麗爛新聞 十月号 二面
――血の匂いがした。
鼻腔にへばり付く様な、鉄骨に鼻を寄せて嗅いだ時に近い生臭さが空気を新鮮な空気をせき止める。
――血の味がした。
身体が受け入れようとしない、緩いとろみが口の中に広がっている。
――血の色が見えた。
赤くて、黒くて、とっても汚くて――とってもキレイな赤が、目の前を染め上げていた。
――血の音が聞こえた。
ぱたり、ぱたりと――『この子』の両の手の平から、赤い残影が垂れている。
――血の感触がした。
もう既に乾きはじめた血が凝固し、『この子』の手の動きを規制している。
罪深い血が、五感全てを支配する。
もう昔の自分には戻れない。
――そもそも、昔の自分とは誰だったか。
そして目の前に広がる惨劇は、何故なのか。
思い出そうにも、思い出す過去が『私』には無い様だ。
この私は死と――それに、血の匂いに塗れた化身……だったハズ。
多分、いいえ、きっと、絶対。
そうでなくては、この地獄の説明が出来ないのだから。
『元々金持ちだった花前って家系……? はなまえ、ハナマエっと……ああ、そういや昔そんな、時代と世界を間違えた様な成金が居たなあ』
秋雨のそぼ降るある日、ボク以外の部員が不在の為、新聞部の活動は出来なかった。
家に帰り、ボクは自分に足りない何かを求める様に、あの方へ電話を掛けていた。
「ボクの彼女と言うか……勅使河原先輩のお友達に、その家のご息女がいらっしゃいまして……」
『あー、花前ってその花前かあ。なんつーか、成る程ねえ。類友とは良く言うけど、成る程成る程……』
感慨深げに呟くのは――勿論と言うか、まあ勅使河原雅その人である。
かつて話していた、ボクの力を活かそうと考え――真っ先に思い浮かんだ頼れる人だった。
「勅使河原さんならご存じかな、と思いまして」
『あー、御存知御存知。んで、あのバカが何だって?』
「実は……」
ボクはなるべく簡潔に、『あの件』を話す。
忌まわしき呪いと――看過すら出来ない小悪党の汚い見栄で出来たメッキを。
『……ふーん』
ボクが語り終えた後、勅使河原さんは心底つまらなそうに、それだけを発した。
「力を貸して貰いたいんです。佐奈さんの話だと、それなりに名高い企業の幹部とかが参加しているらしくて……」
『ま、言いたい事は分かるけどね。とは言え、私もただの一般市民なんだけど、いいや、翠ー、さっき話してたヤツ持って来て』
勅使河原さんは先程から忙しそうに仕事をしながらボクの話を聞いてくれていた。
だから不安になる――この件が、あの人にとってどれだけ重みを有するのか、分からなかったから。
「……お忙しい所、恐縮には思いますが……」
『ああ、うん。私が忙しいのはいつもの事だから気にしないで良い。そしてさっきの助力を乞う件だけど、半分了承、半分拒否って感じで返答とさせて頂こうか』
「半分、ですか?」
『そう、半分。ゲームでもそうじゃない。お助けキャラに出来るのは、敵の無意味な装甲を引きはがす事ぐらいでしょ』
そのある意味で無関心な対応にカチンと来たが、頼れる人物の代表格に反感を抱かせるワケにもいかない。
一度だけ咳払いをして、意気を沈めた。
「……ゲームと同じに考えられても、ちょっと困りますが……」
『バカモノ。君と私の立場を同じに捉えるんじゃない。そんなに私が薄情だと思われても、それは八つ当たりに近い何かだよ』
「……え?」
ボクは勅使河原さんの言葉を上手く理解出来ず、間抜けな声を上げてしまった。
『いいかい? 私はね、その花前佐奈って女の子にとって、ただの部外者なんだよ。そんな奴に――自分の戦場を踏み荒らされたら、それこそ彼女への侮辱だろうに……まあ、君が恋人をそれ程大切に想っていると言うのは、伝わって来ているよ、うん』
「…………あ」
そう言われて、やっと気付く。
確かにボクがバカだった。
何故、佐奈さんが周囲に助けを乞わなかったのか。
何故、勅使河原先輩を利用してでも助かりたいと思わなかったのか。
他にも、警察だとか相談所だとか、打てる手段が無かったワケでも無い。
彼女は決して、誰かに助けを乞わなかった。助力を受ける事を拒否していた。
ボクがこれまで、彼女の為に行動を起こさなかった――いいや、起こせなかったのは――。
