麗爛新聞 八月号 四面
「わあ……」
ボクはかなり広い前庭のある豪邸を目の当たりにして、思わず感嘆の声を上げた。
洋風の外装の建物に、葉先の整えられた庭樹。英国式庭園を思わせるそれらは、どこか世俗と一線を隔している様な印象を与えている。
ただし、その光景は決して現実離れをしていない規模のモノだった。
漫画等で良く見る、見渡す限りが庭だとか、全景が捉えられらない程大きなお屋敷だとか、そう言った類ではなく。
あくまで町に実在する大きな家――ボクの持つ価値観と、離れ過ぎていないそのスケールが、ボクに鑑賞を楽しむ余裕を残してくれていた。
噴水から漂う涼風に身体を冷やしながら、夏空の下で煌めく庭園を歩いて行く。
「ふふ、そんなに物珍しい様な感じで見られると、ちょっとだけ恥ずかしいね……」
目をキョロキョロさせているボクの隣では、勅使河原先輩がはにかみながら頬を掻いていた。
夢の中で見ても、全く違和感の無い場所。
けれど、勅使河原先輩が隣に居るから、ここが現実で――ここが、勅使河原先輩の住む家なのだとしっかり認識する事が出来たのだ。
「こんなキレイな庭園、初めて見ました……感激です」
「本当? それなら、毎日使用人の方達に整備して貰っている甲斐があるかも、なんて♪」
くすくすと笑う先輩を見やった時、一迅の風が庭園を吹き抜ける。
さらさらと銀髪が流れ、異国情緒あふれる光景に、幻想的な光が散った。
――絵になる。彼女を見て、そんな感想を抱いたのは、これで幾度目だろうか。
佐奈さんから、定期的に勅使河原先輩の写真を撮っていた旨の話を聞いた事を思い出す。
桜並木で写真を撮れなかったのが心の残りだと頻りに口にする彼女の気持ちも、分かる気がした。
何度見ても飽きず、そして目にするのが一度では余りに惜しいと思ってしまう。
「……どうしたの、天音君?」
ボクの呆けた視線に気付いたのだろう――蒼玉の如き双眸が、少しだけ困った様に細められ、こちらを見ていた。
「……いえ、特には。このお庭が、先輩に似合ってるな、と思って」
「……天音君は、時々どう反応していいか分からない事を言うよね」
先輩の眉をひそめながらの笑みに、ボクも苦笑いで返す。
ボクと先輩の間でたまに流れる、ぎこちない空気が、この場でも。
だけど不思議な事に、ボクはこの空気を嫌だと感じた事が無かった。
その理由は、良く分からないけれど。
庭先を抜け、建物に入った後にボクは、豪奢なエントランスを通った先――案内された応接室で、しばらく待つ様に促された。
アンティークの様な家具が揃えられている一室の中、世界から孤立する様にソファの真ん中に座る。
「……うわっ」
普通のソファだと、油断して座ったお尻が勝手に浮き上がった。
生徒会室でもそうだったが――ボクはあまり高いソファと言うモノを得意としていないらしい。普段から安物の座布団にばかり座っているからだろうか。
前に味わった高品質とは違い、こちらは革の張りがしっかりとしているタイプのモノ。
けれど決して硬過ぎないそれは、長時間座るのに適しているのだろうか。
高いモノにも色々なモノがあるんだな、と未知との遭遇に感心しながら、連鎖的に違う事を思い出していた。
高いと言えば――あんな車に乗ったのも、勅使河原先輩と出会ってから初めてだった。
ボクはその、二度目の体験をしたばかりの事を初めとする、今日の一連の出来事を振り返る。
今にして考えれば、これまでに経験した事よりも、あの美しい庭園の方が余程、現実味に溢れている様な気がした。
夏休みも半分が過ぎようかとしていた頃の、今日と言う日。
ボクは、電話で事前に約束していた勅使河原先輩に呼び出された。
指定された場所で待っていると、既視感のある黒塗りの車がやって来て、半ば強引に車内へと引き込まれたのだ。
やたらとふかふかなシートに若干の居心地の悪さを覚えていると、申し訳なさそうな顔をした勅使河原先輩が、事の顛末を話してくれた。
