麗爛新聞 七月号 五面
星と月の祝福が降り注ぐ様な、門出のひと時から数刻が過ぎた。
「けぷっ……もう食べられないや」
豪奢で味わい深い食事の数々に舌鼓を打ち、心とお腹を満たした後、ボクは与えられた部屋のベッドに寝転がっていた。
食べてすぐに横になると、牛になるとかなんとか祖父母に言われた気もするが、今はそれでもいいかと思ってしまう程に満足感に身体を支配されている。
――上手く行って、良かったな。
ごろん、と寝返りを打って緩む頬を滑らかなシーツに埋める。
勇士の協力を得て実現した、夜の帳の下りた壇上での、未来への開幕。
無粋だとは思ったが、気になって仕方が無かったので、事の顛末を三人でこっそりと窺っていたのだ。
勅使河原先輩の性別を知らなかった二人は大層驚いていたが、ボクが強くお願いをした為、追求したり言いふらしたりしないと約束してくれている。
夕食が少し遅れた事以外は、この上無い成功を喫したと言っていいだろう。
彼女達に出会ってから、成し遂げなければならないと思っていた事が、ここに成ったのだ。
余計な事だろうか。ボクのお節介にしかならないのではないか。
二人が前に踏み出せない状況を近くで見続けて、そう思った事も勿論ある。
しかし、夕餉の際に見た、隣同士で座る勅使河原先輩と花前先輩が仲良さそうに談笑していた光景。
一切の蟠りを感じさせなかったあの二人の笑顔が、間違いの結果で生じたモノだとは思えない。
――これで良かった。
そう、自信を持って言える確信が、ボクの中で未だに息衝いていた。
「……ふう」
腹が膨れて心地よい眠気が襲いかかって来た為、ボクは身体の力を抜いて微睡に揺蕩おうと、身体の力みを抜こうと一息を吐いた。
コンコンコンコン。
小さく刻む様な、聞き慣れたノック音。ボクの聞いた事がある限りでは、一人しかその音を発さない。
――しかし、その候補の勇士ならば、既にこのタイミングで外から声を掛けて来る。それが無いと言う事は。
「はーい。もしかして、翠さんですか?」
『あら? 良く分かりましたね、今失礼しても大丈夫ですか?』
「あ、はい、ちょっとだけ待って下さい……」
ボクは睡眠を要求する身体を無理矢理起こし、小さな化粧台で髪の毛を整えて翠さんにOKの合図を出した。
「失礼します」
入室した翠さんは昼間とは髪型が違っていた。髪の毛を上部で留めるそのスタイルは、身体全体を使う様な作業に適しているだろう。
行う家事によって髪型を変えているのかもしれない。侍従と言う職業ならば、昼間の様なストレートの髪型の方がどちらかと言えば少なそうだ。
「お風呂の準備が整ったので、翼ちゃんからご案内させて貰いますね。ご準備をお願いします」
その髪型で行う作業の直後、そしてほのかに香る洗剤の匂いから、なんとなく察しは付いていた。
しかし、だからこそ解せない。
「……ボクから、ですか?」
「ええ。天音君から、とご要望が御座いまして」
「……わ、分かりました」
ボクは戸惑いながらも頷き、入浴の準備を整える事にした。
「ありがとうございます。佐奈ちゃんの悩みの種を一つ、取り除いてくれて」
旅行カバンを漁るボクの背中に、予想だにしなかった謝礼が贈られた。
「とんでもないです。でも……主人である『勅使河原先輩の』、では無いんですね?」
「……私は、華蓮様が最初から答えを決めていた事を、知っていましたから」
翠さんの言葉を選ぶような言い回しと、神妙な声のトーンが気にかかった。
こうした時、ボクはお決まりになったアレをする癖が付いていた。
それは良くも悪くも、なのかもしれない。
「答え……ですか?」
――分からない事は素直に、その相手に尋ねてしまう事。
それは、聞きたくない事、知りたくなかった事全てを受け入れようとする危険な行為だと思う。
加えて、その相手の気を悪くしてしまったり、踏み込んではいけない部分に足を踏み入れてしまう事だってあり得る。
翠さんは息を呑み、押し黙る。表情は窺えないが、笑顔でない事は確かだろう。
それでもボクは撤回せず、答えを待ち続けた。
万事を円満に解決出来ない手段だが――今のボクは、尋ねると言う行為の真価を知ってしまったから。
分からない事を尋ねれば尋ねる程、自分の世界は広がって行く。
見聞を広める。ただ一言で表されてしまう様なそれは、とてもシンプルでありながら、人の数だけ存在する可能性の欠片なのだ。
ボクは可能性の数だけ成長して行ける。今のボクと、白銀の姫君と出会ったばかりの頃のボクとの違いがそれを証明してくれる。
しかし、古代ギリシアの哲学者は、尋ねると言う行為の力の大きさ故に敵を多く作ったとも言われている。
彼は、自らの無知を証明する為に、他者の無知をも証明してしまった。
ただ、ボクが行うそれとは目的も、手段も違う。だから結果として賢者――様々な役職に就いていた賢い人を賢人と呼ぶらしい――を敵にした歴史と、道を違えている。
これは彼を、『他者の目から見て表現した本』を読んで学び、違いを知ったから考えられる事。
でも、ボクは思うのだ。
本当に、そう言えるだろうか?
