麗爛新聞 五月号 二面
「華蓮はね、ホントに女の子が好きなんだ。あの子が常に口にしている事は、嘘じゃない」
数瞬遅れてから来た花前先輩が淹れてくれた紅茶の香りが、むず痒い鼻孔を擽った。
飲みなよ、と急かされて慌てながら白磁に口を付けると、まだ熱い赤茶色に済んだ液体が上品な味を舌に伝えて来る。
ボクが衝撃的なモノを目撃した後、『彼』は長い銀髪を振り乱して、カバンも置いたまま部室から走り去ってしまった。
顔を真っ赤に染めたまま、目尻に涙を浮かべて。
今部室でこうして悠長に身体を休めているボクだが、これでも最初は先輩を追いかけようとしたのだ。
――ただ、あの悲しそうな目に含まれた感情に、深い悲しみと憤りと……そして、罪悪感が見えて、足が止まってしまった。
溜め息とも含み笑いとも取れる自嘲気味な息遣いの後、花前先輩が件の体育着を手にしながら再び開口した。
「……迂闊だったと言うか、正直もう大丈夫だと思ったんだがね。油断……それの方が潔いか」
「……」
目の前で足を組む彼女が言わんとしている事は、なんとなく分かっている。
あの悲しみに濡れた目の奥に見えた情熱は、間違いなく――。
「……君は、華蓮の秘密に気付いているんだと、あたしは感じてる。でもそれは、今あたしの口から言っていいモノじゃない」
「分かってます……それだけは、勿論」
覚悟を決めて、自分の思いを伝える事にした。花前先輩は当然の様に、最初から話をする体勢に入っている。
「それだけは、ねえ。その言葉は――とても意味深で、とても自虐的だね。あの子にとって一番隠さなきゃいけない事が、『それ』だと言うのに」
だからこそ、『それ』以外が知りたいのだ。
勅使河原先輩が積極的に見せてくれる面とは別に、ひたすらに隠そうとしている面が存在する事こそが、彼女の歪みの正体なのだろう。
ボクのそんな考えに応えるかの様に、花前先輩は椅子を引いて、わざとらしく足を組み替えた。ボクの視線は自然とその健康的な太ももの奥に見ゆる花園へと向かっていて――。
「――その、『今の君』が取る自然な反応。それが、唯一の答えで、今ここで許された議論の限界……なんだろうね」
そんな彼女の呆れた様な物言いに、ボクは急いで顔を背けた。
「いいよ、責めるつもりなんてない。それが、当然の反応なワケだし……何より、性的な対象として見られていると言うのは、そう悪い気分でも無いからね」
寧ろ誉れ高いかもしれない、と。しれっととんでもない事を言いながら、花前先輩は組んでいた足を戻し、紅茶を啜る。
熱くなった耳を誤魔化す様に彼女の真似をするが、紅茶は未だに熱いままで、顔の火照りを隠す為に用いる事は不可能だった。
「……君は随分と初心だね。もしかして、童貞?」
「どっ……!? そ、そう言うのはあんまり大きな声で言うモノじゃ……それに、ボクにはまだ早いと言うか……」
「はははっ!! その様子だと、彼女もまだみたいだね。まあ大丈夫、こっからが勝負さ」
小さな声での反論を掻き消す様に、けらけらと笑う花前先輩。ボクは少し悔しくなって、言い返す口調でこう言った。
「そんな事はないですけど。そう言う先輩は……その、誰かとお付き合いしたり……そう言う関係になったり、ってある……んですか……?」
言い始めてから、途中でかなり不躾な事を聞いていると分かったが、既に言葉が口から放たれていた為、続けるしかなかった。
そんな苦渋に塗れた強行を嘲笑う様に、彼女は軽々と言い放つ。
「――こう見えても、一度もないよ。信じられないなら、試してみる? きっとシーツが、赤く染まるよ……♪」
ずい、と。
対面していた机に身体を乗せる様に、幼さが残る端正な顔と、十分に熟れた豊満な身体が近付いた。
ギャップのあるその凶悪なまでの外見。正直に言って、異性としてかなり魅力的だと思った。
「……鼻の下、伸びてるぞー。君はおっぱい星人なのか、それとも全体的に助平なのか……取りあえずお仕置き。ていっ」
びちっ、と鈍い音と共に額に走る鋭い痛みに、頭がわずかに揺れた。
ボクがかねてより軽薄な勇士の態度に感じた嫌悪感は、同族嫌悪で間違いないと思う。
ボクが異性の性的な対象として魅力を感じるのはグラマラスな体型――詰まる話、丁度今目の前に居る人の様な感じだった。
それでも、あの時――ボクは女性だと思っていた勅使河原先輩に、間違いなく一目惚れをしていた。
ハンカチを貸して貰ったから?
優しくして貰ったから?
それとも――自分と同じ痛みを知って居そうだったから?
多分だけど、どれも理由としてなり得ない。
初めて彼女に会った時、ボクがハンカチを託された理由は、恋をしていないと判断されたから。
じゃあ……ボクはいつ、勅使河原先輩に恋をしたんだろう?
