麗爛新聞 十月号 三面
『彼岸花、ねえ。僕はその名前、そんなに好きじゃないな。莉子はどう思う?』
わたしもそんなにすきじゃない。
そう答えた気もするけど、きっと気のせいだと思う。
もし相内莉子が答えていたとしても――それはやっぱり私じゃないから、気のせいでしかないのだろう。
『リコリス。ほら、こんなに素敵な名前があるのに、どうして死を想わせる概念で固定してしまうのかな』
――でも、そうして褒められた事はよく覚えている。
『ほら、無限の可能性を秘めた様に広がる、命そのものを形容した花弁も、とても素敵だ』
――そうして、咲き誇る私を見てくれた事をよく覚えている。
身体を包む温もりは、もう血の生臭さに変わり果ててしまったけれど。
『……そうか! リコリスに明るいイメージを持てる様に、新たな物語を作ればいい!』
ぎゅっと肩を抱かれた事。
それは――今でも忘れる事が無い、大切な私の記憶。
それから数日後、或いは数週間後、私にしっかりとしたカタチが与えられた。
一冊の日記帳――数ある物語の中の一編。
主人公は命の輝きを秘めし、赤い閃光。
その名は、アスラ・カスタ・リコリスと言った――。
「……こうしてお茶すると、学生って感じが出るな、うん」
リコはガムシロップをドバドバと入れた、甘みしか感じなさそうなコーヒーを啜りながら、そう呟いた。
体調が優れないと言って帰ってしまった佐奈さん。そして、いつも通り生徒会室まで連行された勅使河原先輩。
最近になって頻度の増えた、一人で過ごす放課後が繰り返されるハズだった。
『あっ、翼ちゃん。今から帰り?』
生徒会室をやんわりと追い出されたらしいリコに声を掛けられ、なし崩し的に喫茶店『まほろば』へと入ったボク達。
勇士からの評判を聞いていた通り、なかなかに雰囲気が良く、麗爛学園からも近い位置にあった。
バスと電車で通学をしているリコは、学校手前から駅に向かうバスに乗る必要がある。
その為、この店で共に時を過ごす事は彼女的にもかなり都合が良いらしい。
取りあえず、絶好の機会だと思った。
二人掛けの席に着き、ボクは勅使河原さんが気に留めていた事――アスラ・カスタ・リコリスと言う名前について尋ねてみた。
「リコリス? うん、私の名前だけど、それがどうかした?」
その問いに対し、特に気に掛けない様子で、彼女は平然とそう言い放った。
ボク個人として、そこに引っかかりがあったワケでは無いのだけど、勅使河原さんの話してくれた事もどうしても気になる。
――リコの事を、友達としてもっとよく知りたいと思ったから。
そこでボクは思い付いた。
――生徒手帳。身分証明書にもなるそれには、真実の名前も書いてあるハズ。
そこにアスラ・カスタ・リコリスと書いてあれば――。
――でも、書いてあれば、或いは別の名前が記載されていれば、どうなるのだろう。
ボク達の関係性が、さらに親密なモノに変わるのか?
それとも、リコに詳しい話をして貰える様になるのか?
