序章
序
その顔を、覚えている。
少女として生き、祈りの末に果てた少女の顔を。
彼女の笑顔も、彼女の涙も、何もかも尊く、美しかった。
切れ長の目に、鳶色の瞳。西洋人である私には真似も出来ないような黒髪は長く、風にたなびくほど長く、均整の取れた顔立ちはいつも美しく整えられていた。
物思いにふける目は、哲学者めいた愁いを、いつも帯びていた。
彼女は、自分の物思いについて、単に夢想であると断じていたが、私は違うと思っていた。それは祈りなのだと思っていた。聖母マリアへ、ひたすら祈る聖女のように、いや聖女そのものだと思っていた。
私がかける古いロックをBGMに、同室の彼女は、いつも珈琲を飲みながら、いつも祈っていた。その祈りを込めた瞳は、アジア人特有の色もまた透き通り、透明なまでに澄みきっていた。
私が、愛読書であるアメリカの古い小説から顔を上げると、決まって、彼女は微笑した。寮に住む他の人たちは、彼女が笑っているところを見た事が無いという。けれど私は知っていた。彼女が微笑むことを。とても……清廉な微笑を浮かべることを。
その微笑、そして涙。何もかも、覚えている。
副作用も何もかも、理想的だと思っていた。
彼女は、私を妖精と呼んだ。
私は、彼女を白百合と呼んだ。
しかし、彼女はもう居ない。最期の歌を歌って、消えた。
呪ってくれと遺し、彼女は消えた……居なくなった。
正直に言おう。彼女は自ら、死を選んだ。一人の男について、ただ聖母マリアに祈り続けた彼女は、その祈りの果てに、自死を、自殺を選んだ。だが彼女は誰も呪わなかった。自らにそのような運命を与えた神も、自殺の直接の原因である一人の男のことも、自分以外の誰も呪わなかった。そして、私に呪ってくれと遺し、死んでいった。
私は彼女を救えなかった。
呪うより救う方が、ずっと簡単だった。
……彼女が見える。跪き、自らの喉に、刃を突き立てようとしている彼女が。まるで、命を誰かに捧げるように、祈りを込めたような刃を、祈るような顔と姿で。
周りには、制服に身を包んだ少女達が、彼女が今にも自害せんとする様子を、皆一様にうつろな目をして、ただ眺めていた。
彼女を取り囲んでいる少女達は皆、知っている少女達だった。あの子も、あの子も、みんな私の教え子達だ。
祭壇のような場所で、彼女はついに喉へと刃 を突き立てる。
祭壇の奥には、聖母マリアの像と、彼女を象徴する花……白百合。
その手前に、顔のよく分からない少女が一人。
白百合と呼ばれた少女が、くずおれる。
うつろな目をした少女達は、ただ、彼女が死んでいく様を、眺めている。
彼女の唄は、祈りは、届いたのだろうか。それともどこかへ消えていくのだろうか。
あんなにもひたむきで、あんなにも強かった彼女を呪うなんて、私には出来ない……。
呪うのであれば、救えなかった私を。妖精と名付けてくれた彼女を、救えなかった私を。
感覚神経の誤作動が、段々と正常な物に戻っていく。
彼女の事が見えなくなっていく。彼女の姿が消えていく。
待って、と、私は声もなく叫ぶ。
祭壇の聖母マリアが血の涙を流し、白百合がしおれ、枯れていく。まるで彼女の命のように。
待って、私に救わせて、お願いだから。
クスリが切れていく。薬効がなくなっていく。彼女の幻影は消えていく。
後に残るのは、彼女の笑顔と、消えゆく唄だけ……現実へと、私は回帰する。
光が見える。
耳には、この国特有の鳥たちの歌声が届く。
目を開く。
私は、完全に現実へと戻ってきている事を、実感する。
……幻覚剤を常用するようになってから、もうどれくらい経っただろうか。私は服用の度に彼女を見た。いつも彼女が死んでいく様を見た。いつも同じ光景を見た。いつも彼女の歌を見た。彼女が死んでいく様は、彼女の歌は、あの儀式は、彼女の清廉な生そのものだった。
