第二話 感染源
ついに、彼女は一線を越えてしまう。
五月の大型連休も終わりに近づいた頃、私は教頭から、一本の電話を受けた。なんでも、深く、そしてデリケートな悩みを抱えた生徒が一人おり、どうしても私……“ヘンダーソン先生”に相談に乗って欲しい、という事だった。
生徒のケアも、当然教師の仕事だ。私はその話を当然のこととして受け取った。私の勤めている学校は女子校だった。少女故の悩み……デリケートな悩み。そして私を指名する事。十中八九色恋沙汰だろう。少なくない人間と関わってきた私だが、生憎男性をそういう目で見た事は、正直数えるほどもない。正確には、色恋という物がどういうものなのか、まるで分かっていない、と言うべきかもしれない。恋愛という物自体に恋をしていた少女時代はとうに過ぎ、今では単なる赤い女だ。二十数年間の人生を俯瞰してみても、愛している、心から愛している、と思ったのは、白百合と呼ばれた少女、そして父なる神、この二つだけだった。家族愛や隣人愛、そういったものは、当然私の中にも芽吹くことはある。奥山氏や、ヤヨイの事、かつてグラスゴーで日々を共にした友人達……これは、愛に間違いない。だが、極めて日本的な『愛』に限って言えば、私はその二つしか、愛を知らない。
私は、少女の悩みを受け止めるための参考として、白百合の『遺書』を、また読み返そうかと思った。彼女の恋愛は、どこまでも清廉だったからだ。だが、彼女ほどただ純粋に思い続けることがどれほどの重みを持つか、彼女自身の人生が証明してしまっていることに気付く。清廉で、鮮烈だった彼女の生、恋愛。愛に生きた自らを狂人と否定し、最期には死という形で己を断罪した彼女。
薬の効果はもうとっくに消えているはずだったが、祭壇でくずおれるあの少女の姿が、脳裏にちらつく。
私は煙草の箱を開けた。中身がぎっしりと詰まったそれから一本取り出し、火を点け、深く、深く煙を吸い込み、細く、長く煙を吐き出す。しばらくそれを繰り返していると、どうすべきかは分からなくても、何をすべきかは分かる筈だ、そんな直感が生まれた。その直感の元は? ……彼女。
私は机の資料棚から、写真入りの学生名簿を取り出した。ご丁寧に英訳まで付いた私専用の物だが、使われている英語は拙い。当然、私が付けた英訳ではないが、そのことはいまはどうでも良いだろう。
ぺらぺらとページをめくり、そうして、悩みを抱えている彼女の項を見つけ出した。
彼女の上半身の写真、そして彼女についての簡単なデータが、飾り気の全くないブロック体で記されていた。
木村朱音。明石市在住。第二ブロック(一般的な中学三年及び高校一年が、この学校ではそう呼ばれる)第二段階(つまり高校一年生、ということだ)、D組所属。得意教科は現代国語及び英会話。現代国語のレベル……学年上位の常連。英会話のレベル……意思疎通が問題なく行えるレベル。その他の教科……体育の実技、つまり身体能力を除き、概ね問題なし。
写真を見る。紺色の制服に身を包み、真っ直ぐにこちらを見、きちんと姿勢を正している。体は全体的に、私ほどではないにしろ華奢。顔は小さく、そこそこ整った顔立ちをしている。髪型はショートカットで、肩の上で切りそろえてある。前髪はおでこを覆う程度の長さで、やはり横に切りそろえられている。黒い金属フレームの眼鏡をかけており、こちらもきちんと目や眉の形に合わせてある。
写真はあくまでで写真、単なる物だ。だから瞳は何も語らない。が、彼女の成績や容姿、半身、つまりデータを見るだけでも、得られる物はある。
この学校に通っていることからして、それなりに裕福な家の出である事は確かだ。明石と言えば隣町だが、通学にはそれなりに時間がかかる。つまり本人の強い志望か、家族……恐らく母親からの強い後押しがあり、この学校へと入った。髪型が正に「女学生という型にはまったような」ものであることから、本人もかなり生真面目な性格だろう。身体が多少弱いようだが、背も高く痩せぎすとおぼしき体格の数値を見れば納得できる。
となれば、更に色恋の相談である確率は、高くなる。私がしていたように、恋に恋をしているような、そんな状況に苦しんでいる……ほぼ100%。
