麗爛新聞 八月号 二面
「いやあ、美味かったねー。ここいらにこんな店があったなんて知らなかったよ」
ぽんぽんとお腹を叩きながら、佐奈が満足そうに息を吐いた。
私達は一頻り買い物を楽しんだ後、繁華街から少しだけ外れた場所にあったレストランで昼食をとっていた。
この落ち着いた内装のレストランは、天音君の紹介で訪れたお店。
デミグラスソースのかかったオムライスが看板メニューで、この美味しさを今まで私も佐奈も知らなかったのだ。
卵がとろとろで、濃厚なデミグラスソースに溶けかかっている牛肉が、チキンライスとハーモニーを奏でる様な深い味
わい。
……美味しかったなぁ。
「情報通の佐奈さんの事だから、この店も知ってるかと思ってましたけど」
「あはは、あたしは別に色々な事を知っているワケじゃ無いんだよ。単純に、あたしが知らない事を知っている人と知
り合いってだけでさ。ここはその範囲外だったってワケさ」
私達の和やかな雰囲気が、店内の落ち着いた空気に混ざる様に広がって行く。
「でも、その人脈があるって言うのが、佐奈の凄い所なんだよね」
「あっはっは。褒めても翼君はやらんぞ」
「……っ」
ぴしり、と空気を引き締める様に電気が走った気がした。
この子は、折角忘れていた事をわざわざ蒸し返して……。
「……別に、佐奈から取ろうだなんて思ってないもん。誰と付き合っても……それは、天音君の自由だもの」
「……ッ」
……え?
私がふてくされる様に言い放った言葉に、顔色を変えた人物が一人。
なんで、貴方がそんな顔をするの?
「……ま、それはさておきとして、そろそろ映画の時間だったなあ」
佐奈が変わってしまった空気を入れ替える様に、新たな話題を切り出した。
「映画ですか? ボク、今日は買い物の予定ぐらいしか聞いていなかったんですけど」
「そりゃそうだよ、翼君には言ってないし。ちょっと前から、見たい映画があるって華蓮と話していてね。それを今日
見に行こうって予定だったのよん」
佐奈が何かを訴える様な目で、私をちらりと見やる。
……何が目的なのか、分からないけど。
「……うん。でも、天音君には言ってあるのかと思ってた」
私が小さく頷くと、佐奈は意地の悪い顔でにやりと微笑んだ。
「にゃはは、何もかも知ってたら翼君はロケハンしそうだったからね。あたし達は、着飾っていない君とショッピング
がしたかったのさ」
「……まあ、否定はしませんけど。今日のお買い物だって、事前にどこに行くか分かってたらもうちょっと役に立てた
と思いますし……と言うか、女装しているのに着飾っていないも何も無いと思うんですが……」
「あ、あはは……」
私はショッピング中の天音君の様子を思い出して苦笑いをする。
慣れていなかった為だろうけど、女性用の洋服売り場で彼はしどろもどろになりながら佐奈に遊ばれていた。
確か、彼は普段から女装を進んではしないと言っていた様な気がするけど。
「……そう言えば、天音君はお洋服って、どうやって買ってるの?」
今彼が身を包んでいるゴシック風の装束。あれはどの様にして手に入れたのだろう?