幻覚剤をやるのは、早朝、夜が明ける前に、と決めている。そうでなければ、私と同じように彼女の死を見、そして私を彼女のように扱う、第三の存在……彼女の実家が雇ったメイドに、気付かれてしまう。
私の寝室は彼女が死んでいった部屋で、この部屋があるアパートは彼女の両親が用意した物だという。
私は彼らに家賃を支払い、ここに住んでいるが、何故か彼女のために用意した筈のメイドは、無償で私にも奉仕していた。……いや、私が知らないだけで、彼女の両親が、メイドに金銭をきちんと支払っているのかも知れないが……。
メイドの彼女は、勤勉で、職務にいつでも忠実だった。プライベートには深入りせず、ただ私の代わって家事をこなした。私は言ったことがある。私は私のことくらいは自分で出来る、と。しかし彼女はかたくなに、私の仕事をさせてくれと言って譲らなかった。
私は思い出す。彼女が首を縦に振らなかったことを。決して折れず、決して譲らなかったことを。そして私は思う。それが彼女の贖罪なのだと。白百合の死に対して、彼女は贖罪として、私に奉仕しているのだと。
だから私は、彼女を受け入れている。
時計を見る。五月二日、午前六時二分。そろそろ、彼女も起きる頃だ。リビングで、白百合の愛した珈琲を飲もう。白百合が愛した朝食を取ろう。
「おはようございます、ヘンダーソンさん」
「おはよう、奥山さん」
ダイニングへ出るのは、いつも彼女が珈琲を淹れ終わるであろう頃、つまり彼女の起床から一時間と少しが経ってからだ。私は、奥山氏に”私は寝起きである”というアピールをするため、いつも頭をわざと乱している。奥山氏は、きちんとしたメイド服に、きちんとした化粧、それにきちんと整えられた髪で、私を出迎える。
私は出された珈琲に、砂糖を加える。二杯、三杯、と加え、口に含む。甘くない。もう二杯。
「ヘンダーソンさん、最近少しお砂糖の量、増えてませんか?」
私はその言葉に後ろめたい何かを感じる。彼女の贖罪は、私を幸せにすることだと、私は解釈している。ならば幸せを演じるのは、私の役割だ。その演技にほころびがあるのではないか……そう考え、私は言葉を探した。
「教師という仕事が疲れるというだけですよ」
探した先に見つけたのは、そんな言葉だった。
「頭が糖分を欲してしまうんです。元々私は甘党ですしね」
流麗な嘘。確かに私は甘党だが、別に疲れから糖分を欲しているわけではない。単に甘い珈琲が好きなだけだ。
「また新しい日本語、覚えられたんですね」
意外な言葉が、彼女から降りかかった。その意味をはかり損ね、私は珈琲を一口すすり、彼女をじっと見つめた。
「甘党。確かにヘンダーソンさんは甘い物が大好きですけれど、あまとう、という言葉、この間まで使ってらっしゃらなかったから」
クスクスと笑いながら、奥山氏は続きを紡いだ。私は合点がいき
「この町が悪いんです。日本のくせに、西洋よりケーキが美味しい町なんですから」
そんな冗談で、その場をごまかした。尤も、ケーキが美味しい町、というのはお世辞でも何でも無く、事実そのものなのだが。ただ、最近は、どうにも甘さが足りない、そう思ってしまうことがあった。何故だろう……本当に、教職のせいで疲労が溜まり、脳髄が糖分を欲しているのだろうか。それとも、単に慣れてしまっただけだろうか。
「この町は、それで有名ですからね。パンが美味しい、って、日本に来られて間もない頃、よく仰ってましたよ」
「確かに美味しくはありますが、そんなことまで言っていたんですか、私」
