麗爛新聞 十月号 一面
「キレイな紅葉だね、翼君」
「……ええ、とてもキレイです」
十月に入り、すっかり秋も深まった頃のある日。
放課後、いつもの様に新聞部部室にて会議を行っていた最中、満面の笑みを浮かべたマリアさんに拉致――半ば強引に連れて行かれた勅使河原先輩。
その震える子犬の様だった彼を見送った後、先輩でありボクの恋人でもある佐奈さんがすっくと立ち上がった。
『写真を撮りたいな。翼君、ちょっと付き合ってくれないかな?』
断る理由も気持ちも見当たらなかった為、ボクは二つ返事で引き受けた。
彼女が撮影場所に選んだのは、麗爛学園の校内から少し離れた私有地にある、第二グラウンドへ通ずる道。
部室棟の先にある桜並木とは違い、こちらはモミジやイチョウと言った秋季に彩りを見せる木々が立ち並んでいる。
まだ満面に紅葉が進んでいるワケでは無いが、赤と黄に変わりつつあるグラデーションに、ボクは心を震わせていた。
――ピピッ。
先程からフラッシュをたき、世界から時を切り離している少女に目を向ける。
明るい茶髪に、蠱惑的な身体付きを持つ――ボクに不釣り合いな恋人、花前佐奈。
こうして意識していないと、見慣れて有難みを忘れかける魅惑にドキリとしながら、ボクは佐奈さんの傍らで歩き続けた。
「んー、なんかイマイチだな……」
佐奈さんが唸り、今は唇を尖らせたりしている、いつも通りに表情豊かな顔を横から見やる。
勅使河原先輩やマリアさんとは違う魅力――奥ゆかしいワケでもないが、ギラギラに輝いているワケでもない――を持つ彼女は、アイドルも顔負けの容姿をしている。
……だと言うのに、彼女から浮いた話をあまり聞かない気がする。
――いや、もしかしたらボクに話していないだけで、毎日告白をされたり、密かに想いを寄せられたりしているのかもしれない。
「もうちょっと接写してみるか――ほっ!!」
グッと膝を曲げて、佐奈さんがカメラを構えて跳躍する。彼女は宙に浮いた状態で、カメラのシャッターを切った。
アクティブな動きはスロウに映り、世界に波紋を広げる様に、絵画の如き刹那を、ボクは確かに垣間見た。
――美しい。そんな言葉では物足りない程、彼女は『生きて』いた。
上昇していた身体はやがて重力に引かれ、軽やかに着地――衝撃に合わせて、ぶるん、とたわわに実った果実が大きく揺れた。
「…………わあ」
見ているだけで顔が紅潮して来ると言う、特殊な毒を持った果実に目を奪われていたボク。
――いやまあ、素晴らしいと言う言葉には、様々な側面があると言う事で。
「んー、当然の事とは言え、やっぱりブレるなあ。ほら、そこのスケベ小僧。あたしに魅了されるのは良しとしても、足を止めて良いとは言ってないぞー」
「わ、分かってますよ……」
少し離れた所でうっすらと笑みを浮かべた彼女に、ボクは慌てて駆け寄った。
「しかしまあ、人生なんて何が起こるか分からないモンだね」
「? 急にどうしたんですか?」
そう言いながら、どこか遠い目で赤く染まる木々を見ている彼女に顔を向けた。
「いやね、二年生になったばかりの春……花びらの雨の中で、華蓮と二人で居た時に思っていた事があったんだよ」
「…………」
もしかしなくても――それはボクが勅使河原先輩と出会った日の事ではないだろうか。
彼女と出会った日の――彼に出会った日でもある――ボクの知らない、その合間の事。
「……何を思っていたんですか?」
意識せずとも――ごく自然と、ボクの口はそう問うていた。
それ程に、ボクの身体に馴染んだ行為。
自分の知らない事を尋ね、見聞を――世界を広める事。
それは前進……でも、傍から見れば後退なのかもしれない。
相手が居ないと成立しない成長方法。それがボクの選んだ道で、孤独と言うモノに酷く弱い性質を持つ。
でも恐れない。弱さを理由に、立ち上がる事から逃げない。
その弱さは痛みを避けなければ、無限の可能性を秘めた――ボクの強さになると、今まで接してくれた人達が教えてくれたから。