天音君は顎に指を当て、視線を上げながら答える。その仕草は、私の良く知る女性らしさだったから、心がずきんと痛
んだ。
――よく、見てるんだね。
「基本的には通販、ですかね……まあ、好んでするワケじゃないので、頻度は低いですが」
「つうはん……よくテレビでやってる様な奴だよね? そんなオシャレなお洋服も売ってるんだね」
「……いや、普通にネットですね……」
「…………華蓮、アンタまじで言ってる?」
「あれ? 違った?」
――二人から浴びせられる、信じられないと言った様な視線。
私は戸惑いながら、ただ誤魔化す様に笑う事しか出来なかった。
喫茶店を後にし、繁華街の映画館までやって来た私達。
夏休みとは言えど、お昼と言う時間帯の関係で空席の目立つシアターで映画が始まるのを待っていた。
佐奈が選んだのは、様々な禁断の恋を描いたドロドロの恋愛映画。
何故彼女がそれを選んだのかは――分かりたくない。
トイレに行くと言い残して席を立った佐奈は、もしかして私に……。
……佐奈はそんな事しない。大切な友達だもん。
そう分かっていながらも、この余りにも広過ぎる空間が、世界から孤立している感覚を強くさせていた。
「インターネットを使って、お洋服を買う事も出来るんだね」
だから、ここに来るまでの道中で、歩きながら説明だけ受けていた内容を口にする。
せめて、映画が始まるまで――佐奈が戻って来るまでは、隣に彼が居てくれる事を、見失わない為に。
「はい。結構便利なので、覚えて置いて損は無いと思いますよ」
携帯電話のボタンを押しながら、隣に座る天音君の言葉に耳を傾ける。
貴方は何時だってこうして、私に知らない事を教えてくれる。
佐奈と、本当の意味で友達になれた時もそうだった。
――ううん、『私』はそれ以上に大切な事を教えて貰っている。
貴方の息遣いを間近で感じて、高鳴る鼓動も。
貴方が傍に居るだけで、上がって行く体温も。
……貴方が佐奈の隣に居るだけで、張り裂けそうに痛む心も。
全部――。
「……勅使河原先輩?」
「……っ」
彼を向けていた視線を外し、何も映されていないスクリーンを見ながら、私は押し黙る。
ばくばくと抑えの利かない心臓が、呼吸を荒くさせた。
何か別の事を考えようにも、頭はぐるぐると色々な想いが駆け巡っていて、私はただその奔流に流されるばかりしか出
来ない。
きっとまだ明るいシアター内では、紅潮している頬を隠す事も叶わない。
……もう、隠す必要も、無いハズだけれど。
その事を意識した途端、相変わらずドキドキはしたままだったけれど、頭に何か言葉を発するぐらいの余裕が出来た。
私は目いっぱい息を吸い込んで――。
「……天音君って、なんで今日はその格好なの?」
全く違和感の無いそれの理由を、尋ねる事にした。
「えっと……佐奈さんが、勅使河原先輩からの命令だって言ってたんですけど……」
「…………え?」
初耳だ。私は別にそんな事を彼女に言った覚えはないし、望んでいたワケでも無い。
それだけじゃない。今こうして上映を待っている映画の件だって、今日初めて聞いた話なのだ。
と言う事は、全て彼女の何らかの意思でここまで来ているハズだけど。
「もしかして、先輩の思った感じの服装じゃありませんでしたか?」
心配そうに私の顔を窺う彼に、首を振って否定の意を示す。
「……ううん、そんな事無いよ。とっても素敵なお洋服だし、似合ってるもの。ただ、天音君ってもっとボーイッシュ
な女装をするのかと思って」
「ああ、確かにそう言うのも持ってますけど……パッと見で女の子に見える様な服の方が良いだろう、と佐奈さんから
助言を貰って、この服にしたんですよ」
パッと見で、女の子に見える服……か。
――佐奈、一体何が目的でこんな事を?
