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偽悪的な彼女  作者: 作家椿
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第三話 偽悪の始まり

彼女は耐えきれないほどの痛みを、耐えようともがく。自らを悪に走らせる。

 夕刻、私はあの歓楽街へ向かう。人混みを分け進み、ヤヨイの店へ。黴臭いエレベーターに揺られ、ヤヨイの店へと入る。普段ならこの時間に来ることはない。だが、今日は飲まずにはいられない、そんな気分だった。

 夜も早く、店内はさほど混雑していない。カウンターに空席がある。ヒールを鳴らし、すぐにそこのスツールに腰掛ける。

「XYZを」

 バーテンダーがサービスの水を持ってくるよりも早く、私はそう切り出す。いらだちを、いや、焦りを隠せない。ヤヨイではない、名も知らぬバーテンダーが背中をすくめながら応じ、シェイクを始める。

 辺りを見回す。ヤヨイは他の客へカクテルを注いでいる最中だった。私はロスマンズを一本取りだし、火を付ける。煙を吸う、煙を吐く。私は正しいはずだ、正しいことをしたはずだ。悪夢の共有、秘め事の共有。何を焦る必要があるのだろう。それも、たかだか週に二錠程度の事で。

 しかし現実問題、私は焦っていた。飲まずにはいられないほどに。奥山氏に連絡も入れず。

「どうしたのさ、フェリシティ」

 私が無心で煙草を吸っていると、いつの間にかカクテルが目の前にあり、そしてヤヨイが目の前にいた。

「夜も早いのに、奥山さんに内緒でお酒?」

「内緒だって、よく分かったわね」

 軽口に、嫌みが混じっている気がする。気のせいだと思いたい。だが私の焦燥は、それを過度に肯定する。

「あたしの直感も、捨てたもんじゃないね。それにしてもいきなりXYZなんて、らしくない。しかも夜にアルコールなんて、もっと珍しいじゃない? フェリシティ」

 軽口を返したい。だが浮かばない。何かでごまかさねばと思う。

「パウダーちょうだい」

 敢えてヤヨイの方を見ずにいると、そんな言葉が口から零れ出た。

「カプセルで良いから」

「それこそ午前中にしてくれないと困るかなぁ」

 焦りを隠していたい。が、もうとっくに筒抜けだろう。私はそっぽを向いたまま、彼女の言葉を聞く。

「用法用量を守って正しく、ってね。人目もあるし。何かあった? 相談にくらい乗るよ」

「色々とね、ありすぎたわ」

 正直に吐露する。パウダーが欲しいという無意識の言葉もまた、私にとっては必要なことなのかもしれない。一口だけカクテルを飲むと、そこに思い至れるだけの余裕が生まれた。

「教師って、本当に大変よ。本当に」

「少し前の私らなら、学校で大変なことがあったって言ったら、大体が勉強のことだったけどね」

 ヤヨイも煙草に火をともした。私は灰皿から煙草を持ち上げ、一口吸った。

「勉強が本分だって過度に思い込みすぎてる子も、大変よ」

 そう、彼女は学生でさえなければ良かったのだ。夢見る女の子でなければ良かった。最初からこの世に絶望した存在であれば、新たに絶望することもないのだから。

「勉強のことと言えば、そうね。絶望と希望を両立させるのは、本当に難しいわ」

「禅問答だね」

 ヤヨイの吐く煙は、普段とは違って紫だ……まっとうな煙草である証拠。

「受験勉強か何かで悩んでんの? その子、希望と絶望の両立だなんてさ」

「違うわ。そうであったら、私まで悩む必要ないもの」

 煙を味わい、カクテルに口を付ける。心の早鐘は、収まっていく。しかし焦りは……。

「メディテーションが必要だって言ったら、今パウダーくれる?」

 髪の毛をかきあげながら、彼女に尋ねる。意味もなく。クスリが欲しいのは事実だ。だが、メディテーションなどと言うのは、真っ赤な嘘だった。

「メディテーション(瞑想)なら、アルコールは邪魔じゃない?」

「こんなの、飲んだうちに入らないわよ。一応コーカソイドなのよ、これでも」

 やはり、だ。嫌みが混じっている。どうしてだろう。分からない。彼女に当たり散らす理由などみじんもないというのに。

 私もまた、単なるカウンセラーなら良かったのだ、専門の教育を受けた。希望を持たせる等という大それた事が、妖精であることを捨てた、単なる赤い女に出来ようはずがないのだから。それでも、私は持たせてしまった。魔法のクスリという希望を。それが正しい希望であれば……。