「ん? そりゃあ、あれさ。夏に華蓮と出会って、秋、冬――そして春が来た。でもあたし達は、ただ一緒に居るだけ。だから、これからまた夏が来ても……何も変わらないんだろうな、ってね」
彼女達には負い目があった。人には言えない痛みがあった。
その痛みから逃げる様に――いいや、少しでも和らげる為に、寄り添った二人。
前進もせず、後退もせず――それはかつての自分が経験した、固着した時の一小節。
だからこそ彼女の抱くその気持ちが、手に取る様に分かってしまうのだ。
「でも、どっかのお節介焼きのせいで――おかげで、そうじゃなくなった」
永遠のリフレイン、同じ毎日の繰り返し。
でも。
止めていた時間にも。
そのループにも、きっと意味があった。
再び時が流れ始めたその瞬間に、歩き始めた一歩の価値を知れたから。
再び痛みが走ったその脈動に、刻み始めた身体の熱を知れたから。
「……最初出会った時は、ちょっと頼りない王子サマかなって思ってた」
――目が合った。ボク達の間に、赤く染まりかけたひとひらの一葉が、静かに舞った。
「でも君は、随分と成長した。それこそ――あたし達を導いてくれるぐらいに」
かさり。足元に散らばる落ち葉を蹴っ飛ばして、佐奈さんが一歩近づいて来る。
「あの夜に気付いた。いつの間にか、君が傍に居ない生活を懐かしく思う様になっていてね」
かさり。歩みを止めず、少しだけ瞳を潤ませて。
「……どんな辱めにあっても、譲らないつもりだったファーストキス……あんなにあっさりあげちゃったよ」
目の前に彼女の顔が来た――必死さを押し隠す様に、真っ赤な頬をぎこちなく引き上げていた。
「……前にも伝えたありきたりの台詞だけど、改めて言うね」
恥ずかしいなら、言わなくてもいいのに。
「好きだよ、翼君。多分、華蓮と同じか――それ以上に」
――そんな分かり切った事を、今更――。
「……んっ」
――再び唇を奪われた。
夏の夜の、湯気でむせ返る様な暑い思い出以来の柔らかさ。
ボクにとって、それはファーストキスではなかったけど……『男性』として初めて贈られたキスだった。
腰に手が回される。それに自然と――ボクも応える。
ボク達は繋がったまま、風に揺れる木々の囃し立てを、ただただ受け続けた。
――困った。
彼女が仕掛けた『勝負』の内容を融けて無くしてしまいそうな程に、脳内が茹っている。
身体が悦び、胸板に触れる果実を無意識に貪ろうとしていた。
ギリギリのところで――突然、繋がりが断たれた。
「……はあっ」
佐奈さんは短く呼吸をして、ボクを見つめる。吸い込まれそうな瞳は、まるで磨かれたレンズの様に濡れて輝いていた。
――本当に、困った。
「……その優しさに付け込むのも、本当は気が引けるんだけどなあ」
首にまわされた腕の動きは、酷く扇情的だった。
それだけじゃない。触れる柔らかさも、漂う香りも、全部……全部が、ボクを惹き付ける。
――『彼女』への想いが一切無ければ、この瑞々しい肢体を押し倒し、本能の限り汚そうとしてしまいそうな程に。
「うーん。やっぱりあの銀髪は手強いか……」
腕を解き、ボクの手をも振り払って、全身に触れた温もりが離れる。
――自然と、その断絶を惜しむ様に、手が彼女を追い掛けていた。
「……まあ、脈はかなーりありそうなんだけどねえ。この悩ましい身体も、立派な武器の一つだって事かな」
くるくると回り、未だ上気する顔から熱を振り払う様に距離を取る佐奈さん。
その姿を見て、ボクは観念する様に、ため息混じりでこう言った。
「……身体だけじゃないですよ」
「……え?」
そんなに予想外だったのか。
彼女はぴたりと動きを止めて、見開いた目でこちらを凝視した。
「……佐奈さんが魅力的なのは、その、身体だけじゃなくて……心と言うか、生き様と言うか……内側もだと、思います」
そうでなければ、こんなに心が締め付けられる様な想いを抱かなかっただろう。