――きっと、どちらも叶わない。
「……そうだよね。リコは最初から、私はアスラ・カスタ・リコリスだって言ってたもんね」
勅使河原さんがこの様子を見ていたら、また疑惑から目を背けている、と怒るだろうか。
それとも、ボクの真意に気付くのだろうか。
「――アスラ・カスタ・リコリスってどんな意味の言葉なの?」
何も知らないボクが、真実から目を背けず、リコの事を知る為に出来る唯一の方法。
相手を信頼して、問う事。
縁を繋ぎ、足りない知を補う最も効率的な手段を取れば良いのだと。
「――――」
リコはストローを咥えて硬直した。
少しストレート過ぎた聞き方だったか、と一瞬の後悔が頭を過る。
――けれど、すぐに雑念を振り払い、ボクは堂々とし続けた。
信頼しているからこそ、無垢な思いで聞いたと感じて貰う為に。
「……本当の名前は? って聞いて来ない人は、お前が初めてだよ翼ちゃん。だから、教えてやる」
ふう、と小さく溜め息を吐いて、リコは胸ポケットから何かを取り出し、ボクに向かって放り投げた。
「わっ……っとと……」
かろうじて受け取ったのは――彼女の生徒手帳だった。
「……私は別に、隠し事をしたいワケじゃ無い。そもそも誰も信じてくれないから、見せないだけなんだ」
天面の透明なビニールの向こうに記されているのは、身分証明書として意味を持つ、文字の羅列だった。
『相内莉子』
そこに記されているのは、おおよそ名前として違和感が無い語感を持っている四文字。
勿論顔写真も、目の前にいる彼女のモノが載っている。これが意味するのは、アスラ・カスタ・リコリスがただの偽名だと言う事なのだが……。
「…………こっちが偽物って事……?」
ボクは自然と、彼女にそんな失礼な事を聞いてしまっていた。
「――お前は馬鹿なのか、それとも度が過ぎるお人好しなのか……」
リコは肩を竦めて、砂糖がたっぷり入って味の破壊されたアイスコーヒーを口に含む。
喉を鳴らして三口程飲んだ後――。
「――偽物ってワケじゃ無いよ。単純に、それが『私』じゃないってだけで」
――何でもない事を話す様に、そう口にした。
「リコじゃない……? それって、どう言う……」
「うーん。その話をするには、随分遡って話さなきゃいかんね。あまり面白くも無いし、聞いた事を後悔するぐらい胸糞悪い話だろうけど、聞きたいか?」
リコは、頬を緩めながらそう言った。
――ボクがどう答えるか、分かっていたのかもしれない。
「……勿論」
「ん。あれは七年前……私が私だと言う事を認識した日――気が付けば目の前に、真っ赤な地獄が咲いていた」
彼女は結末の決まっている物語を空読む様に、するすると続けた。
――まるで他人事、絵空事だと言う様に。
「私は、この子を守らないといけないって強い使命感を、生まれた時から感じていた」
「この髪に似た彼岸花――リコリスの花を見る度に、心が締め付けられる思いをしていた」
「私は私であって、相内莉子ではない。けれど、相内莉子は私でもあった」
「一と十。大は小を兼ねるって言うらしいけどさ、その関係だと私は小で、相内莉子が大になるんだと思う」
「だから、相内莉子って名前は偽物じゃない。厳密に言うと、『私だけを指す名前』じゃない」
「でも身体は一つしかない――私がここに居ると言う事は、私が相内莉子って事になっちまうけど、私はそれを認めちゃいけない」
「――認められないんだ。私は……アスラ・カスタ・リコリスと言う名前を貰ってしまったから」
「昔、大人に囲まれて『相内莉子』と呼ばれ続けて――酷く混乱して、自分を消失しかけた事があった」
「今でこそ落ち着いているが、生涯続くある種の呪いの様なモノさ。でも、ある男の愛情の裏返しでもあった」
「――相内善助。全ての始まりは彼で――変わり者だったけど、優しくて、前向きな父だった」
「血と死を連想させる花――それに共感した寂しい心を、美しいと言ってくれた」
「それだけじゃない。あやふやな概念に物語を与えて――彼は、娘を作り出したんだ」
「それは呪いと祈りが混ざり合って、相内莉子に溶け込み、生存本能と融合した」
「そうだとも。私は相内莉子が本能的に抱いた感情――『殺意』の残滓でしかない。善助が名付けた、人ならざる、相討ちの片割、彼岸花」
「それが私だ――そして」
「――相内莉子の家族の仇を討ったのは、『恐らく』この私だ。迫る魔の手と対峙し、この手を汚い深紅に染め、この身体を守ったんだ。ただその事実が、世間に露呈していないだけで……私は、我が身可愛さに、こうしてのうのうと生きている」
「…………ッ!!」
ボクは思わず、息を呑んだ。
その凄惨な過去に対してじゃない。
「……なんで、君はそんなに……!!」
震えるボクの声に、一切の感情の振れ幅を示さず彼女は甘く濁った液体を飲んでいた。
「なんでそんなに冷静なのかって? そりゃあ冷静にもなるってもんだ――私は、人ならざるモノ……そもそも、人間として大切な心って奴がが欠落しているからな」
「――――」
なんて――悲しく、痛ましい。
その張り裂けそうなギリギリの言葉が、ボクの身体に痛みとして伝わった。
彼女がかつて口にした言葉は、誰よりも純粋なモノだった。
あれは紛れも無く、人間が口にする言葉だ。
――心が欠落した人間が、誰かを好きになるものか。
「……軽蔑した?」
――そんな悲痛な顔をするモノか……!!