『……この話、ナイショにしてくれるかな。あたしは耐えられるから――あの子達の姉として……あの人達の娘として、耐えなきゃ、いけないから』
――それは彼女が優しく、誇り高かったからだろう。
知って欲しく無かったのだ。自分の身体が、親の見栄を張る為に利用されている事など、誰にも知って欲しく無かった。
ボクに打ち明けてくれたのは、彼女がそれだけ心を開いてくれたから。
それだけ――ボクを心から愛してくれているからに他ならない。
やっとこの焦燥感の理由が分かった気がした。
頭では今理解したけれど……心は最初から分かっていたのだ。
話を聞いてから、絶対に何とかしなければと言う気持ちは、留まる所を知らなかったから。
『本来ならね、君がこうして私にその話をするのも……彼女の努力への裏切りなんだけどね』
勅使河原さんはちょっとだけ言い辛そうに――しかし、しっかりとその真実を告げた。
それでも、ボクの心は揺るがない。
「分かっています。これがただのお節介だって」
――別にお節介だと思われていい。
「守らなきゃいけないモノがあるんです」
――彼女の努力を穢す、エゴであっても構わない。
「……それで彼女に嫌われたとしても、ボクは――こんな現実を、認めるわけにはいかない」
抱き締めた愛しい温もりに、ボクが与えられる唯一の事。
やっと覚悟が出来たんだ。
大好きな、大切な人に――嫌われる覚悟が。
『うむ、その意気や良し。君がその覚悟を持って私に電話して来た事を喜ばしく思うし、最善手だったと評価せざるを得ない……おっと、ありがとさん、翠』
勅使河原さんは満足気な声を上げて、紙を風になびかせた。
『花前の夜会の件だが、実は私にも招待状が届いているんだよ。悪趣味な金色の手紙に、吐き気を催す程にクサい文言が書かれた、うす汚い人間の見栄そのものの様な手紙がね』
「えっ!? ば、場所とかって書いてありますか!?」
耳に届いた言葉の衝撃で、ボクは座っていた椅子から立ち上がる。
『まあ落ち着きなさい。その見世物のお披露目がされる会場は、君達一介の学生がどうにか出来る程チープなモノではない。小規模とは言え、仮にも元大企業の社長が開催するモノだからね』
「……そう、ですか……」
すとん、と再び椅子に力無く座るボク。自然と、声のトーンも落ちてしまっていた。
『まあそう落ち込むな、少年。こう言う時こそ、お助けキャラが活躍するモノだからね。君と……そうだな、あと一人ぐらいなら、同行者として連れて行けるんじゃないかな』
「て、勅使河原さん……ありがとうございます!!」
電話越しだと言うのに、ボクは思いっきり頭を下げる。
髪の毛が風を切った音を携帯電話が拾ったのか、勅使河原さんは軽快な笑い声を上げた。
『それともう一つ。君達の乱入に邪魔が入らない為に、周囲の有象無象は勅使河原家が無力化する事を約束する。私に出来るのは
それだけだ……不服はあるかい?』
「いえ、十二分に至れり尽くせりです!!」
『あはは、そうだろうそうだろう。この悪趣味な手紙を破り捨てずに、待っていた甲斐があったよ』
「……ッ」
上機嫌な勅使河原さんの声を聞いて、ボクはその事実に気付いてしまった。
この人は――。
『まあでも、これで一騎討ちの手筈が整っただけだよ。あとは、君の力で恋人を助ける手段を考えなさい』
「……助ける手段、ですか?」
『そうだよ。きっとあのエセ成金が、ただの学生の話を、最後まで聞くとも思えない。きっと側近やらSPやらに、君の排除を命じるだろうからね』
「…………」
ボクは押し黙り、必要なモノを確認する。
佐奈さんの父を改心させる為に、心を震わせる言葉が要る。
そして――。
「腕の立つ同行者が要る……」
――その場違いでえらそうな説教をする為の時間を稼ぐ、戦士が要るのだ。
『その通り。それに関しては、別に私で用意しても良いけど……君はそれでいいのかな?』
「………………いえ、良くないです……」
その聞き方をすると言う事は、自分の力で何とかしなさい、と言われている様なモノだった。
「とは言っても……ボクもただの学生ですから、大人の男性相手に武力を振るえる知り合いなんて――」
その時、脳裏に赤い疾風が駆け抜けた気がした。
男子剣道部での衝撃的な記憶が呼び起こされる。
――そう言えば、彼女の身のこなしは一体……?
