麗爛新聞 四月号 二面
その後、ボク達四人が部室の前でしばらく過ごして居ても、新たに新聞部を訪れる生徒は現れなかった。当然この空気では逃げられず、ボク達は説明会に参加する事になった。
花前先輩の溜め息を聞きながら、ボクと勇士は新聞部の部室に招き入れられる。用意されたパイプ椅子に腰掛け、ホワイトボードの前に立つ勅使河原先輩を見据えた。
「えーっと、今日は新聞部の部活説明にお越し頂き、ありがとうございます。と言っても、講堂でやったモノの繰り返しになっちゃうんだけどね」
どこかバツの悪そうに言葉を紡ぐ勅使河原先輩。そんな彼女に気を遣ったワケではないが、ボクは首を小さく横に振っていた。
「……ふふ」
ボクの仕草に気付いたのか、銀髪の少女は小さく笑んだ。そのまま彼女は用意していたメモ帳を取り出し、活動の説明を始める。
「午前中に説明した通り、私達新聞部は、三年生の卒業と共に、活動出来る部員が二人だけになってしまいました。元々は行事の際に校内向けの広報を担っていたのですが、当然今までと全く同じ活動をする事は叶いません」
「その仕事は今年から、生徒会がやる様になった。まあ、この学校の良い所として、部員が五人切っても存続はするからギリギリ潰れていない程度だね。写真担当の私は文字を書く事に慣れていないし、編集担当の華蓮は記事を書く事に向いていない。まあ、実質活動休止状態ってワケだよ」
壁にもたれかかりながら、カメラを弄っている花前先輩が口を開く。そんな彼女を見て、勅使河原先輩は口を尖らせながらも話を続けた。
「お恥ずかしい限りではありますけど……だからこそ、今私達に出来る事から始めようと思いまして。そこで考えたのが、月に一度発行する予定の、麗爛学園の為の新聞……『麗爛新聞』なんです」
勅使河原先輩がホワイトボードに張り出したのは、見やすい字で体裁の整えられた、一枚のプリント用紙だった。
「お世辞にも、新聞とは言えない情報量だとは思います。けど、これが今の私達の精一杯。それに、元々三年生だった先輩が手伝ってくれたので先月分はなんとかなりましたが、今月分の見通しは立っていません」
「新聞作ろうにも、記事を書く奴が居ないと話にならないんだよね。取りあえず華蓮のスナップショットで紙面を埋め尽くす案が最有力って感じ」
「ん? それ結構いい案なんじゃ……あれだけ人気あるんですし、需要はかなりあると思いますけど」
勅使河原先輩にカメラを向けながら花前先輩の発言に反応した勇士を嗜める様に、銀色の少女は引き気味に答えた。
「いや、それじゃ新聞じゃなくてポスターになっちゃうから。せめて、新聞と呼べる形にしたいし、ちょっとねぇ」
と言うか、あれだけって何の事? 続いて放たれた二つの言葉を聞いて、カメラを携えた少女は、どちらに対しても答える様に肩を竦めた。
「とまあ、こんな感じでさ。部長がそう言うんなら、従うしかあるまいよ」
「そうなんですか……あれ?」
張られた麗爛新聞の一つの記事に、勅使河原先輩の名前を発見する。ボクは興味本位で質問してみる事にした。
「そこの……編集後記って書いてある欄なんですけど、勅使河原先輩が書いたんですよね?」
「あ、そうだよ。えへへ、やっぱり見られると、少し恥ずかしいね」
照れ臭そうにはにかむ先輩に、時を忘れて見惚れそうになる。寂しがる彼女に声を掛けられなかった人間が分不相応な事を考えるな、と慌てて邪念を振り払った。
片手間に読めてしまう文章の量ではあるが、勅使河原先輩の書いた文章は読みやすい様に思える。その事に首を捻ると、壁際から声が聞こえて来た。
「華蓮はちょっと、記事を書くにはロマンチスト過ぎるんだ」
幻想的なのは外見だけで十分だよね、と続ける花前先輩。その表情は柔らかく、どこか勇士がたまに醸し出す雰囲気と、少し似ている気がした。
「後半はともかく……でも、佐奈の言う通りなんだ。私が書く文章はちょっと詩的と言うか……新聞向きではなくて」