彼がアポロンの宣託を否定したかった理由は、自らの無知を証明したかったからだと言うのは間違いないと仮定したとしても。
それはつまり――自分が知らない事を、もっと知りたかったからに過ぎない。
きっと同じなのだ。尋ねる事の意味は、遥か昔から、何一つ変わっていない。
ボクが彼の事を聞きかじり、素直に思っただけの、研究ではないただの感想でしかないけれど。
過去の偉人の足跡を辿り、思い知る。
彼の辿った道筋から、学べる事は多かった。
でも。
――ボクは別に、彼になりたいワケじゃ無い。死刑なんて、まっぴらごめんだから。
ただ――変わらない自分は、もう嫌なんだ。何も知らない自分は、もう嫌なんだ。
だからボクは、自分の知らない事をもっと知りたい。それが原因で、この先敵を作る事があっても――ボクと、背中を押してくれる人達を守れるなら。
この世界は、きっと汚らわしくて、見たくも無い所だってたくさんある。
それでもこの世界には、美しくて、尊いモノがある事を知った。
あの人達に出会い、触れ合ったから、ボクは今こうしてここに生きている。
この胸で渦巻く確かな自信は、昔のボクが持っていなかったモノ。
――胸を張って、言えなかった事も……今なら、言えるかもしれない。
そう、今ならボクは――。
「華蓮様は知っていました。勅使河原華蓮として生きるのであれば、佐奈ちゃんに恋をする事は出来ないと」
長い長い時間を掛けて、翠さんの重苦しい口がようやく開かれた。
「でも、友達で居る事は出来る。そう、頻りに口にしていましたよ。まるで、自分に言い聞かせる様に」
「……華蓮様は人の心の機微に、非常に敏感です。その外見や境遇が培わせた、望まれない感知能力を備えてしまっています」
「――気付いていたのですよ、何もかもに。それでも、華蓮様は頑固ですから、諦めたりしないと分かっていました」
『……なんだか佐奈、楽しそうだね。やっぱり私じゃ……ダメ、なのかな』
『私ね、意外とモテるんだ。だから、男の子の『ある表情』は、ちょっとだけ見慣れているの』
ボクは無意識に、勅使河原先輩の言葉を思い出していた。
何気ない言葉に隠されていた、声にならない悲鳴の数々を知った気がした。
諦めない事が出来ても、それが苦痛ではなかったハズが無い。
――でも、直接は言えなかったのだ。
幸か不幸か、ボクが似ている経験をしていたから、一番分かりやすい彼女の悲鳴に気付く事が出来ただけで。
きっとそれはただの偶然で、神様の気まぐれとでも言うべき可能性の積み重なりが起こした一つの奇跡だったのだろう。
ボクは旅行カバンのファスナーを閉じ、翠さんを見やった。
その表情に浮かべているのは、目を閉じてはいたが、決して苦悶ではなかった。夕餉の時に見た二人の笑顔の様な、どこか吹っ切れた雰囲気を醸し出している。
彼女もまた、ボクが起こした行動で何かが変わったのかもしれない。
「でも――佐奈ちゃんはそうじゃなかった。あの子、私には凄く素直に甘えて来て、心を開いてくれていたから」
「――『あたしは、華蓮と友達だって、自分にも華蓮にも嘘を吐いている』って言いながら、泣いていました」
「そんなすれ違いが生んだ――深淵へ繋がる程に深い切れ目が、あの二人にはあったんですよ。私はそれを知っていても……立場上、何も出来ませんでしたから」
翠さんは肩を竦めながら、過去を憂う様に目を閉じた。
「だから、ですかね。華蓮様の従者ではなく、佐奈ちゃんの友達――或いは、姉として……感謝を伝えたのですよ」
「……ありがとう」
勅使河原華蓮の従者ではなく、絹糸翠さんが、静かに頭を下げた。
一瞬、彼女の目元に溜まっていた雫に、反射した光が見えた気がした。
「……お風呂、頂いてもいいですか?」
ボクは相も変わらず、尋ねるばかりだ。
