麗爛新聞 四月号 四面
いつの間にか、知らない男の子の顔が眼前にあって。
唇には、柔らかく――そして熱い想いが重なっている。
キスされている。出会って間もない……それも、男の子に。
今の自分の格好を省みれば、その光景はそこまでおかしくは感じないのかもしれない。
だから、なのだろうか。
「……んくっ」
その場の空気に流される様に、心を突き刺す痛みを嚥下してしまった。
その動きに合わせて、唇が彼のモノを啄む様に求める。痛みを紛らわせて欲しいと、おねだりをしているようにも取れてしまう。
「……っ」
そんな動きに対しても彼は、決して拒もうとしなかった。
なんとなく、ズルいと思ったファーストキスの思い出が、心の痛みと共に刻まれた。
「……ぷはっ」
唇を重ねて、幾何かの時間が経った後。彼は大袈裟に息継ぎをして、ゆっくりとボクから離れた。
しっとりと感触の残る口唇に指を触れて、呆然と彼を眺める。
まるで、痛みが何かに覆われた様に収まっていた。
「急にごめん。女の子の涙を止める方法、これ以外に知らなくて」
「……ううん。でも、ホントだ……」
少年にそう言われて、いつの間にか自分が涙すら流していない事に気付く。やっている事はプレイボーイそのものなのに、どこか照れ臭そうにしている所が、やけにちぐはぐな印象を受けた。
出会ったばかりの男の子にキスされる……真っ当な女の子ならば、ここでビンタの一発でもお見舞いするのかもしれないが、とてもそんな気分にはなれなかった。
それはボクが真っ当な女の子ではないからなのか、それとも彼の心遣いを漠然と感じ取っていたからなのかは、正直に言ってわからない。
「……ありがとう」
ただ、素直な気持ちでそう口に出来た事だけは確かだった。
少年はボクの言葉に、一つ息を溜めて、腹を括った様に口を開く。
「俺、絹糸勇士って言いますんで、それで。君、名前は?」
「……天音、です」
絹糸勇士と名乗った少年――絹糸君に向かって、自分の名字を伝える。名前を言わなかったのは、今の姿がボクのあるべき姿ではないと言う、反抗の意思の表れだったのかもしれない。
絹糸君は少し戸惑った様な表情をして、アマネさんか、と小さく呟いた。
キスをされた事からも、彼がボクを『ゴスロリ少女』とだけ認識しているのは間違いないだろう。後の事も考えて、自分の素性はなるべく隠した方が良いかもしれない。そう言う意味では、名乗らずにお茶を濁したのは正解だった。
「そうだ、報告しないと……ちょっと失礼」
ボクがその言葉にこくりと頷くと、彼は無線機を取り出し、何かのボタンを押しながら口元に近付けた。
「会長、応答願います」
『……だから、実行委員長です。まあそれはいいとして、お疲れ様、絹糸君。何か進展はありましたか?』
「問題になっていた集団を捕捉、事態は収束しました。これで大丈夫のハズです」
『……そう。本当に頼りになる部下を持って、私は幸せです。お疲れ様でした、本部に戻って来て、休息して下さい。事の終始の報告を兼ねて、その……お茶にでもしましょう』
「りょうか……っと」
承諾の意を示す直前、何故か絹糸君がボクの姿を一瞥した。そして、何かを諦めた様に笑いながら、彼は口を開く。
「いえ、これからちょっと女の子とデートするんで、後で戻ります」
『……はい? 絹糸君、今なんて言いましたか? 私の言葉が、戻って来る様にと言っているのが聞こえませんでしたか?』
無線機越しに聞こえた声だと言うのにも関わらず、驚愕がひしひしと伝わって来た。まるでそれは、超常現象が起こったとの報告を受けた様に、素っ頓狂な声だ。
「問題はきちんと解決しましたから、安心して下さい。それじゃ、一端失礼します」
『ちょっ、きぬい』
「詳しい報告は……また後で」
ぶつり。
無情な一押しが、会話の流れを叩き切って、静寂を取り戻す。無線機はそれ以降、音を発する事が無くなった。
「っと、いつまでもこんな所に居るのもなんだし、会場に戻ろう。さあ」
「えっと……はい」
報告とか、いいの?