「……するワケが無いよ。昔どんな事があったとしても、リコはもうボクの友達だもん」
「……翼ちゃん……でも、普通こんな話されたら、離れようとするだろ……!!」
涙こそ流していないが、その叫びは心の震えを表しているに他ならなかった。
だからボクは、真剣に向き合う道を選ぶ。
「いや、寧ろ君がこうして話をしたから、共犯者にされてしまったぐらいだし」
「……きょう、はんしゃ?」
「うん。そんな話……墓まで持って行くしか道が無いよ。死にたくも無いし、忘れられそうもないから……リコと同じで、一生付き合って行くしかない」
「――――ッ」
――勅使河原さんは、何故だか分からないけど事件の事を気に掛けていた。その協力を一切放棄する事になるが、致し方ない。
ボクはボクが選んだ道を往く。例えあの人が幾度となく先導してくれて、同じ道を歩んでも――いずれ、道を違える時が来る。
それが今日、一つの決定的な差として生まれただけであって。
「そもそも、リコが言っていたし。どうせ誰も信じないから話さないだけだって。多分、ボクだけしか信じない与太話だ」
「翼ちゃん……お前、本当に馬鹿なんだな……!! おかげで、こっちの覚悟が更に決まっちまったじゃんか」
リコは目元を袖で拭い、キッとした視線をボクに向けた。
「……よし、これから『リコ』と翼ちゃんはズッ友だ! この期に及んでやっぱ無しとか聞かねえからな!」
「言わないよ、約束する」
ボクは小指を立てて彼女に差し出した。
「……んっ!」
リコははにかみながら、小指を絡ませて盟約を契る。
血塗られた過去を持つ少女と、痛みを分かち合った。
リコが一人称を『リコ』としているのは、きっと相内莉子と言う存在を守る為なのだろう。
でも、リコが居なければその身体は死んでしまう――だから自分を保つ為に、アスラ・カスタ・リコリスの名を捨てる事が出来ない。
その背反を両翼にした、赤い閃光が目の前に居る彼女なのだ。
ある意味で、フィクションに近い――けれど、間違いなく現実に存在している女の子が、ここにいる。
「そう言えば、リコのお父さんが考えた物語だと、アスラ・カスタ・リコリスってどんな存在なの?」
「えっと……その……死に別れた人を思い出させてくれる、絆そのもの……って言うか……」
歯切れの悪い様子を不思議に思い、彼女の顔を見る。
――頬を真っ赤に染めていた。
「……リコ、よくそんな様子で心が欠落したなんて言えたね……」
「うっせえ!! この身体が処女だから、おっぴろげにすんのも恥ずかしいってだけだっての……!!」
「ぶっ……!!」
――何故ボクの周りは、割かし性にオープンな人が多いのだろうか。
「いや、遠い目してっけど、翼ちゃんがエロいからリコも釣られちゃってるだけだし」
「……そっか」
成る程、ただ単に、類は友を呼ぶと言う奴らしかった。
視線を重ねる彼女との間に、確かな繋がりを感じる。
「……リコ。友達として、お願いしたい事があるんだけど」
――言うなら、頼むなら今しかないと思った。
「……なんかヤバ気な話?」
「まあそれなりに……」
「いいよ、引き受けた!」
「…………えっ」
二つ返事どころではなく――内容を言う前に引き受けられてしまった。
当然、ボクは戸惑いを隠せない。
それがボクにとってありえない事で――でも彼女にとって、当たり前の事だったらしいから。
相内莉子の事を、リコリスの事の様に、大切に思っている彼女だったから。
「ほら、早く内容を話せって! この命が尽きるまで、ズッ友の為に力を貸すからさ」
「――――ありがとう。実は――」
ボクは、恋人を助け出す作戦を彼女に細かく説明した。
頷き、たまに驚き、肩を叩いてくれる彼女は全面的な協力を誓ってくれた。
時は過ぎ、月が徐々に満ちて行く。
――その時は、刻一刻と迫って来ていた。
「ありがとう翠。もう集音マイクの電源は切って良い……うん、一応だけど、アマネ君の『警備』はそのまま続けて、宜しく。うん、くれぐれ無茶はしない様に」
携帯電話の電源を切り、椅子に大きく背を預けた。
「……んー、リコちゃん自身があの男を殺したとして、解決する違和感があるのも事実……けど、それにしても不可解なんだよなー」
私は息を深く吐いて、手元に用意していた資料――七年前から保存していた新聞や雑誌の記事のスクラップ、そして警察から『買った』情報など――をパラパラと捲った。