私は、時が、そしてあの鮮烈な事件が解決した。この少女は、私に解決を依頼している。
この話を断るべきだろうか。
イエスになど出来ようもない考えが、脳裏に浮かんだ。何に悩んでいるのか、何故悩んでいるのか。そのことは直接聞けば良い。だが、色恋の話となると、私では全くの不足だ。私は、大方の生徒達が信じているように、良い男をイギリスにキープしているわけでもなければ、この国にそんな関係を持とうと思う男がいるわけでもない。単に時が解決しただけなのだから。
私は、再びロスマンズに火を付け、ふぅ、と煙を吐く。
学生の頃のように、目を見て相手の考えを知り、それから行動するのでは、どうやらこの世界では遅すぎるらしい。私が遅すぎるのか、それとも世界が早すぎるのか……おそらくどちらもだろう。
私のことをよく知る人間からすると、驚かれることだろうが、私は何事にも、考えを、準備を欠かさぬ質だった。職場に通うためのスーツから、LSDをやるためのセッティングに至るまで。全て十分に自分で考え、決めていることだ。大体の人間は、私のことを、即断即決の人間だと思っているようだが。
だから私は、世界に対し、自分が遅すぎると感じる。考える。
そんな私が、妖精と呼ばれたほどに気まぐれで遅かった私が、急ぎに急いだ結果、煙草というもので休みを入れることを覚えたのも、また自然なことだろう。今の私は、妖精であることを捨てた、単なる、赤いだけの女だ。
受けざるを得ないのだ、教職に就いている以上。「こどもたち」の面倒を見るのも、仕事のうちなのだから。
あとは彼女の目を見なければ、何も分からない。私は煙草を吸いながら、そう思い至る。
連休中にも細々とした仕事をこなし、奥山氏の観察、そしてヤヨイとのコミュニケーションを続け、連休が明け、さほどの混雑ではない通勤電車に揺られていると(とはいえ、我が故郷グラスゴーからすれば、かなりの混雑だが)、偶然にも、写真の彼女……木村朱音を発見した。
目を伏せ、じっと床を見つめている彼女を傍らに見つけた私は、注意深く、彼女のことを観察する。
じっと観察を続けていると……ぞっとするような冷たい感覚が、私の背筋に走った。
同時に、叫び声が、少女達の叫び声が聞こえた。
<<<彼女を生け贄にせよ>>>
<<<彼女を祭壇に立たせよ>>>
<<<彼女こそ我々の罪をあがなうものなり>>>
それは幻覚、幻聴と呼ぶにはあまりに克明で、あまりに鮮明だった。私は一瞬、前後不覚に陥りそうになる。少女達の幻影に飲まれそうになる。祭壇の前で、顔を隠した少女達が、口々に叫んでいる。
<<<彼女を生け贄とせよ>>>
<<<彼女は贄なり>>>
<<<我らが罪の源泉なり>>>
何故? 初めて目を見ただけの、それも傍らから、横目を見ただけの少女が、何故生け贄なのか……?
私は、いつしか荒くなってしまっている呼吸を、なんとか整える。額の汗が冷たい。
「先生、どうしたの? 大丈夫?」
電車を降り、駅のベンチで少し休んでいると、うちの学校の生徒が心配そうに話しかけてくる。
「何でもないわ」
私はかろうじて笑顔を作り、そう返す。
「ただ少しね、貧血を起こしてしまったみたい。少し休めば大丈夫」
ただ、うちの生徒だと判断したのは、制服がそうである、私が教師であることを知っている、という理由だけだ。私はこの声をあまりよく知らない。全く知らないというほどでもないが、どうにも記憶があやふやだ。頭が混乱している。
頭の中の少女達は、生け贄のことをずっと叫び続けている。あの少女は生け贄なのだ、と。
「無理しないでくださいね。私は先に行きます」
私に声を掛けた生徒は、そう言ってその場から去って行った。ふぅ、と息をつき、私は立ち上がって、喫煙所へ向かう。ハンドバッグからシガレットバンドを取り出し、その中からロスマンズとライターをつまみ出して、咥え、火を付ける。
何度か煙を吸ったり吐いたりしていると、やがて脳裏の少女達も息を潜め、ざわざわと何事かをつぶやくだけになっていった。
……バッドトリップだろうか。心労故の。いい加減クスリも止め時かも知れない……そう考えていると、またもや私に声を掛ける存在があった。
「あの、ミズ・ヘンダーソン……」