「……まあ、確かに全体まるまるこの文章だと、誰かのポエムノートを覗いてる様な感じがするかもしれないですね。少なくとも、新聞って感じではないかも」
勇士が口にした言葉は失礼の様にも聞こえる。しかしその分、本質を見抜き、的を射ている意見だったと言えた。
「生徒向けだから別にお堅い文章を書く必要は無くて、ちょっと文字書くのに慣れていれば、それでいいんだ。ただ、華蓮はちょっと夢見過ぎてて、そう言う所で融通が利かなくてね。まあ、全く書けないあたしに言えた事じゃあないんだがね」
はあ、と先輩二人の憂いを含んだ溜め息が部室内で合わさった。
「……なあ翼、お前ってまだあの日記続けてるのか」
隣に座る勇士が小声で話しかけて来た。ボクはその意図を汲み取り、肯定の意味を込めて、首を横に振る。
「……まあ、続けてるけど。でも、新聞用の文章なんて書いた事無いし……」
「ほら、花前先輩も文章に慣れてればいいって言ってたしさ、チャレンジする価値はあるんじゃないか?」
「……そうなのかな」
そう呟いて、ボクは紙面を眺める。流石に全てを読む事は出来なかったが、まとめられている記事の特徴程度なら分かった。
この三月のテーマは、きっと『旅立ち』で揃えられている。
卒業式が迫った日の教室棟の様子から始まり、卒業生が次年度に期待する部活の特集などが、写真を添えて推されていた。三月を示すには、無難な記事の選び方だろう。
それ故に、特に目を引く何かがあるワケでは無いと思う。
言ってしまえば、平凡の一言だけで片付いてしまいそうな面々。
けれど、この一枚に込められているのは、それだけじゃない気がする。
卒業生との離別をメインにしているにも関わらず、一番最初に『別れ』と言うマイナスの印象を抱かなかったのは、きっと――。
「世の中――学園向けだから、学園内の出来事の、『良い面』をみんなに伝えたい。そんな前向きな気持ちが、込められてるんですね」
迷い無く口にする事が出来るぐらい、明瞭な目的があったからなのだろう。
この一枚に込められた優し過ぎる願いは、銀色の少女が見せるモノによく似ていた。
「……ッ!?」
「……ほお」
息を呑む音、そして零れた様な感心の声が聞こえた。
「華蓮。やっぱりこの子と、元々知り合いだったんだろう? じゃなきゃ、これだけで正確に理解出来ないさ。割と付き合いの長いあたしですらわからなかったのに」
「う、ううん……本当に、今朝初めて会ったんだよ。でも、そっか……わかるんだ」
「え? 今こいつが言った事が図星って感じなんですか?」
勇士の問いに、勅使河原先輩が呆然としながら頷く。
「麗爛新聞は、起こった出来事の良い面だけを取り上げるコンセプトなんだよね。なんと言うか、実に華蓮らしい新聞ってワケ」
「ちょ、ちょっと佐奈……!!」
少女は慌てふためいて、銀髪を揺らして抗議の意を示している。花前先輩がその反抗を目にしても、悪びれたそぶりを全く見せないのは、仲の良い証拠なのだろう。
「勅使河原先輩らしい、ですか?」
「あたしから見れば、だけどね。どう捉えるかは、新聞を読んだ人次第って事さ」
「むぅ……」
したり顔の花前先輩を恨めしそうに見る勅使河原先輩。そんな彼女は確かに外面に気を遣っている印象は感じるが、どう言う意味での発言だったのかまでは、ボクにわからなかった。
気を取り直したのか、勅使河原先輩はすぐにボク達の方に向き直す。
「コホン。えっと、とりあえず今やってる活動はこの麗爛新聞の発行と掲示ぐらいかな。ちょっと退屈かもしれないけど、部活に所属している経歴は付くし、その分時間は自由に使えるメリットもあるよ」
「ある意味、帰宅部に所属する様なモンかもね。既に一人幽霊部員も居るし、気軽に参加出来るのは確かに強みかもね。どうだい、二人も入ってみないか?」
「「……少し、考えさせて下さい」」
ボクと勇士の意見が、ここまで来てようやく合った気がした。
「勿論、強制はしない。他にも魅力的な部活は大量にある。それこそ、この新聞部よりも素敵な部活がね」
「そうだね。でも、もしここに来てくれると言うなら、私達は歓迎します。是非、宜しくお願いします」