『なんだ、やっぱり心当たりがあるんじゃないか。柔道部でもなんでも、それっぽい男の子を一人籠絡してさ』
「ろ、籠絡って……それに、その人女の子ですし……」
『……女の子だって? アマネ君、流石の私でもそれは賛同出来ないな……』
「ですよね……アスラ・カスタ・リコリスって言う、常人離れした動きが出来る友達が居るんですけど、武道をやっているとかは聞いた事無いですから、除外します」
『へえ、そん――――待て。何故、君がその単語を知っている?』
「……え?」
電話越しに聞こえた、冷え切っている声。それは勅使河原さんが時たまに見せる、プレッシャーを伴っていた。
『まさか……その言葉の意味までは、知らないの?』
「え、ええ……友人の名前ですし……」
『名前? アスラ・カスタ・リコリスが名前だって?』
「はい……赤い髪の毛で、同じ学校の同級生ですけど……変わった名前ですよね」
『……はあーッ!! 知っているなら……もっと早くに教えて欲しかった話だよ、それ……』
――思いっきり大きな溜め息をされた。
『そんなのすぐに偽名だって思うだろうに、君はちょっと寛大過ぎる……ああいや、違うか。君も大概に優し過ぎるから、そもそも違和感を覚えなかったんだね……ごめんごめん、悪気は無いんだが……つい溜め息を吐いてしまった』
「全然大丈夫ですけど……リコの名前って何なんですか?」
『それは偽名だよ。そして――七年前に起こった一家惨殺事件の関係者しか知り得ない言葉なんだ、アマネ君』
「…………一家、惨殺事件……?」
余りに耳慣れない単語に、ボクは聞き返す事しか出来なかった。
『そうだよ。まあでも、君は当時……まだ幼かった頃じゃないかな。ある場所で、一般家庭に泥棒が入った。入念に下調べをされていたらしい……庭にあった勝手口の鍵の隠し場所も、その一家が居ない時間帯も割れていたんだ』
「……なんで、その状況で……」
『いや、だからこそ、なのだと思う。泥棒が安全だと思いこみ、悠々と盗みに入った時――その一家は、予定外の行動を取ってい
たんだ。動転した泥棒は家にあった鈍器で家族を順番に撲殺――しかし、仕留め損なった家主の反撃に遭い、死亡した』
「予定外の行動?」
『うん。月に一度、必ず設けていた外食の予定をキャンセルした程の出来事らしいけど、詳細は分からない。状況証拠だけをなんとか掻き集めて、それでも足りなくて――その結論に至った』
『こじ開けられた跡の無い、鍵の開いた勝手口。うろついていた不審者と特徴の一致した――椅子で撲殺された部外者』
『生き証人は記憶を閉ざしてしまって、詳しい話を聞けなかったからね。警察も、容疑者死亡で送検するしか出来なかった、謎の多いけれど、解決済みの事件なんだよ』
「…………生き証人って、まさか……」
『その話を聞く限りだと、その子に違いない。返り血を浴びた様な、赤い髪の女の子だったから。そもそも、アスラ・カスタ・リコリスってのは生き証人がうわ言の様に呟き続けていた、呪文の様な言葉だったらしいからね……』
「…………」
予想外の事実に、絶句した。
彼女がそんな過去を抱えていたなんて――。
そんな凄惨な経験をしている素振りを見せた事が無かっただけに、衝撃が大きかった。
「……解決済みの事件、なんですよね?」
『うん。犯人は確かに死んで、反撃をした家主の正当防衛も認められている。それに、不幸な一件ではあったが、守られた命も確かにあったんだ。その生き証人は、家主である父に命を救われ……今も生き延びている』
それが不幸中であっても、幸いだなんて、死んでも言えないけどね。
漏らした様な、その憂いを帯びた言葉に、ボクは何も返せなかった。
『助かった女の子も親族に引き取られて、幸せに暮らしているとも聞いていた。だからついぞ今まで、その単語を気に留めてなんていなかったんだけど……そうか……』
きっとその言葉は嘘だと思った。
勅使河原さんはずっと、その事件を――その言葉を、憂いていたのかもしれない。
『……その子は今、元気?』
「……はい。ボクの見る限り、ではありますが……」
『分かった。だとすれば、今私が気に掛ける問題でもあるまい。だから……君が少しだけ、彼女に注意を払ってくれないかな?』
「……分かりました」
勅使河原さんはきっと、ボクを――信頼してくれている。
だから手紙の事も、自分から告げなかった。
もしボクが何も言わなかった時の為に、保険を掛けてはいたのかもしれないけど――ボクが自分に相談するだろうと信じて、ギリギリまで動き出さなかったのだと思う。
そんな人の、唯一託してくれた頼みを、聞かないワケにはいかなかった。
『それで、そうだ。花前の件だけど……リコちゃんはそれ程に動きが見事なのかい?』
「あ、はい。小柄な身体の影響もあるとは思うんですが、一瞬見えなくなるぐらい俊敏で……けど、力もかなり強いんですよ」
『…………ねえ。つかぬ事を聞くんだけどさ』
「……なんですか?」
『その子…………いや、ごめん、何でもない。また今度話すから……今は気にしないでいいや』
「………………わかり、ました……」
気にしないでいいや。その言葉を鵜呑みにすれば、別に気に留める様なモノではなかったと思う。
ただ――どうしてか、とても嫌な予感がした。
『取りあえず、信頼出来る相棒を一人、決めておきなさい。出来るだけ、恋人に恥をかかせないですむ相方を。満月までまだ時間はあるし、近くなったらまた連絡するよ、じゃあね』
「あ、ちょっと勅使河原さん……!!」
――ブツッ。
無情にも、通話が途絶えた。
ボクの心には、一つの決意と、一つの影が差している。
――何故、『関係者しか知り得ない』ハズの言葉を、貴方が知っているんですか――?
言い様の無い不安が身体を襲う。
――秋雨の降る空は、当然の様に光を遮り、ボクの心の不安を広めて行った。
麗爛新聞 十月号 二面 終
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