少女達が、絶叫した。私はその声から耳を背け、私に声を掛けた存在に、努めて意識を集中する。
「ああ……あなた。話は聞いてるわ」
木村朱音、その人だった。
放課後、生徒指導室に来るよう彼女に伝え、そのままその場を後にした。
私はその日の授業をこなし、職員室の隅でたっぷりと煙草を吸う。そして約束通り、生徒指導室で、彼女を待った。やってきた彼女の瞳を見る。今朝方聞こえた何かは、もう聞こえない。しかし、底知れぬ何かを、彼女の瞳は物語っている。
しかし、カウンセリング……いや、相談という物は、どうやら相当私の性に合わないらしい。私はいつも、瞳が語る言葉を読み取り、相手と話していた。口から放たれる言語は、私にとってはその補助に過ぎなかった。私は、瞳が語る希望……Wantを選別できた。私はそれ言語化し、相手に伝える……今まで、私はそうやって人と接してきた。人は、望むことをやめることは出来ない……そう思っていたからだ。
「好きな人がいたんです。その人が、私に……好きならやってみろよって、乱暴を……」
私はじっと押し黙り、嗚咽を漏らす彼女を見つめていた。悪夢の告白……現実の懺悔。木村朱音は、彼女の瞳は、最早何も望んでいなかった。白百合は、最後まで望むことをやめなかった……私は無意識に、そのことを連想した。断罪してくれ、と、呪ってくれ、と望み続けた彼女を。あの血染めのマリア像が……私の脳裏で、祭壇の奥のマリア像が、血の涙を流していた。
私になしえることは何か……泣き濡れる木村嬢の背中を、できる限りいたわるように撫でながら、私は考える。何を為すべきか、何をすべきか。
そこでふと、閃く。悪夢の共有。
「先生もね」
そう切り出すと、少女が顔を上げる。
「ずっと泣いていたい時期があったわ。だけどそうも行かなかった」
どう勧めて良い物か迷う。しかもこれは……。だが、私は彼女を救いたい。何かを望める程度までは。
「いけないお薬でも、その悪夢から逃げたいって、思う?」
懺悔しているのは私の方ではないのか……そうも考えながら、私はピルケースを取り出し、意味深げにしゃかしゃかと振ってみせる。
「先生と木村さんの、二人だけの秘密。このお薬」
ピルケースを机の上に置く。彼女は黙っている。じじ、と蛍光灯が音を立て、
「ください」
震えながらも、はっきりとした意思を持って、彼女はそう言った。
「そのお薬を使えば、逃げられるんでしょう? 逃げられるなら、ください」
「なら、いくつか決まり事を教えなくちゃいけないわ」
彼女は頷いた。私は指を一本立て、
「一つ。人前では絶対に飲まないこと。どんなに親しい人でも、どんなに近しい人でも。二つ。時間を決めて飲むこと。見つからない時間に、その時間にしか飲まないように。三つ、分かってると思うけど、中毒性は高いわ。だから増やしたいと思っても増やしてはあげられない。良い?」
三本の指を立てながら、私は伝える。少女は、再び頷いた。
「それと、このお薬が見せる夢は、良い夢とは限らないわ。あなたが本当に見たいものを見せるだけ」
三度、少女は頷いた。これでいい。少なくともクスリは望めるようになる。私は自分にそう言い聞かせながら、机の上のピルケースから、一粒、二粒と取り出す。
「どうしても逃げたくなったときに飲みなさい。時間はあなたに任せるわ。くれぐれも、誰にも見つからないように」
私は、心のどこかが悲鳴をあげ、軋み続けるのを無視して、彼女を違法薬物の世界へと誘い続ける。救いたい。救い出したい。何も望めなくなった場所から。
「それとも、今ここで飲みたいのかしら」
少女は、今度は首を振った。
「先生に聞いてもらえましたから……一人じゃないって。こんな私のために何かしてくれる人がいるって……」
少女の顔を間近で見る……瞳を見る。この言葉はかりそめだと語っている。だがそれでいい。かりそめのものでも、本物になることがあると、私はあの白百合から教わったのだから。
「また来週ね。その時にもう二粒、お薬を渡すわ」
ピルケースを仕舞う。木村朱音がゆっくりと顔を上げる。ぼうっとした顔をしている。瞳に映る漆黒はそのままに、ほんの少しだけ、パンドラの箱の底にあるだけのような希望を浮かべて。
そう、それでいいの。リリウムの囁きが聞こえた気がした。