「ほら、ピルケース出しな。特別料金だ」

 言われて、私はピルケースをハンドバッグから取り出し、ヤヨイの方へ向き直った。軽口を叩いていながらも、彼女の目は、真剣味をかなり帯びていた。

 私はピルケースを灰皿の隣に置く。ヤヨイは、煙草を灰皿に押しつけると、自然な動作でそれを袖の中へ仕舞った。

 彼女は、同僚とおぼしきバーテンダーに、手洗いでここを離れる、というような事を告げ、奥の方へ去って行った。ピルケースの中身を補充しに。

 私はもう一口、今度はできるだけゆっくりと、カクテルを傾けた。よく味わってから、それを飲み下す。口の中に様々な味が満ち、胃の中に熱いものが満ちる。そして不意に、どこかで聞いたことのある叫び声が、脳裏に響いた。

 ……今朝の、あの叫び声だ。

 だが、今朝と違い、渦巻くほどの叫びではない。遠くでの叫びだ。助けを請うような、許しを願うような……判別が付かない。煙を一口吸うと、叫びは吐き出される煙と共に、宙にたなびき、消えていった。

 彼女は、木村朱音は、この叫びを聞くだろうか。私はかつて友人を救えなかった。呪うことも出来なかった。だからこうやってクスリの助けを借り、彼女の死を悼んでいる。ずっと。私はこれで、彼女を呪うことが出来ているのだろうか。それとも、殉教する彼女を見ることで、彼女を、私の中で死に続ける彼女を、呪えているのだろうか。それとも救ってしまってているのだろうか。

 分からない。

 だが強く願う。木村嬢にも、この光景を見て欲しい、と。

 やがて煙草が燃え尽き、カクテルもなくなる頃、ヤヨイが戻ってきた。

 わざとらしく日本語で、

「お客さん、前来たときこれ忘れてたでしょ」

 と言い添えて、ピルケースを渡してくる。私もやはり日本語で、ありがとう、と返し、ピルケースを仕舞った。

「他のお客さんの世話もしなきゃいけないからね、夜は」

 わざとらしさは脱色し、普段の調子に戻ったヤヨイはそう言い、手で、あんなに客がいる、というような仕草をした。私はかぶりを振り、ただ無言だった。

 いつしか焦りは消えていた。私はもう一本煙草を取り出し、火を付けた。

「注文が入ったら、失礼するよ」

「今更断らなくても良いわよ」

 かぶりを振りながら、私は返す。彼女が示した客の数は、混雑と言うには物足りないが、しかし注文が多少は入ることを表していた。

「そういえば、この前、関わるなって言ってくれた彼女……どうしてるの?」

 なんとはなしに、私はそう尋ねる。ヤヨイは顔をしかめ、「相変わらずヤクでぶっ飛んでるよ」とだけ答えた。つまり、彼女にとって、そちらの“上得意”でもあり、同時にそれ以上の存在であるという事を意味していた。あれだけ詳しく私に言い聞かせた以上、何らかの事情が、彼女とヤヨイの間にあってしかるべきで……それは私にも関係があるからこそ、ヤヨイは彼女に関わるなと言った……その直感が、確信に変わる。

「あんたも、ここでトリップするのだけはやめてよ?」

「しないわよ、そんなこと」

 明かな何らかの意思、意識。確信は更に色を増す。確信は疑念に変わる。本当に、危険だから私と関わるなと言っているのだろうか。本当にそれだけで、あそこまでの忠告をするものなのだろうか、と。

 が、だから何だというのだろう。私は三度かぶりを振った。

「悪い、注文入った。少し落ち着いたみたいだし、また後でね」

 そう言い残して、ヤヨイは私の前から去って行った。顔を上げると、彼女は律儀にも背中越しに手を振っていた。焦りを見抜かれていたことに特段の思いはない。十年来の友人なのだから。