私は苦笑を浮かべた。まるで心当たりがなかったからだ。恐らく、日本に馴染もうとして躍起になり、一々記憶している暇などなかったからだろう、と脳内で結論づけながら。
「今ではすっかり慣れてしまいましたけれどね。おかげで、イギリスに帰りたいと思うこともないですし。それより、奥山さんは窮屈じゃなかったんですか? 毎日朝からパンばかりで」
何気なく放った言葉だったが、しかし彼女の顔は、急に陰った。
「お嬢様が……。佳織様が、白いお米よりも、パンを好まれる方でしたから」
私は少し思案する。彼女の瞳をじっと見つめて。瞳は言葉よりも雄弁に語るのだから。彼女の瞳は何を語っているか、それを見極めるために。贖罪のため? ……違う、後悔だ。
だから、あの手記について触れるのは、やめておこう、そう決めた。彼女に、きちんと今日を歩ませるために。
「イギリス生まれの私にとっては、あの奇妙な二本の棒を使う食事より、よほど慣れた物です」
皿に目を戻し、パンをちぎってスープに浸しながら、彼女をもう一度見やる。何かがうごめいている。
「それに、グラスゴーの食事より、ずっと美味しいですから、奥山さんの料理は」
白百合であれば絶対に口にしなかったであろう事を、敢えて口にする。
「そう言っていただけると、メイドの本分に立ち返る気がします」
寂しそうに、彼女は笑った。私は、豆のスープがたっぷりとしみこんだパンを口にし、視線を皿に移した。彼女の……白百合の微笑みは、雄弁だった。この人はどうだろう? ただ一つの事しか、概ね語らない。後悔、懺悔、贖罪……そういった類いの物。あるいはこれは、一人の男を思い続けた彼女の、鏡映しでもあるのだろうか。
「珈琲のおかわり、いただけます?」
まだ温かいままの珈琲をカップから一気に飲み干し、彼女にそうリクエストする。彼女にはメイドらしく居てもらおう、メイドらしくあってもらおう。そう感じたからだ。そうすれば、目の前のことに集中できれば、人は少なくとも後ろは見なくて済む。
空になったカップの底には、溶けきらずにいた砂糖が、ざらざらと残っていた。
「あ、はい」
笑みから寂しそうな物が消え、彼女は白百合のための存在ではなくなり、再び私のメイドへと戻る。柔和に微笑みながら、彼女は銀のポットから、湯気の立つ珈琲をカップへと注ぐ。私はまた、砂糖を二杯入れ、一口すすり、やはり甘さは鈍かったが、今度はよくかき混ぜてから、もう一度飲んだ。残っていた砂糖のおかげか、今度は納得のいく甘さだった。
「イギリス人なのに珈琲ばかり飲む、変な女だと思っているんじゃありませんか?」
私は、口元に曖昧な微笑を浮かべ、上目遣いに彼女を見やりながら、そう訊ねてみた。テーブルのそばにたたずむ彼女は、やはり柔和に、首を振った。
「そのような偏見、私は持ち合わせていませんでしたよ。なにせこの町の高級喫茶店の名前が、英國屋なのですから」
私はぷっと吹き出してしまい、それから苦笑を浮かべた。ジョークを言ったつもりが、ジョークで返されるとは、イギリス人失格だろう。
「この町は、日本の中では歴史が浅い方ですが、その分色んな物を貪欲に吸収するんですよ」
微笑しながら、奥山氏は続ける。
「ヘンダーソンさんはご存じないかも知れませんが、山手(この町では、山の近くという意味の他に、北側という意味もある)には、かつて欧米の方々が暮らしたお屋敷がそのまま残っていますし、浜手(この町では、海の近くという意味の他に、逆に南側という意味もある)はかつてのきょりゅうちでしたからね」
聞き慣れぬ言葉が耳に入る。私はちょうど、ボイルド・ソーセージにフォークを刺したところだった。
「きょりゅうち?」
「ええ。居留地。居、留まる地、と書きます。山手に屋敷を構えるほどでもなかった外国の方々が住まわれた土地です」
