麗爛新聞 五月号 一面
怒涛の一ヶ月を超え、ゴールデンウィークを間近に控えたある平日の朝。
ボク、天音翼はいつも通り自転車で坂道を駆け上がっていた。
徐々にではあるが、気温が上がり始めてより一層汗が噴き出してくる。
降りれば確かに楽なのだろうが、体調が悪いワケでも無いのにそうするのは、なんだか負けた気がするので絶対に嫌だ。
夏場は大丈夫だろうか。そんな不安と一緒に額の汗を拭い、坂道の終着点でもある校門へと入って行く。
「あ、天音君。おはよう!」
平坦な道を走り、感じるそよ風に身を涼めていると、前方に手を振っている女生徒の制服に身を包み、長い銀髪をなびかせている姿が見えた。
「おはようございます、勅使河原先輩」
がりがりと緊張を誤魔化すように自転車のペダルを逆回転に漕ぎながら銀色の少女――もとい少年かもしれない――勅使河原先輩に近付いた。
入学式後の仮入部期間……追憶のアダージョを経て、ボクは新聞部に入部する事になった。入ったばかりだと言うのにぶっつけで記事を書かされ、校正されを繰り返して居たら、いつの間にか時期は初夏を迎えようとしていたのだ。
ただ、幻想的な勅使河原先輩と賑やかすのが得意な花前先輩と一緒に居て、目まぐるしくも楽しい毎日を送っている。あの時、過去と向き合ったからこそ手に入れる事が出来た、青春と呼べる時間だった。
「今日は部室に来る?」
「はい。掃除当番なので、ちょっと遅れると思いますけど、先輩は……って、前にも聞きましたよね」
「あはは、そうだね。私は基本的に毎日あそこに居るから、何時でも歓迎しちゃいます。佐奈は更衣室代わりに使う事もあるぐらいだし、だいたいどっちかは居るからね」
口元を抑えて上品に笑いながら、勅使河原先輩が返す。こうしてみると、やはりと言うか……女性にしか見えない。ボクの様に付け焼刃の立ち振る舞い――それでも十分な人は結構居たのだが――とは違い、仕草が身についていると言うべきだろうか。そんな人が男性だと、思う方がどうかしているのは確かなのだが、ボクは何故かそう直感しているのだ。
そんなボクの怪訝な表情を見て気に障ったのか、勅使河原先輩はじっとりとした目でボクを睨んでいた。
「……そんなに私の姿がおかしいかな?」
「いえ……そんな事は無いですよ。それより、この前駅前で美味しいクレープ屋を見付けたんですよ」
「あ、もしかしてあそこかな? ちょっと入り組んだ場所にある……」
寧ろ、違和感が全く無い事に、戸惑っているんです。流石にそんな事は言えず、ボクは話をはぐらかす。
しかし、如何に甘味の話や、今日は先輩のクラスの担任が不在だと言う様な雑談をしていても、頭を過るのは一つだけ。
それはかつて本人の口から聞いた、あの言葉。
『私ね、女の子の方が好きなんだよ。こんな外見だから、あまり信じて貰えないけど……ホントの事』
女の子だと勘違いして言い寄った男を撃退する、魔法の言葉。
ただボクを追い払う素振りだけなのならば、それで良かったのだが。
ボクには、あれが嘘を言っていたとは、思えなかったのだ。
少しだけ時を重ねて、勅使河原先輩の事が分かり始めると共に――この人の事が、どんどん分からなくなっていく。
その歪みは他でもなく、勅使河原先輩から生まれているのだと、心のどこかで思い始めていた。
二年生の教室がある階層は一年生よりも下にある為、階段で先輩と別れた。廊下に響く朝らしいさわやかな喧噪を超えて教室に入ると、いつもの様に眼鏡を掛けた男子がボクに話しかけて来た。
「おはよう翼。最近学校に来るの、少し早くなったな」
「おはよ、勇士。最近、チャイムギリギリだとあの坂道が混むから時間をずらしたんだよ」
今こうして雑談を交わしているのは、勿論絹糸勇士。相も変わらずボクの友人を続けている、とんだモノ好きだ。
縁とは――育んだ関係性とは、とても不思議なモノだと思う。互いに絶縁を覚悟してまで長く短い追憶を経たと言うのに、ボク達の関係性はほとんど変わっていない。
歪んでいたとは言え、ボク達は長い時間を共に過ごして来ていた。その固着した時の中で築いた絆は、性別や意思の違いで崩れる様なモノではなかった様だ。
ただ、互いに言わなければいけなかった事を吐き出して、事実と向き合って……痛みを、分かち合っただけなのだ。