その説明によれば、先輩のお母さんがボクに直接会って、話をしたいと言う事らしい。
ボク達の――と言うか、主にボクの置かれた状況は、既に話してあるのだと言う。
そこまでの話を聞いて、ボクは三人で見た映画の内容が頭を過った。
彼女が居ると言うのに、自分の子供をたぶらかす様な男を……親が良い眼で見るとは思えない。
――巻き起こるのは、話合いと言う名の修羅場でしかないのではないだろうか。
途端に、この黒塗りの高級車が、地獄へと導く棺桶の様に感じた。
しかし、そうして導かれた先にあったのは、あの美しい庭園のある邸宅――現実の、勅使河原邸に他ならない。
ここは地獄ではなかった――帰る時に、そう思える事を切に祈るばかりだった。
――ガチャ。
「……っ!!」
ドアの開く音に、身体をびくりと震わせて我に返った。
音のした方向を見ると――。
「ごめんごめん、ちょっとバタついていてね」
――艶やかな銀髪を肩甲骨辺りまで伸ばした、キレイな人がそこに立っていた。
「お待たせしました、っと」
麗人は座っているボクの対面に、ボスン、と音を立てて座り込む。
粗暴な動作だが、そこには勅使河原先輩や勇士の様な気品の高さを感じた。
「……君が、件のアマネ君だね? 初めまして、勅使河原雅です」
「あ、は、はいっ……天音、翼です……!!」
ボクは、麗人――勅使河原さんから発せられた強い圧迫感に、心の底から畏怖の念を抱いていた。
白銀の髪に、蒼玉の様な深みのある瞳。
外見こそ勅使河原先輩に似ているが――圧倒的に存在感が違う。
「……んー」
ただの息遣いだけでも感じる、この場全てを掌握している様な佇まいに、ボクは正直、呑まれかけていた。
しかし、ここまで連れて来てくれた勅使河原先輩の面子もあるのだ。あまり情けない姿も見せられないだろう。
膝の上に置いた手を握り、じっとりと滲む手汗を押し殺す。
「ふんふん、意外と芯が強いね。華蓮から話を聞く限りじゃ、そこいらの平凡な高校生と同じぐらいかと思っていたけど」
口角を釣り上げる様に笑う勅使河原さん。その表情からは、絶大的な自信が滲み出ていた。
それが彼女の――。
――いや、待てよ?
――この人を表す言葉は……本当に、『彼女』で合っているか?
儚げだった彼女を、数か月間間近で見続けて来た経験が、警鐘を鳴らしている。
見た目に判断されてはいけない、と。
そして――気になる事が出来たボクには、先輩達が教えてくれたあの武器がある。
それは、相手が誰であっても変わらない。
「……えっと、勅使河原さん。お話と言うのは?」
「ほー。一気に面構えが変わったね。まるで意固地になった時の華蓮そっくりだ」
興味深げにボクを覗き込む蒼色の宝石に、一瞬だが目を奪われた。
「成る程。ウチの子が意識するのも、分からんでもなくなったよ、アマネ君」
白いパンツに覆われた足を組みながら、勅使河原さんは満足気に息を吐く。
「それで、なんだっけ? ああそうだ、私が君を呼んだんだもんね。そう尋ねるのが普通だな、うん」
えーと、と目線をあちらこちらにやりながら、勅使河原さんは唸っている。
これから中の良い友人と雑談でもしようかと言わんばかりの空気。
つまり、話の主軸が全く見えない――もしかしなくとも、会話の主導権を握られない為の話法なのだろうか。
揺さぶられない様に注意しながら、ボクは勅使河原さんの言葉を待つ。
――すると、唐突に。
「――君は、華蓮のどこまでを知っている?」
本当に唐突に、敵意を含んだ威圧感がボクを覆った。
その間は一瞬も無かったと思う。
あっという間に――雑談をする様な雰囲気では無くなっていたのだ。
「……どこまで、と言うのは?」
お腹の底から絞り出す様に、ボクは発声する。それぐらい大袈裟にして、ようやく勅使河原さんに届く程の声量を出す事が出来た。
ボクの様子に一瞬だけ目を見開いた勅使河原さんは、くっと目を細める。
