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偽悪的な彼女  作者: 作家椿
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第一話 バーにて

退屈な書類仕事を終え、何故か昼前からバーに行くフェリシティ。そこで彼女は「特製のパウダー」を仕入れているのだが……因縁浅からぬ相手から。

 退屈な書類整理の仕事を終え、私は町へ繰り出す。繰り出す、といっても電車で一駅の場所で、しかもそこは夜の町だ。日の高い内、それも午前中は人影もまばらで、人よりもゴミを漁っているカラスの方が多いのではないか、そう錯覚させる……それは事実かも知れないが。

 雑多な小規模ビルが建ち並ぶ区画を歩きながら、目的の物を探し出し、かび臭いエレベータに乗って、その店、待ち合わせ場所である店へと向かう。夜はバーとしてそれなりに賑わうのであろうが、昼にもなっていないこの時間は、流石に、客と呼べる人間は、私と、奥のボックス席で表情を無くしている女しか居なかった。

 私は、カウンターの向こうでグラスを丁寧に拭いている女性へ、注文をする。

「バラライカかXYZ、どちらか私に似合う方を」

 ……英語で。

 背後で応じた彼女は、肩をすくめながら、

「教師ともあろうお方が、午前中からお酒とはね」

 やはり英語で返した。どう見ても、外見は日本人だが、その英語には、私と同じくかすかなスコットランド訛りがあった。私はロスマンズに火を点け、

「それがここの流儀だって思ってたけど」

「律儀だね、あんた」

 バーテンダーがこちらを振り返り、ポケットの中からピルケースを取りだし、そっと私に差し出した。

「リリウムもそうだった」

 悔しそうに、そう付け加えた。私は煙でその言葉を受け流し、ピルケースだけ受け取り、ハンドバッグに忍ばせた。一応、誰にも見られないように、気を配りながら。

「律儀すぎて、正直すぎて……あんなになるなんて」

「ヤヨイ、リリウムの話はよして」

 ハンドバッグの中でピルケースを振り、きちんと中身が入っていることを音で確認しつつ、私はそう言った。リリウムの話は……白百合の話は、私達にとって最高の共通の話題であり、そして私にとっては、この二人で交わされることだけは、タブーだった。

「そうは言ってもね、フェリシティ」

 彼女は、お座なりに、グラスに酒と味付けの液体、そして風味付けのパウダーを注ぎ、軽くステアをはじめた。

「忘れられないよ。絶対に。あんなに良い子だったのに」

「分かってるから、よして欲しいの。あの子がどれだけ……いいえ、やめるわ、やっぱり。この話題は、いくら話しても同じ事になる」

 脳内にちらつく、今朝の幻覚。そして紛れもない事実だった、彼女の微笑。私は彼女を貶めているのだろうか。穢しているのだろうか。そう思うと、得も言われぬ闇色の瞳が、私を覗き込むような気がした。

 ヤヨイは少しだけ眉をしかめ、ステアを続けた。そしてカクテルができあがり、型どおりに、私に差し出した。

「はい、レッドアイ。流石に朝からバラライカは拙いからね。薄めにしといたよ」

「バーテンダーなら、ちゃんと注文通りの物を出して欲しいんだけど。ともかくお礼は言うわ。ありがとう。薄いと、美味しくないけど、朝だからね」

 私は一口それをすすり、もう一人の客を、それとなく見た。日本人特有の黒髪ではないが、背格好や顔立ちから、間違いなく日本人だろう。濃い化粧と、茶色の髪をワンレングスにした、私と同じくらいの年齢の女が、どこかぼうっとした表情をし、明後日の方向を見ながら、ただ、ボックス席に座っていた。

「あいつには、関わらない方が良い」

 私にだけ聞こえる小さな囁き声で、ヤヨイが言った。この店には、ヤヨイと私、そしてあの妙な表情の彼女しか居ない。その上、私達二人は英語で話しているから、彼女に伝わりようもないというのに。私が視線を前に戻し、怪訝な顔をすると、

「ああ見えて、ヤクの中毒者でね。あんたもアシッド(幻覚剤)やってっけど、それなんか比じゃないよ」

「どういうこと?」

 ロスマンズを一口ふかす。中毒者と言われたことに腹は立たなかった。事実、その通りなのだから。

「なんて言えばいいかな……。ヘロインの一種で、時間の進み方を狂わせるんだ、認識としてね。ダウナーのくせに異様な多幸感も得られる。酒と混ぜると、一発で大体の人間はノックアウトさ。あいつはその状態を維持しないとダメ、それくらい危ないんだ」