強いて言うならだが、変わった事がいくつかはある。元々軽いノリで通していた勇士が自分を偽らずに済む様になった事だろうか。勇士の周囲に居た人は最初困惑していたが、当時は入学して間もなかった為、高校デビューの失敗として押し通すつもりらしい。丸っきり無かった事にしないのが勇士らしいと思うし、彼への感謝を忘れずに済むのはこちらとしても都合が良かったとも言える。
真面目な本物の勇士を知る人には、拝島先輩が前々からボクの為に演じてくれていると掛け合ってくれていた。その甲斐もあって、元々の勇士の交友関係を大きく損なってはいないハズ、と彼女は言ってくれた。
だから、言う程に大きな変化なんて起こっていない。それでもボク達の関係は、あの日から本当の意味で再スタートを切ったのだ。
ボクは勇士に友人としての居心地の良さを再認識して、勇士はボクに普通の友人として接する事が出来る様になった。
追憶の果てで交わした言葉を、いつまでも胸に抱いて、毎日を紡ぐ。あの日からずっと待ち続けて――そして協力してくれた拝島先輩にも、改めてお礼をしなきゃいけない。
積み重ねた過去の清算は、もう少し続きそうだ。もっとも、今目の前で楽しそうに話す親友を手に入れた対価としては、安過ぎる代償だと思う。
本当に、ありがとう。照れ臭いから口にはしないけれど、彼の話に打つ相槌の合間に、そんな気持ちを込めて、同じ朝の時を過ごした。
今日何回目かのチャイムを耳にして、首を捻りながらノートを閉じた。教室から先生が出て行き、板書が消されて授業の雰囲気が一掃された。
それでも心が晴れる気配が無いのは、ノートに書いていた板書以外のモノのせい。
事実をありのままに伝えるのではなく、皆が忘れてしまいがちな悪い思い出の良かった部分を書く事。
言葉で示すのはこんなにも簡単だと言うのに、実際にやってみるとかなり難しい。
事実を曲解する難易度の高さに唸っていると、肩が優しく叩かれた。
「翼、学食に行かないか?」
「あれ、今のって四限終わりのチャイムだっけ……」
勇士のお誘いを後押しする様に、教室の中は既に多種多様のお昼ご飯の匂いが充満していた。
気分をリセットする為だけでなく、匂いに感化されて主張を上げる胃袋を黙らせようと勇士に了承の意を伝えた。
授業の板書の片手間に記事を書く練習をしていると、時の流れが圧倒的に早かった。
一応授業の邪魔にならない様に気を付けてはいるが、もう少し注意をした方が良いかもしれない。
自分を偽っている間も悠々と学業で好成績を収めていたこの親友に、余計な心配を掛けない為にも。
ボク達は、最早目に馴染みつつある景色の文化棟までやって来た。一階の大部分のスペースが学食になっており、屋外にテラス席まで備えてある。麗爛学園が校外に誇る名物の一つだ。
賑わう生徒達の流れに乗り、昼食の購入を済ませて屋内のテーブルに着く。昼休みはそれ程長くないので、すぐさま買って来たかつ丼に手を付けた。
「どうだ、新聞部は」
食事を始めるや否や、湯気を立てるオムハヤシをスプーンで掬いながら、勇士が唐突に話題を切り出した。
「どうって……普通に楽しくやってるよ。そりゃ、大変な事もあるけど……」
「あの部長さんの為なら、平気って感じか。相変わらず真面目と言うか……殊勝だな、翼は」
「……別に、そう言うんじゃないけど」
膨れ上がった心のもやもやを飲み下す様に、ご飯を掻き込んだ。
「照れ隠しなんてする間柄でもなかろうに」
「……分かってる。照れ隠しなんて、してないし」
「うん? 何か、悩み事か?」
勇士が食事の手を止め、ボクに真摯な目を向けた。ボクはその真っ直ぐな視線から、目を逸らす事はしなかった。
勅使河原先輩は、恐らく男性だ。それを本人に確認したワケではないけれど、過去の自分がその真実を示してくれる。
だとしても、恋心だとか、親愛だとか、性別を超えて感じる確かな繋がりがある事も知っているから、先輩に偏見があるワケでもない。
だからきっと問題は、彼女なのか、彼なのかではなくて。
すう、と大きく息を吸って、ボクは観念した様に想いを吐きだした。
「……傍に居たいって思うのは間違いないんだ。一緒に居て、楽しいし、満たされてる」