花前先輩が勅使河原先輩と並び、二人同時に頭を下げた。
「さて、とりあえず説明はこんなモンかな。仮入部、と言ってもウチは特にやる事も無いし、これでお開きか」
早々に頭を上げた花前先輩は、置いてあるバッグに近寄って帰りの支度をし始めた。
「ちょ、ちょっと佐奈……」
「別に構わないでしょ。多分もう、新しい子は来ないだろうし。キザ君、約束通り奢って貰うから、一緒に行こう。おすすめの喫茶店があるんだ」
戸締りお願いね、と言い残して花前先輩は早々に部室を後にしてしまった。戸惑っていた勇士も数瞬遅れて、慌てながら立ち上がる。
「あ、先輩ちょっと待ってくださいって! すまん翼、俺先帰るな!」
「あ、うん。気を付けて……」
どたばたと嵐の様に立ち去った二人に置いて行かれ、ボクと勅使河原先輩は部室に取り残される事になった。
「あはは……なんだかごめんね、佐奈はちょっと変わってるから……」
「い、いえ……」
期せずして、勅使河原先輩と二人きりになれたワケだが、どんな話をしていいかがわからない。
壁に掛けられた時計が、時を刻む音だけがボクと彼女を取り持っていた。
一定のリズムで、かちかちと空白を重ねて行く。
何かを話さないと。
なんでもいい。
かち。
新聞部の事でも。
かち。
好きな食べ物でも。
かち。
今付き合っている人は居るのかでもいい。
かち。
伝えないと。
かち。
ボクは、貴方と話がしたいのだと、意思を示さないと。
「天音君」
かちり。
秒針の動く音を掻き消すように、勅使河原先輩は口を開いた。
「……は、はい!」
渇いた喉から、震えそうな声を絞り出す。彼女は大きくない歩幅で部屋の中を歩き、花前先輩のバッグが置いてあった机に腰掛けた。
「私ね、意外とモテるんだ。だから、男の子の『ある表情』は、ちょっとだけ見慣れているの」
「……え?」
頭が、彼女の紡いだ言葉の意図を理解しようとしない。
しかし、身体は既に分かっていた。彼女が何を言っていて、次にどんな言葉を続けるのかを。
胸が波打ち、冷や汗が滲み出る。
ボクは、今日出会ったばかりの彼女に、全てを掌握されている様な気がした。
今も変わらず、うるさく重ねられているハズの時を刻む音は、もう耳に届かない。
――いや。きっと、最初から時なんて、止まったままだったのかもしれない。
そう思える程、夢から覚めた様に、辺りは静寂に包まれていた。
「きっと、間違ってないと思う。朝会った時と、ここに来た時の天音君の顔は、全然違ったもの」
慣れているのだろう。あの彼女のルックスなのだ、言い寄られる事など、両手で数え切れない経験を重ねているに違いない。
だから彼女は、少しだけ楽しそうに。
ただそれ以上に、寂しさを感じる言葉を、勅使河原先輩が発して行く。
涙が乾ききった様な瞳を、静かに暗くしながら。
「朝から今みたいな表情してたら……ハンカチなんて、渡さなかったのに。私に会いに来る口実なんて、用意させなかったのに」
意外と鈍感さんなのかな。笑いながらそう漏らす彼女の声は、弾んでいる様にも聞こえる。高嶺の花に手が届くと、勘違いをした男を弄んでいる、悪女の如き笑い方だった。
けど、何故だろう。
「私ね、女の子の方が好きなんだよ。こんな外見だから、あまり信じて貰えないけど……ホントの事」
彼女の声は、痛みに耐える悲鳴の様に感じるのだ。
「だから、天音君の想いが私に届く事はないんだ」
この感じ……どこかで。
「好きだと思ってくれるのは、とても嬉しいけど……私は、貴方の想いに応えられません。応え、られないの。だから――」
『ごめんなさい』
流れ続ける時の中で、抗う様にその場に留まろうとする思い出があった。
かつてそこで心に刻んだ、贖罪の言葉。
ある時は、鋭い痛みを伴って。
またある時は、安らかな癒しを伴って。
何度も、何度も、何度も。
『翼。俺も、その通りだと思う。お前の事を知ったから、こうして同じ立場に居られるんだからな』
その名を呼ばれる度に、思い出す。