「なるほどね」

 私は灰皿に煙草を置いた。ちらりともう一度、そのダウナーをキープしているという彼女を見やる。確かに、目はうつろで、明らかにトリップしているのが見て取れる。そして、単に多幸感に浸っているだけではなく、幸福そうにも見えた。

「幸せそうだけど。それでも危ないの?」

 もう一度煙草を手の中に納め、ゆらゆらと揺らしながら、ヤヨイに訊ねてみる。

「どこから話したもんかな……」

 ヤヨイは、短く刈り込んだ頭をカリカリとやり、そして煙草状の物に火を点けた。煙が青い。つまり煙草ではない……要するにマリファナだ。この店のバーテンダーである彼女もまた薬物に手を染めている。ここに居る三人は三人とも、違法薬物の助けがなければ生きられない、重篤な中毒患者だということだった。

「結論だけ言えば、兎に角関わるな、そういうことね」

 悲しそうな目をしているヤヨイを、真正面から見据え、私はそう言った。色つきのコンタクトレンズのせいで赤く見える、青い感情を帯びた瞳は、あの幸せそうな彼女もまた、何らかの形で、私と『接点』がある、と語っていた。

「忠告通りにしておくわ。あっちから絡んできたら、分からないけれど」

 私は彼女瞳から目をそらす。瞳が何を語っているかは分かったのだから。一口レッドアイを飲み、それから煙草の煙を吸った。

「今朝はどうだった?」

 私が彼女の忠告に従う、と意思表示をしたからだろう、ヤヨイは、やはり悲しそうに笑いながら、私にそう尋ねた。脳裏の彼女が流す血は、どこまでも赤く、祭壇の聖母像を徐々に染めていった。

「いつも通りよ」

 私は煙草を灰皿に置いた。

「いつも通りの夢。特製のパウダーのおかげでね。ミス・奥山もいつもと同じ珈琲を出してくれたわ。隠しきれるわけ、ないもの。彼女の夢は現実なんだから」

 禅問答めいた物言いである事は自覚していた。しかしそれで通じる相手である事も、分かっていた。

「あんたのとこのメイドさん、今日の夢は過去を見てた? それとも未来?」

 ちらり、と件の幸せそうな彼女を一瞥し、おそらく危険が無いと判断したのだろう、きちんと私の目を見て、ヤヨイは質問を重ねた。

「それもいつも通りよ」

 煙草を手に取るが、もう燃え尽ききる寸前だった。私はもう一本、ロスマンズを咥え、火を点けた。

「過去の夢を見ながら、今の夢を見てた。やっぱり、未来は見えてないわ」

「だろうね」

 青い感情を人工的な赤の奥に潜め、ヤヨイは青い煙を吐き出す。

「私だってそうだ。未来なんて分からない」

「私もね。あると分かってても、見えないんだもの、分からないのと同じよ」

 この言葉すら、いつも通りだった。このことが区切りになって、二人に沈黙が訪れるのも。未来や過去、そして夢についての確認は、私達二人にとっては、日常の一部分、いや、二人の間での、ある種の決まり事だった。顔を合わせる度、私達二人は、過去の夢、現在の夢、未来の夢について、端的な言葉を交わしていた。今朝の天気のことを語るように、夢について語っていた。ただ、天気の話と決定的に違うのは、こうやってお定まりの文句を買わした後、必ず、少なくない時間、沈黙が訪れることだった。

 私は煙草を、ヤヨイはマリファナを、お互い無言でふかした。やがてヤヨイの手からマリファナのジョイント(煙草葉とブレンドし、手巻き煙草の紙で巻いた物)が灰皿へと収まると、再びヤヨイは口を開いた。

「で、パウダーの補給についでに酒を飲んでる先生サマ、学校の仕事は? 色々あるんじゃないの、連休中でも?」

「ここに来る前に片付けてきたわ」

 血染めの聖母像が、泣いている姿が、ちらりと浮かぶ。

「こうやって現場に立ってみると、イギリスにいた頃の私が如何にお気楽なお嬢様だったか、本当によく分かる」

「学ぶのだって、大変さ。教えること以上に大変なことだって、時にはある」

 気楽そうに、ヤヨイが言う。再び人工的な赤に彩られた瞳を見つめてみると、青い感情は、ほぼ消えていた。彼女の愁い、彼女の悲しみは、私と、そして奥山氏と同種の物だ。だが彼女は、私ではなかった。