朝だって、出会って普通に世間話をして楽しく過ごしていた。
「じゃあ……何に悩んでいるんだ?」
「……多分、だけど。先輩への想いが、ちょっと変わったのかもしれない。ボクは――まだ、先輩を好きだって、思えてるのかなって……」
そう――『普通に』話が出来るのだ。慣れと言うのもあるかもしれないが、少なくともドギマギする事は無くなっていた。
先輩のボクが知らない面に、気にかかる部分があるからなのかは、定かではないけれど。
一目惚れの状態がずっと続いている。それが絶対にありえない事だけは、間違い無かった。
「……成る程。でもそれって、別に変な事でもないんじゃないか?」
拙い言葉で一通り話し終えると、勇士は何でもないかの様にけろりと答えた。
勅使河原先輩の秘密に触れない様に気を付けて説明した分、内容としては少しシンプルに伝わっているから、なのだろうか。
「そう、なのかな」
「そりゃ、一ヶ月も一緒に居たら色々な部分が見えて来たり、知っている事も増えたりするだろうからなあ。良い意味でも悪い意味でも、一目惚れって状態から進展はすると思うぞ」
大丈夫だって。勇士が食事の手を止めて、ボクに満面の笑みを向けてくれた。
彼の大きな優しさに心が温まり、不安が少しずつ和らいで行く。
確かに勇士の言う通りで、先輩と時を共に過ごして、仲は良くなったのだ。これはどう足掻いても、関係が進展している証だ。
勅使河原先輩への想いは――一目惚れした時と同じ、恋心のままではないかもしれない。
『彼女』を守ってあげたいと思うのが、正常な関係の進展具合かどうかなんて、誰にも分かるハズはないけれど。
それでも、あの人の傍を離れたいとは思えないし、もっと知りたいと思っている。
そこに性別の問題なんて、介入する余地が無いのだから。
なら、やる事は一つしかない。少し冷めたかつ丼の器を空にして、すっかり勢いを失った不安と一緒に飲み込んだ。
午後の授業が始まっても、ボクのやる事はあまり変わっていなかった。
授業の片手間に、記事を書く練習を続けている。
事実の良い所を選んで、曲解しつつも真実を伝える。その着眼点を見付ける目と頭を養う為に。
結局の所、今ボクに出来るのは麗爛新聞の記事を書く練習をする事ぐらいなのだ。
まずは、訂正される個所を少なくして、作業に追われる時間を減らす事から始めないといけない。
気の遠くなる様な――それこそ、まるで夢みたいな先の話ではあるが、前に進む為には、避けては通れまい。
ただ不思議と、その盲進が嫌と言う事はなかった。
こうして新聞部の作業に携わっていると、あの部室で時を過ごして居るのと同じぐらい先輩に近付けている様に思えるのが不思議なのだ。
早く放課後にならないかな。
そう切に思いながら、ひたすらに頭を捻らせる。
どうにも不器用で仕方がない。そんな風に思わざるを得ない様な、長くて短い時間だった。
放課後のチャイムが鳴り、ボクは教室から跳ねる様に飛び出した。声をかけて来た勇士に短く別れの挨拶をして、新聞部の部室に向かう。
「あ、おい翼! お前今日は……!!」
「ごめん、また明日聞く!」
呼び止める勇士に謝りながらも、駆ける様な、スキップをする様な足取りで新聞部の部室の前までやって来た。
今日は一段と、この部室が恋しかったのだ。何を置き去りにしても、脇目も振らずに駆け出してしまう程に。
何かを忘れている。そんな漠然としたもやもやを忘れる程に浮かれて――扉を開け放った。
「「――へっ?」」
こんにちは。
いつもの挨拶が頭からすっぽりと抜け落ちて、行き場を失った。
目の前に広がっていた光景が、あまりにも衝撃的過ぎて。
部室の中から、勅使河原先輩が身体を硬直させたままこちらを呆然と見ている。
――頬を紅潮させ、息を荒げて……花前と書いてある体育着に、鼻を押し当てたまま。
その姿を見て――ボクは全てを察し、やっぱり考えが間違いなんかじゃなかったと理解する。
そして、なんでこんな歪みの象徴と向き合う事になったのかを思い出す。
そうだ――ボクは今日、掃除当番だったんだ、と。
麗爛新聞 五月号 一面 終
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