『おっ、珍しいな。翼がこう言う話題に食い付くとは。目ぼしい人でも居たか?』
あれは、思い出なんかじゃない。
『おーっす、翼。今日は随分ギリギリだな』
きっとボクは、あの場所にずっと居るだけなんだ。
今よりも、もっと、もっと前の事。
けれど、昨日の様な、今日の様な、今この瞬間の様な。
『――アマネさん』
あれは、彼がボクを翼と呼んでいなかった時の事だった。
――――――
――――
――
――喫茶 まほろば
「先輩、随分素敵な場所知ってますね」
「まあね。伊達に一年分先輩はやってないさ」
絹糸勇士は、花前佐奈に連れられて学校から少し離れた喫茶店を訪れていた。注文したカフェラテを啜り、奥深い香りに頬を緩ませている。
「さて、キザ君。あたしを無理矢理連れ出した理由を聞かせて貰えるかな? って言っても、どうせ狙いは華蓮だったんだろうけどね」
「……流石に、気付かれてましたか。あと、俺の名前、絹糸勇士って言いますんで、それで」
「絹糸? 成る程、勅使河原家のメイドの家族なんだね。と言う事は、華蓮の事も知っててこんな事したのかい?」
「……いえ、職場での出来事はトップシークレットらしいんで、俺は何も知りません。複雑な家の事情があるんだな、ぐらいにしか」
「ふうん、そっか。ま、じゃなきゃ決行しないだろうね……」
『喫茶 まほろば』名物の特製ミルクセーキを口に含み、佐奈は頬だけで笑った。
彼女は口説いて来ている男子生徒が、連れの為に華蓮との時間を作り出す魂胆だと分かっていた。そんな事はさせまいと、元より適当に答えて、直前に断るつもりで了承したのだ。
動揺具合から、あの少年が間違いなく華蓮目当てだと気付いていた。状況的に言えば、佐奈は華蓮の為に、『友達として』、二人を追い払う義務があったのは明白だっただろう。
だが、天音君と呼ばれたあの黒髪の少年は、勅使河原華蓮の心の傷を感じ取っていた。
身も心も個性の自分が、癒す事の出来ない、深い深い傷。
彼ならば、自分に出来ない事をやってくれるのでは。そんな期待を持って、敢えてあの場を立ち去ったのだ。
「しかし絹糸君。君があの友達にそれ程力添えするのは何故?」
絹糸勇士は眼鏡の奥の瞳を一瞬だけ見開くが、すぐに細めた。
「……友人の恋路を応援するのは、別におかしくないと思いますが」
「まあ、そうかもしれないけどね」
からん、からん。
したり顔の少年を見ながら、茶髪の少女はミルクセーキをストローでかき混ぜ、氷のぶつかる涼しい音を響かせる。
店内には、学校帰りの生徒達の喧噪があったと言うのにも関わらず、その音は澄み渡り、少年の耳奥まで届いた。
「ツバキナワ」
少女が発した、たった五文字の言葉。
ただそれだけの音の並びが、絹糸勇士の心を激しく揺さぶった。
「あたしが、ここに入学する前に通っていた学校の名前さ。花の椿に、結ぶ縄で、椿縄。一年と半分ぐらい前……ちょうど、あたしが三年生だった時の学園祭で、ある伝説が生まれたらしい」
「へえ……それって、どんな伝説なんですか?」
少年はわざと、温かいカフェオレを顔に近付けて眼鏡を曇らせる。水面を、わずかに波立たせながら。
「三人の男子から求愛されて、追いかけ回された幻の女性が現れた。男子の話題を総攫いにしていたから、椿縄出身でその事を知らない奴なんて、ほとんど居ないだろう」
伝説と言うには、なんとも俗っぽい話だけど。花前佐奈は淡々と、それでいて追い詰める様に事実のみを述べて行く。
「学校を開放して行われていた学園祭だったから、たまたま遊びに来ていた校外の人と言う事で事態は収束した。しかし噂は独り歩きしながら尾ひれをつけて、人海を渡り続けた。少なくとも、あたしが卒業するまでの間はね」
「それは……余程、美しい人だったんでしょうね。俺も男ですし、興味はありますけど……一体何故、先輩はその話をしたんですか?」
勇士は冷静に、カップに口づけながら言った。そんな彼の様子を見て、佐奈は口を歪めて言葉を続ける。