そんな疑問や懸念もあった。だから彼が自然と差し伸べた手に、少しだけ躊躇って……結局、手を重ねてしまった。
手触りの良い手袋を通して、絹糸君の汗ばんだ温かみを感じる。
彼の言動は他でもないボクの目に、どこか軽薄に映っていた。
でもこの人は、何事にも一生懸命な人なんだろうな、と嫌でもわかってしまう。
強がっている様に――ボクの手を引いて歩く彼の手が、小さく震えていたから。
会場に戻って来た頃には、絹糸君はすっかりこの状況に慣れていた様だ。ボクを色々な出し物に連れ回し、まるで漫画で見る様な学園祭デートと洒落込んでいた。
あまり形の良くないわたあめや、釣り糸の強過ぎるヨーヨー釣りなど、彼があまりにも楽しそうにするものだから。
こう言った事に慣れていないハズのボクも、いつの間にかすっかり彼のペースに巻き込まれて、楽しんでいた。
ボクの格好はやっぱり目立つ様で、終始色々な人の視線を感じていた。しかし彼が堂々としているからなのか、他のコスプレをしている生徒達の様に、空気に馴染んで悪目立ちはしていない。
ボクが彼らに目を付けられる程注目を浴びたのはきっと、この服装を恥ずかしがって、空気を拒絶していたからなのだとようやく気付けた。
最初から……他のみんなの様に仮装だと割り切っていれば、あんな思いをしなくて済んだのだろうか。
楽しい学園祭の最中、そんな考えがボクの軽かった歩みを少しずつ重くして行く。
「……アマネさん?」
そしてとうとう、ボクの歩みは完全に止まってしまった。
ぎちり、ぎちりと。
心の時計が、軋みを上げる。
振り向く彼の視線を感じてもなお、考える事を止められなかった。
あんな出来事、忘れたい。
でも今こうして楽しいと思えるのは――彼と出会えたのは、あの出来事があったから。
相反する思いが、心の中で入り混じる。
このまま、流れに身を任せてしまってもいいのだろうか……そう考えてしまった。
この苦悩は、逃れられぬ運命だったと、後ろで糸繰る演出家が嘲笑う。
「アマネさん、具合でも悪いのか?」
「……ううん。そう言うワケじゃ……無いんだけど」
口ではそう言ったものの、心が助けを求めているのを、目ざとい彼には隠せなかった。
「……少し、疲れたのかもね。付いて来て、とっておきの場所があるんだ」
絹糸君はボクの目を敢えて見ず、先導して歩いてしまった。
少し離れかけた距離感を寂しく思う様に、ボクは慌ててその背を追う。
心の傷を覆い隠す優しさは、彼と一緒に居ないとその存在を保てない。
そんな確信が、もつれそうになる足の必死さに現れていた。
絹糸君に連れられてやって来たのは、校庭の外れにある部室棟の裏。そこには古びたベンチが設置されていた。
遠くから学園祭の喧噪は聞こえるが、あまり人目に付かない場所にある為、周囲から隔離された様な不思議な場所だった。
「ここ、校内でも意外と知ってる奴少ないんだ。多分、ここならゆっくり出来ると思う」
ベンチに腰掛けた彼の手招きに応える様に、隣へ――少し距離は空けているが――座った。幼い頃から取っていた杵柄で、スカートに気を配って座る事に違和感が無いのは正直、遺憾ではある。
――でも。
「……すみません。私の為に、こんなにして貰って」
「そんなの気にしないでくれよ! 俺、すっごく楽しかったよ……こんなかわいい娘と……アマネさんと、色々回れて楽しかったから」
「……!!」
こんな恰好をする度に、こうして誰かが喜んでくれるから――応えたくなってしまう。
例えその喝采が偽りだとしても、ステージの上で踊る道化が屈託の無い笑みを浮かべて応えるのと同じ様に。
放たれた言葉を真っ直ぐに受け止めてしまう、純粋過ぎるボクの心が産む温かさ。
自分の存在を揺るがすその感情は、いつもいつも。
苦しくて、切なくて。
それと同じくらい――嬉しくて。
癒える気配の無い傷に、塩を塗り込む様にずきずきと痛みが増して行く。
混ざり合った感情で満たされた心が、困惑に包まれた。
「……かわいいだなんて、そんな……でも、ありがとう」
唇の震えを悟られない様に、心を強く持つ。正直に言って、あまり上手な演技じゃないと思う。
「……いえ」
ただ、今の彼にはそれで十分だったのかもしれない。
帰って来た反応の歯切れの悪さが気になって、俯いていた顔を上げて彼の顔を窺った。照れ臭そうに浮かべる笑みの奥に、苦しみが見えたのだ。
軽薄でどこか手馴れた様に振舞う絹糸君から滲み出る、真っ直ぐな心。
先程から見え隠れする不自然な態度の裏には、必ずそれがあったと思う。
出会ったばかりで、この人の事を何も知らず、この人に何も知らせていないのに。
何故か、わかってしまう。
きっと、何かを隠そうとしているのがお互い様だから、なのだろう。
優しさ、気遣い、思いやり。彼のそれを示す言葉は、なんだって構わない。
こんなにも、傷だらけのボクの心に寄り添う、心そのものだった。
だからこそ。
「……絹糸君は、女の子と遊ぶのに慣れているんだね」
ボクは、その想いを何か――『真実』で否定してはいけないと思った。
彼はあくまで軽薄で、軟派で、人の話を聞かない人なのだ、と認識するべきなのだろう。
ボクの言葉を聞いて、絹糸勇士は虚を突かれた後に、腹を括った様に口を開いた。
「……まあ、人並みには、だけど」
嘘。
「さっき無線機で話してたのも、実は元カノなんだ」
きっとこれも嘘。
「でも今は――アマネさんと一緒に居たいと思ってる。願わくば……ずっとね」
それも、嘘、なんだよね。
嘘に嘘を重ねて、重ねて……元に戻れなくなってしまうかもしれないのに。
彼は恐れず――いや、恐れを心に抑え込んで――目の前の少女を守ろうとしているのだ。
その姿は、まさに勇士。名は体を表すとは、この事なのだと思った。
そんな彼はちょっとだけ――かっこよくて。
男でも女でもない今のボクだからこそ、『軽薄な』彼に心を惹かれてしまうのだ。
ただ純粋な一人の人間――天音翼として。
「――アマネさん」
すう、とわかりやすく息を吸って発せられた、彼の言葉。
離れていた距離が絹糸君によって、少しだけ縮められた。
この空気は、既に苦い思い出と共に味わっている。
きっと辛くて、苦しくて、痛い傷を受けると思う。
でもその痛みは、ボクだけのモノじゃない。
「――やっぱりここに居た……見付けましたよ、絹糸く――」
「君に一目惚れしたんだ。だから、俺の恋人になってくれ!!」
タイミング悪く
だからボクはあの時――。
『ごめんなさい』
――かちり。
かつて時を止めた合言葉は、相手を想う贖罪の言葉。
数奇な運命と共に固着した、一年半の月日が激しい流道を取り戻す。
止まっていた時が今、再び動き出した――。
麗爛新聞 四月号 四面 終
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