私はスツールから立ち上がり、会計を済ませ、またあの黴臭いエレベータに乗った。エレベーターの中で幻影が見えた。脳裏に写るマリア像の手前で、あの、髪を染め表情をなくしていた彼女が、跪き祈りを捧げている幻影が。




 夕食を済ませ、私は自室へと入る。ロスマンズの紫煙をくゆらせ、紫煙に包まれながら、今朝のことを思う。あの強烈なフラッシュバック……今となればそうだと分かる……の原因を。

 彼女を、木村朱音を生け贄にせよと、何故彼女たちは、少女達は叫んだのだろう。叫びが渦を巻いたのだろう。彼女は犠牲者だ。犠牲者を、何故生け贄にする必要があるのか。私には分からない……見当が付かない。

 だが、少女達の叫びが、私にとっての嘘だったことは、今まで一度たりともなかった。少女達の叫びは、かつて白百合が祈った聖母のように、私を正しく導き続けていた。私にとって啓示であり続けた。

 ならば、何故。

 ……彼女を、何の生け贄にせよと言うのか。何の咎で。何のために。

 咎、(シン)……言い換えるのであれば、(ペイン)

 そこで思い至る。思い人に狼藉を働かれることが、乱暴されることが、傷物にされることが、一体、夢見る一人の少女にとって、どれだけのダメージになり得るのか、と。私は彼女に生きる希望を与えたつもりだった。だが、このクスリは、服用した当人が、本当に見たいものを見せてしまう。彼女が望むものが、あるいは絶望だったとしたら……? 己への絶望、世界への絶望、他者への絶望……世界と己を隔絶するような何かだとしたら。

 考えるべきではないと、ニューロンのどこかがピリピリと警告を発している。だが、私はこの想像を止められない。

 初恋の相手に、なぶり者にされることが、どれだけの意味を持つのか。

 もし彼女が望むものが、彼女にクスリが見せるものが、私の危惧するものだとしたら。

 盛んに発せられる警告……それ以上考えるな。止まらない、止められない。

 彼女は、木村朱音は、自ら贄となることを望むのではないか。自らが生け贄となる姿を見てしまうのではないか。

 そして、それが己の望みだと悟ってしまうのではないか。

 心のどこかが悲鳴を上げた。ガラスの窓が割れるような痛みを伴って。

 幻影の少女達に確かめねばならない。

 私は奥山氏に、今日は早々に寝てしまうと嘘をつき、クスリをやった。

 結論から言えば、私の危惧は全くの正しさを持っていたことになる。いや、危惧は危惧ではなくなり、安堵を伴った確信となってしまった。

 その夜見た幻覚では、マリア像の前で自らに刃を突き立てるのはリリウムではなく、木村朱音だったのだから。だが、彼女は幸せそうだった。これで楽になれる、天国に行ける、と。聖母マリアの元で、永遠の幸福を約束される、と、微笑を浮かべながら、祭壇の前の彼女は事切れた。

 少女達は、これでいい、これで救われる、と、密やかに言葉を交わしていた。彼女たちを見渡しながら、私は何の違和感もなく、その結論を受け入れていた。

 そして、深い安堵感が、胸中に飛来した。これこそが彼女の望み、彼女の願いだと。彼女の願いは聞き入れられ、望みは叶えられた……何を悲しむ必要があるのか。

 命がなくなった後の抜け殻を、少女達は厳粛な顔で、祭壇の前にある棺に入れる。それもまた儀式の内なのだ、という面持ちで。

 そして、少女のうちの誰かが言った。この死者を弔うための、新たな生け贄が必要だ、と。贄を無限に重ね、祈りに変えるのだ、と。

 幻覚の中にいながら、私はある種の冷静さを持って、その言葉を受け入れていた。つまり、幻影の言う言葉は、深く傷つき悩む少女達に、この真実を、この光景を見せろということを意味していた。

 何の異論もなかった。くずおれる彼女は、事切れる彼女は、あんなにも幸福そうだったのだから。

 そう、それでいい、これでいい……少女達は繰り返す。その声が遠くなる。

 私はまぶたを開ける……。


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