「今でも、注ぐ順番を間違える、なんて初歩的なミスをするバーテンダーが、ここにいるくらいだからね」

「それは勉強以前の問題ね」

 私は薄く笑った。

「プロとして失格よ」

「あんただって失格じゃない」

 ジョークが通じたのだろう、ヤヨイは笑いながら響いてくれた。

「スコットランド訛りの英会話教師に育てられた奴らが、気の毒だ。初歩以前の問題」

「正真正銘ネイティブの発音だから、問題ないわ」

 笑みを濃くしながら、私は応じる。

「ブルックリンの銀行強盗に通じなくても、英語は英語よ、イギリスの物だわ」

 軽く、私達は笑い合った。夢についての話題が終わると、いつも私達は気楽な話題に移る。今日も同じだった。本当にどうでも良い事……例えば、今目の前にあるレッドアイに使われているトマトジュースが、きちんとトマトの果汁だけで出来ているのかだとか、何故私が赤いカクテルを注文したのかだとか、そういったことを話すようになる。

 きっとヤヨイにとっても、私にとっても、この二つは、等価だった。下らないおしゃべりも、夢についての問答も。

 ちらり、と彼女の”遺書”の事が浮かんだ。聖母マリアへの祈りに満ちたあの遺書のことが。妖精と呼ばれていた頃の私が、克明に記された、あの手記。

「私って、いつの間にこんなにおしゃべりが上手になったのかしらね」

 脳裏に何が浮かんでいるか、血の涙を流す聖母像の前で、己の命を祈りとして捧げる少女の姿が見えている、そんな事はおくびにも出さず、私は、目の前の、その少女の次に私を知っているであろう女に訊ねる。

「昔の私は、言葉を飾ることを知らなかった。バカみたいに、いえ、白痴みたいに真っ直ぐだった覚えがあるわ」

「せめて無垢って言ったほうがいいんじゃない?」

 ヤヨイは、苦笑しながら、そう答えた。

「日本には白無垢って言葉があってね。覚えてたら、後で辞書引いてみな。そのまんまあんたのことだったよ」

「私は赤いわ」

 レッド・アイを一口飲み、その口直しにロスマンズを一口吹かして、私はそうあしらう。

「赤毛に赤い眼鏡。肌以外のどこに白い要素があるのよ」

「ああ、これもフェリシティは知らなかったか」

 にやっと、ヤヨイは笑った。

「赤は、日本じゃ神様の色だ」

「願わくば、ヤヨイのその軽口が、本物の神様からのお告げでありますように」

 私は何となく、もうこの場から去りたいと思った。彼女の軽口が馬鹿馬鹿しくなったからではない。彼女の口から……リリウムと共に過ごしたあの頃を知っているこの女性から、過去と今の自分が、それこそ乖離しているのだ、と悟られるのが怖くて。

 白くて赤かった昔の私と、ただ赤いだけの今の私。無口だった私と、饒舌な私。手も足も体も小さかった昔の私と、細いくせに全部大きくなってしまった私。誰が完全に同一だと言えるだろうか。

「またそれかよ」

「またこれよ」

 また、という言葉が少し気に掛かる。私は確かに、今でこそこの女性に対しては皮肉屋になっているものの、そうそう皮肉のバリエーションがあるわけではない。だが、これもまた今朝と同じど忘れだろう、と勝手に頭で処理し、そうあしらった。

「お代は月末?」

「ええ。向こうのパブと同じようにしてくれて、助かるわ、ヤヨイ」

「上得意だからね。じゃあ、また」

「ええ、また」

 私はスツールから立ち上がり、背中で挨拶を返し、バーの出口へ向かった。

 関わらない方が良いとヤヨイから言われたが、美女が、目の端にちらりと映る。

 濁った目の奥に抱いている感情までは読み取れなかった。ただ幸福を謳歌している瞳で……それだけだ。

 私は再びかび臭いエレベータに揺られ、再び、まだ日も高い歓楽街を歩き始めた。


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