「そのまんまの意味だよ。君が華蓮の何を、どれだけ知っているかを聞いているんだ」
「……勅使河原先輩の……何を知っているか、ですか……」
ボクは、これまでに触れ合った勅使河原先輩との事を必死に思い返す。
しかし、勅使河原さんが――彼女の親が望む様な答えが出来るとは到底思えない。
――それでも。
「まず……勅使河原先輩は、男の子です」
ボクは記憶を辿る様に――そして、自分の事の様に培って来た彼女の、彼との思い出を懐かしむ様に、口に出す。
その間、勅使河原さんは一言も発する事無く、目を瞑りながら、ただ耳を傾けていた。
「……それぐらいです。ボクが知っているのは……勅使河原先輩の、それぐらいの事だけです」
どれぐらいの時間を掛けて語っただろうか。口内と喉はカラカラで、手は汗でぐっしょりと濡れている。
男の子で、意外とムッツリで、女の子の匂いとおっぱいが本能的に好きで。
――でも、彼女は男性として生きる事を望んで居なくて。
そして、少ないけれど、その分素敵な友達に支えられていて。
――ボクに、新しい道を教えてくれた。
ボクにとって、勅使河原華蓮はそう言う人だった。
そんな一面的な事しか知らないから――ボクは――。
「……成る程ね」
勅使河原さんは眉間を寄せたまま、目を伏せる。
――一瞬の沈黙が流れたが、ボクはそこに勅使河原先輩との微妙なやり取りを思い出した。
きっと、全部同じなのだ。
勅使河原さんとボクの関係と同じ様に、ボクと先輩の間にもまだ知らない事がたくさんあるのだろう。
それこそ、親である勅使河原さんしか知り得ない事の方が圧倒的に多いハズ。それに比べれば、ボクが披露した先輩の知識なんて、微々たるモノなのかもしれない。
それでもボクは、勅使河原華蓮と言う人と過ごした日々が、教えてくれた事を知っている。
積み重ねた事の意味、そして前へ進み続ける事の大切さを。
それは先輩の小さな一部分でしかないけれど――ボクにとっては、傍に居続ける確固とした理由になり得るモノだった。
「……一つ、いいかな?」
沈黙を破った勅使河原さんの言葉に、ボクは頷いた。
「君は華蓮を男だと知っている。そして、華蓮が君に好意を抱いていた事も知っていたんだよね?」
「……はい」
「……嫌だとか、思わなかった? だって……幾ら華蓮が女の子の格好をしていても、男の子なんだよ?」
そう尋ねる勅使河原さんの口調は――少しだけ、寂しそうだった。
「それは……別に思いませんでした。それを言うと、ボクだって勅使河原先輩に一目惚れみたいな事をしたワケですし……言いっこなし、と言いますか……」
今は解消している、勇士とのすれ違い。
言わずもがな、あの椿縄中学時代から始まった一連の出来事は、ボクの意識の根底に根付いていると思う。
男だから、と言うのはそれほど大きな問題ではないのだと思う。
もし問題が大きくなるとすれば、それは――その事実を知らずに結ばれ、明らかになった時ぐらいだろうか。
だからボク達は――真実を隠し、痛みを自分だけに留めようとしたのだから。
その点で言えば、ボクは既に勅使河原先輩のそれを知っているワケで――結ばれても、問題は無いのだけど。
「――っ!!」
そこまで考えて、ボクは気付く。
勅使河原さんが何を言いたいのか、そしてボクに何を考えさせたいのか。
勅使河原先輩がボクに抱いてくれている好意に、答えられずに居る現状――そこに違和感がある。
今でこそ佐奈さんからの縛りがあるが――ボクの中の迷いは、それ以前からあったのだ。
それ故に、ボクは佐奈さんとの『勝負』に敢えて乗ったのだから。
――ボクは、仮に勅使河原先輩と結ばれたとして……『全て』を受け入れる事が出来るだろうか。
いずれ、全部を含めて勅使河原華蓮だと思える日が来るかと自答したけれど。
その問いが、ずっと心の中にへばりついて離れなかったのだ。
迷うのは、ボクが勅使河原先輩の全てを知らないから?