『相内善助、ないしはその周辺に金銭トラブルは無かったと言う』
『不審者情報にもあった被疑者は相内家と全く接点の無かった、少し離れた地域に住む無職の二十代男性。正面から頭部への殴打を受けて即死した』
『相内一家を惨殺した凶器は、相内家にあった包丁。被疑者を殴打したのは、相内家にあった椅子』
「……その条件で、『争った形跡が無い』、だと言うのに『家主の防衛の正当性が認められた』だなんて、あり得るか?」
物盗りではなく、冷酷で明らかな殺意を持った家屋への侵入。しかし凶器は家の中にあったモノ。
正当防衛の成立――しかし今判明した事実として、『家主は反撃する事無く死に絶えていた』。
明らかな矛盾が重なっている。そして今、口を閉ざしていた生き証人の証言が、更なる不和を呼び起こした。
「でもそうなると……どう考えても、相内家の事を知っているきな臭い人間が関わっている」
相内善助。私の大切な友人の一人であり、名のあるフィクション作家であった。
彼が死んだと聞いて、居ても立ってもいられなかった私は、警察が無理矢理解決に導いた事件であったその幕切れに納得せず、持てる『力』を使って情報をかき集めたモノだ。
しかし、調べれば調べる程――情報が集まる度に、真実は薄れ、因果が拗れて行く様な気がしていた。
相内莉子はあの空想家の善助の愛娘だけあって、『思い込みが激しい』――妄想癖があった事は知っている。
それが過去の辛い記憶から彼女を守っているとすれば、善助は親として大切な事を教えてやれたのかもしれない。
しかしそれ故に、彼女の証言やアスラ・カスタ・リコリスについて、彼女が本音を話していても、それが真実であるとは限らない。
だが、大いに収穫もあったと言えた。
「……ふふっ。貪欲なアマネ君に毒されたのかな。どうにも長年追い求めていた犯人を知るって結果だけじゃ、さっぱり満足出来やしない」
――少し視点を変えてみるか。
小金持ちだった相内家を泥棒が狙った理由も、不用心な勝手口の扉の鍵。これらのせいで、相内家が泥棒に狙われた理由が、単に『狙われやすい家』だったからと言う結論に至りやすい。
しかしそもそも、侵入した男が単なる物盗りではなかったとすれば――。
「……欲しかったモノは金品では無く、善助の命。或いは――『一家惨殺』事件だと言うのに、遺された生存者の身柄か……」
これまで放置されて来たのだ、もし後者だったとしても、相内莉子に今更手が回ると言う事は無いだろう。
つまり、彼女は最初から目的外だった――そう考えるのは極めて論理的だが、どうもそれだけでは無い気もする。
そんな事が、一家全てを亡き者にしよう理由になるとは思えないから。
そもそも被疑者は相内家となんの面識も無い男だった――怨恨も何も、そもそも一家を手に掛ける理由が無いだろう。
金でもない、人でもない、恨みでもない。
一体何があって、あの惨事は引き起こされたのだろう。
それすらも分からないで私は――今まで何をして来たと言うのだろう。
「……はあ」
部下達には聞かせられない様な、情けない嘆息が出てしまった。
「――七年前、か」
ちょうどその時期に符合する何かの事象があった様な気がする。
そう、金よりも、人の命よりもアレを重視していたあの男にまつわる話も確か――。
「……………………あっ」
私らしくない、間の抜けた声が出てしまった。
思いもよらない過程を経て、結果から逆順に導き出せた、不純な動機。
今までに見聞きした全ての情報が、一つ残らず繋がった。
「そんな……そんな事の為に……?」
怒りか、或いは過ぎた呆れによるものかは分からないが――心の震えが、拳となって握られる。
まだ真実を掴んだとは限らない。
そう、こんなモノはただの思い付きだ。勘違いかもしれない。
――だが、奴ならやりかねない。そんな確信による悪心が、ボロボロになるまで穢された心に広がって行く。
「…………貴様なのか……天城……ッ!!!!」
歯が軋む程の力で食いしばる。それ以外に、煮え立つ咆哮を堪える手段が思い付かなかったから。
悪党である花前が霞む程の、巨悪の影が差す。私は携帯電話を使い、裏付けの為の調査を開始させた。
全てにおいて私が遠く及ばない敵手――天城神に、せめてもの一矢を報いる為に。
麗爛新聞 十月号 三面 終
この記事は四面に続きます。