「君は――華蓮と良く似ているよ」
「――え?」
花前先輩の呟きを聞いて、謎に包まれた何かの手がかりを感じた。ボクの様子に気を留めるでもなく、彼女は独白を続ける。
「考え方もそうだけど……なんだろうね、面倒くささと言うか……生きてる場所が、私達と違う様な、そんな感じ」
だから華蓮は君に心を開いたのかな、彼女は小さく笑った様に、そう言った。
幻想に住む彼女を示すとすれば、その言葉の意味はなんとなく分かってしまう。
彼女が身体と言う現実の向う側に居る事が、分かってしまっている。
それは、何故か。
――そんなモノ、考えるまでもないだろう。
「君には、華蓮がどう見えている? 瀟洒で絢爛な女の子か、それとも……真っ盛りな、年頃の――」
ああ。きっと、そうなのだろう。
ボクが一目惚れしたのは、きっと『彼女』じゃなくて。
『天音っち、君に一目惚れしちゃった』
――え、何それ……引くんだけど。流石に無理、別れよ、天音……君。
『あ、天音君……私、胸がドキドキして……これ、多分一目惚れって言う……』
――ご、ごめんなさい……やっぱり、別れて下さい……。私、それはちょっと……。やっぱり、ちゃんと相手の事を知ってからの方が……いいんですね……。
分かってしまうんだ。
一目惚れなんて安易な理由で近付いてくる奴程、自分に深い傷を与えてくるのだと。
過去の経験則、苦い思い出、古傷のダ・カーポ。
一目惚れを心底嫌うハメになった切っ掛けは、語る程大した物語ではないけれど、『理由』にはなっている。
だから髪を伸ばした。最初から『そう』だと分かってくれる様に。
だから受け入れた。最初から『そう』だと扱ってくれる人の愛の重さと、注がれる優しさを痛みと共に。
だから――絹糸勇士に恋愛感情紛いの親愛と安らぎを覚え、女の子が好きな彼を自分に縛り付けて。
先程垣間見た、勅使河原先輩の目の奥の情熱は――男の子が持つ、ギラつく様な激しい情欲の炎。
ボクが初めて、あの人を――。
どくん。
「……あれ?」
分かりやす過ぎる、鼓動の高鳴りだった。
「先輩……もしかして、部活紹介の日……何かありました?」
朝出会った時には恋心を抱かず。
「ん? よく分かったね。と言うか、あたしの知る限り、直近での華蓮の『発作』はあの日が最後だよ」
少しの間が空いただけで、一目見て心を奪われた。
「……朝、ホームルームが始まる前……ですか?」
普通に考えれば、おかしいだろう。
「……そう言えば、あの時華蓮が嬉しそうにしていたのは、君に会ったからだと……あたしも考えていたなあ」
それは、そのハズだ。
「華蓮があたしの背中に追突して来てね。あたしの体臭を嗅いで――あれ?」
その矛盾は、幻想の彼女が見えているボクと。
「――天音君。君、もしかしてさ」
――可憐な幻想を、痛みを伴う現実から守る騎士のみが知り得る事なのだから。
「……華蓮を、女の子として追いかけて……好きになったワケじゃないね?」
突き付けられた真実に、ボクが一番驚いていたと思う。
高鳴り続ける鼓動が、際限無く心を震わせ、頭が冴え渡って行く。
どうしてここ最近は、先輩と普通に過ごせていたのか。
どうしてここ最近は、先輩から歪みが生じていたのか。
今思えば――何故、ボクが彼女を『彼』だと、感覚的に分かったのか。
全部、ここに来てようやく繋がった。繋がって、しまったのだ。
それは――ボクが『彼女』に伸ばしたと言う錯覚――幻想の手が、彼女に届いてしまった偶然の結果。
彼女が歪んでいたのは、他でもないボクに『女の子らしい部分を見せる為』で。
そしてボクはそれを見て、平静を取り戻して冷静になって行く――矛盾そのものだった。
「……ボク、『女の人』も勿論好きなんですけど……かわいい『男の子』も、結構好きで」
隠していてもしょうがないし、手っ取り早く観念する事にした。
かつて敬遠されたその言葉を聞いても、花前先輩は眉一つ動かさず、そうか、と腑に落ちた調子で答えるだけだった。
新聞部は、花前佐奈が前者で、勅使河原華蓮は後者。物凄く分かりやすい、ボクにとって楽園の縮図だったのだ。
それに気付いたのは、たった今だけど。
「……華蓮がアピールすればする程、君の関心は薄れて行く理由は……そこにあったのか」
「……え?」
花前先輩は納得した表情を浮かべながら、苦しそうに呻く。
「いやね。ちょっと前から、華蓮の相談を受けていたんだ」
「相談……まさか」
「詳しい内容は伏せるけど……まあ、『一般的な年頃の女の子がする話』はどんなのか、とかね」
きっと――甘味だとか、クラスの様子だとか、共通の友人の話とか。そう言った類の内容が、彼女から挙げられたのだろう。
覚えがあるのだ、ここ最近――勅使河原先輩と普通に話した内容だろうから。
「……先輩」
それを好意と受け取らず――何を好意と言うのだろう。
「なんだい?」
「勅使河原先輩、まだ校内に居ますかね」
「多分ね。そこにカバンが放り投げられてるし……最近は慎ましく置いていたのに、今日は雑だなあ……」
その理由も、今のボクなら分かる。ただ、ここで言うのはお門違いだと思うから、敢えて肩を竦めるだけに留めた。
「……ちょっと、迎えに行ってきます。多分、ボクは『今の先輩』と話さないといけないんだと思います」
「……うん、そうしてあげて。あたしは……ここで待ってる。万が一ここに来たら、連絡するから」
「ありがとうございます」
ボクは部室から飛び出して、校内を駆け巡った。
幻想と現実の狭間を揺れ動く、可憐な一輪の花を求めて、ただ闇雲に手を伸ばした――。
麗爛新聞 五月号 二面 終
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