私が、興味がある、という目をしつつソーセージを口に含むと、彼女は自然な口ぶりで続きを紡いだ。この国が、海外と国交を持つようになってから、ほんの百数十年しか経たない、というのは、なんとなく知っていた。ドイツのトルコ人街や、アメリカのチャイナ・タウンだろうか、強引に現代の尺度で測るとするならば。外国人は外国人同士、日本人は日本人同士、そうすれば、偏見から来る下らないいざこざも起こらない、ということなのだろう。面白い性質だ、と私は素直に思った。
そして連想されるのは、浜手にあるデパートが、日本らしいコンクリート・ビルディングではなく、どこか煉瓦造りを思わせる構造になっていること、そしてその周辺にも、まるでドイツやイギリスの”旧市街”を思わせる建物が連なっていることだ。
「道理で、浜手には日本風の建物が少ないわけです。日本の大都市にはだいたいお城がある物と思っていましたが、この町にはありませんしね」
ソーセージを咀嚼し終えてから、私は口を開いた。
「それに喫茶店がとても多い。珈琲が欠かせない身としては、助かります」
「小さなお城……いえ、そちらでいう砦でしょうね、そういったものなら残っています。土台だけ、ですが。それにお城は、隣の姫路の物が有名でしょう。ご存じなのではありませんか?」
聞いたこともあるし、写真でなら見た事もあった。確か、その荘厳さから、白い鳥の名を異名としていたはずだ。白鳥だったか……いや、違う。はくちょうじょう、と頭の中で唱えてみたが、語感も悪い。この国の人間は、そういう物をとても大切にする。だから確実に白鳥ではない。だが、私は日本に住む白く美しい鳥は、白鳥しか知らなかった。
「名前と、それから写真は。それ以外は知りません」
私は、そう素直に答え、豆のスープを、今度はそのまま、スプーンにすくって飲んだ。そしてパンをちぎり、口の中に放り込む。このままお城や風俗に関しての話を続けていたかったが、二重に、そうはいかない事情があった。一つは、奥山氏は、自分の朝食は必ず私の後に済ませる、ということ。つまり、彼女は空腹のまま、テーブルのそばに控え、私に給仕をしているのだ。二つ目は、午前中に行かねばならない場所があること。こちらは完全にプライベートだが、人との約束でもある。だから、あまりだらだらと朝食の時間を延ばすわけにはいかない。
「今日は友人と会わねばならないので、パンのおかわりは結構です。奥山さんが食べて下さい」
友人、というのも中々おかしな表現である相手ではあったが、それ以外に適当な語句を、私は見つけられなかった。
「あら」
彼女は口を手で覆った。
「では、パンは私がいただきますが、この早い時間に、もうお約束ですか?」
確かに、時刻はまだ七時半を少し回ったくらいだった。
「教員には、色々と雑務がある物です。それを片付けてから、出かけてきます」
パン以外の全てを平らげ、私は煙草に火を点けた。そして珈琲を飲み、また一口、煙草を吹かした。
「珈琲のおかわりも、もう?」
「ああ、そちらは……。後で書斎の方に、二杯ほど持ってきて下さい」
少し思案し、書類作成には珈琲は必須だと思い、そう付け加えた。
「そうだ、煙草がそろそろ切れそうなんです。買っておいてくれると助かります」
「ロスマンズですね?」
「ええ、ロイヤルをカートンでお願いします」
「承知しました。ヘンダーソンさんがお出かけの間に、揃えておきます」
「ありがとう」
私は煙草を灰皿に押しつけ、火を消した。
「では、仕事を済ませてきます。珈琲、慌てないで下さいね。きちんと朝食を取った後で、構いませんから」
そう言い残して、ダイニングから、私は去った。