私は天音君の服を上から下まで確認した。
ゴシック風な装いだけど、カジュアルなブーツとベルトで遊び心を出している。
洋服に――と言うよりも、女装に慣れている。そんな感想を抱かせる、完成度の高いコーディネートだった。
どこからどう見ても、今の天音君は女の子にしか見えない。
「……せ、先輩。そんなにジロジロ見ないで下さいよ……ボク、先輩みたいに見られる事に慣れているワケじゃないん
ですから」
ニーソックスとミニスカートの間――絶対領域って言うんだっけ――をもぞもぞと動かしながら、天音君は恥ずかしそ
うに頬を赤らめた。
衣服だけでなく、仕草も声も、しっかり女の子らしく出来ている。私が言うのだから、きっと間違いない。
「まぁ、確かに慣れてるかも……でも、天音君が女装してるって佐奈から聞いてただけだけど、その様子だと頻繁にし
てるみたいだね」
「い、いや……そんな頻繁に、と言うワケではないです。あまり良い思い出も無いですし、それこそ、頼まれない限り
は自分からしませんから」
天音君は私を見ながら、過去を振り返る様に遠い目をしていた。
そう――私が、彼に自分の秘密を語った時と同じ様に。
「……どんな事があったの?」
「……そっか、先輩には話した事無いんですよね……中学時代の出来事」
きっとその内容は、私が知らなくて――佐奈は知っていた事なのだろう。私は覚悟を決める為に、溢れ出た唾を嚥下し
た。
「……聞いても、いいのかな……?」
「ええ。隠す事でも無いですし……面白い話でも無いですが……」
それから彼は、内容をかいつまんで話してくれた。
私との出会いが壊してしまった、時の滞留点のお話を。
「…………まあ、そんな所です」
どれ程の時間を掛けて語り終えたのか、私には判断が付かなかった。
彼の話はそれぐらい重くて――同じくらい、受けた痛みの想像が容易に出来てしまったから。
一生懸命に伝えられた想いに、答える事が出来ない苦痛。
――私は、この心に抱えた傷の分だけ知っている。
涙を堪えた数だけ、自分の身体を呪った数だけ、知っている。
共通の痛み。彼の友人との過去。
そして――自分が前に進めた恩返しとして、私と佐奈の関係性を正してくれた事。
一つ、私が思い違いをしているとすれば――全部、繋がる話なのだ。
彼が佐奈と付き合い出した事も、私への『好意』だと思っていたモノが不安定だった事も、全部含めて。
でもこれは、ただの仮定……私の推測だ。彼の口から真実を聞くまで、私はこの淡い期待を抱いたままで居られると思
う。
「……もしかして、天音君が私の秘密を知っていても近くに居てくれるのは……」
――それでも、私は。
「好意とかじゃなくて……ただの、同情……なのかな? 全部、私の自惚れ……勘違い……だったのかな……?」
彼がそうした様に、辛い現実から目を背けないで居たかった。
彼の碧眼をじっと見つめる。縋る様な気持ちで、私はその時を待ち続けた。
「…………同情とは、多分違うと思います」
私の震える声での問いに対して、天音君は優しい表情で返事をしてくれた。
「確かに、ボクが似たような経験をしていたから先輩の気持ちに気付く事は出来ましたし……最初の切っ掛けは、その
共感とか、聞こえた悲鳴への使命感だったかもしれません」
私が膝の上に置いていた手に、彼の手が重ねられた。
「でも今は、最初の時とは違います。色々な事を経験して……ここまで来て、ボクは……」
私の手よりも少しだけ大きくて、温かい手の平から想いが伝わって来る。
「……正直に言うと、ボクもまだ迷っているんです。貴方に、何を伝えるべきなのか……ボクは、一体どうしたいのか
、自分でもまだ分かってないんです」
――彼の迷いと、優しさが。
「……すみません。今はまだ、答えられそうもありません」
天音君は私から目を逸らして、口を噤んでしまった。
桜の舞う季節。出会った時から感じている、彼の好意の移り変わりの秘密。
その詳細はまだ分からないけど……一つだけ。
――多分じゃなくて、確信出来る事がある。
「ううん。天音君が悪いんじゃないよ」
重ねてくれた手を、もう片方の手で包み込んだ。
「……先輩?」
「貴方を迷わせているのは、私だから。『私』と言う、存在だから」
「…………ッ!!」