この話だって、人に感謝される筋合いも無く、ただ知らない事の答えを求め続けただけで。
――人様の家で、許可無しに身体の汚れを落とす方法すら知らないボクは、礼を言われてどう返せばいいかも分からない。
翠さんは顔を上げ、一瞬だけ目をぱちくりとさせた後。
「……はい」
小さく笑って、ボクに勅使河原家の所有するコテージのお風呂への行き方を教えてくれた。
「遅いぞ、翼君」
「…………いや、待ってるなんて、知らなかったですし……」
そしてまた予想だにしなかった世界が、息を吐く間もなくやって来た。
「……ごゆっくり♪」
何かを含んだ笑みを浮かべ、そう言い残して脱衣所の扉を閉めた翠さんが教えてくれなかった事。
それは勅使河原家のコテージのお風呂は広い事と。
そして――今は水着姿のナイスバディな女子高生が居る、と言う事だった。
「いやいやいやいや!! どうなってんですか!!」
慌てて持っていたタオルで下腹部を隠しながら脱衣所へ後ずさる。
そんな情けないボクを追いかける様に、不敵な笑みを浮かべた少女――花前佐奈がぺたぺたと足音を立てて近付いて来た。
花前先輩はいつもと同じ鳥の羽に似たヘアピンで前髪を留めた状態でありながら、水着姿で胸元を強調するポーズを取り始める。
そのギャップのせいか、照明の光よりも艶やかな肢体が眩く目に映った。
「ほらほら、逃げないでもいいじゃないか。君の好きなおっぱいが見放題だぞ♪」
ああ、それは確かに。ここなら、海では恥ずかしくてまともに見れなかったたわわな果実を存分に堪能――。
「――出来るワケないでしょうが!! 勅使河原家で何やってんだ来客ぅ!!」
「華蓮から水着で風呂に入る許可は貰ったし」
「許可出てるんですか……勅使河原先輩、貴方は一体何が目的なんですか……?」
「翼君と一緒とは言ってないけどね。むっちゃ怪訝な顔してた」
「ダメじゃないですか!!」
へっへっへ、と花前先輩の汚い笑い声が、二人きりの脱衣所で静かに反響していた。
「かゆい所はございませんか?」
それから一悶着の後、ボクはタオルを腰に巻いた状態でイスに座り、お礼だと言い張る花前先輩に背中を流して貰っていた。
何故こうなったんだろう。何度そんな事を考えたか分からないぐらい、ボクの頭はグルグルと思考が渦巻いている。
「……強いて言うなら、心がむず痒いです……」
「かしこまりー」
花前先輩のスポンジを持った艶やかな左手が背中側から回され、ボクの左胸を軽く撫でた。
泡の軌跡が身体に描かれ、くすぐったさに身を捩る。
「ひえっ!? 物理的な意味じゃないですよ!?」
「あっはっは! 翼君はホントに面白いなあ!!」
けらけらといつもの調子の花前先輩の声が浴室で反響する。
からかわれて、ボクがそれに過剰に反応して、笑われる。
そう――いつもの光景と、大差は無いハズなのに確実に違う事が一つ。
「……と言うか……翼君って……」
――呼び方が違うだけで、こうも心が揺れるだなんて。
「うん? 君は翼君だろ? 天音翼……あたしと華蓮の……大切な後輩だよ」
ぼとり。
重い水音を立てて、握られていたハズのスポンジが床に落ちる。
それから数瞬も立たない内に、泡だらけのボクの胸に、花前先輩の空いた手がそっと当てられた。
隠そうとしても隠せない鼓動が、濡れた手に伝えられて行く。
「……どきどきしてる。やっぱり童貞君だねえ」
クスリ、と口から漏れ出た彼女らしくない笑い方が、湯気で温まった浴室の温度を更に上げた気がした。
「っ!! しょ、処女の人にそんな事を言われたくないです……!!」
「なかなか言ってくれるじゃないか少年……そう言えば、君とはそんな話もしたねえ」
しみじみと語る先輩の口調に合わせ、ボクは目を少しだけ細めた。
