。…早くこの部屋から出て行って」
「…ああ,その記者には最初から会う予定だ」
山瀬はビジネスバッグを持ち上げると,蹲った火焚の背中に,「じゃあな」と別れを告げ,部屋を出た。