彼は髪がなびく早さで私に視線を戻す。
――違う。貴方が悪いんじゃない。
そう思ってくれている優しさが、ひしひしと伝わって来る。
そして、私がその言葉では引き下がらない事も、分かっているんだね。
――でも、優しい君が声に出さなくても、厳しい現実は変わらない。
『彼|』も『私』も……。
「………………あ」
私は、今の状況の奇異さにようやく気付く事が出来た。
二人共女の子の格好をしているけど……そのどちらもが、性別を偽っている。
互いにその事実を忌避していないから、忘れてしまいそうになるだけで。
傍から見れば、本来私達はとてつもなく歪な関係なのだ。
幸いにも、外見は誤魔化せているけれど、化けの皮が剥がれれば互いに傷付け合ってしまったかもしれなかったのに。
彼は、私の隠していた秘密を知ってもなお離れず、こうして近くに居てくれる。
そして私は――外見や身体なんて関係無しに、彼を自然と好きになっていた。
自分の性別が、男性だと言う事から目をそらして、盲目になり続けていた。
でも、その視点は佐奈の突然の発表によって現実に引き戻されたハズ。
『あたしと翼君。付き合う事になったから』
そう――年頃の男女であれば、自然と紡げる様になる関係性。
――私はその現実を突き付けられて、二人に本当かどうかを尋ねる事しか出来なかった。
だって、それが普通だもの。
佐奈はかわいくて、スタイルも良くて、誰よりも優しくて。
――そして、女の子だ。
天音君が彼女に惹かれるのは、当然の事。あの子の良さは、私が一番知っているから。
……比べるまでもなく、私とは、スタート地点が違うんだ。
仕方ない。
仕方ない、仕方ない。
仕方ないんだって――そう、諦めれば楽だったのに、私はそれが出来なかった。
今までの生き方を、変える事が出来なかった。
そうして諦めきれなくて、ずるずると曖昧な関係性を引きずって。
――ここまで来てしまっただけ。
「……なんか、私達って……変わっている様に見えて、何も変わっていないのかな?」
前に進んで、また立ち止まる。
その堂々巡りを、繰り返すだけで――本質は、何も変わっていないのかもしれない。
少しだけそれが嫌に思えて、私は目を伏せた。
「――変わってますよ。少なくともボクは――勅使河原先輩と一緒に居て、大きく変わりました。先輩がどう言おうと
も……ボクは変わったって、胸を張って言えますから」
包み込んでいた温もりが、ぎゅっと私の手を握る。
意外と力強いその刺激にビックリして、私は顔を上げた。
――女の子みたいに可愛らしい顔なのに、凛々しい視線が私をまっすぐ見つめていた。
視線が合わさった瞬間、心臓が大きく跳ねた。
心がぎゅっと締め付けられたと思えば、溢れる愛おしさを全身に広げる様に緩まる。
勝手に吐息が零れ、じんわりと身体が熱くなる。
どきん、どきんと私の思考を無視した脈動が頭を真っ白にさせて行った。
「……あまね、くん……」
私も、君も、男の子。
だから――こんな想いを抱くのも、抱かせるのも、普通ではないのかもしれない。
彼女が居ると言う、王道な道を進んでいる彼に背負わせる重荷ではないのかもしれない。
男の子が男の子に恋をするのは、茨の道を選ぶ事と同義。
私達は、言い寄る男の子達をその道から逃がす為に、同じ傷を負ったハズだった。
『好きなの? あの子の事』
佐奈にそう問われた、あの雨の日。
『…………多分、ね。その……好き、なんだと思う』
私は――怖くて、ハッキリと自分の想いを言葉に出来なかった。
数多の男性から想いを寄せられて――何を持って好意とするか、知っていたハズなのに。
ただ、彼を巻き込むのが怖かった。
――ううん。
私が、同性の彼に想いを伝えるのが怖かっただけなんだ。
「……天音君……っ!!」
男の子とか、彼女が居るとか……その程度じゃ止められない。
そうでもなければ――貴方と足並みを揃えて、変わったと感じられないから……!!
「…………好き……です……!!」
広い映画館のシアターでは、即座に掻き消えてしまいそうな小さい声が、すっと空気に溶けて行って――。
――彼の翡翠の様な眼を、大きく見開かせた。
麗爛新聞 八月号 二面 終
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