思い返せば、一迅の風の様に吹き去ってしまう刹那に似た時間の数々。
でも――今までの事は全部、この身体と心に積み重なっている。
「まだ出会って数ヶ月ですけど……ホントに色々な話をして来ましたよね」
「……だね」
這わせていた腕をはたと止め、花前先輩の気配がボクの身体により近付いて来ていた。
「……どうしたんですか、急に」
その仕草は、決して花前佐奈らしくないワケでは無かったと思う。
からかう様な行為も日々常々行われていたし、特別な事があってよくわからないテンションになっていると言う事も無さそうだ。
だからボクも、彼女の行動の意図に気付く事が出来た。
花前先輩が色っぽいと言うか、自分の身体を使って女性らしさをアピールする時は、決まって――。
「――もしかして、ボクに頼みたい事でもあるんですか? 件の、勅使河原先輩の時もそうでしたもんね」
「……んっ、その通り! しかしまあ……君もなかなかに食えない男だねえ」
一つだけ年上の少女は、一瞬だけ目を見開いてからすぐに、満面の笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ、聞いて欲しい話があって。あたしさ、こう言うの実は苦手なんだよ。絹糸君に話して……華蓮にも聞かれてしまった、どうしようもない話なんだけどさ」
――つまり、話のフリみたいなモノで、彼女なりの照れ隠しなのかもしれない。
「……天音君にも、聞いて欲しい。これはあたしの我儘だから……強要はしないけど」
それは飄々としている様で、意外と繊細な花前先輩からの、信頼の証なのだろうか。
「……是非聞かせて下さい」
そうしてボクは、花前先輩が勇士に語ったと言う話を、背中をやら首筋やらを擦られながら簡潔に聞き、知る事になる。
ぽつぽつと語られたそれは、どうしようもない現実の汚さに喘ぐ少女の悲鳴そのものだった。
「……酷い」
「あはは……ゴメンね、翼君。あまり、聞いていて気持ちの良い話じゃないって分かってたから言わなかったんだ」
「…………」
流れた沈黙を断ち切る様に、流すね、と花前先輩の声が浴室内で反響する。
――その声音は、少しだけ震えていた様な気がした。
シャワーで泡を流されながら、ボクは彼女に尋ねたい事が一つ出来てしまった。
ただ――尋ねてしまえば、何もせずにはいられなくなってしまうだろう。
行く先々に困難が訪れる、茨の道。
けれどもその蔓にびっしりと生えている棘が生む痛みは――誰かを傷付け続けている現実の痛みだ。
ボクが傷付かなくても――その棘は、ボクの近くの誰かに突き刺さる。
答えは、とうの昔に決まっていたのだ。
「――先輩。なんで、ボクにその話をしてくれたんですか?」
ボクは行く末まで茨に塗れている、前に進む道を選ぶ。何が出来るか、分からないけど――何もしない、なんて選択は出来ない。
「……君はもう、あたしにとって……ただの後輩じゃないから……かな?」
花前先輩の縋る様な声が、ボクの取った行動に生じた責任を物語っていた。
導かれてしまったし、導いてしまった。
それが正しかったのか――今更考える余地も無いだろう。
「君は……華蓮にとっても……あたしにとっても、未来へ羽ばたく翼そのモノになった」
「翼君……あたしを、助けて欲しい。華蓮と友達にならせてくれた……君に」
「…………はい。こんなボクに、出来る事があるなら」
「……頼んでおいてなんだけどさ……優しい君が、将来その性格で損をしない様に……お守りをあげる」
先輩は椅子に腰掛けるボクの前に膝で立ち、ボクの髪を括っていた紐を解く。
うなじが隠れるぐらいの長さの髪が重力に引かれ、ボクが一番ボクらしく居られる――中性的な髪型になる。
それから流れる様に、パチン、と音を立てて花前先輩の茶髪から羽型のヘアピンが外され、ボクの前髪に移動した。