「いやなに、ただ昔話をしたくなっただけさ。ここは居心地が良過ぎて、そんな気持ちにさせてくれるからね。止まらない時の流れの中でも、ここは過去を振り返る事が許されているんだ」
からん。
ミルクセーキに口を付ける前に、飲み干した冷水のグラス。溶けて大きさの不揃いになった氷が、独りでに音を立てた。
「……確かに、ここは素敵なお店ですね。この甘過ぎないカフェオレも、とても香り高いですし、何より雰囲気が良い」
少年は何かをはぐらかす様に口を開く。
「やっぱりね」
花前佐奈は、見据えた様に呟いた。
「やっぱりって……何が、やっぱりなんですか?」
「絹糸君。君は、育ちの良さが滲み出ているからすぐにわかるのさ。軽薄な様に見せかけて、何よりも真面目で、一筋だ。こうして時を共にしていれば、自然とわかってしまう程にね」
「……買いかぶり過ぎですよ。俺は女の人が大好きで、今日だって文化棟の階段で下から女子のパンツ見まくってましたし。色んな色と形が揃っていて、正直興奮しました」
「ほう。実に思春期の男子らしい行動だね。それだと確かに、真面目とは言い辛いな」
少し驚いた様に、楽しげな少女が顎に指を当てる。そのまま少女は。
「でしょう? ですから……」
「あたしが見たのは、色とりどりの『普通の形の下着』だったけどね。いかにも文化部に興味がありそうな、攻めていないタイプのね」
口元を歪めて、意地悪く、それでも真実だけを口にした。
「時間と場所が違うと私が見たのとは別の光景が……ああいや、君と出会ったのは確か……」
「…………」
「さて、どこだったかな。君は覚えているかい、絹糸勇士。君があたしを誘って、ガッツポーズを決めた場所は――どこだったかな、女性が好きな……絹糸勇士君?」
明らかに流れる、積みの空気。盤上の遊戯の如く、王に差し迫る冷静な言葉の槍が、とうとう喉元に突き付けられた。
「……先輩が、目にしていなかっただけでは?」
王は眼鏡を押し上げ、あくまで槍先から逃れる一手を打つ。しかし対峙するもう一人の王は、笑みを浮かべたままだった。
「ほう、成る程。確かにその可能性もある。じゃあ君が、その事実を周囲の生徒に聞こえるぐらいの声で騒ぎ立てた理由は、何故かな? 本当に喜んでいたなら、あれだけ人が密集していたんだ、警戒されるのを恐れて口にしないと思うがね」
友人と分かち合いたい、と言う気持ちがあったのかい。先手を打つ様に、凛とした声が鋭く追いすがる。
「……それはまあ、テンションが上がり過ぎて、つい」
「意中の人に会いに来た友人に言う程に、か。その割には、前を歩く人間よりも周囲の動きに敏感だった様だけど」
「……それ、は……」
口ごもる少年と、それ以上何も言わない少女の間に、流れる言葉などあるハズが無く。
もう、十分だろう。
そう言いたげな表情で、勝鬨を上げない勝者は淡い黄色の液体――さながら、勝利の美酒なのだろう――に舌鼓を打っているだけだった。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
それとも、幾何も時を重ねてはいないのだろうか。
温かかったカフェオレが作る湯気が晴れ、眼鏡の曇りが溶けた頃。
「――時の流れは、いつだって残酷です。平等な様に見せかけて、実は誰一人として同じ時の刻み方をしませんから」
苦みを含んだ吐息をはべらせ、行き場を失った想いが、閉ざされたハズの岩戸から滑り出た。
「一年半前。ただ言い付けを守るだけだった俺に、友達が出来ました」
辺りは相変わらず、明るい話し声に溢れている。それはそこにあるべき協和音で、未来に満ち溢れた学生らしい在り方だったと言えるだろう。
「でも、その代償に……俺は」
その中で、ひたすら静かに語られる話。
「守らないといけなかったモノを、失ったんです」
過去に大切な何かを置いて来てしまった少年の追憶を、ただ一人の少女だけが、確かに聞いていた。
麗爛新聞 四月号 二面 終
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