「そもそも……『勝負』を受けてしまった時点で、ボクはあなたの外見だけに見惚れているなんて、言い訳が出来なくなっていたんですから」
「――――――ッ」
離れていたハズの彼女が、温もりが、飛びついて来た。
精一杯の力で抱き留めて、倒れない様に。
分かっている――。
あの時から――。
――――――
『翼君。一つ勝負しない?』
『なに、とても簡単な話だよ』
『これから……そうだな、三ヶ月でいいや。三ヶ月間、恋人になってくれないかな?』
『……そんなに驚かなくてもいいでしょうが。こちとら乙女なんだぞ、そんな反応されたら傷付くんだけど』
『まあそれは嘘だけど、勝負はホントの話ね』
『つまり、あたしはこの限りある恋人期間中に、君を心の底から惚れさせてみせよう』
『それで……君が、あたしを好きになってくれたら、あたしの勝ち』
『でも、君が華蓮への想いを持ち続けていたら、君の勝ち』
『報酬は……そうだなあ。まあ、決着が付いたら、決めればいいか』
『そんな大雑把な、って言われても、それはいつもの事だし。諦めろ、翼君♪』
『……こうでもしないと、君と結ばれるチャンスが出来ないじゃん?』
『だから、勝負ってワケさ。後腐れが無い様に――勝ち負けを、きっぱりと決めておこう』
『それぐらい……君が、愛し過ぎるんだよ……翼君』
『……あたしには……君しか、居ないんだ』
――――――
彼女は誘惑こそすれど、無理強いは絶対にしなかった。
それどころか、やきもきしている勅使河原先輩の背中を押す様に、様々なシチュエーションを用意してさえいた。
親友との関係が悪化するかもしれない危機を犯してまで欲しいモノがあると言うのに。
彼女なりの流儀と言うか、誠意と言うか、何と言うか。
――そんな素敵な人の心に、惚れないワケが無いだろう。
あの七月の終わりから、二ヶ月と少しが経った。
それはボクと佐奈さんが恋人になった期間でもあり、勝負をしていた期間でもある。
長くも短くも感じたそれは、とても充実していて――彼女の魅力を理解するのに、十分過ぎたと言えるだろう。
彼女はこんなにも中途半端なボクを、真っ直ぐに愛してくれている。
……嬉しくないハズが無かった。
悪戯好きで、純真で、こんなに明るく笑う素敵な女性と両想いになれるだなんて。
……夢だと疑わないハズが無かった。
そして、同時に――とても残酷だと思った。
「……そう言う事を平気で口にするから、君が好き」
――心が痛む。
「あたしを強く抱き締めてくれるから、君が好き」
――こころがいたむ。
「こうして傍に居てくれるから、君が好き」
――佐奈さんを好きだと思えば思う程――心が痛むんだ。
「でも一番思うのは――あたしの為に涙を流してくれる、温かな心を持っているから、君が好き」
知らない内に……涙が溢れていた。
これは、痛みに耐えられなくてじゃない。
「……あたしが心を失っても、この想いは……絶対に忘れないよ」
きっとこの時が永遠ではない事への、悲しみ故の涙だった。
時は流れ続ける。
だから三ヶ月なんて、あっという間に過ぎてしまうのだ。
今は美しく赤に染まる葉も、全て地に落ち、色褪せる時が来る。
ボク達はその事を知っているから。
いつか――答えを、出さなくてはいけない。
全てをこの手で幸せにする。
そんな都合の良い終わり方は、きっと社会が許さない。
「……翼君、あたしね……多分、十一月を迎えられないかもしれない」
「…………え?」
「少なくとも……キレイな身体のまま、君が素敵だと言ってくれた心のままでは、いられないと思う」
震える身体を抱いて、彼女の囁く様な悲鳴に耳を傾ける。
話を聞いている間、ボクは彼女の身体を強く抱き締め続けた。
そのか細い身体がギリギリ壊れないぐらいに、強く。
それでも、彼女の震えは止まらない。
ボクの力だけでは決して抗えない、辛く寒い現実が来ると、分かっているから。
今のボクに出来るのは――彼女の縋る様な、一筋の想いが消えない様に……傍に居る事だけだった。
麗爛新聞 十月号 一面 終