「うん、良く似合っている。華蓮から、君が一番かっこよく見えた姿だと聞いていたけど……どっちかって言ったら、かわいいだよなあ」
間近で困った様な笑みを浮かべている花前先輩の笑みにドギマギしながら、ボクは目線を逸らした。
「勅使河原先輩も、結構好みが独特ですからね」
「はははっ……そうかもね。と言っても……あたしも人の事、言えないかな」
「…………え?」
「華蓮、ちょっと抜け駆けするけど、ごめんね」
だから、頬に手が添えられるまで気付けなかった。
「ありがとう、翼君…………んっ」
――彼女が、ボクに親愛の証では無く、異性への愛情を伝える口づけをしようとして来た事に。
そしてボクは、彼女から与えられる啄む様なキスに、目を白黒とさせる事しか出来なかった。
――――――
――――
――
「おっす翼……お前、学校でもその髪型にするんだな」
七月が終わりを迎える夏休みの真っ最中。指定された登校日として、生徒達は気だるげな顔をしながら教室で担任の到着を待っていた。
そんな若干ブルーな空気の中で話しかけて来た勇士に、ボクは髪を弄りながら答える。
「うん。勅使河原先輩のおかげで、校則を若干無視出来る様になったから」
勅使河原先輩から、お礼は何が良いと聞かれ、咄嗟に思い付いたのが、花前先輩のお守りが何時でも着けられないかと言う事だった。
自身も校則で指定されているよりも長いスカートを穿いている為、二つ返事で麗爛学園の例外を増やして貰えた。
花前先輩よりも少ないと言うコネクションだが……その分強固なモノを持っていると言う事がなんとなく分かった瞬間だった。
「……そうかい。似合ってるから別に良いが……どうも、それだけじゃない気がするけどな」
「う……そう見える?」
「ああ。良い顔をする様になったから、すぐに分かる。俺も、お前に置いて行かれない様に頑張らないとな」
勇士は眼鏡を押し上げながら、夏で大人になったか、と少しだけ遠くを見ていた。
「そんな大袈裟な……」
「おらー、席に着けー。さっさと終わらせて帰るぞー……」
「ん、それじゃ翼、また後でな」
「うん」
明らかに機嫌の悪そうな山藤先生の登場に、ボク達は小さく笑み合って、互いの席に戻って行った。
やる気の無いホームルームの最中、ボクの携帯電話が小さく揺れる。
メッセージの着信――ボクは退屈な先生の話を聞き流しながら、画面を開いてその内容を表示した。
『翼君。華蓮と話していたんだけど、新聞を公開した後、帰りに有名なクレープ屋に行こうかと言う話があるんだ』
『君もどうかな。たまには、恋人らしくデートでもさ。色々と忙しい中、学校向けで記事のネタ探しと原稿を頑張ってくれたご褒美に奢ってあげよう』
『友達同伴ではあるけど、華蓮ならうーうーと唸って面白いから良いだろう。返事、待ってるよ』
――勇士も言っていたけど、一番食えないのは佐奈さん、貴方だと思います。
ボクの髪型が変わっても、世界が広がっても、何かが劇的に変わると言う事は無い。
ただ、同じ様に見える毎日は何かが少しずつ変わって行っている。
それはボク達の経験の積み重ねもあるし、或いは関係性の進展と言う要素もある。
ボクは出来たばかりの恋人に、OKの意を込めた文面のメッセージを送り返す。
意識を先生に再び向けてみれば、相変わらず抑揚の無いトーンの声が、淡々とプリントに書かれた内容を読み上げている。
ボクは小さく息を吐いて、夏晴れの空を見やる。
絵筆で塗り広げた様な快晴の空に、小さな鳥の影が群れを成して飛んでいた。
羽ばたくなら、あんな風に皆で、何にも囚われない空へ。
そう思いながら、ボクは他のクラスメート達の様に頬杖を突き、現実の遅過ぎる時の流れに欠伸を漏らしていた。
麗爛新聞 七月号 五面 終