それとも、ボクが勅使河原先輩に全てを見せていないから?
――きっと違うのだろう。
ボクは――勅使河原先輩の男性的な部分に一目ぼれをしてしまい、女性的な部分に安らぎを得ている。
その二つは、間違いなく先輩の魅力だと思う。そしてボクは今や――そのどちらにも惹かれている。
だが、これまで一緒に過ごして来て、その二つが決して先輩の中で両立し得ない事も、ボクには分かっているのだ。
ボクが迷っているのは、現状で勅使河原先輩を受け入れた時――。
――『彼』として受け入れるのか、それとも『彼女』として受け入れるのか。
そして、どちらが正しいのか……それをずっと、迷っていたのだ。
「……君、察しが本当に良いんだね。正直見くびっていたけど……思わぬ収穫があったな」
ソファに大きく背を預けながら、勅使河原さんは大きく息を吐いた。
「……勅使河原さん、あの……ボク……!!」
「オーケーオーケー。その答えは、今すぐに出すモンじゃない。存分に悩みな、少年」
そのままの体勢で目線をボクに向けると、にっこりと笑った。
そこに一切の敵意は無く、柔和な笑みから、勅使河原先輩に良く似た雰囲気を感じ取れる。
笑みを浮かべたまま、勅使河原さんは続けて口を開いた。
「……ま、一つだけアドバイスしておくよ。アマネ君が華蓮の友達と付き合っているのは、本来正しい事なんだよ」
「…………えっ?」
麗人が楽しそうに口にしたのは、自分の子供の恋敵との関係を応援する様な内容だった。
「もし、君が今の彼女に恋愛感情を抱いていなくても、いずれ春先のつくしみたいにひょっこりとそれが芽生えて、そのまま結婚して、子供を作っても……私も華蓮も、責めたりしないから……よっと」
白銀の髪を揺らし、のけ反っていた身体を起こして、ボクを蒼玉の様な瞳が見ていた。
「……勅使河原さん……どうして……?」
「どうしても何もないよ。華蓮はきっと、君の意思を無理矢理曲げる様な事をしないだろうし、そうなったら私は華蓮を理解してくれそうなお嫁さんを探すだけだからね」
合理的でありながら、子供の行く末を本当に心配しているが故の判断なのかもしれない。
「……だから、今は良く考えな。普通の男女関係を経験して……童貞を失ってもいいから、後悔の無い様に、ね」
その温かみに――小高い丘の上で、かつて母と見た景色が脳裏を過った気がした。
「さて、私からのお説教はこれで終わりかな。君が華蓮の事を決して中途半端に扱っているワケじゃない事も分かったし、取りあえずは静観させて貰うけど……一つだけ約束して欲しいな、アマネ君」
「は、はい……なんでしょう?」
立ち上がった後、ずかずかと荒々しく歩き、勅使河原さんはボクの耳元に顔を寄せた。
「俺がここまで話してやったんだ。どんな選択だとしても――報告ぐらいは、きちんとしてくれよ?」
「……っ!!??」
驚愕に顔を染めて、滑りの悪くなった機械の様に、声の主へと首を向ける。
「……なーんちゃって♪ 私が男だって疑ってたみたいだから、からかっちゃったよ、あはは! さあ、丁度昼飯時だ、一緒に食べるぞアマネ君! ウチの飯は美味いぞ……って、コテージでも食ったから知ってるか!」
勅使河原さんのありがたい申し出を受けても、硬直してしまった身体は、当分動きそうにない。
――ボクはとんでもない人に目を付けられてしまったのではないだろうか。
そんな濃密な悪寒に身震いをしながら、手足に再び力が入るその時まで、必死に頭を働かせ続けていた。
麗爛新聞 八月号 四面 終
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