灰田那月の栄光
灰田那月が生まれて初めてスケートリンクに立ったのは,4歳の頃だった。
裕福な生活をしていた灰田の両親は,生まれた子供が女の子だったらフィギュアスケート,男の子だったらゴルフを習わせることを予め取り決めていた。
女として生を受けた灰田は,予定通り,フィギュアスケートの英才教育を受けることになったのである。
灰田がその名を轟かせたのは,9歳で出場したジュニアの全国大会である。
5位入賞で,年齢が一回り上の選手とともに灰田は表彰台に立った。
この様子はテレビをはじめとしたメディアでも大々的に伝えられ,灰田には当然の如く「天才少女」という肩書きが与えられた。
その3年後には,灰田は同じ大会で1位を取った。
灰田の評判は,この頃にはすでにフィギュアスケートファン以外にも広まっていた。
灰田のスケーティングの最大の個性である「堅実さ」は,ジュニア時代から遺憾無く発揮されていた。
灰田は正確なタイミングでステップを踏み,正確に足を揃えてジャンプをした。
年齢とは裏腹に,灰田のスケーティングには幼さ,荒削りさは一切なかったのである。
それを実現していたのは,言うまでもなく,毎日夜遅くまで繰り返された血の滲むような練習である。
しかし,灰田の正確無比なスケーティングは,度々「ロボットスケーティング」と揶揄された。
灰田がジュニア枠で出場した最後の試合は,後世に語り継がれるものとなった。
その最大の要因は,灰田がショートプログラム・フリープログラムの合計点において,日本ジュニアスケート最高得点を叩き出し,1位で有終の美を飾ったことに間違いない。
しかし,それだけではない。そのとき2位に入賞した火焚絵栗,3位に入賞した星科芽美は,灰田と同い年であり,これまで凌ぎを削ってきたライバルだったのだ。
灰田,火焚,星科の3人は、ジュニア時代から、名字の頭文字をとって「3H」と呼ばれていた。
この3Hが,シニアに上がった後,日本女子フィギュアスケートを人気・実力ともに牽引した。
3Hのシンデレラストーリー前夜として,彼女たちのジュニア最後の試合は,記念碑となったのである。
シニアに上がった後も,灰田の精密なスケーティングは狂うことがなかった。
わずか2度目の挑戦で,国内でもっとも権威のある大会で優勝した灰田は,順当にオリンピック代表に選ばれた。
隣国の韓国で開催されたオリンピックでは,地元韓国の選手に頂上を譲ったものの,銀メダルを獲得した。直前の足首の怪我と,地元選手を後押しする微妙な判定さえなければ,灰田こそが金メダルに相応しかったというのが国内外のメディア評である。
しかし,灰田が2度目のオリンピックの舞台に立つことは,もうなくなってしまった。
それどころか,灰田がスケートリンクに立つことさえ,もう2度とない。
19歳の誕生日から3日後の夜,灰田那月は殺されたのである。